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2009'08.20 (Thu)

試験に挑むサービスマンの場合 後編


【More・・・】

「御馳走様でした。美味しかったよ」

「お粗末様です。どうしたの、たっちゃん?そんな丁寧にお辞儀しちゃって?」

彼女の苦笑交じりの言葉に僕はハッとして顔を上げた。夕飯を食べ終わった僕はわざわざ立ち上がり、斜め45度の一礼をしていた。最近は実技試験の練習ばかりで体にサービスマンの動きが染み着いてしまい、つい無意識にやってしまったらしい。

「あれ?ハハハ、やだな。体が勝手に動いちゃったよ。ずっと練習してたから、つい……」

「たっちゃん、凄くウェイターさんみたいな動きだったよ。びっくりしちゃった」

「沙耶にそう言われるってことは特訓の成果が表れてきたってことかな」

僕はそのまま食器を台所に下げるためお皿を重ねる。食事は妻である沙耶がしてくれるが、後片付けは僕の仕事だ。控えめな性格である沙耶は遠慮するが、お互い共働きなので少しでも負担を共有したいと結婚当初に僕が買って出た。

「たっちゃん、いつも練習で疲れているでしょ?今日くらいは私が洗い物しようか?」

「いいって。それを言ったら沙耶だって仕事で疲れているだろ。夫婦なんだから協力していかなきゃ」

優しく答える僕に沙耶は微笑みで返す。彼女はいつでも感謝を言葉で表現する替わりに、にっこりと笑って見せるのだ。この特別な笑顔に短大生だった頃の僕は一目惚れしたのだった。

「それに僕は仕事柄、洗い物は得意だから任せてよ。ヨイショ」

重ね終わった皿を片手でひょいと持ち上げ、背筋を伸ばすと僕は丁寧にお辞儀をして「失礼致します」と言った。ポカンとする沙耶と目があって、僕はまたしてもやってしまったと溜め息を吐いた。すると彼女は口を手で覆い、クツクツと笑う。これは当分の間、彼女を退屈にはさせないようだ。

洗い物を終えてリビングでくつろぐ僕に彼女は毎晩コーヒーを淹れてくれた。このいつも変わり映えしないサイクルに、僕は言葉には言い表せない充実感を見いだすのだ。

「ねぇ、たっちゃん。実技試験の練習は順調?」

二人用の小さなソファーに座ってテレビを見ながら彼女は尋ねてきた。僕はテレビから目を離さずに答える。

「う~ん、順調っていえば順調だけど……そうでないっていえばそうでない、かな」

「……試験まで間に合いそう?」

返事を曖昧に濁した僕に、沙耶は聞き辛そうに質問を重ねる。彼女も僕が試験というものと限りなく相性が悪いことを知っていて、心配に思い問い掛けたのだろう。

「どう、かな。結構練習はしているはずなんだけど、未だに時間オーバーをしてしまうんだ。」

「時間オーバーしちゃうと駄目なの?」

「うん。実技試験は時間が10分以内って決まっていて、それをオーバーしちゃうといくら試験最中でも強制終了なんだって」

「結構厳しいのね」

「そうだね。しかも紫倉チーフが言うには、まだまだ細かい動作に無駄な動きが多いから減点箇所が多すぎるって」

僕は彼女に見栄を張るわけでもなく現状を素直に打ち明けた。試験間近に控えて合格ラインに達していないなんてかなり恥ずかしい話だが、沙耶なら笑わずに聞いてくれると信じているからだ。彼女は決して他人を悪く言ったりはせず、どれだけ情けない内容でも黙って受け入れてくれる。自分で言うのもなんだけど、不器用で頭の回転が早くはない僕にとって、沙耶は唯一そのままの自分をさらけ出
せる人なのだ。

「そうなんだ。でも着実には上達してきてるんでしょ?それに紫倉さんもついていてくれるんだし、たっちゃんなら絶対に大丈夫だって」

そう言って沙耶は傍らに置かれた僕の手を握った。弱気になりそうな時、いつも沙耶はこうやって励ましてくれる。本当に僕には勿体ないほどのお嫁さんだ。

「ありがとう、沙耶。そうだね、僕だってもう学生じゃないんだから試験ごときにビクビクしていられない。この検定は絶対に受かってみせる」

「うん、頑張って。よ~し、たっちゃんが頑張るんなら私も頑張らなきゃ。」

僕を真似てガッツポーズを作る沙耶。いつもより明るい調子が何だか気にかかった。


「沙耶も何かにチャレンジするの?」

「え……まぁね。人生の大仕事って感じかな」

僕は口に運びかけたコーヒーを止めて沙耶の顔をマジマジと見つめた。そんな重要な仕事を抱えていただなんて聞いていない。

「それ、どういうこと?仕事で何か大変なことがあったの?言ってくれたって良かったじゃないか」

責める僕に沙耶は慌てて手を振って弁明する。

「違う違う!仕事は関係ない!」

「じゃあ、いつからそんな重要な仕事を抱えていたんだ!?」

「いつからって……。気付いた時には出来てました……」

「だから!それはどういう……っ!!」

途中で言葉を区切った僕はあることに気付き、大きく目を見開いた。毎晩僕と一緒に晩酌替わりのコーヒーを飲む沙耶だが、今日だけはお揃いのカップでなく麦茶が入ったグラスがテーブルに置かれていた。

「今日、会社帰りに病院へ寄ったら、出来てるって。たっちゃん、来年の春にはパパだよ」

頭をハンマーで殴られたような衝撃の後に、腹の底から言い知れぬ感激が湧き上がった。きっと今、僕は様々な感情が入り混じっているおかげで凄くおかしな顔をしているのだろう。向き合った沙耶が小さく吹き出した。

「え、本当に?本当に沙耶のお腹の中に赤ちゃんがいるの?本当に僕、パパになるの?」

どこに置いたらいいか分からずワナワナ震える手を、沙耶の小さな手が包み込む。

「そうだよ。私達、ついにお父さんお母さんになるんだね」

その沙耶の一言がスッと胸の奥に滑り込んだ途端、僕はもういても立ってもいられずに彼女を力いっぱい抱き寄せた。

「やったー!僕達の子供が産まれてくるんだ!凄いよ!本当に凄いよ!やったー!!」

「もうたっちゃん、興奮し過ぎ~。それに苦しいって」

クツクツと笑いながら僕の腕の中で身悶える彼女を離したくなくて、僕はさらにきつく抱き締めた。

「これは……ますます試験に受からないといけないな。産まれてくる子供に情けないところを見せられない」

結婚してしばらくは新婚生活を満喫したいと思っていたけど、予期せぬ授かり物に喜ばずにはいられないのと同時に、一人の親になるのだという責任感がジワジワと生まれてきた。

「たっちゃんたら、気が早いんだから。赤ちゃんと試験は関係ないでしょ。変に気負いしないで自分らしくやればいいのよ」

やっと僕の腕から逃れた沙耶は半分呆れ顔を見せながら言った。

「そういうわけにはいかないよ。子供は親の背中を見て育つって言うからね。産まれてくる子供まで試験に落ちるような子に育ったら困るよ」

「でもたっちゃんが志望大学に滑ってくれたおかげで私達、短大で出会えたんだよ?悪いことばかりじゃないと思うけど」

「う……それはそれで……確かに」

彼女はこう言ったが、やはり僕としてはどうしても子供に格好悪い姿は見せられない。レストランサービス技能検定、どうしても落ちることが出来ない理由が出来た。



「以上で終了致します!ありがとうございました!」

最後の一礼をしたと同時に椅子に腰掛けていた紫倉チーフが手元のストップウォッチを押す。

「ほいっ!10分ジャストでいっ!」

チーフの掛け声と共に僕は全身からドッと疲労が溢れ出した。もう何度目かの練習になるか数えていないが、初めて10分以内に実技試験を終えることが出来た。安堵の溜め息を漏らす僕とは反対に、チーフは渋い表情で僕を見据えた。

「本番3日前でやっと時間内クリア。小僧、てめえは手際が悪すぎでい。しかも覚えまで悪いと来たもんだ。こんなのはまぐれでい。もっと練習を重ねねぇと間違いなく落第だわな」

「は、はぁ……すみません」

ホッとしたのも束の間、すぐにチーフから辛辣な言葉を浴びせられ、僕はシュンとなった。

「未だに余計な動作が多すぎる。オーダーを聞いた後にすぐメニューを下げりゃいいものを、しばらく経ってから下げに行くもんだから時間がかさむんでい。ありゃあ、何でだ?」

「は、はい。お客様の中にはオーダーを言った後でもメニューを読んでいたい人だっていると思って」

僕としては聞かれたから答えただけなのだが、チーフは目元を手で覆い「馬鹿野郎…」と呟いた。予想外にガッカリした様子に、何だか落ち込んできた。

「小僧、こいつは試験だ。決められた動きを決められたようにやってりゃ、落ちるこたぁねえ。試験ではお前を見てんのはお客様じゃねえ。試験官だ」

もちろんチーフの言わんとすることは分かっている。だが実技の最中、なんとなく見過ごせなくなってしまう時があるのだ。

「それとな、バッシング(片付け)の時の動作が雑過ぎる。あれじゃあ確実に減点対象でい。もっと先の動きを読みながら行動しやがれってんだ。これは試験だけじゃなく、日頃の業務も含めてな!」

思わぬ叱責に僕はますます小さくなるばかりだ。本番を三日前に控えているのに、こんなので本当に大丈夫なのだろうか?

「紫倉チーフ、僕は試験に合格出来るんでしょうか?」

あまりにも不安で僕は恐る恐る核心的な部分を聞いてみた。てっきりチーフの事だから「ばっきゃろぃっ!」と怒鳴り散らすと思ったが、意外にも腕を組んだまま沈黙してしまったので、僕は焦燥感に胸を焦がされてしまった。

「小僧よ、おめえさんはそこまでして試験に受かりてぇのか?」

「それは…どういう?」

これまた斜め上な問答に僕は躊躇してしまう。今のチーフの口振りではまるで試験に受からなくてもいい、みたいじゃないか。

「確かに試験は重要でい。特に会社から受けろってぃお達しなら尚更落ちるわけにもいかねぇ。だがな、それが果たしてサービスの向上に繋がるか、ってぇとこれまた疑問だ。小僧、さっき自分で言ってたわな。オーダーの後もメニューを呼んでいたいお客様がいるって」

「は、はい」

神妙な顔つきでゆっくりと語るチーフは、まるで言葉を一つ一つ選んでいるようにも見える。

「オレが思うに、だ。試験なら減点だが、本当の現場なら、小僧。おめえが正しいと思う。この試験ってなぁ、えてしてそうだ。決められた動作に決められたセリフ、これはサービスなんてものとは違う気がする。単なる演技みてえなもんだ。サービスってなぁ、こう……人の魂と慈愛の心が通ったもんじゃねぇのか、と」

チーフにしては随分と滑舌が悪い話し方だが、僕はなんとなくだがチーフの言わんとするところをジワジワと理解し始めてきた。

「だから、おめえみてえに手際良く出来ねぇのは問題だがな、オレはそれでも構わねぇと思っている。ちんたらしていようがしっかりお客様と向き合って、そのお客様に合わせた心が通ったサービスが出来る人間を育てるのが、俺達の本当の役目だと思っているんでい」

つまりチーフは、名誉顧問の立場でありながら試験そのものに疑問を感じているようだ。僕にしてみればやっと時間内に課題範囲が出来た程度の実力なので、そんな試験の在り方自体に疑問を感じる余裕はないが、チーフがそう思うならばそうなのかもしれない。チーフがわざわざ僕にそのことを聞かせるということは、僕の指導を真面目に考えてくれている証拠にもなる。なんだか嬉しくてこそばゆ
いし、こんな僕のために勿体なく感じる程だ。だけど……

「でも、紫倉チーフ。僕はこの試験、どうしても合格したいんです」

怪訝な顔をするチーフに、僕は自分のこれまでの試験運の悪さや産まれてくる子供のことなど、包み隠さずに打ち明けた。

「なるほどな……おめえにとっちゃあ、単なる試験ってわけでもねぇわけだ」

「はい。今回の試験を合格しないと、僕はいつまで経っても昔のままなんです。だから……このフェリスタシオン迎賓館に相応しいスタッフであるために、紫倉チーフの弟子であるために、僕は何としても合格したいんです!」

そう豪語した僕に対して、一瞬押し黙った後にチーフは声を上げて豪快に笑い出した。

「何が俺の弟子でぃ!ちゃんちゃら可笑しくてやんなっちまうぜ!」

そして椅子から立ち上がると僕の頭に手を乗せ、力任せに撫で回した。

「そういうことなら俺は文句はいわねぇ!精々励みやがれっ!それとさっきおめえ、合格出来るかどうかって尋ねやがったな!……出来るわけねぇだろ!だから残り3日、みっちり練習しやがれ!!」

なおも高笑いをしながらチーフは言いたい事だけ言うと席に着いて「さっさと練習の準備しろぃ!」と激を飛ばした。僕はクシャクシャになった髪を手で撫でながら、次の練習に向けて備品を整え始めていると、チーフは何かを思い出したかのように呟いた。


「試験の中でもな、イレギュラーが発生することがあるんでい」

「イレギュラー、ですか?」

「手を動かしながら聞きやがれ」

つい手が止まってしまっていたことを咎められ、僕は慌てて作業を続ける。


「そう、イレギュラーでい。いくら決められた内容の試験っつったってな、思いもよらねぇアクシデントに見まわれることがあるんでい」

「それってどういうケースなんですか?」

「う~ん、はっきりコレっつうのはねぇんだが……あるんだよ、アクシデントやイレギュラーってのは」

チーフにしては曖昧な言い方に僕は何だか不気味に思えて、背中辺りがうすら寒くなった。ただでさえ今の段階で合格出来るか出来ないかの瀬戸際なのに、もしも試験中にイレギュラーなんて起こったら対処しきれない。

「そんな場面に遭遇したら僕、とてもじゃないけど無理です」

「いや、そういう場面でこそサービスマンの本質が試されるんでい。その点なら小僧、おめえなら大丈夫だ」

つい弱気になってしまった僕に対して、チーフは不敵に小さく微笑むと励ました。チーフが言わんとするところは相変わらず半分も理解出来ないが、その言葉は僕の心の中で次第に大きくなっていき、言い知れぬ安心感を与えてくれた。

「んなこたぁともかく!時間内に課題が終わらねぇのがおめえにとっちゃあ一番のイレギュラーでい!さっさと始めやがれ!」

ぼんやりと手を止めていたところにチーフの叱咤が飛び、僕はあたふたと準備を
進めるとすぐに練習を開始した。

「受験番号2011番!始めさせて頂きます!」

そう、まずはイレギュラーが起きても慌てないくらい残り三日間、練習に集中しなくては。試験までは後わずか、合格までの道のりは未だ厳しい。



試験当日、雪に変わるのではないかと思えるほど冷たい雨がしんしんと降りしきる中、僕らは実技試験会場である『椿山荘』に到着した。そして各々更衣室で普段身に着けているホールスーツに着替えると、受検者が待つ控え室に集まった。

「凄い……サービスマンだらけ……」

多種多様な制服に身を包んでいるが、皆一様に頭髪から爪先までビシッと決めている人達ばかり。どこからどう見てもサービスマンといった人達がこの控え室へ一堂に介している。給仕されるべきお客様は一人もいないはずなのに、給仕すべきサービスマンで溢れかえった一室。これは在る意味、異様な光景にも思えた。

「確かにちょっと笑っちゃうような1コマね。全国からサービスマンばかり集めるとこうなるのか」

僕の独り言を聞き留めたのか、後ろから志摩さんが声を掛ける。

「ハハハ、なんだかみんな凄く上手そうで僕、緊張しちゃいます」

「そうね、でも……試験会場に敵は一人もいない。いるのは味方だけ」

「他の受検者も、試験官も……ですね」

僕と志麻さんは目を合わせてクツクツと笑った。何故ならこの言葉は僕が昨日、紫倉チーフから授かった言葉だからだ。きっと志麻さんも紫倉チーフから電話ででもアドバイスを受けたのだろう。同じ師を持つ弟子兄弟として、密かな共通点に僕の胸はこそばゆく震えた。

「おい、蒼井。なに志摩さんとひそひそ話してんだよ。てめえ、もしかして不倫か?」

背後から聞こえた声に、僕は虫唾が走りながらも振り返った。

「そんなんじゃない。変な勘ぐりするな。ただ試験の話をしてただけ」

卑屈そうにニヤニヤ気色の悪い笑顔を浮かべている竹田に投げやりな言葉で返した。この男、学科試験の時のようなだらしない髪型にはしていないが、それでも長く茶色い髪を無理矢理黒くスプレーしたのをオールバックでまとめているので、どうしても品のなさが際立ってホストのようだ。このサービスマンだらけの一室で一際異様さを放っている。

「ところで志麻さん。実技はいつも何分くらいでクリアしてますか?」

竹田の相手をしていても時間の無駄だし精神衛生上良くないので、僕は志麻さんと試験の話でもして気分を紛らわせようとした。

「そうね。だいたい9分ジャストくらいで終わるようにしているわ」

「マジっすか!?自分は8分半くらいでいけるっすよ!」

せっかく志麻さんと話をしようとしているのに、忌々しいことに竹田が食いついてきた。

「あら、竹田君、見かけによらず早いのね」

「バリバリっすよ!俺、スピードには命懸けてるんで!本番も一番早く終わってやりますよ!」

「でもあんまり早すぎても動作が雑になってしまうんじゃない?私も一度8分半くらいで終わったことあるけど、やっぱり流れ作業っぽくてメリハリがなかったわ」

「大丈夫っすよ!自分の場合はチョー余裕っす!」

どうにも人種が違うのか、まともに会話が続かないと思った志麻さんは今度は僕の方に向き直る。

「蒼井君は、だいたいどのくらい?」

「えぇと、9分半くらいですね」

本当は毎回ラスト10秒前くらいで終わるのだが、竹田がいる手前、少し見栄を張ってしまった。しかも9分半なんてタイムを出せたのは昨日のことである。

「9分半!?蒼井ちょっと遅すぎるんじゃねぇの!?お前、それは落ちるよ、きっと」

ここぞとばかりにちょっかいを出してくる竹田をかわして僕は志麻さんに「遅いですかね?」と尋ねた。

「うぅん、そんなことないわ。余裕に合格出来る範囲内よ。それに試験では全員一斉に開始されるからすぐ隣で他の受検者のペースに合わせてれば楽らしいわ。受検番号でいえば蒼井君の隣は、武田君。彼、早いらしいからペースを合わせれば時間内に終わるんじゃない?」

志麻さんの助言に僕と武田は顔を合わせる。

「のろまなお前にペースを乱されねぇように気を付けるわ」

「こっちこそ、お前に合わせて動作が雑にならないように気を付けるよ」

お互いイヤミの応酬で牽制し合っていると、控え室にスーツ姿の男性が現れた。胸元にはアルファベットで『HR』と記された金色のバッチ。それはレストランサービス技能検定のバッチだった。きっとホテルレストランサービス技能協会の役員なのだろう。その場に集まった全員がすぐに察し、各々近くにあった椅子へ行儀良く腰掛ける。既に試験は始まっているのだ。僕らもすかさず喧嘩を止めて椅
子についた。

「それではこれより、実技試験にあたって何点か諸注意を申し上げます……」

協会の役員が読み上げる注意事項を耳にしながら、僕はその人の胸に輝くバッチに注視していた。レストランサービス技能検定合格者にのみ授けられるバッチ……僕はあれを手にするためにこれまで何ヶ月間も努力を重ねてきたのだ。そして今日のためにいつも練習に付き合ってくれた紫倉チーフへの恩に報いるため、何としても実技試験はクリアしなくてはならない。緊張にも似た高揚感が僕の体の隅々に行き渡る。コンディションは万全だ。あとは全力を尽くすのみと、僕は固く両手を握り締めた。

役員の話が終わると一息つく暇もなく受検者は試験会場に案内された。特に僕らは受検番号が最初の方だったので、追い立てられるように試験会場前まで連れてこられた。皆一様に緊張した面持ちで会場前の椅子に座り待機する。本当に何の予告もなく連れてこられたので、僕もさっきまでの高揚感はいつの間にか緊張感にすっかり様変わりしてしまった。胸を突く動悸がうるさくて、苦しい。横を向
くといつもチャラチャラと目障りなあの竹田ですら、鼻穴を膨らませて押し黙っていた。そのさらに横にいる志麻さんも固く目を閉じて微動だにしない。その会場前のロビーだけ、空気が固定されたように張り詰めている。この空間だけ時間の流れから切り離されたのかと思うほど長く重い時間が過ぎたように感じた頃、中からさっきとは別の役員が顔を出した。

「それでは受検番号2011番から2031番までの方は入室して下さい」

やはりレストランサービス技能検定に携わっているからかこの人もサービスマンなのだろう、落ち着いた笑顔で僕らを試験会場に招き入れる。きっと受検者に配慮してリラックスさせようとした笑顔なのだろうが、こんな場面では逆に緊張が増すばかりだった。とにかくこの建物に足を踏み入れた時点か
ら既に試験が始まっているものと自覚している僕らは、大きく返事をすると一斉に素早く立ち上がる。そして会場内に足を踏み入れると、約20程の試験ブースが設置されており、その周りには試験官が数人待機していた。案内員の指示に従い僕らは各々の試験ブースへと向かわせられる。受検番号が一番若い僕は入り口のすぐ傍、会場の角に位置するブースだった。
直径90センチの丸テーブルに椅子が二つ。そこから約3メートルほど離れた位置にサービスで使用するアームタオルやトレー、シルバーやグラスなどが置かれた台が設置されてある。そしてその傍らには四人の試験官がニコニコと微笑みながら僕を待ちかまえていた。バインダーを持った二人は試験官で、他の手ぶらな男性と女性がお客様役なのだろう。試験官の一人が僕に近付き、名前と受検番号を照らし合わせて相違ないか確かめる。そして僕を白線が引かれた位置まで誘導し「ここで試験の開始と終了の合図をして下さい」と告げて、自分はテーブルを挟んだ向かい側に立ち、バインダーを構えて言った。

「それじゃあ、どうぞ。始めて下さい」

一瞬何を言われたのか理解出来ず、僕はその場に硬直してしまった。試験官が試験の開始を促したというのは分かった。だがあまりにもあっさりと告げられたせいか、現実味が持てずにただただ躊躇してしまう。周りを見渡しても同様に、硬直している受検者とそれに対峙する試験官という図があちらこちらで展開されていた。それも仕方ないはず。控え室に協会の役員が現れて説明を終えてからまだ
数分も経っていない。
誰もが今日この日、この建物に踏み込んだ時点で心構えは整っていると信じていたはずだ。だが、それでもただ役員の指示に従ってついてきてみれば急に試験開始。……整っていた心構えを控え室に置き忘れた気分になって当然だろう。まるでこれもまだ練習のうちのような、この後に一度控え室に
戻って改めて試験会場に再来するような、受検者の頭の中はそんな「まさか」が怒涛のように渦巻いている。

「どうしました?始められて結構ですよ?」

怪訝な態度をおくびにも出さず、さっきから変わらない笑顔で試験の開始を再度促す。きっと僕のように面食らって動き出せずにいる受検者は珍しくないのだろう。さっきから緊張を和らげんと浮かべている笑顔が、今は少し楽しんでいるようにも見える。僕だって始めなければいけないことぐらい、頭の中では分かり切っているくらい分かっている。ただ、あまりにも唐突過ぎる展開に体と心がちぐはぐで、機能すべきギアが入らない。焦りと共に背中へじんわりと汗が滲んできた。
その時、僕の頭の中にスッとある人の顔が浮かんだ。僕がもっとも尊敬して止まない上司、紫倉チーフだった。その顔が浮かんだと同時に、チーフが言ったある言葉を思い出した。途端、体と心が軽くなり、目の前の景色が鮮明に映った。僕は試験官達をゆっくり見渡す。
「試験会場に敵は一人もいない。いるのは味方だけ。試験官も、他の受検者も……」
僕は顔を上げて真っ直ぐ試験官に向き合うと、しっかりと笑顔を作り背筋を伸ばした。

「受検番号2011番!蒼井達也!実技課題を始めさせて頂きます!」

試験官は満面の笑みで答え、手元のストップウォッチを押す。実技試験がついに開始された。

僕の声に呼応するように、会場内のあちこちから試験開始の声が上がり、紫倉チーフから教わった通りに受検者は皆一斉にほぼ同時のタイミングでスタートを切った。まずはお客様役の男女の試験官をテーブルに案内する。課題の設定は朝食のレストラン、元気良く爽やかな挨拶でお出迎えするのが基本だ。その際に喫煙席の案内をする事を忘れずに。そしてテーブルに着かせたらメニューを渡しオーダーを取る。メニューを渡すときもオーダーを取る時も全て女性側から行う。原則としてレディーファーストだ。オーダーを取り終えたらメニューを回収し、先にドリンクを提供する。料理やドリンクの出し下げは常にお客様の右側から。
一連の動作をこなしながら、僕は自分のペースか今まで以上に順調なので確実な手応えを感じていた。受検者は本当のレストランでは不自然なくらい大きな声を上げて一つ一つの動作をするので、すぐ傍の受検者が今、どういったペースで進んでいるか手に取るようにわかる。なので僕は数メートル隣にいる竹田に合わせて課題を進めていた。試験前に本人が豪語していたとおり、竹田のペースは早い。だからこいつに歩調を合わせていくのは難しいとしても、遅れない程度に追いついていけば制限時間を超すことはなさそうだ。僕は程良い緊張感と着実にクリアしていっている課題を前に、どうしても意識してしまう合格の二文字を脇目に試験へ集中した。
ドリンクを出し終えて、次に注文された料理の準備に入る。注文されたものは女性にコーンフレーク、男性にベーコンエッグターンオーバー。実はこの注文される料理にしても予定調和なので、既に備品置き台に準備されている。これを客席に出せば朝食は終了となる。後はお客様役を見送りしてテーブルの上をバッシングすれば課題も全てクリアだ。今のところ時間の遅れもなく基準となる課題も問題ない。心の中で浮つきそうな期待感をどうにか宥めつつ、僕は料理に手をかける。そして背筋をピシッと伸ばし客席に振り返った瞬間、会場内に耳をつんざく大きな音が響き渡った。
あまり突然のことに緊張状態にあった僕は、たった一瞬だったが驚いて皿を握った右手の筋肉が緩んだ。しまった!と思った矢先に落下する皿に手を伸ばしたが時すでに遅し、右手指は宙を掴んだ。激しい音を立てて割れる皿に客席に座ったお客様役の二人は小さな悲鳴を上げ、終始見守っていた
試験官の二人も目を大きく見開いた。しかしそれと同時のタイミングで後方からも皿が地面に落ちる音が聞こえ、僕らは一斉にそちらを振り向く。青ざめた顔で硬直する竹田。なんとこいつも連鎖反
応で失態を犯してしまったらしい。会場内の受検者達は皆一様に動きを止め、試験官達はあんぐりと口を開けて立ち尽くしていた。
水を打ったように静まり返った会場内に誰かの囁くような声が聞こえ、僕はそちらに視線を移す。割れてしまった皿の前で膝をつき、口に手を当てて嘆いている人物が一人。志麻さんだった。

試験官に何やら話し掛けられているが耳に届かないようで、わなわな震えたまま、ついに嗚咽を漏らしてしまった。茫然と立ち尽くしながら、僕は失望する程のショックを受けた。見るからに才女と言った物腰と立ち居振る舞い、博愛的で凛然としていてみんなのリーダーだった志麻さんが、あの志麻さんが本番の本番でミスをし、泣き崩れてしまうなんて……。
今日だって控え室で緊張する僕らを励ましてくれたり、アドバイスをしてくれたりとみんなを気遣っていたけど、実は彼女なりに相当張り詰めていたのかもしれない。それがこの緊迫した場面で思いも寄らぬアクシデントに見まわれて、どうにもならなくなってしまったのだろう。僕はもうそれ以上見ていられなくなり、顔を背けた。彼女の名誉のために、もう見てはいけなかった。

会場のあちこちでも志麻さんに目を奪われていた人達が各々のやるべきことに戻り始める。時間にして僅か10秒ほどの出来事だったが、受検者にとっては砂漠で水一滴に値するくらい貴重な時間だ。他人の不幸に感傷を抱いている隙などない。僕も顔を背けたおかげで現実を再認識することが出来た。足元に散らばった料理と欠けた皿……そう、僕も志麻さんと同じ状況に陥っていたのだ。
どうにか現状を脱しないといけないのは重々承知、だけど頭はいくら回そうとも焦って空回りを繰り返すばかり。志麻さんが泣き崩れた気持ちは痛いほどに分かる。何故、寄りによってこんな場面でやってはいけない失敗をやってしまうのか。自分の愚鈍さにいい加減腹立たしさよりも哀しくなってきた。果たしてこれも試験に落ち続けた僕にかかっている呪いのせいなのか。だとしたら酷すぎる。今まで散々スムーズにいかせておいて最後の最後に嵌めるだなんて。僕は後ろを振り向いた。確か失態を犯したのはもう一人いたはずだ。竹田はどうやって処理をする気だろうか。

さっきまで真っ青な顔をしていた竹田は、今は逆に真っ赤な顔をして身を屈めていた。そしてどうするものかと見守っていると、なんと竹田は落ちた皿を拾うと無言で下げ台の空いているスペースにぶん投げて、何食わぬ顔で試験を続行したではないか!これにはさすがに度肝を抜かれたが、それよりも驚いたのは試験官やお客様役の人達も何事も無かったように流したことだった。実技試験の採点方法はそれぞれの行程毎に適切な動作だったか否か採点され、最終的に合計点が合格基準に満たしていれば良いのである。時間オーバーをしてしまえばその場で問答無用、落第が決定するが、逆に言えば時間内に終わりさえすれば多少ミスはしようとも合格の可能性は残る事になる。つまり竹田は、その部分の行程は丸々放棄して、とにかく先に進む事を選んだ。

当然といえば当然の選択だ。僕も早々に気持ちを切り換えて早く次の行程、つまり料理は出したことにして架空の皿を下げる動作から始めればいい。特に僕は人一倍動作が鈍いので遅れを取り戻さなくてはならない。
……ならないはずなのに、どうも気持ちがしっくりこなかった。本当にこのままミスをスルーしていいの
だろうか?これは本物のお客様を目の前にした実戦ではなく、より合格に近い点数を稼ぐことを第一目的とした試験なのである。なのに僕の心は未だに躊躇している。お客様役の二人が足元に散らばった皿の破片を拾うと手を伸ばしていた。
……何かが違う気がした。
これは一体なんのための試験だった?
僕は誰のために試験を受けている?
何のために今まで試験の練習をしていたのか?
僕は何がしたくて、フェリスタシオン迎賓館にいる?
その途端、試験三日前の練習で紫倉チーフの言った言葉が頭の中に甦った。

「お客様!大変申し訳ございませんでした!お洋服には掛かりませんでしたか!?」

唐突に声を掛けられたお客様役の二人は、驚いて地面に落ちた皿を拾おうと伸ばした手を引っ込めた。僕はすかさず手に持っていたアームタオルで散らばった皿を集めると下げ台に持っていき、すぐにテーブルに戻る。

「大変失礼致しました!すぐに新しい物をお持ち致しますので、今しばらくお待ち下さい!」

そう言って僕は腰を90度に曲げてしっかりとお客様役の二人に頭を下げた。
紫倉チーフは言った。イレギュラーやアクシデントが起こったの時こそ、サービスマンの本質が試される、と。確かにこの場は試験なのかもしれない。だけど、お客様の目の前で犯したミスは誠意を持って対応すべきだ。志麻さんは絶望に打ちひしがれ、竹田は無かったことにした。
だが僕は、例え試験に落ちようとも、役でやっているお客様であろうとも僕なりのサービスに殉じたい。

新しい物を持ってくるとは言ったがどうしたものかと辺りをキョロキョロ見渡すと、もう一人の試験官が直ぐに新しい料理を持ってきてくれた。僕はそれを笑顔で受け取ると、その試験官も笑顔で小さく「頑張って」と呟いた。さっきまで重くなった心が羽根を得たように軽くなる。なるほど、確かにここには味方しかいないようだ。



「……で、どうにか時間内には終えられたってぇわけかい?」

「はい。ギリギリ3秒前でした」

それまで黙って僕の話に耳を傾けていた紫倉チーフは、紫紺の湯呑みを傾けながら言った。そして僕の返事を聞いて深々と溜め息を吐く。
試験翌日、僕は紫倉チーフと支配人に結果の報告をするため、フィオーレのティールームに立ち寄った。ここ、フェリスタシオン迎賓館の人達は誰が言い出した訳ではないが、毎日決まった時間に決まった人がティールームに集う。それも1日に幾度と無く……。英国紳士も驚くほど何度もティータイムを催す割に仕事は的確にこなしているのだから、つくづくフェリスタシオン迎賓館の人達のポテン
シャルには頭が下がる。なのでちょうど木曜日の午前10時に支配人とチーフがティールームにいる事を知っていたので、僕も桃瀬さんのハーブティーを頂くことにした。

「本番で皿を落とすとは小僧、てめえはどれだけ間抜けなんでい?練習でもやらかさなかったミスをやっちまうなんざぁ……べらんめぃこんちくしょう」

「うぅ……すみません」

「まぁまぁチーフ、蒼井君も本番で緊張していたんですよ」

苦笑いを浮かべながらも、支配人はフォローを入れてくれた。

「それにしたって、まさかあの志麻まで……。あっしの弟子共は馬鹿野郎ばかりでさぁ」

そう言ってチーフは再び深い溜め息を吐き、ジッと目を閉じた。志麻さんの名前が出てきて、僕も昨日のあの場面が甦ってしまい黙って俯く。結局、志麻さんは途中棄権となってしまい、帰り道は誰一人言葉を発することなくしんみりと帰路についた。あれがもしも志麻さんではなく、僕や竹田だけだったらみんな励ましの声の一つでも掛けてくれたかもしれないが、今回の受検に際してリーダーとして尽力してくれた彼女に対して、皆ショックを隠せなかったのだろう。

「しかしあの志麻君がね……何だか信じられないな」

「志麻ちゃん、可哀想……」

元フェリスタシオン迎賓館のスタッフとして、支配人と桃瀬さんも無念に思ったようだ。だが師匠である紫倉チーフは鼻を鳴らすとわざと声を張り上げる。

「志麻もまだまだ修行が足りねぇってだけでさぁ!あいつはもとから出来が良くて優等生だったから打たれ弱ぇ!今回のが良い教訓になったんじゃあねぇんですかい!」

口にこそしないが、チーフにしても失意に感じ入っているのだろう。弟子の辛さはそのまま師匠の辛さなのだと、眉間にシワを寄せるチーフを見て思った。

「それにしても蒼井君、よくお皿を落としたのにきちんと対応したわね。私だったら気が動転しちゃってあたふたして終わるかも」

柔らかい微笑みを浮かべる桃瀬さんに誉められて、僕は照れてしまい一気に顔を赤くした。桃瀬さんの笑顔にはいつも癒されるが、それを直接向けられては眩しくて仕方がない。

更新日 8月31日

「いえ、僕も無我夢中でしたしどうしたらいいか分かりませんでした。でもその時に紫倉チーフの言葉を思い出して……。そしたら試験なんか関係なくなっちゃったんです。目の前にいるお客様へ僕の誠心誠意を伝えるのが、僕なりのサービスなんだって」

本当に皿を落としてしまった時には目の前が真っ暗になったし、その後に対応したことだって無我夢中だった。だけど、迷いは一切無かった。これが果たして正しいか正しくないか分からなかったけど、僕の中にあるハッキリとした何かが背中をグイグイと押してくれた。あれだけ試験に対して敏感になっていたのに、落ちたって一向に構わないというほどにボルテージは上がりっぱなしだった。

「蒼井君なりのサービス、か……。うん、それでこそ君はフェリスタシオン迎賓館のスタッフだよ。一番大事なことを一番大事な部分で理解している。ね、紫倉チーフ?」

多分誉められているのだろうが、支配人の言わんとすることをいまいち正確に掴めない僕は曖昧に笑ったが、紫倉チーフにはお見通しなのだろう。鼻を鳴らして「支配人、あんまりおだてないでやって下せぇ。この程度で調子に乗られちゃあ困る」と釘を刺した。

「さてと、そんじゃあ今晩あたりにでも志麻を誘って飲みにでも行きやしょうか。きっと落ち込んでやがるから元気づけてやらなきゃならねぇ。支配人、ご一緒にどうでやんす?」

そう言ってチーフはグラスを傾ける仕草を見せると、支配人も「良いですね、行きましょう」と相槌を打った。

「私も行っていいですか?久しぶりに志麻ちゃんとお話したいです」

「おう、もちろんでぃ。桃嬢が一緒なら酒が一層美味くならぁ」

そう言って機嫌良く立ち上がると、支配人も後に次いで立ち上がりマイカップを片づけ始める。どうやらみんな仕事に戻るようだ。

「あ、あの!僕も行っていいですか?なんて言ったらいいか分かりませんけど、志麻さんを少しでも励ます事が出来れば……!」

学科試験の時も、そして実技試験の時も志麻さんはいつも僕らを気遣ってくれた。だから今度は僕が志麻さんに何かしてあげられれば、と思ったが、紫倉チーフは神妙な顔つきをすると首を横に振った。

「小僧、てめえが志麻を励ましてやれる言葉は一つもねぇ。今回は遠慮しときな」

「そんな……やっぱり僕がまだまだ未熟だからですか?」

「違ぇよ。合格した奴が落ちた奴にかける言葉は、どんな気の利いたこと言っても嫌味にしか聞こえねぇだろぃ?」

「え?」

支配人と桃瀬さんも同時に「え?」と聞き返す。チーフは笑いを堪えるように怒ったような顔を作ると、頭をバリバリ掻きながら言った。

「実技試験の評価基準はその採点箇所毎、三段階評価でされるんでい。その中の一つに『トラブルへの対処』ってぇのがある。トラブルを起こさなくて良、きちんと対処して可、対処しなきゃ悪。しかもここの配点はデカくて、悪の評価を下されたらいくら他が良くても落第の対象になる。ところがてめえはきちんとてめえのミスを的確に対処した。話に聞くと他にもミスらしいことをしてねぇようだし、つまり俺が思うに……そういうことだ。あばよ」

一方的に話し終えると、チーフは振り向きもせずにティールームを出て行った。呆けて立ち尽くす僕に、支配人はにこやかに微笑むと親指をグッと立ててみせた。

「蒼井君、数ヶ月間本当にお疲れ様でした。そして、おめでとう」

尊敬する上司二人に労いを頂いて、僕はストンと椅子に腰掛けて自分の手をマジマジと見つめた。高校受験を落ちたのを皮切りに、これまで試験という試験は全て落としてきた。あまりにも落ち続けているので、自分はそういう星の元に生まれたんだと諦めてしまった。だけど、社会人になって自分が好きな仕をに就いて、頼もしい先輩や上司に囲まれた楽園のような生活に、またもや受検という災厄
が僕に試練を与えた。
僕は手をグッと握り締める。今まで感じた事のない手応えが確かに手のひらにあった。ほんの小さな、本当に小さな手応えだったけど、僕は今日から新たな一歩を踏み出せたような気がした。握り締めた手がわなわな震える。歓喜が胸の奥から沸き上がってきた。

「桃瀬さん……」

「なぁに?蒼井君」

「……ちょっと、叫んじゃっていいですか?」

桃瀬さんは口に手を当てて目を見開くと、クスクス笑い「どうぞ」と答えた。僕は自然にクシャクシャと歪んでいく顔をそのままに、拳を握り締めて立ち上がった。

「よっしゃあーーっ!受かったぞぉーーっ!ざまぁみろーーっ!」

声の限りに雄叫びを上げてもなお、僕の喜びは尽きない。いつの間にか両目からは涙が溢れていた。そう、僕は生まれて初めて試験に受かった。



それから二ヶ月後、僕の胸にはレストランサービス技能検定三級の合格バッチが燦々と誇らしく輝いていた。時々、そのバッチをチラッと見ては、僕はニヤニヤしながら仕事に励んでいる。だってそのバッチは、僕が頑張った証であり、サービスマンとしての誇りだから……。

おわり


P.S もちろん竹田は落ちました。ざまぁみろ。







↓緑川「おい、アホ井!試験の願書、出すの忘れてるわよ!!」
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実在する検定です。興味がある人はここからどうぞ→HRS


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06:11  |  儀式人の楽園  |  CM(27)  |  EDIT   このページの上へ

Comment

蒼井君、学科合格して良かったですね!
次は実技ですか、大変そう…
それにしても沙耶ちゃん、イイ子ですね~! こ~ゆ~子が家で待ってるんだったら、男の人は真直ぐ家に帰りたくなるのかしら?と思っちゃいました。 私にはないキャラですね(苦笑)
夢 | 2009年08月20日(木) 10:35 | URL | コメント編集

あら、蒼井くん、大丈夫???
かなり試験に呪われてますね(笑)
それやのに、ちゃんと家事を分担してるだなんて!!!
ウチのダンナさんにも爪の垢を煎じて飲ませたいものです。
すみれ | 2009年08月20日(木) 22:44 | URL | コメント編集

>>夢さん
本当に蒼井君にはもったいないお嫁さんだと思います。
でも試験の呪いがある分、彼の人生的に運のパラメーターが
これでイーブンになるのか、と考えました。

>>すみれさん
共働きなら家事を分担しなきゃ!
うちなんて6:4くらいですよ。もちろん6が私です。
要人(かなめびと) | 2009年08月21日(金) 06:18 | URL | コメント編集

蒼井君の気持ち、何となく分かります。 子供に格好悪い姿は見せたくないですよね。 って言うか、私の場合は長女の高校受験の数ヶ月前の試験だったので、私が受からなかったら “勉強したって受かんないんじゃん” って思われて娘のやる気が今まで以上になくなるんじゃないかって、こっちの方が心配でしたよ(汗)
蒼井君、技能検定に受かるとイイですね!
夢 | 2009年08月21日(金) 09:13 | URL | コメント編集

くだらない事を言います、すみません。
文中ですが、
親は子供の背中を見て…
ではなく、
子供は親の背中を見て…
ではないでしょうか。

勘違いだったらすみません。
せ | 2009年08月21日(金) 19:29 | URL | コメント編集

>>夢さん
それはとんでもないプレッシャーでしたね!
私も来年に試験なので絶対に格好悪いところを見せられないです。
会社からもプレッシャーが掛かってますし・・・

>>せさん
うおっ!!これはなんという失態!!
ご指摘ありがとうございました!早速直します!
要人(かなめびと) | 2009年08月22日(土) 00:23 | URL | コメント編集

ひどく久々なことみ蒼響です
ずっと音信不通でごめんなさい
クロちゃんの娘さんの話までしか読んでませんが、あと少しだけ猶予をくださいませ。眼鏡が濡れました

懲りもせずスーパーダッシュ小説新人賞に出そうと思っております。要人さんもスクエニのに出す予定だったと思いますが、どうですか?
ことみ蒼響 | 2009年08月22日(土) 15:27 | URL | コメント編集

 
要人さんと蒼井くん、Wパパの予定ですか!
おめでたいなぁ・・・!

奥様を大事にしてあげてくださいねっ
楚良 紗英 | 2009年08月23日(日) 00:10 | URL | コメント編集

おおw要人さん、パパさんになるんですか!
それはおめでとうございます!ってまだ気が早いかw
でもとってもおめでたいことですからね^^
蒼井くんは一児のパパさんですが、お話ともシンクロしてますね~

あとスクロールした先の緑川さんのセリフに吹きました^^
momokazura | 2009年08月23日(日) 01:42 | URL | コメント編集

まだまだ蒼井クンは頑張らないといけないのですね!
特訓、大変そう。
なんかその憂鬱な気分とっても分かる気がします。
私もオーディション受ける前は、緊張でガチガチです。
すみれ | 2009年08月24日(月) 01:50 | URL | コメント編集

>>ことみ蒼響さん
お久しぶりです!!元気にしてましたか?
スーパーダッシュに応募ということは、小説を諦めてないということですね。
同じ志しを持つ人が少しでも多くいるということは、嬉しい限りです。
私もスクエニに応募するつもりですが、スクエニしか応募出来なくなったというか・・・。
普通に書いていたら現在の時点で400字詰め用紙500枚以上になってます。
原稿用紙の枚数に上限がないのがそこだけなんですよ。
最終的には800枚くらいになりそうな・・・。
お互い頑張りましょう!

>>楚良 紗英さん
ありがとうございます♪
父親として、旦那として頑張りますね!

>>momokazuraさん
次は是非女の子がいいです~。
男の子はもういいです><

>>すみれさん
何も考えず器用な人は実技試験もすんなりやれるようです。
本当に特訓あるのみ、でしたね。
すみれさんって、女優だったのですか?
要人(かなめびと) | 2009年08月24日(月) 06:37 | URL | コメント編集

竹田君は相変わらず頭にきますね(怒) 落ちればイイのに…なんて不謹慎な事を少し考えてしまっています(汗)
蒼井君はそこでもたついてて大丈夫!? 時間が!!
夢 | 2009年08月27日(木) 10:05 | URL | コメント編集

 
ひゃああ一発本番的なアレですか?
前触れもなく突然「試験開始」とは
その戸惑いだけでタイムロスになっちゃうのかしら・・・

すいません全くもってどうでも良いんですけど、
昨日更新部分の後半、武田くんになっちゃってます
 
楚良 紗英 | 2009年08月27日(木) 11:06 | URL | コメント編集

何だか嫌~な緊張感が伝わって来ますね。
「サービスマンだらけ」ってそうなのに驚いてしまうところ、
よ~く分かります(笑)

オーディション。
事務所に入る時もありましたし、事務所自体ががホテルや式場に
新規で入り込む時に代表で受けに行ったり、また事務所はそのホテルなどとすでに契約してるけど自分自身が入ったことがないなら司会登録をする時などにオーディションが必要な場合があります。
挨拶だけでOKのところもあるので、忘れた頃にオーディション
受けさせられてます(笑)
すみれ | 2009年08月27日(木) 20:11 | URL | コメント編集

>>夢さん
同期の中でも必ず一人くらいはむかつくのがいるものです。
大概はみんな仲良しなんですけどね、同期って。

>>楚良 紗英さん
いつも誤字指摘ありがとうございます><
この試験、自分が「始めます!」って言わない限りは、
試験官がストップウォッチを押さないんですよ。
なので多少は放心状態でも大丈夫です。

>>すみれさん
なるほど、そういうオーディションでしたか。
都会の方だと式場もたくさんあると思うので、
出入りの司会者だとオーディション形式になるんでしょうね。
うちなんて田舎なので、外注の司会者さんなんて一社しかありませんよ。
もっとも、だからと言って不満はありませんが。
要人(かなめびと) | 2009年08月28日(金) 06:30 | URL | コメント編集

最初にお皿落としたのって志麻さん!?
紫倉チーフが言ってたイレギュラーな事ってこれ?
でも試験管が目を丸くするって事は、お皿落とすなんてめったに無い事なんでしょうね。
皆さん、冷静に対処して!
竹田君は好きじゃないけど…皆まとめて応援しちゃいます。
息子さん鼻血ですか!? うちは次女がこの前夜中に鼻血を流しながら起きてきました。 寝ながらのぼせるんでしょうかね?
夢 | 2009年08月28日(金) 09:22 | URL | コメント編集

>>夢さん
皿落としたのは志麻さんです。
実は私が実際に試験をやった時に、本番中皿を落とした人がいるんです。
「あ~あ、やっちゃった」と思っていたら、同じ会社の人でした。
帰り道は凄く落ち込んでて一言も話し掛けれないくらいでしたっけ。

鼻血、なんとかならないんですかね。
こないだまでは治まっていたのに、また再発しました。
要人(かなめびと) | 2009年08月28日(金) 23:54 | URL | コメント編集

志麻さん…試験中なのに泣いちゃったんだ…
竹田君は性格出てますね~。
蒼井君は気持ちの切り替えできましたね!ファイトだぁ~!!
夢 | 2009年08月29日(土) 13:32 | URL | コメント編集

>>夢さん
お皿を落とすのって本気でへこむんですよ。
一ヶ月くらいは立ち直れないくらいに。
だから切り替える底力を持っていた蒼井君は褒めて上げてもいいと思います。
要人(かなめびと) | 2009年08月30日(日) 00:28 | URL | コメント編集

 
塾の先生に聞いたのですが、
教え子が高校受験する際、名前を書き忘れて不合格になったそうです
それと同じような感じなのかなぁ・・・と思ってしまいました

蒼井くんすごいですね
やっぱり極限の状態に陥ったときの行動って、その人の性格が出るんでしょうか
 
楚良 紗英 | 2009年08月30日(日) 09:19 | URL | コメント編集

蒼井クン、本番に弱いのか、強いのか???
日頃の仕事ぶりが、しっかりと発揮されたってことは
やっぱり強いんでしょうね~。
すみれ | 2009年08月30日(日) 11:20 | URL | コメント編集

志麻さんがこんなことになってしまうとは意外でした!
かわいそうですけど、しょうがないですねぇ。
蒼井くんはよくやったんじゃないでしょうかw
さすがはフェリスタシオンのサービスマン!見直しました^^
momokazura | 2009年08月31日(月) 02:32 | URL | コメント編集

>>楚良 紗英さん
名前を書き忘れてって、本当にあるんですね。
先生もさぞかし残念だったはずです。

追い詰められた時こそ、人間って性格が出るんだと思います。
蒼井君は「猪突猛進」。困った場面ほど前に進みたがるのでしょう。

>>すみれさん
サービスマンにとって一番大切なのはテクニックではなくて「心」だと思います。
どれだけ技術を学ぼうとも、お客様に対する心が疎かでは
満足なサービスが出来ないはずです。

>>momokazuraさん
今回、一番かわいそうな役を負ったのは志麻さんでした。
蒼井君にはフェリスタシオンの御加護がついておりますので
試験の呪いにも打ち勝ったのだと思います。
要人(かなめびと) | 2009年08月31日(月) 06:49 | URL | コメント編集

 
最後の一行で新学期早々吹き出しました
あれ、ちょっと前までは感動的だったのに・・・
 
楚良 紗英 | 2009年09月01日(火) 11:22 | URL | コメント編集

>>楚良 紗英さん
だって、サービスマンらしからぬ人はきちんと落ちて欲しいですもん。
竹田君、ざまぁみろ
要人(かなめびと) | 2009年09月01日(火) 15:59 | URL | コメント編集

蒼井君おめでとう!
竹田君、ざまぁみろ、デス。
夢 | 2009年09月02日(水) 12:33 | URL | コメント編集

>>夢さん
竹田君の不人気っぷりになんだか嬉しくなってきました。
要人(かなめびと) | 2009年09月03日(木) 06:20 | URL | コメント編集

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