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2009'06.22 (Mon)

「ケフィア…、あの出会いからもう15年が経つのですね…。」


【More・・・】

これを発見できたあなた、すごいです。


「この問3は何故π=3を式に組み込んだのですか?全く必要のない数字ですよ。」

「だって…本当にわからなかったから、適当に答えを書けば当たるかなって…。」

「当たるわけがありません。数学というものは方程式や理論通りに答えを導き出していけば自ずと理解していくものです。正確さを求めなさい。」

「う~、でもね。時々ね、当たる時だってあるんだよ?」

「そのような戯言を聞きたいわけではありません。では次の問4ですが」

「う~、もういやだよ~。」

「何故です?この程度の問題で音を上げるとは何事ですか。」

「だって~、クラスの友達に聞いても、因数分解とか微分積分とか三角関数なんてやってるのなんか、私だけだったよ~?絶対おかしいって、美代ちゃんが言ってた。」

「別段異質でもなんでもありません。私や私のお父様だってこの程度の問題はあなたぐらいの歳に解いていたというのに。」

「だって~、学校でやってる授業なんか、まだ算数なんだよ?」

「因数分解など算数の範囲です。」

「う~、パパ~。パパだって変だって思うよね~?」

ついに口論では敵わないと思った陽子は、眉毛をへの字にして僕に助けを求めてきた。キラキラ光る大きな瞳に色白で端整な顔立ち。髪の色素だけはどういうわけか僕に似て黒いが、学生時代の素子のように短くツインテールをしている。僕が助け舟を出してくれるのを期待しているのを目の奥に隠し、哀願の眼差しを送り続ける娘の向かい側に腰掛けた教育ママ 素子も、相変わらず表情に乏しい顔を僕に向ける。いくつになっても変わらない、人を威圧するような力強い光を放つ瞳には、僕に「甘やかすような発言は慎め」というメッセージが込められている。長いこと一緒にいると、無口な彼女の無言のメッセージくらい容易に汲み取れるようになった。
僕は溜め息をつきながら、キーボードに置いた手を下ろし、身体ごとそちらに向ける。

「えぇとね、素子さん。あなた方と一般の人は脳みその作りから違うから、自分が出来たことを陽子にまで強要するのは、どうかと思うんだけど。」

「強要はしておりません。ただこの程度の問題が解けないようでこれからどうやって日常生活を過ごしていくつもりかと思うわけです。」

「いや。絶対に必要ないから。事実、僕だって小学校二年生の頃は微分積分の言葉すら知らなかったからね。」

自分を擁護していると察したのか、娘は途端にパァと顔を輝かせ僕に駆け寄ってくる。
「ほら、やっぱり~。そんなに今から難しいお勉強をする必要ないってパパも言ってるも~ん。」

僕が自分の味方をしなかったのが気に入らなかったのか、素子は若干不機嫌な顔をすると、

「『パパ』ではなく『お父様』と呼びなさい。何度も指摘しているはずです。」

と注意した。だが、娘は

「呼称の識別には問題ありませんので~!」

と、素子の得意ゼリフを真似し、アッカンベーをする。普段自分が使っている言い訳を真似されてしまったので、返す言葉も無く悔しさを噛み締めるしかない素子は、プイと拗ねてしまった。自分が全く興味ない事柄は一切記憶しない性格は未だに治らない。
いつも頭を抑えられている母親に一矢報いることが出来たのがよっぽど嬉しかったのか、陽子は満面の笑みを浮べ、僕にVサインを見せた。僕はそんな娘に曖昧な笑顔を返し、そっと溜め息をつく。

今から10年前、まだ21歳だった僕らは若いながらも結婚をし、ささやかな幸せを誓い合った。僕は大学に通いながら、発電所の開発に携わり、彼女は僕のサポートをしながら、懸命に家事を務めた。それまで長いこと同棲をしてきた僕らだったが、いざ夫婦となるとなんだか恥かしくて、でもそれが凄く嬉しかったことを覚えている。それから2年後、娘の陽子が誕生した。素子にそっくりな色白で目鼻立ちがはっきりとした可愛い女の子を初めてこの腕に抱いた時、親としての自覚が芽生えたと同時に、彼女の他にもう一人、この命に代えても守りたいと思える存在が生まれたことに、胸が熱くなった。順調に育った陽子は、顔立ちは彼女そっくりだけど、体格は僕に似ているのか、すくすくと背丈が伸びていって、小学2年生というのに身長が既に140cmとかなりの大柄で、小柄な素子を追い越さん勢いである。なので、素子と陽子、よく似た顔の二人が並ぶとまるで姉妹のようで、おかしくてたまらない。
陽子はどうやら彼女のように無表情で無頓着で感情を表に出さない頭脳明晰タイプではなく、本当にごく普通の女の子として今のところは成長している。今のところは。というのも、素子はやはり自分がそう育ったため、娘にも同じように育って欲しいと思っているようだ。あれだけ他人に関心がなかった人間とは思えないほどに、娘の教育に入れ込んでいる。幼い頃から独自に徹底的な英才教育を施しているが、肝心の娘はあまり乗り気でない。外見はそっくりでも、中身の方は凡庸だったようだ。今のように、度々父親である僕に泣きついてくる。それが素子的にも面白くないらしいが、それでも彼女は根気良く娘に勉強を教え込んでいる。



「あらあら、ボーイ。そんなことを言うけど、八頭家ではそのくらい当たり前だったわよ。」

その声が聞えてる方を振り向くと、資料作成のためキーボードを叩き続ける伯母さんが、ディスプレイから目を離さずにニコッと笑った。彼女は素子の伯母さんで『ケフィア』の研究の創始者であるお爺さんの長女にあたる人である。僕が高校生の時、伯母さんは当時『ヨーグルト爆弾』と言われた『ケフィア』の全責任を僕らに押し付けようと画策したが失敗し、その後行方を晦ましていた。だが、彼女が記憶喪失(嘘だったが)になった時に、秘密裏に研究を引き継いでいてくれたのである。その縁あって、今ではすっかり和解し、こうして僕らと同棲しながら、一緒に発電所開発の研究に携わっている。

「あのですね、伯母さん…いえ、美枝子さん。いい加減にそのボーイって呼ぶの、やめてもらえません?」

高校の時から変わらない呼び方に、僕は異議を申し立てる。いつまでも子供扱いされるのも気分が良いものではないし、第一僕も、そろそろ30歳になる。

「あら、じゃあなんて呼べばいいのかしら?主任…でいいかしら?」

伯母さんはクスクス笑いながら、僕の役職名である『ケフィア』型発電所動力炉開発チーム主任の名前を出す。正直なところ、僕はこの役職名で呼ばれるのは好きではない。なんだか僕の身の丈に合ってなくて、こそばゆくなってしまう。だから僕は、実際に開発チームのスタッフや環境庁の人達に、名前で呼んでもらうようにお願いしている。実際のところ、伯母さんも親族ながらスタッフの一員という事になっているので、序列で見れば僕の部下ということになる。主任呼ばわりされてもおかしくはないのだが、やっぱり嫌なものはイヤだ。
ムスッと黙って返事をしない僕を見て、伯母さんはさらにからかうネタを思いついたのか、キーボードから手を離し、その手を顎に持っていく。

「それがイヤならば助教授なんて如何かしら?そろそろ正式に助教授になるんだし、今から呼ばれていたほうが慣れるんじゃなくて?」

僕はそれに対して、無言のまま首をブンブンと横に振った。その様子がおかしかったのか、伯母さんはさも愉快そうに手を叩いて高らかに声を上げ笑い出す。
主任以上に身の丈に合わない役職を、僕はこの度学会から任命された。学会と縁が深いという国立大(と言ってもほとんどの名のある学校は全て学会と繋がりがあるが)から、客員だが助教授をやって欲しいという依頼を受けた。これには本当に驚いてしまった。なんでも若年ながら学会と契約を結び、尚且つ世紀の大発明といわれる『ケフィア』発電所の開発チーム主任という功績を、学生にもあやからせて欲しいということだった。
本当は最初、断ろうと思った。どうにもそういう役割は僕に相応しくないし、恐れ多すぎる。それに開発チームと兼務ということは、これ以上忙しくなってしまうということだ。只でさえ、現在も朝から晩まで殆ど一日中、家に帰ってまで仕事をしているというのに、さらにその合間を縫って講義をしろというのか。とてもじゃないが身体がもたない。元々体力が無い身体だが、最近は一段と虚弱に磨きが掛かってきたように思える。
だが、それは学会の副会長である桑原さんが許さなかった。「あなたの今後に大きく役立つ」と、半分脅しまがいの説教をされて、終いには「誰のおかげで平和に研究が出来ると思っている」と恩着せがましいことまで言われて、しぶしぶ了承するしかなかった。それでも僕が助教授なんて、荷が重過ぎる。

「助教授も主任もやめて下さい。普通に名前で呼べばいいじゃないですか。」

いい加減からかわれるのもイヤになって、僕は溜め息混じりに反論する。自分だって伯母さんと呼ばれると怒るくせに。

「え~、なんだかボーイを名前で呼ぶだなんて恥かしいわ。素子ですら名前で呼んでないのに?」

伯母さんから指摘されて、僕はそういえばと思い、彼女に視線を移す。ちょうど自分の名前を呼ばれた彼女もこっちを向いたので、視線がぶつかる。

「そういえば、素子さんは僕を『あなた』ってしか呼ばないよね。」

「そもそもあなたをそれ以外で呼んだことはありません。」

確かに言われてみてば、と思い僕は宙を仰ぐ。
出会ってからこれまで、彼女は僕を『あなた』としか呼んでいないことに気付いた。偽記憶喪失中には名前で呼ばれていたが、それ以外に名前で呼ばれた記憶がない。夫婦になってしまえば、旦那を『あなた』と呼んでも全く違和感がないが(何せ未だに三つ指付いて「おかえりなさいませ」の人なので)、ふと一つの疑惑が胸を掠める。

「ねぇ、素子さん。もしかしてさ、君が僕を名前で呼ばないのって、時々僕の名前を忘れているからじゃない?」

冗談半分で問いかけてみたが、一瞬彼女の目が泳いでしまったところを見ると、どうやら図星だったらしい。自分が興味ないことは全く歯牙にかけない彼女は、あろうことか、自分の旦那様の名前すら覚えていないらしい!とんでもないスーパーコンピュータである。
僕が呆れて溜め息をつこうとしたより先に、娘が嬉しそうに反応した。僕の足に掴まったまま身体を左右に揺らして

「呼称の識別には~♪問題が~♪ありませんでしたので~♪」

と、例のセリフを得意げに即興の歌にした。そんな娘にしてやられた素子は、へそを曲げて身体ごと向こうをむいてしまった。そんな様子を眺めながら、伯母さんは手を叩いて嬉しそうに大笑いしている。
先程の仕返しを出来て嬉しそうにまだ唄っている陽子に、8歳児にしてやられて静かに不機嫌になる素子。
昔の天才少女も、母親になってしまえば普通の人ということか。


その時に電話のベルが鳴った。すぐ近くにいた伯母さんが、笑いすぎて目尻に溜まった涙をぬぐいながら着信に応じた。この家の電話は大概の場合、伯母さんが取る。元はといえば自分が生まれ育った家なので、家主のような気分なのだろう。
伯母さんはまだ余韻が残って可笑しかったのか、ひいひい言いながら電話に出たが、すぐに顔から表情が消えた。八頭家系統独特のあの感情が一切窺えない無表情である。そしてつまらなそうに僕へ受話器を投げ渡すと、一言「クソ原」と言い捨てた。ステンレス板状の受話器のディスプレイを眺めると、動画通信サインが点滅している。僕は部屋の時計で時間を確認して、点滅しているサインを押した。どうやら授賞式が終わったらしい。
部屋の中央に位置する60インチ型パネルディスプレイに映像が映し出される。そこに映っているのは満面の笑みを浮かべて子供のように手をブンブン振る野原さんだった。その勢い良く振られた手には、燦燦と輝くメダルが3つある。

「やっほ~!素子ちゃん、誠一君、陽子ちゃ~ん!!いちごだよ
~!!」

「お久しぶりだね。いちごちゃん。」

「ふわ~!いちごお姉ちゃん!陽子だよ~!!」

「野原さん。授賞式は終わったの?」

尋ねた僕に答える代わりに、野原さんは手に持った3つのメダルをこちらに向けると、空いている方の手でVサインを作った。

「いちごはね~、見事に三冠を頂いちゃいました~♪」

その報告に、僕達は一斉に盛大な拍手で賞賛する。野原さんが受賞したのは、ベンジャミンフランクリンメダル。昨今ではノーベル賞よりも栄誉な賞といわれている科学系の賞である。
大学を卒業した野原さんは、彼女のお父さんと桑原さんのプロデュースにより、科学や物理、工学など様々な研究に携わり、全ての部門で今までなかったほどの進歩に貢献した。自身がもっとも得意とする技術系のスキルを用いて、各方面の科学を進展させた功績は人類史上、類を見ないほどで、「ミス・アインシュタイン」や「進歩の母」などと呼ばれるほどになった。
今回の受賞はベンジャミンフランクリンメダルの科学、工学、物理の三部門。同時に三冠というのはベンジャミンフランクリンメダル史上初めてらしいが、誰もそのことには驚かなくなった。むしろ全ての賞を総なめするくらいが相応しいという声があったが。

「すごいよ、野原さん!僕は10年前に一緒に研究をしていたことを本当に誇りに思うよ!」

「同意するよ。」

「いや~、それほどでもないの~♪これはみんなから協力してもらって、頂いた賞だから~。私はただその代表としてもらっただけだよぉ~♪」

ぽわぽわと無邪気そうに見えるが、他人に対する気遣いや謙虚な姿勢は是非見習いたいところである。どれだけあっけらかんに振舞っても、育ちと品の良さは内側から溢れ出してきてしまうのか、野原さんは今や日本中、いや世界中のアイドルとなっていた。愛くるしい容姿に似つかわしくない明晰な頭脳。誰にでも平等に接する聖人然とした態度は大きな注目を集める。科学系の研究に関与するだけではなく、ファッションショーやマスコミにも引っ張りだこな彼女は、今世界中でもっとも忙しいスターだった。
しかし、そんな野原さんにも悩みがある。手に持っていたメダルを首にかけ、小さく溜め息をついた。浮かない表情の理由は知っているが、僕は野原さんに声をかける。

「どうしたの?受賞、嬉しくないの?」

「うぅん、嬉しいんだけどぉ~。いちごはこんなのよりもっと欲しいものがあるの~。」

「いちごちゃん、またその話?」

「そうよ~。いちごはボーイフレンドが欲しいのよ~。」

一気に大スターになって注目を集めてしまった野原さんには、それ相応の男性から誘いの声がかかるようになった。以前からその美貌で引く手数多だった彼女だが、今はそれ以上に交際を申し込む男性が常に後を絶たない。その男性達もかなりのお歴々で、どこかの国の貴族だか皇子だか、大富豪の息子だか、大統領の親戚だか、一般人には手が届かないセレブ中のセレブがこぞってお見合いの申し出に駆けつけている。
しかし、それら全てを排除している人物がいた。ちょうどその人物が、野原さんの後ろからぬっと顔を出す。

「そんな妄想に駆られているヒマがあったら、さっさと次の研究に取り掛かったらどうですか?先生?」

だいぶ白髪が目立ってきたが、常に微笑みを絶やさない好々爺がいじわるくそう注進した。誰であろう、日本エネルギー開発推進学会の副会長である桑原さんである。相変わらず、その笑顔の奥にある瞳は艶がなく、全く笑っていない。

「なによ~?いちごはちゃんとお仕事やってますからね!桑原さんにごちゃごちゃ言われる筋合いないですよーっと!!」

「口の利き方を改めなさいと何度言ったらわかるのですか?あなたももう30歳になるんですよ?いい加減自分のことを名前で呼ぶのは止めなさい。アホ娘。」

「きー!!そのアホ娘に付いてきて良い思いをしているのはどこの学会の副会長さんですかぁー!?」

「あなたがもっとしっかりしているのならば、我々は手出しをしません。ですが、我々がいないとあなたは自分の身一つも守れないでしょうが。お付き合いする男性が必要ならばこちらの審査に通った人物でお願いします。もっとも、いないでしょうけど。」

やんわりとした口調で、人の神経を逆撫でするだけ逆撫でする嗜虐性を持った桑原さんが、野原さんの男性関係まで口出しをするので、未だに彼女は男性と交際をしたことがない。「ミス・アインシュタイン」と呼ばれる彼女も、歳相応に恋愛の一つでもしてみたいらしいが、研究の邪魔とばかりにいつも桑原さんに阻止されるらしい。仕事や研究のことでは一切愚痴をこぼさない彼女でも、このことに関してだけは会う度に文句を言う。
手足をばたつかせて憤慨する野原さんを余所に、桑原さんはじっとりとした視線をこちらに向けて話し出す。どうやら彼の本題はこっちらしい。

「それで誠一さん。第三号『ケフィア』発電所の動力炉設計にあたるロス計算は出来上がったのでしょうか?」

「えぇと、…もうじきです。明後日中には報告が出来るかと。」

「相変わらず仕事が遅いですね。美枝子さんと素子さんという八頭家系統の人間が二人もいるのに、何をやってるのですか?」

それからも延々と愚痴愚痴文句を言う桑原さんに、僕はいつものことだと思いながらも生返事を返していた。
来年には念願だった『ケフィア』発電所の第三号が完成する予定である。この第三号『ケフィア』発電所は今までの発電所と違い、全く燃料のロスを出さずに、余すことなくエネルギー変換を出来るウルトラエコロジータイプの発電所になる予定である。これは僕が10年前に学会と契約した礎となった論文を進化させた研究の賜物だった。この発電所が完成すれば、僕らの夢はまた一歩前進することになる。

「わかりました。とにかく急いで取り掛かりますので、もうちょっと待って下さい。」

いい加減桑原さんの言いたいことも収まっただろうと見計らい、僕は話を締めようとした。桑原さんもだいぶスッキリしたようで、話を終えようとしたが最後にこう付け加えた。

「それと、今月の研究進捗状況報告ですが、それも明後日までに提出してください。」

「…えぇ!!!期限まで一週間も早いじゃないですか!?」

「こちらにも都合がありますから。あなた方契約者はこちらの都合に合わせて然るべきでしょう。」

「そんな…無茶くちゃな…。」

「そうそうそれと、部下の躾はきちんとされた方がいいでしょう。目上の人間の悪口など、幼稚すぎる。」

そう言うと桑原さんは、画面越しに叔母さんを睨みつけ鼻で笑った。どうやらさっきの「クソ原」というのが聞えていたらしい。だが、伯母さんは無表情で目の前にあるパソコンにレポートを打ち込んで、桑原さんを無視した。
それから野原さんに簡単な挨拶と再度受賞のお祝いを述べて、回線を切った。僕はまた無駄に期限が迫った仕事が増えたことを憂い、溜め息をついて伯母さんに文句を言う。

「ちょっと美枝子さん。また桑原さんの機嫌を損ねちゃったじゃないですか?」

「だって、クソ原嫌いなんだもん。」

「そりゃ、そうかもしれませんけど。どうするんです?おかげで今日からはしばらく徹夜ですよ?」

すると伯母さんはやっと無表情を崩し、不適に笑った。

「安心して、ボーイ。もう提出用の報告書は完成しているから。」

「え!?そうだったんですか?」

「当たり前じゃない。じゃないきゃ私だってわざわざクソ原に悪態つかないわよ。」

「だったら、一言いってくれてもいいのに…。」

「それに、クソ原もきっと報告書が完成している事は気付いてたわね。忌々しい。」

そういうと伯母さんは小さく舌打ちをした。どうにもこの人達の関係はわからない。昔に桑原さんと伯母さんの間に何かあったらしいが、とてもじゃないが恐くて知りたいとも思わない。
しかし、と思い僕は溜め息をつく。本当に報告書が出来ていたなら出来ていると教えて欲しかった。仕事が早すぎる部下を持つことは嬉しいけど、凡人の僕には心臓に悪すぎる。



その日の夜はそれで作業を済ませ、陽子は散々素子と勉強について言い合いをした後、ぷんぷんと怒りながら自分の部屋に引っ込んでしまった。教育ママも結構だが、程ほどにして欲しい。
一人で晩酌をしている伯母さんをリビングに置いて、僕達は寝室で眠りにつくことにした。素子は寝室に入るとパソコンの電源を入れ、毎日の日課になっているブログの更新を行なう。なんでも彼女のお母さんもブログを書いていたので、それを見習ったらしい。元々は陽子の成長記録を書き留めたブログだったはずだが、最近ではどうも内容の方向性が別に向かっている。陽子のことは日常のことなどは二、三行だけちょろっと書いて終わり、後は自分が得意とする科学や物理系の話題を延々と書き連ねているのだ。素子の書くブログにはコアなファンが多数存在していて、コメント欄では毎回レベルの高いディベートが開催されている。かくいう僕もファンの一人だ。
僕は素子が無表情にキーボードを叩いている後ろに立ち、内容を盗み見る。

「親友である野原苺氏、ベンジャミンフランクリンメダル三冠受賞。至極めでたい。我が娘、陽子はまたもや勉学に不平不満を漏らす。
さて、先日議論したゼロ力場におけるミューラ・フランツ揺らぎの観測に生じる誤差の検出について…」

と言った具合である。どちらが本題なのかは一目瞭然だ。いっその事、冒頭の二行は外してもいい気がするのだが…。

僕はベッドに腰掛けながら、料理雑誌を開きパラパラ捲る。家事全般は基本的に素子がやるが、時々お願いをして僕が夕飯を作るときがある。唯一僕の趣味と言えるのが料理だけなので、気分転換や息抜きみたいなものだ。僕は春野菜特集のページを眺めながら、さっきの光景を思い出し、熱心にキーボードを打ち込む素子に話しかける。

「素子さん、教育熱心なのはわかるけど、あんまり陽子に無理させちゃダメだよ。」

「無理はさせておりません。彼女の許容範囲内の勉学しかやらせていないつもりです。」

「でも明らかに嫌がっていたように見えるし…。無理強いは逆効果じゃないかな?」

「…考慮します。」

口だけはいやに素直だが、どうせ明日になればまた素子に三角関数の問題や万葉集を延々と暗記させることを強要するのだろう。いつか陽子がグレなきゃいいけど。
そんな事を懸念してからか、僕は素子にある提案をする。

「素子さん。陽子ももう小学2年生だし、手も掛からなくなってきたでしょ?どうかな。そろそろまた本格的に研究に着手してみないかい?君だってやりたいことがあるでしょ?」

結婚して以来、素子は僕の研究に手伝いはするものの、自分から主立って研究をすることは全くしなくなった。以前はあれだけ一日中実験、実験を繰返していた人なのに。僕としても素子の資質をただ主婦として埋もらせているより、その才能を研究に費やした方がもっと有意義だと思う。実際に桑原さんも主婦業だけに専念する素子を憂い、「いつでも論文を提出しなさい」と口にしている。しかし、それに対して素子は頑として首を縦に振ることはなかった。

「私には専業主婦という相応な役割があります。それをおろそかにする気は毛頭ございません。」

「でもさ、少しでもいいからまた研究を始めてみてはどうかな?僕としては君がやりたいことをやらせたいんだよ。」

相変わらずの無愛想で無表情な素子なので、いまいち思考が掴めないが、なかなか自分の思い通りにならない陽子を相手にしているときの彼女は、たまに煮詰まっているようにすら見える。どう考えたって素子には専業主婦よりも科学者の方が合っているように思えて仕方がないのだが。

「あなたがそう申すのならば私は自分のやりたいことをやらせて頂きましょう。」

「そうか。うん、その方が良いよ。」

「今まで通り家事育児に専念させて頂きます。」

一瞬、ついに僕の思いが通じたかと喜んだが、素子は無碍なく自分の意志を貫きとおした。僕はそっと溜め息をつく。よくよく考えてみれば、この彼女が僕の意見に従った時などあまりなかったっけ。
僕はもう一度、溜め息をついて言った。

「あのさ、こう言ったら頑張っている君に失礼かもしれないけどさ、素子さんは家事育児よりも研究している方が合っていると思うんだけど…。」

すると、彼女はキーボードを打ち込んでいた手を止めて、僕をジッと凝視する。曇りが一点もない、人を威圧するような強烈な光を放つ瞳は未だに健在で、この視線が僕は大好きなのだが、時と場合によってはたじろいでしまう。
怒っているのか、はたまたショックを受けているのか、わからないが素子は10秒ほど僕を見つめた後、意外な事を口にした。

「私も常々そのように感じております。」

目を丸くしたまま、お互いしばらく見詰め合う。自覚症状があったのか…。結構鈍感な性格の彼女なら、気づかずに突き進んでいるものだとばかり思っていたが。あまり沈黙しているのも悪いので、僕は返答する。

「へ、へぇ。そうだったんだ…。でもさ、じゃあ何でそんな無理してまで主婦でいようとするの?」

「今の私でいることが私にとって『ケフィア』だからです。」

哲学的な答えと懐かしい単語に、僕は首を傾げる。すると彼女はすぐに僕がわかり易い様に解説をしてくれた。

「私にとっても主婦であることは似つかわしくないと思っておりますし全く未知の領域なのです。だからこそチャレンジしてみたいと思いました。お母様に出来たことを私も出来るだろうか、そんな可能性に立ち向かうことが今の私にとっては『ケフィア』なのです。」

僕はその言葉を聞いて、微笑みながら溜め息をついた。彼女は昔も今も変わらず探求者らしい。
昔の僕らは、未知の可能性やそれに立ち向かっていくことを『ケフィア』と呼んだ。それは父親の意志を受け継いだ彼女の心を支える魔法の言葉だったと同時に、僕らを繋ぐ絆でもあった。現在の『ケフィア』は次世代の新しい発電所の名称となり、用途は違えど一般的に人々へ親しまれるようになった。その事実が、すでに『ケフィア』が可能性から別のものに昇華したことを意味している。なので、僕もいつしか『ケフィア』をそういう用途で言葉を発することがなくなっていた。でも未だに彼女の胸の中には、あくなき探究心で満ち溢れている。方向性は違っても、彼女は今でも『ケフィア』を追い求めているのだ。
僕は手に持った料理雑誌を閉じると、もう一度深い溜め息をついた。そして彼女も再びキーボードを打つ作業を再開する。その溜め息が呆れの意味ではなく、承諾の意思を伝えるものだということを彼女も理解したらしい。それでも口数が少ない彼女と違い、きちんと言葉として伝えないと落ち着かない僕は、彼女に話しかける。

「わかったよ。君が主婦をしたいのならば、気が済むまでしてていいよ。僕としても君が家に居てくれるとホッとするからね。でもさ、いつかまた研究を再開したいって思ったらいつでも言ってね?協力するからさ。」

しばらく沈黙した後、彼女はパソコンのディスプレイから目を逸らさず、「了解しました」と呟いた。こちらからはちょうど画面に隠れて見えないが、今素子の表情が若干緩んでいる気がしてならなかった。




「しかし、懐かしい単語を聞いちゃったね。…『ケフィア』かぁ。」

先ほど彼女が発した単語が頭の中に残っていて、僕は過ぎ去りし日々を懐古しながら、呟いた。

「さほど懐かしい単語でもないでしょう。あなたが着手している研究で日になんども耳にする機会があるのでは?」

「それはそうだけどさ。でもさ、今ちょっと昔を思い出しちゃったんだ。」

教室の窓から見える桜並木…。電車に揺られた登下校…。夕暮れの長い一本道…。会話はなかったが温かかった夕食…。

「ヨーグルト…、いいえ『ケフィア』です…、か……。」

キーボードを叩く彼女の手が止まる。そして視線を画面から僕にスライドさせた。

「それはまた…懐かしい言葉ですね。」

「でしょ?まだ僕たちが高校一年生の頃だった。」

「ケフィア…、あの出会いからもう15年が経つのですね…。」

少し遠くを見るように目を細めながら、彼女がそう言った。
そうだ。もうあれから15年が経つ。僕らも今年でちょうど30歳。僕の人生の半分は彼女と過ごしたのだ。そんな他愛ない事実が、少しこそばゆくて、少し嬉しい。

「あの時はまさか、君とこんな風に夫婦になるなんて思わなかったよ。本当に人生って何があるかわからないね。」

「そうですか。私は当初から嫁ぐのならばあなたの元だと決めておりましたが?」

まったく、恥ずかしいことを一切抑揚もつけずに言い放ってくれるものだ。そんなことを言われてしまうと、居ても立ってもいられなくなってしまうじゃないか。僕はベッドから立ち上がり、彼女の傍に腰掛ける。ちょうどブログの更新が終わったのか、パソコンをシャットダウンすると、彼女も僕に向き直った。
真っ直ぐと僕を見つめる素子。表情をまったく顔に出さないためか、30歳を迎えた彼女の肌には年相応の皺が全然なく、年齢よりも遥かに若く見える。こういっては言い過ぎかもしれないが、高校の時から外見の変化がみられない。彼女はあいも変わらずに、美しくて可愛らしい。

「僕だって当初から君のことが大好きで、結婚したいなって思ってたよ。」

「そうですか。それは奇遇です。」

「それが現実になって、陽子も産まれて…。僕さ、君に出会えて本当に良かったって思っているよ。これからもよろしくね。」

そう言って僕はそっと彼女に口付ける。彼女もその大きな瞳を閉じ、唇を寄せる。これは僕らの中で時々行う儀式みたいなものだ。15年経った今でも、昔と変わらず、いやそれ以上の愛情を確認するための儀式だ…。


僕はそのまま細身な彼女を抱きしめる。彼女の小さな鼓動がゆっくりと伝わってくる。すると彼女は、僕の肩に顔をもたれ掛けたまま呟いた。

「そういえばそろそろ陽子の誕生日なのでプレゼントの要望を伺ったところ異なことを申すので報告致します。」

「ん?陽子なにが欲しいって言ってたの?」

「弟もしくは妹が欲しいと。」

僕は彼女の言葉に返事を窮する。お互い一人っ子だった僕と彼女は、陽子が生まれてからやはり兄弟もいた方がいいだろうと家族計画を練っていたがなかなかその機会に恵まれず悩んでいた。それは一人っ子でも不自由はないだろうが、いつかは言われることだろうと思っていたけど…。やっぱり陽子だって兄弟は欲しいだろう。

「う~ん、こればっかりはちょっと難しい相談だね…。」

「はい。ですので私も彼女に伝えました。あなたの誕生日は8月です。申請されたプレゼントはもう6ヶ月後待って欲しいと。」

僕は一瞬なんのことを言ってるのかわからずに呆けたが、すぐに頭をフル回転させ指折り数えて、彼女の言わんとする真意に気づいた。

「もう6ヵ月後って…もしかして!?」

「身篭りました。」

僕は喜びのあまりに声が出ず、代わりに彼女を抱きしめた腕に力を込めた。
こうやって少しずつだけど、幸せは増えていくものなんだと改めて実感しながら、僕はどうしても上っ調子になってしまう気持ちを抑えつつ、彼女に言う。

「次は男の子かな!?女の子かな!?また女の子でもいいけど、次は男の子が良かったりして!!」

「医師の診断によるとDNA判断では男の子なようです。」

「本当に!?やった!!ねぇねぇ!!名前はなんてする!?やっぱり男の子だから強そうな名前がいいよね!!」

あまりに舞い上がってしまっている僕をよそに、素子はジッと思案しながら口を開いた。

「核分裂。」

その一言で、有頂天になっていた僕の脳みそは一気に冷めた。呆れてものも言えない僕を睨むように、彼女が言及をする。

「文明が発展した現在でもエネルギー放出率はかなり強力です。」

僕は彼女を抱きしめたまま、深々と溜め息をつく。つくづく冗談なのか本気なのかさっぱりわからない僕の奥様だが、そんな彼女だからこそ、一緒にいて飽きないのだろうか?わからない。わからないけど、そんな彼女と過ごす日常が僕にとっては、かけがえのないものなのである。
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12:43  |  「ヨーグルト…。…いいえ、ケフィアです!」  |  CM(2)  |  EDIT   このページの上へ

Comment

読んじゃいましたよ~!
ケフィア…やっぱりイイですね♪
誠一君&素子ちゃんのその後を知れて嬉しいです! 桑原さんは相変わらずですね。 苺ちゃんは何だか凄い人になったんですね(驚) オバサンが一緒に住んでるのにはビックリ。 けど皆仲良さそうで良かったです♪
機会があったら、もっとその後も知りたいですね。
今日はありがとうございました。 美味しかったデス!
夢 | 2009年08月01日(土) 18:36 | URL | コメント編集

>>夢さん
さらにその後はさすがに書く気がしないですな。
でも久しぶりに誠一と素子を書くと凄く新鮮な気持ちになれました。

また髪切りにいきますね♪よろしくお願いします♪
要人(かなめびと) | 2009年08月02日(日) 06:28 | URL | コメント編集

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