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2009'01.13 (Tue)

「だから、ヨーグルトではなくケフィアなんです。」 第三章


【More・・・】

彼女が記憶喪失になってから既に三ヶ月が経過し、
季節はいつの間にか秋を通り越し冬に向かっていた。
初めのうちは腕の診察ということもあり週に一度は外出をしていたが、
ギブスが取れてからは外に出掛ける用事も減り、
何をするでもなく僕らは家に引きこもっていた。
というよりは必然的に引きこもらなくてはならない状況になったと言った方がいいのか。
ちょうど彼女のギブスが取れたのを待っていたかのように、
かねてより桑原さんから聞かされていた『ケフィア』の研究者である
彼女の特別報道番組が放映された。
ゴールデンタイムを使った二時間枠の中で、
両親を亡くして独り孤独に研究を続けた悲惨な少女の苦悩と失った記憶や、
『ヨーグルト爆弾』とは一切無関係を訴えた『ケフィア』を用いた発電所の開設について、
時には辛辣に時には切々と報じられた。
この特別報道番組は他局はおろか自局でも関与していた人物が少なく、
翌日からはどのチャンネルに変えても
一連の騒動について特別番組が流れている有り様で、それが長いこと二週間は続いた。
桑原さんが話したとおり彼女を特定出来る描写は一切なく、
念を入れてわざと出身地や年齢を偽装して報じた。

しかし、マスコミ関連の鼻の良さは流石というか、
家の前には何人かの記者らしき人物がうろついている時があり、
僕らは結局家にいるしかなかった。
その間、本当に一歩も外に出れない状態で食料の確保はどうされたのかというと
それもまた下準備がしっかり整っていて、報道される1ヶ月前に
結構昔から空き家だった隣家に環境庁の職員家族が引っ越してきていた。
そして外からは見えない裏庭を通して隣の奥さんが
週に何度か食料品や日用品が届けてくれる。
実に用意周到で逆にこっちが申し訳ない気分だった。
隣の奥さんも「好きなの買ってきてあげる」というので、
僭越ながらもお言葉に甘えて毎回買ってきて欲しいものリストを提出していたところ
「記憶喪失の割には料理が得意な彼女さんですね」と感心され、思わず苦笑いになった。

そんな潜み隠れる生活も慣れてきた頃に、もうマスコミの追跡もないだろうと
判断された僕らはやっと外出の許可が下りた。
その頃には賛否両論が続いていた発電所開設も概ね世論が受け入れた傾向にあり、
まずは桑原さんと環境庁の画策通りに事が進んでいた。
特に記憶喪失までなってしまった彼女に大衆が同情したのが最も功を奏したようだが。
過剰なまでに悲劇的な報道が目立ったが、
まさに災い転じて福となす、とでも言えばいいのか。
僕らが手の届かないところで事は着々と進行していっているようだった。

ではそんな数ヶ月の間、僕らがただ家の中に閉じこもり
鬱屈とした毎日を送っていたかと言えばそんな事はない。
彼女の記憶は相変わらず戻らなかったが
(全生活史健忘は徐々に記憶が戻るものではなく、
ある日突然スイッチが入ったように全て思い出すらしい)、
以前に比べるとリビングに顔を出す時間が長くなった。
退院してしばらくは食事の時以外はほとんど自室に籠もり僕との接触を避けていたが、
さほど広くもない家の中では狙って接触しないようにする方が逆に難しいと悟ったらしく、
口を開くわけではないが大人しくリビングのソファーに腰をうずめ、
ぼんやりとテレビを眺めていた。
僅かずつではあるが彼女の中でも心境の変化が見られるようになった。
そのきっかけを作ってくれたのは他でもない、野原さんだった。

例の夕飯での口論の後にショックを感じた僕は、
包み隠さずそのことを野原さんに相談してみた。
もともと女性との接し方が未熟な僕では
今の彼女とこれからどう接していけばいいのか分からず、正直お手上げ状態だった。
なので同じ女性として、そして人格が変わってしまったものの
彼女と唯一無二の親友でもある野原さんにアドバイスを乞ったところ
「なんだぁ。そんなの簡単だよぉ。」とあっけらかんに答え、早速翌日に家へやって来た。
そして彼女が籠もっている自室へ入ると、
明らかに警戒心剥き出しでベッドに座っている彼女に対して小さくお辞儀をした。

「初めましてぇ。私、野原苺っていうのぉ♪」

満面の笑みを浮かべてそう言った野原さんに、僕と彼女は目を丸くした。
しかしそんな僕達をお構いなしに野原さんは自己紹介をし始めた。
自分の出身地から好きな食べ物まで嬉々と喋り続ける野原さんを慌てて彼女が制止した。

「ちょ、ちょっと待って。あなたって私の友達だったんでしょ?
 何で今更、初めましてだなんて…。」

怪訝な顔つきでそう言う彼女に、野原さんは変わらぬ笑顔で答えた。

「そうだよぉ。でもねイチゴはね、『あなた』に会うのは初めましてなんだよぉ。
 だから初めましての人にはきちんとご挨拶しなきゃダメなのぉ♪」

その一言を聞いて僕はハッとした。
野原さんは今、目の前にいる彼女に対して話し掛けているのだ。
記憶を失う前の、瞳の中に潜んでいる彼女にではなく、
新しく芽生えた人格の彼女と向き合おうとしているのだ。
ベッドに座る彼女に近づき、野原さんはスッと手を出した。

「イチゴはねぇ、昔の素子ちゃんが大好きだったのぉ。
 でも今は会えなくて寂しいけど、ここにいるあなたのことも大好きになりたいのぉ♪
 だからね、イチゴとお友達になって欲しいな♪だめ?」

その天使の微笑みを前にして、男性はおろか女性でさえ拒むことすら出来ない。
そんな種類の笑顔を浮かべた野原さんを前にした彼女はしばらく呆然としていたが、
次第にはにかみながら微笑み頷いた。
そして差し出された手を握り返すと、野原さんは途端に歓声を上げた。

「やったー!あのね、イチゴねケーキを持ってきたのぉ!
 一緒にお茶にしましょ♪素子ちゃんはケーキ好き?」

途端にテンションが上がった野原さんに驚愕しながらも、彼女は白い歯を見せて

「たぶん…好きだと思う。」

と、ニカッと笑った。
野原さんに手を引かれなから部屋を出て行く二人の後ろ姿を見つめ、
僕は胸を撫で下ろし溜め息をついた。
やっぱり野原さんには適わない。
口論になった時、彼女にあんな事を言われても『今の彼女』に向き合おうとせず、
ただどうすれば早く記憶が戻るかだけを考えていた。
しかし野原さんは違った。
今の彼女が今の人格を受け入れてもらえないことに苦しんでいると知るや
直ぐに自分を顧みて今の彼女をしっかりと受け止めることを選んだのだ。
人間としての心の広さ、器の大きさにただ感嘆するばかりだった。

それからはそう頻繁にとは言わないが、野原さんはうちに顔を出してくれるようになり、
三人で久々のティータイムを楽しんだ。
野原さんお手製のお菓子を頬張りながらたわいもない内容の談笑を交わす一時は、
事件以来塞ぎ込みがちだった僕と彼女の心を優しく解きほぐしてくれた。
まさに至福の時間だった。ただ、野原さんも忙しい身分で
(僕ら同様に『ケフィア』の研究から離された野原さんは
現在他の分野ではあるが研究チームに参加している。)
そんなに長いが出来ないのは残念だったが、
以前まで殺伐とした雰囲気だった家の中が今ではだいぶ柔らかくなった。

そんなある日、いつものように彼女はソファーに座りテレビを見て、
僕は僕でダイニングのテーブルに資料を広げて勉学を励んでいると、
野原さんから電話が掛かってきた。
電話に気付くと彼女はリモコンに手を伸ばし音量を下げる。
彼女は『ケフィア』や発電所に関する報道番組は欠かさずに視聴しているようだ。
自分に関わる内容というのを知っているのに
自ら望んでそういう番組に目を向けるということはなかなか良い傾向である。
電話を受信すると野原さんの間延びした声が聞こえてきた。
簡単な挨拶を交わすと野原さんは声のトーンを落とし早速本題を切り出した。

「あのね誠一くん、イチゴ今日ね久しぶりに実験棟に行ったのぉ。」

「実験棟って、僕らが研究で使ってた?」

「そう。イチゴね、あの研究室に残していった資料でどうしても確認したいのがあったのぉ。
 だから取りに行こうと思ったんだけど、中に入れなかったぁ。」

「中にって…何で?」

それはおかしい。
確かに桑原さんからしばらく研究は中止するとは聞いていたけど、
研究室まで閉鎖するとは聞いていない。

「あのね、詳しくお話するとね。
 入り口にガードマンみたいな人が立っていて中に入れてくれなかったのぉ。」

「ガードマン?」

「そう。イチゴはここの研究室の人ですよ~って言ったんだけどね、
 ダメですよ~誰も中に入ってはいけませんよ~って。」

「ちょっと待って。その研究室って、今誰かが使用しているの?僕達以外に?」

もともとあの部屋は以前まで在任していた教授が使用していた研究室だったが、
桑原さんの一声で僕らに譲り渡すことになった。
だから例え現在研究を休止しているとは言え、勝手に使用出来るはずはない。

「だってそんな事したら桑原さんが黙ってないんじゃないの?あの人はなんて言ってるの?」

「イチゴもね、桑原さんに聞いてみたんだけどね、
 あなたには関係無いことですよ~の一点張りで何も教えてくれなかったのぉ。」

それはあまりに不可解過ぎる。
つまり桑原さん公認で僕らの研究室を使用しているのだろうが、一体誰が?
そしてなんの目的で?

「ねぇ、誠一くん。イチゴ達っていつになったら『ケフィア』の研究に戻れるのかなぁ?
 素子ちゃんの記憶が戻るまで本当に研究しちゃ駄目なのぉ?」

不安そうに沈んだ野原さんの声が受話器から聞こえてくる。
桑原さんからは一向に何も音沙汰が無くなってから随分久しい。
野原さんと同じく僕にもその懸念があった。

「だってそれは仕方ないんじゃないかな?やっぱり研究の要である彼女がいないと…。
 僕らだけではどうすることも出来ないよ。」

野原さんを宥めるつもりで言ってはみたが、その研究室の話を聞いた今、
どうしようもない不安が僕の胸によぎってきた。
その不安を決定付けるように、野原さんが「私達、もう要らないのかなぁ…。」と呟いた。
まさに僕がたった今抱いていた不安を言い当てられてしまったような気分だった。

とにかく桑原のからなにも連絡がない以上動きようがないことを確認し、
野原さんとの話は終わった。電話を切った後、僕は腕を組んで考え込んだ。
様々な疑問はあるものの、僕が一番懸念していることは彼女の契約についてだった。
学会というよりは桑原さんと契約しているような状態だけど、
彼女の記憶が戻らないままで果たしてあの人が現状に甘んじているとは考えられない。
ただでさえ発電所の開設が滞りがちで『チーム☆ケフィア』も機能していないのに、
それを放置しておくだろうか?
少しでも自分の意思にそらない契約者は問答無用に切り捨てていくくらいなら、
一向に記憶が戻る気配がない彼女もしくは僕に発破の一つでもかけてくるはずなのに。
もしかして…すでに僕達は桑原さんに見限られたのだろうか?
視線に気付いて顔を上げると、いつの間に側に来たのか、
彼女が心配そうに僕を見つめていた。

「ねぇ…、何かあったの?」

僕の思い詰めた表情に彼女も不穏な気配を感じたようだ。
僕は目を泳がせてテーブルの上の書類を整理しながら「な、何でもないよ。」とうそぶいた。
今の彼女に言ったところで事態が変わるわけでもないし、
逆に責任を感じさせてしまうかもしれない。
でも、だからといってこのまま何もしないで家の中にいては不安に押し潰されそうだ。
僕は再び顔を上げて彼女を真っ直ぐに見る。

「明日、東京方面に出掛けようか?」

首を傾げながら「病院?」と尋ねる彼女。

「ちょっと違うけど。大丈夫、変な場所ではないから。君にも一緒に来て欲しいんだ。」

「私も、一緒に?別に構わないけど。」

怪訝そうに眉をひそめる彼女に精一杯の笑顔で「大丈夫だから。」と繰り返した。

研究室の事や契約の事や、桑原さんに直接尋ねて真意の程を確かめなくてはならない。
それにもしも研究を再開しているなら僕だって少しは力添えになるかもしれないし。
僕は資料を整理し終えると、自分に言い聞かせるようにまた「大丈夫だから」と呟いた。

大丈夫…。彼女の研究は僕が守るから…。

日本エネルギー開発推進学会の副会長室の扉はさほど豪奢な造りではないが、
この建物内の大会議室やホールを除いた控え室や事務室関係の中では
唯一観音開きタイプの部屋である。
副会長室自体がそんなに広くはないのにこの扉なので、
両面を開けると一気に部屋全体が視界に入ってくるらしく、
この部屋に入室する人は全員憚って片面しか開けない。
憚って、という理由の他にもう一つある。
それはこの部屋の扉を自ら進んで開けたいと思う人は誰もいないからだ。
この扉の向こうにいる人物と同じ空間に閉じ込められると考えるだけで、
かなり億劫な気持ちになる。
この部屋の主、桑原副会長はとにかく頭の切れる人物だと思う。
おおよそ思考に隙がなく、相手の三手も四手も先を読んでいる。
だが過ぎたるは及ばざるが如しとはよく言ったもので、
この副会長は頭が切れ過ぎるせいで周りすべてを切り刻む両刃の剣の持ち主でもある。
生まれ持った性格なのか、はたまた世間の荒波を渡り泳いだ際に習得したのか、
この人の口から発せられる言葉にはトゲトゲしい皮肉が込められている。
その一言一言は相手を立腹させて尚且つ
ぐうの音もでないほど押し黙らせる威力が含まれている。
この人に適う人物などそうそういないだろう。
なのでこの人が苦手なのは僕も例外ではなく、
副会長室前まで来たもののなかなか扉をノック出来ずに躊躇している。
相変わらず愛想のない受付嬢にアポイントを取ってもらうと、
幸いに桑原さんは副会長室にいるようだった。
だけどこの部屋に入るのは如何せん三度目なので緊張してしまう。
しかも過去二度はまだ記憶を失う前の彼女も一緒だったので心強かったが、
今の彼女を当てにするわけにもいかない。
でもそんな彼女にいつまでも扉の前で固まっている僕を
心配そうに見つめられては立つ瀬がない。
僕は意を決して扉をノックした。
すると程なく桑原さんの低い声で「どうぞ」と了解があったので、
僕は彼女を引き連れて入室した。

きちんと整頓された書類がつまれた机のあちら側に
微笑みを浮かべた桑原さんが座っている。
この人は別段愉快で笑っているわけでも歓迎の意を込めて微笑んでいるわけでもない。
単なる笑顔が癖なのだ。
本人曰わく、この世を憂いて諦観の笑みらしい。
無言でソファーを手招いたので僕と彼女は低頭して腰を下ろした。
桑原さんも自席を立ち向かい側のソファーに腰掛ける。
そして僕と彼女の顔をゆっくりと順番に眺めた後、面白くなさそうに鼻を鳴らして口を開いた。

「原さんの記憶が戻ったわけでもないのによくもノコノコと。
 それで、今日は何の用件でしょうか?」

相変わらず辛辣な激励に受けながらも、僕は話を切り出した。

「あの、野原さんから聞いたんですけど。
 僕らの研究室を誰かが勝手に使用しているらしいじゃないですか?
 それについてどうなっているのか、聞きたくて…。」

僕の話を途中まで聞いて、桑原さんは興味なさげにまた鼻を鳴らして
「そんなことですか。」と呟いた。

「勝手にではありません。あれは私の指示です。」

「じゃあ、あの研究室で何をやってるんですか?」

「あなたには関係のないことです。」

無碍もなく桑原さんはそう言い捨てる。
そしてつまらないものでも見るかのように僕を眺めた。
その蔑んだ態度が鼻につくが、ここまで来て引き下がるわけにもいかない。

「桑原さんの指示ってことは発電所関連の研究ですよね?
 僕に手伝えることとかないんですか?」

「ないですね。」

バッサリと切り捨てられた。
僕だって彼女の助手として何年もやってきて研究者としての実績を積んできたつもりだ。
その自尊心を傷付けられたのが表情に出てしまったのを
桑原さんは見逃さず嗜虐的に追撃をかける。

「そもそもあなたが研究に参加したからといって何が出来るというのですか?
 データ整理くらいだったらその辺のOLでも出来るでしょうに。
 今あそこで行っている研究は、女の子の後について回っている程度の研究者気取りが
 介入出来るものではないんですよ?」

今にも叫びだして怒号を撒き散らしたいくらいの罵り言葉を浴びせられたが、
悔しいことに反論出来ない。
僕は膝の上に置かれた拳を痛いほど握り締めるしかなかった。
しかしここまで来て手ぶらのまま帰れば本当にただの負け犬で終わってしまう。
僕は歯軋りしながらもなお食い下がった。

「でも、ちょっとくらいは何をやってるか教えてくれてもいいじゃないですか?
 彼女の記憶が戻って研究に復帰したときに困るんじゃないかと…。」

それに少々気になることがある。
冷酷非情で有名な副会長ではあるが、そこまで浅い付き合いをしてきたつもりはない。
ここまでつっけんどんなのは妙だ。

「桑原さん…僕達に何か隠してませんか?」

「ですからあなた方に話すことは何もありません。
 そんな下らない詮索をしているヒマがあったら、
 さっさとその隣にいる人の記憶を叩き起こすことに専念してくれませんかね?」

多少は動揺するかと期待していたが、流石に百戦錬磨の桑原副会長、びくともしない。

無駄な時間を過ごしたとばかりに溜め息をついて立ち上がる桑原さん。
そして自席に戻ると手元の書類を忙しなく広げながらこちらに目を向けようともせず

「用が済みましたらさっさと帰って下さい。
 あなた方と違ってこちらは忙しい身なのですから。」

と冷たく言い放った。とりつく島もないとはまさにこの事だ。
記憶を失った彼女に研究の役に立たない僕に、今の桑原さんは興味がないようだ。
でも、まだこの人に確認しておきたいことがある。

「あの!もう一つ聞いておきたいことがあるんです!彼女の契約についてですが…」

書類に伸ばしかけた手を止め、ゆっくりと顔を上げる。
仮面のような笑顔が不愉快そうに歪んだが、僕は喉の奥へ唾を嚥下すると言葉を続けた。

「今回の件で彼女と学会の契約が破棄になるという事はないんでしょうか?」

「それは一体どういう…」

「今、彼女はこういう状態で研究に携われずに学会、というか桑原さんの査定に
 響いてるんじゃないかと思いまして。
 それで僕がこんなことを言うのもおかしい話ですが、
 なんとか契約を破棄せずにいて貰えないかと。」

今回、野原さんから僕らの研究室を使用されていると聞いて
最初に危惧したのが彼女の契約についてだった。
もともとあの研究室は学会と契約した際の特典で進呈されたもので、
いわば学会からの信頼と期待の証だった。
なのでそれが他人に無断で使用させているということは、
彼女との契約の質が希薄になったのだと思った。
今は何も思い出せないにしても、記憶が戻った時に以前と同じ状態でなかったら
彼女が悲しむのではないか?
少しでも出来ることがあればと思い、こうして桑原さんに懇願しに来たのだ。

「そもそも今回彼女が記憶喪失になったのだって、
 学会にも多少なりは責任があるんだと思うんです。
 デモが起きていると事前に確認が取れていたらわざわざ危険を侵してまで
 現地に行きませんでしたし。全てそちらが悪いとは言いませんけど、
 その辺の憂慮があっても良かったんじゃないかと。」

無言のまま僕の話を聞いていた桑原さんは、
深いため息をつくと机に肘をついていた手で目元を覆い、口を開いた。

「誠一さん…私はですね。今、とても困ってるんですよ。分かりますか?」

もしや僕の願いが通じたのかと思い、
僕はソファーから立ち上がり畳み掛けるように言葉を重ねた。

「桑原さんが困ってしまうのはもっとですが、
 なんとか彼女の契約を今しばらくそのままでいてもらいたいんです。
 それ以上なにも望みはしません。」

「いやはや…困りましたね…。」

「そりゃ、桑原さんの一存でというのは難しいかもしれません。
 学会という組織もそんな単純なものではないでしょうし、ただですね僕は」

「いえ、違うんですよ誠一さん。」

そう言っておもむろに顔を上げた桑原さんと目が合った瞬間、
僕の全身に悪寒が駆け抜けた。
いつも仮面のように張り付いた桑原さんの笑顔が消えていた。
普段は上がりっ放しの口角は横一文字に引き結ばれ、
目尻に刻まれたカラスの足跡のようなシワは無くなっていた。
底冷えするような冷徹に鈍い光を放つ両目だけが僕を捉えている。

心拍数と呼吸が荒くなり、背中には汗がじっとりと滲んでくる。
思考で判断するより先に体が悟っていた。
僕は桑原副会長の逆鱗に触れてしまったらしい。
そんな憤怒の色を隠そうともしない僕らの契約主は、ため息混じりに冷たく言い放った。

「誠一さん。私はあなたに失望しているのですよ。」

その一言がどんな言葉よりも重く僕の心にのし掛かる。
今までどんなに皮肉を言われても、それに対して僕がどれだけ反抗しようとも、
桑原さんと僕らの間には「この程度なら許せる」という許容範囲が自然と存在していた。
車のブレーキにある「遊び」のようなもので、
お互いのバランスを崩さなずに今までやってきたが、
その均衡を僕の配慮不足が呆気なく壊してしまった。

「我々学会も随分軽く見られたものです。
 原さんがこんな状況だからと切り離すほど学会は落ちぶれてはいませんし、
 そこまで非道ではありません。
 たかが学生にここまで馬鹿にされて非常に不愉快ですよ。」

取り返しのつかない事をしてしまったという絶望感が
足の裏から徐々に頭上へ立ちのぼっていく。
隣の彼女が不安そうに僕と桑原さんを交互に見た。

「それに私はある程度あなたを信用していたつもりですがね。
 それがこんな形で仇なされることになろうとは。
 私は下の人間に侮辱されるのが一番腹が立つのです。」

「………。」

「それにデモに関して原さんはもちろん承知の上でした。
 それでもなお建設現場に行きたいとの申し出でしたからね。
 原さんはあなたと違い、自分が招いた不幸をしっかりと
 自分の目で見定める覚悟があったんでしょう。」

大きく目を見開き彼女を振り返る。
何も知らない今の彼女は自分の名前が出たので戸惑っているようだ。
そんな僕に桑原さんは

「他人を信用出来ないから信用されないんですよ。
 私が原さんでもあなたに相談はしませんよ。頼りがいが無さ過ぎる。」

と追撃をする。
きっと彼女はデモのことを話せば僕にいらない気を回させてしまうと懸念したのだろう。
桑原さんの言うとおり、僕は彼女から頼りにされてなかったのだ。

がっくりと肩を落とす僕を忌々しげに見つめながら
桑原さんはわざと聞こえるように鼻を鳴らした。

「とにかく今回のあなたの行動は本当、非常に不愉快です。
 なのであなたの希望通り原さんと学会の契約は破棄にさせて頂きましょう。」

「なっ……!」

驚愕のあまりそれ以上声が出なかった。頭の中がごちゃごちゃになって耳鳴りがひどい。

「あまり身勝手な解約だと思ってますか?違います。
 学会との契約はあくまで相互利益が生じる時のみ発生します。
 今の原さんには何の価値がありません。
 ですのでこの場を以て原素子と当学会の契約は解除します。」

追って正式な書類を送付します、という桑原さんの言葉が遠のいていく。
僕は自分がしでかした過ちに打ちひしがれてしまった。
彼女の立場が危うくなったと憂いそれをどうにかしてもらいたく懇願しに来たのに、
かえってその行動が仇になってしまったなんて…。
自分が悔しくて悲しくて惨めで仕方なかった。
彼女のためにと思ってしたことが全て裏目に出てしまっただけでなく、
よりにもよって桑原さんの逆鱗に触れてしまった。
一番やってはいけないことだったのに。
心のどこかでこの人に甘えていたツケが今になって罰になった。
僕は自分の目頭が徐々に熱を蓄えてきたのを必死に抑えるため、
両手の拳を力一杯握った。
どんな言い訳をしても、どんな謝罪の言葉を並べても償えないほどの過ちを犯してしまった。

「いつまでそこに突っ立っているつもりですか?
 目障りですのでサッサと出て行って貰えませんかね。」

手元の資料に目を落としながら、冷たく言い放つ桑原さん。
ここで僕が土下座をしようとも涙を流そうとも、一度出した結論を覆すことはおろか、
お慈悲を与えることも絶対に無い。この人の性格は嫌というほど熟知している。
だけど、僕の足は動こうとしない。
いつまでもこの場に執着したいわけではないし、ここに立ち尽くしたところで
何かが変わるとは思わない。ただ、足が動こうとしないのだ。
そんな僕を忌々しげに眺めながら、桑原さんは溜め息をつき
「あなたにはつくづく失望しましたよ。」と言った。

更新日 1月20日

「原さんの契約が切られたことに責任を感じているならば、
 あなたが新たに当学会と契約を結んでやろうという気構えはないんですか?
 過ちは自らの力を持ってして償う、そういうところに考えが及ばないから
 あなたはいつまで経っても助手止まりなんですよ。」

目を通していた書類にサラサラと筆を走らせながら桑原さんは
「もう良いでしょう?出て行きなさい。」と告げた。
黙って立ち尽くす僕をソファーに座った彼女が心配そうに見つめていた。
いや、正確に言うと立ち尽くしていたのは変わらないのだが、
僕の頭の中はさっきまでの自責の念はどこかに吹き飛び、
あることに思考がフル回転していた。
桑原さんから放たれた一言が僕の頭の中に波紋を呼び、それが体全体に共鳴する。
一つの回路が繋がった。

「…け、契約を結べば…いいんですね?」

つまらなそうに顔を上げた桑原さんがピクリと眉を動かし、
深呼吸のような溜め息をゆっくりと吐いた。僕はそんな態度を気にせず言葉を続ける。
心臓がゆっくりと、だが確実に心拍数を上げていく。

「次の論文発表会は、例年通りに来年の夏でしょうか?」

桑原さんの表情がいつもの渇いた微笑みに戻る。
いや、いつも以上に人を蔑む嗜虐的な笑顔だ。

「確かに論文発表会は来年の夏です。
 何ですか?もしかして発表会で論文を提出しようとでも?」

僕が無言で頷くのを確認すると、桑原さんは持っていた資料を机に置き、
大きな口を開けて声を出さずに笑った。その、人を小馬鹿にした態度が癪に触る。
だが、気持ちが焦るくらいに高ぶっている今の僕は、そんな桑原さんに笑顔で返した。

「僕だって男です。自分のミスは自分で挽回しますし、
 桑原さんにそこまでコケにされたまま黙って引き下がれません。
 僕がただ彼女の助手をやってたわけじゃないってこと、ご覧になって見せましょう。」

では来年の夏に、と言い残し
僕は何のことか分からず目を白黒させている彼女の手を取ると、挨拶もせずに退室した。
扉を閉める間際、嘲笑混じりの桑原さんの声が聞こえた。

「知ってのとおり論文発表会は事前審査は一切なくすぐに大衆の前で発表となります。
 大勢の前で無様な姿を晒さぬように精々健闘を祈ってます!」



家に着くなり僕は研究所の棚に以前から整理していたデータや資料を
手に持てるだけ引っ掴むと、研究所内で一番広いテーブルにぶちまけた。
次にダイニングの机にあるさっきまでまとめていた資料も
同じようにテーブルの上に散乱させる。
突然の行動に訳も分からず不審がる彼女が、
僕がテーブルの上に投げ損ねた資料の束を僕に手渡した。
随分と興奮していた自分がちょっと恥ずかしくて、
僕は照れ笑いを浮かべながらその資料を受け取った。
しかし彼女はなおも心配そうに眉をひそめ
「ねぇ、一体何を始めるの?」と僕の顔を覗き込んだ。
その表情に一瞬ドキッとしつつも、僕は咳払いをしてテーブルの上の資料を指差した。

「僕だけで新しい研究を始めるんだ!
 君の助手でもなく、誰かと共同でやるわけじゃなく、
 僕だけが作った研究テーマを学会に認めさせるんだ!」

意味がよく掴めずまだ目が点になっている彼女に再度笑顔を向けると、
僕はすぐさまテーブルの上の資料を漁り出した。

一年前、あの居酒屋で桑原さんに言われた時以来、
僕の頭の中に漠然とした研究テーマが生まれた。
でもそれは形をしていなくて、触れようと手を伸ばせば霧散してしまいそうなほど
あやふやなものだった。
それから少しでもきちんとした形に近付けようと、彼女の研究を手伝っている合間に
細々と独学で考察を重ねてきたが、今日の桑原さんの一言で火がついた。
それと同時に今まで曖昧だった回路がいっきに全て繋がった。

どちらにしろスイッチが入ったきっかけが桑原さんというのは皮肉なものだが、
そんなことは関係なく、今の僕はドキドキしていた。







↓桑原さん「念のために忠告しますが、押したほうがあなたにとって有益ですよ?」
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06:25  |  「ヨーグルト…。…いいえ、ケフィアです!」  |  CM(13)  |  EDIT   このページの上へ

Comment

いやぁ~、苺ちゃんって凄い子だったんだ(驚) 見直しちゃいました!
素子ちゃんの記憶も、早く戻ればイイんですけどね。
それにしても、実験棟がどうなっているのか気になります。
要人さんの奥さんは替え歌が好きなんですか?(笑)
昨日の雪、凄かったですね! 店前を1時間かけて雪かきしました。 お陰で今日は筋肉痛です(泣)
夢 | 2009年01月14日(水) 10:12 | URL | コメント編集

>>夢さん
うちの嫁さんは素でこう歌ってます。
歌詞を間違えながらも堂々と唄うので笑いが止まりません。
今日も天気が荒れると思ったんですが、異様に晴れてますね!!
昨日は嫁さんが雪かきしてました♪私は仕事だったので♪
要人(かなめびと) | 2009年01月14日(水) 11:27 | URL | コメント編集

苺ちゃんがすごい出来た子でうれしいです♪
てか、こんないい子がウチの子から生まれたとは今では夢のようだw
ウチもおバカなミッションで遊んでる場合じゃありませんね^^;
実験棟のことも気になりますw応援ぽちぽち♪

要人さんの方でも雪降ってますか~雪かきしんどいですよね。
降らない地域の人は羨ましいとかいいますが、ふざけんなですよw
momokazura | 2009年01月15日(木) 01:35 | URL | コメント編集

>>momokazuraさん
物語の中に一人スーパーマンをいれておくと便利です♪
ある意味苺ちゃんはこの『ケフィア』のジョーカー役ですね。
困ったことがあったら全て苺ちゃんが解決して辻褄を合わせてくれます><

雪かきの辛さを知らない人たちっていいですよね。
多分びっくりするはずです。雪がこんなに重いなんてって・・・。
応援ありがとうございます♪
要人(かなめびと) | 2009年01月15日(木) 06:00 | URL | コメント編集

桑原さん、相変わらずイイキャラしてますね~!
素子ちゃん、早く記憶をとりもどせ~!! いやいや、焦ってはダメですね(汗)

昨日で筋肉痛が治ったと思ったら、今朝また…(泣)
夢 | 2009年01月16日(金) 14:51 | URL | コメント編集

>>夢さん
桑原節炸裂しまくりです。この辺は書いていてすっごく楽しかったですよ♪
また雪が降ってきましたね。明日は雨になるらしいですよ♪
雪が全部解ければいいけど><
要人(かなめびと) | 2009年01月16日(金) 20:51 | URL | コメント編集

うわw普段も不気味だけど(←褒め言葉です^^;)
笑顔が消えた桑原さんてまた格別です^^
誠一くんじゃなくてもビビりますね。
でもそんな桑原さんがまた素敵wとか言ってみたり。
応援ぽちぽち♪
momokazura | 2009年01月18日(日) 21:34 | URL | コメント編集

>>momokazuraさん
実際にこんな人がいたら絶対に御近付きになりたくはないですね。
誠一も一言余計なキャラだから損をするんだな、と思いました。
応援ありがとうございます♪
要人(かなめびと) | 2009年01月19日(月) 06:32 | URL | コメント編集

むしろ股の間の方は熱を出さないだろうと小一時間
どうでも良いですね、はい

今TVでゼネラルモーターズの話題が出て此処を思い出しました
楚良 紗英 | 2009年01月19日(月) 19:12 | URL | コメント編集

>>楚良 紗英さん
ゼネラルモーターズという単語で此処を思い出すなんて、
ちゃふ子さん、既にケフィア通ですね♪
この物語では2030年頃に日産とゼネラルモーターズが
合併することになってます。
日産車最高!!
要人(かなめびと) | 2009年01月20日(火) 05:47 | URL | コメント編集

誠一君、足引っ張っちゃいましたね~。 けど、自分のすべき事が見つかって良かった、良かった! 男らしい誠一君を見せてもらおうじゃないですか♪
息子さん、熱出したんですか? 今の時期インフルエンザもボチボチとか…(汗) 気をつけないといけないですね。
夢 | 2009年01月20日(火) 10:38 | URL | コメント編集

誠一君、勢いに流された感もありますが、ちょっとカッコいいですね。
そして最近桑原さんがツンデレに見えてしかたない。
いや、普通に厭味なだけなんでしょうが…。
これが妄想ってやつですね。
ここは桑原×誠一で!
腐モードに入ってしまいました。
…調子に乗りすぎましたすいませんorz
雲男 | 2009年01月21日(水) 00:17 | URL | コメント編集

>>夢さん
ここから誠一が盛り上がってきますよ~♪
うちの息子ですが、単なる風邪っぽいですけど咳がひどいです。
だから今日も家で療養です><

>>雲男さん
ここから本編スタートです!誠一の活躍に乞うご期待!!
とか言ってみたり><
桑原さんはツンデレならぬ「オッサンデレ」です。
てかやっぱり桑原さんの方が攻めなんですね。
誠一が攻めでもしっくり来ませんしね。
要人(かなめびと) | 2009年01月21日(水) 06:11 | URL | コメント編集

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