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2009'01.08 (Thu)

「だから、ヨーグルトではなくケフィアなんです。」 第二章


【More・・・】

「ただいま。」

玄関というにはあまりに素っ気ない鉄製の扉を開けると、
そこには馴染みとなったいびつな形をした大小数々の実験道具が出迎えをしてくれる。
最近では全く使用することがなくなったが、
彼女のお父さんやもっと遡れば『ケフィア』の創始者であるお祖父さんの遺品でもある
それら実験道具を、暇があれば彼女はメンテナンスを欠かさなかった。
馴れた手つきで一つ一つ器具を分解し丁寧に洗浄していく様を彼女は
「実験道具の不備は研究に支障をきたす」などと仰々しく言っていたが、
無表情ながらも慈しみながら器具を見つめる様子は、
さながら天国のお父さんお母さんと会話をしているように見えた。

そんな思い出がたくさん詰まった実験道具の脇をすり抜け、
奥にあるさっきの入り口よりも若干広い引き戸を開ける。
敷居が一段高くなっている、ここが原家の正式な玄関だ。
僕が居候でお世話になっているこの彼女の実家は、入ってすぐに研究所となっていて、
居住スペースはその奥にある。
僕は靴を脱いで下駄箱に入れようと振り返ると、
彼女が覚束無げに左手でヒールを脱ごうとしている。
両手を使えば特に難ないことだが、右手にはギブスが巻かれている。
あの工場現場から落下した時に右半身から着地してしまった際に負った怪我だ。
全治三ヶ月はかかるらしい。

「あぁ、ちょっと待っ」

すかさず助けしようと伸ばした手を、僕はハッとして止めた。
宙ぶらりんになった手を彼女は複雑そうに見つめ、目をそらした。
なおも不自由そうに左手一本でもたくたヒールを脱ごうとする彼女を、僕は無言で眺める。

医師の話では、人格というのは記憶という情報の積み重ねらしい。
記憶全てを失った彼女は現在、人格そのものもまっさらな状態にあるそうだ。
これまで家族や知人、友人と触れ合ったことにより得た悲喜交々や
共有する思い出も全て心の奥底に閉じ込められてしまった。
そして恋人である僕との思い出や絆も全て…。

同棲するようになって気付いたのだが、
彼女は意外と身の回りのことに関してずぼらな性格だった。
それ以前、高校時代も放課後から夜遅くまで一緒に過ごしている半同棲状態だったが、
やはり四六時中側に居ないと分からないことの方が多い。
パジャマを裏表逆でも気にしなかったり、歯磨き粉は出したら出しっ放し。
冷蔵庫の中身は僕が管理しているので問題はないが、
たまに蓋をきちんと閉めないでジュースやらケチャップやらを入れていくので困る。
使用後のトイレは流さないことが多く、トイレットペーパーの芯はトイレに置き去り。
朝の寝起きの悪さは異常で、半分眠りながら朝ご飯を食べている時がほとんどだ。
なので大学に通う時間に間に合わなくなると、
寝ぼけながら歯を磨く彼女の後ろに僕が立ち、髪をセットしてあげることが毎朝の日課だ。
つくづく研究以外には興味を示さない人だとは思っていたが、
ここまでひどいとは予想もつかなかった。
さらに寝ぼけている時だけならまだマシなのだが、たまに早朝から本を読んでいることがある。
そうなるともうお手上げだ。
体を揺すっても耳元で叫んでも微動だにしない。完全に読書へ集中モードになる。
なのでそんな時は仕方なく僕が服を着せてあげるしかない。
「はい右足上げて~。」「左手、袖に通して~。」と声を掛けながら服を一枚ずつ着せていく
(こういう言葉だけ耳に届くのは不思議だ。わざとだろうか?)。
保育園児や小学生の子供を持つ母親の気分を僕は若干19歳で味わってしまった。
だからイヤらしい意味ではなく、彼女の体に触れるのは僕にとってごく自然なことなのだった。
彼女も彼女でそのことを厭わなく当たり前のように受け入れる。
だが、あくまでそれは以前までの彼女の話である。
口で言わなくても仕草だけで全て伝わる、
煩わしいものを全て排除された心地良い関係が共通していたのは『以前の彼女』だ。
『今の彼女』は違う。

彼女が病院を退院してこのうちに帰って来た日、
同じように靴を脱ぐのに戸惑っていた彼女にいつもの感覚で手助けしようとして
彼女の足に触れた時、僕は彼女からその手を払いのけられた。
一瞬何をされたのか分からず驚いて顔を上げ、彼女の怯えた表情を見て更に驚愕した。
それと同時に悟ってしまった。既にここにいる彼女は別人なのだと。
僕にしてみたら今でも目の前にいる彼女は四年前から連れ添った最愛の恋人なのだが、
今の彼女からしてみれば、僕はつい先日知り合ったばかりの同世代の男の子に過ぎない。
それなのに彼氏面をされて馴れ馴れしく振る舞ってこられたら気味悪く感じて当然だろう。
考えなしに浅はかだった自分を省みたが、僕は暗澹とした気分が拭えなかった。
僕の時間は変わらずに流れていっているのに、彼女の時間だけ止まってしまっている。
同じだけの時間を共有出来ない切なさがひしひしと胸を締め付けていく。
これも『ケフィア』が僕達に与えた罰なのか?そうだとしたら、惨すぎる。

物思いに耽っている間に彼女はヒールを脱ぎ終わったようだ。
僕が先へ玄関に上がっていたせいで通路を塞いでしまい、彼女は動けずにまごついていた。
僕は慌てて立ち上がると無理矢理に笑顔を作り

「じゃあ僕は夕飯の準備に取り掛かろうかな!もし良かったら君も手伝うかい!?」

と明るく振る舞った。しかし彼女は困ったようにしりごむと
自分のギブスに巻かれた右腕に目を落とした。
そりゃそうだ。左手だけではまともに手伝えるわけない。
どうやらわざと陽気にしようとしたのが裏目に出てしまったようだ。
彼女が申し訳なさそうに上目遣いでこちらを窺う。

「ハハハ、そうだよね。じゃあ夕飯が出来るまでゆっくりくつろいでいてよ。」

「ごめんなさい。」

まったく、自分の要領の悪さにはほとほと呆れてしまう。
気落ちした僕の両腕に買い物袋がどっしりと重く感じる。
どうにも上手くいかないことばかりだ。


早速準備に取り掛かろうと買い物袋から食材を取り出し、
必要なものを冷蔵庫にしまっていると、彼女は何も言わず自分の部屋に入っていった。
いつもあの調子だ。
彼女は用事がない時には必ず自室に籠もって出てこようとしない。
あまり意識しないようにしているが、どうやら僕を避けているように感じる。
以前の彼女なら、学校から帰ってきて僕が夕飯の支度をしている間は
リビングのソファーではなくダイニングの椅子に座り静かに本を読んでいた。
ソファーの方が座り心地が良いのに、敢えて彼女はダイニングに居る。
何故ならそっちの方が僕の近くだからだ。
口数が極端に少ない彼女と無口が伝染ってしまったのか
自然と言葉が減る僕が同居するスペースには、常に沈黙が支配していた。
でもそれが僕らのスタンスであり幸せな一時の象徴でもあった。
言葉を交わさずに会話をしている、ちょっと不思議で
胸がくすぐったくなる感覚が僕は大好きだった。
でも今ここにあるのは、何も生まれない無機質な静寂ばかり。
野菜を刻む音だけが虚しく響いていた。

僕は彼女と接する度に無意識ながらも
「以前の彼女ならこうだった」「本来の彼女はこんな態度をしない」と比べてしまっている。
目の前にいるのは同じ人間なのに…。
人格が変わっただけでこうも違うのかと途方に暮れてしまう。
それは無意識に彼女の新しい人格を認めていることになり、
同時に否定していることに繋がる。
今の彼女は彼女できちんと受け入れなければいけないことは承知している。
だけど以前の彼女を思い出す度に虚しくて仕方ないのだ。
高校の時に出会ってからこれまで、ただ長々と惰性で彼女と過ごしてきたわけじゃない。
一緒に研究をしたことを通して喜んだり苦しんだり溜め息をついたり、
かけがえのない時間を共に過ごしてきた。
最初はすぐに切れそうな程にか細い糸を何度も何度も手繰り寄せ、
幾重にも紡いでいきお互いの絆を強めてきた。
僕らの間にあった時間に無駄な時間は一秒もなかった。
それを一瞬で奪われて、今度は新しい人格の彼女ともう一度関係を築いていけというのか。
とてもじゃないが自信がないし、それはあまりにも酷すぎる。
例えば今の彼女ではなく、まったくの別人というのならば諦めもつくかもしれないが、
姿かたちはそのままの彼女だから余計な感情がつきまとって仕方ない。
正直に言ってしまえば、今の彼女を愛せる自信がなかった。
あの僕が大好きだった力強い真っ直ぐな瞳や、無愛想だけど凛とした態度がなく、
いつも怯えたようにおどおどしている彼女は僕の愛した彼女じゃない。
それでも僕が彼女の側に居ることで記憶を取り戻すきっかけになれば、と
希望的観測も拭えず今まで通り一つ屋根の下で暮らしている。
どうすることも出来ず悪戯に時間を消費するしかないのが現状だ。
外出も禁じられた今、距離を置こうとする彼女とこの家に閉じこもっているしかない。



「夕飯出来たよ。今日はね、君が好きな鶏肉の南蛮あんかけなんだ。
 あとデザートには杏仁豆腐も作ったよ。」

夕飯の支度も整い部屋に籠もっている彼女を呼びに部屋の扉をノックする。
わざわざ言う必要もないのについ献立の説明をしてしまう。
他人行儀になってるのは僕も同じか…。
しばらくすると無言のまま彼女が部屋から顔を出した。
僕は精一杯の笑顔で迎えたが、彼女は肩をすくめるだけ。
心の中で溜め息をつき、ダイニングに向かうと彼女も後についてきたので少し安心した。
椅子に腰掛けるとテーブルの上に並べられた料理を眺めながら、彼女がポツリと呟いた。

「私、鶏肉が好きだったんだ…。」

その一言が僕の胸に突き刺さり言い知れない哀愁が広がっていく。
僕はそれを表情に出さないようにするのに苦労した。
以前の彼女は鶏肉料理を出すと今のようにジッと湯気が立ち上るお皿を見つめながら、
その大きな瞳を爛々と輝かせていた。
そんな記憶がここにいる彼女にはなくて僕にだけあるなんて…。
でも僕は張り裂けそうな苦しみを耐えながら笑顔で応える。

「そうだよ。
 他にもね、魚は青魚が好きだったり野菜は根菜類より葉野菜の方が好物だったよ?」

実家の母親と同じく偏食傾向にある彼女の好みは全て把握している。
好きな食材と嫌いな食材のランキングを上位20位まで容易にあげられるほどだ。
しかし当の本人は僕の言葉など興味なさげに左手でスプーンを持ち、料理を食べ始めた。

「うん…。美味しい。」

一口含んですぐに感想を漏らす。表情も少しだが緩んだように感じる。

「本当に?良かった~。」

そう言った後、僕はつい思い出し笑いをしてしまった。
口をモグモグ動かしながら、彼女は不思議そうに首を傾げる。

「あ、ごめんね。以前の君はね、そんな時に『うむ。美味です。』って仏頂面で言ってたよ。」

「美味で…す?私、あなたに敬語を使ってたの?」

「そうだよ。君は誰に対しても敬語だったね。
 なんでも昔にお母さんからそうしなさいって言われて、それから頑なに守ってるらしいよ。」

「でもあなたは私の彼氏だったんでしょ?それでも敬語?」

「うん。僕もあんまり気にしたことがないけど。」

「変なの…。」

そう言いながら彼女はクスッと微笑んだ。
これは非常に驚いたことだが、今の彼女はちゃんと
喜怒哀楽を表情にあらわすことが出来るのだ。
いや、以前の彼女が出来なかったわけではないが、
よほど親交が厚い人でないと
彼女の一喜一憂を捉えることが難しいくらい無愛想な女性だった。
取り分け彼女が微笑む姿なんてほとんど稀少で
僕ですら二度しかお目にかかったことがない。
あの仏頂面だった彼女が目を細め口元を緩ませて微笑むのだ。
人格の変化は今まで眠っていた顔面の筋肉細胞すら活性化させてしまうらしい。
端正な顔立ちな美少女が微笑んだ表情は本当に息を飲むほどに可憐で美しくて…。
僕はついつい見とれてしまい頬を真っ赤に染めてしまった。
そんな僕をまた不思議そうに見つめる彼女。

「で、でもさ。唯一野原さんにだけは普通に敬語じゃなく話していたよ?」

「野原さんって、あの元気な人?なんで?」

「さぁ、そこまでは分からない。
 でもね、野原さんは親友だから、っていつだったか君が言ってたことがあったよ。」

あれは確か彼女が誤解をして僕に別れてくれ、と切り出したちょうど次の日からだった。
あの頃は彼女と野原さんの間に挟まれて本当に様々なことが起きたものだ。
一時はどうなる事かと気を揉んだが、
最終的には彼女と野原さんが交友を深めるという結果に終わりホッと胸を撫で下ろした。
あれ以降は三人仲良く研究に専念することが出来て、
安寧の日々がずっと続くものだと思っていたっけ。

「そうだ。今度野原さんをうちに招いて三人でお茶会でも楽しもうか?
野原さんが淹れてくれる紅茶はすごく美味しいんだよ。」

きっと野原さんも彼女を心配しているだろうし、
三人でティータイムをすれば何かを思い出すかもしれない。
研究の合間に1日三回催されたお茶会は疲労した精神を癒してくれる至福の時間だった。
彼女がこんな状態になってからは全然大学に行けなかったので、
そろそろ野原さんが淹れてくれるアールグレイが恋しくなってきたので
良い機会なのかもしれない。

しかし、彼女は浮かない表情を作り「別にいい。」と呟いた。
僕は彼女の言葉が了解なのか拒絶なのか捉えきれず、
思わず素っ頓狂な声で「ェエッ!?」と聞き返した。

「私、あの人と別に会いたくない。」

開いた口が塞がらなかった。
冗談で言ってるのかと疑いたいくらいだったが、彼女は口をへの字に曲げて俯いている。

「え?なんでだよ?きっと野原さんも君に会いたいはずだよ?」

理由がさっぱり掴めず問いただす。
思わず彼女から別れ話を切り出された時のことが脳裏に浮かんだが、
すぐに下らない妄想を打ち消した。
今の彼女と野原さんの接点はそう多くないはず。
一瞬、また野原さんにつまらない嫉妬を抱いているのかと勘ぐってしまった自分が恥ずかしい。

「私、あの人苦手だもん…。」

「苦手って…そんなに会ったわけじゃないじゃん。」

確かに野原さんは入院中はマメに顔を出していたが、
病床の彼女を気遣いあまり長居はしなかったので、さほど会話は交わさなかったはずだ。

「あの人…野原さんって人。
 まるで私のことならなんでも知っているっていう風に接してくるんだもん。
 話してると疲れて来ちゃう。」

「そりゃ、君達すごく仲良かったからね。
 以前の君は僕にも話せないような事でさえ野原さんには話していたし。
 でもそれだけ親密な関係だったってことじゃない?君のことを知ってて当然じゃないか。」

「私ですら私のことを知らないのに!?」

それまで視線を落としてボソボソと聞き取りづらい声で返答していた彼女が
強い口調でそう言いキッと顔を上げた。
その怒っているような困っているような表情を前に、僕は息を飲む。

「私だって…自分が何者だかわからないのに、周りの人はみんな私のことを知ってる。
 それがどれだけ怖いか、あなたわかるの?」

「だって…そんなの当たり前じゃないか。
 君は今、記憶喪失で何も思い出せないんだから…。」

「あなた達にとってはそうかもしれないけど、私にしたら本当に記憶喪失なのかも分からない。
 あなた達が話す以前の私が本当なのかも分からない。」

「何を…言って?」

「昔はこうだった、以前までの君はこんなことをしていたって、
 あなた達が都合良く私の記憶を吹き込んでいるかもしれないじゃない!」

驚きよりも先に落胆が胸を締め付けた。
今まで僕を遠ざけていた彼女がそんな思いを抱いていたなんて。
怯えながらも必死に僕を睨みつける彼女の瞳は潤んで輝いていて、
まるで以前の彼女を彷彿させられるが、まったくの別人がそこにいる。

「そんなことが…あるわけないじゃないか。
 僕達が君に教えた君の過去は嘘偽りなんてないよ。」

「嘘じゃないって証拠はあるの?」

「それは…ないけど。」

つい強気に答えられず口ごもると、彼女は「やっぱりね」と言い席を立った。
僕も慌てて席を立つ。以前の彼女相手では絶対になかったであろう光景だ。
彼女は常にクールで温和なので一方的に話を終わらせて席を立つようなことはしない。

「ちょっと待ってよ!
 じゃあ、その記憶が本当がどうか思い出せばはっきりするんじゃないか!
 そうだよ!思い出せばいいんだ!
 そのためには独りで塞ぎ込んでいないで僕や野原さんと触れ合っていたほうが近道だろ!?」

口に泡をためて必死に説得する僕に気圧されて彼女は尻ごむ。
少し大きい声を出し過ぎたと反省し、深呼吸代わりに溜め息をついて気持ちを落ち着けた。

「君だって今のままじゃ嫌だろ?僕だって以前の君を取り戻して欲しいんだ。
 以前の君らしく凛としていて清楚で研究熱心な」

「もうやめてっ!!」

更新日 1月12日

喉の奥から振り絞ったような声で突如叫ぶ彼女。
そんなに広くはないダイニングに彼女の甲高い声がこだまする。
呆然と立ち尽くす僕に唇をわなわな震わせながら彼女は言った。

「あなたはいつもそう!二言めには以前の君は、って…!
 あの野原さんもそうだわ!早く昔を思い出して、前の素子ちゃんに戻って…!
 そんなに今の私はダメなの!?価値がないの!?」

一気に言葉を吐き出した彼女は乱れた息を整えようと大きく呼吸をしている。
その上下する肩を僕は黙って見ているしかなかった。

「私だってこのまま何も思い出せない状態で満足なわけじゃない。
 でも、記憶を思い出すのが…恐いの。恐くてたまらないの…。」

最後にそう呟いて彼女はダイニングを後にした。
僕は彼女にかけるべく言葉をとうとう探すことが出来ずに、
ただ去り行く背中を見送るしかなかった。
彼女が去った後の食卓を再び沈黙が支配する。
僕は冷め切った食事に手を着けず、テーブルに肘をついて考え込んでいた。

確かに僕は彼女が記憶喪失と知ってからずっと、いち早く記憶を思い出せるのを願ってきた。
その思いが強すぎて、今の彼女の気持ちを考えたことは一度もなかった。
いつも彼女の肩越しにいる以前の彼女ばかり見つめていた。
今の人格だって仮初めの人格だと決め込み、向き合おうともしなかった。
彼女も言ったように自分が記憶喪失のまま平気でいられる人間がいるわけない。
でも彼女に記憶を思い出せということは、
あの工場現場での惨事を思い出せと言っているのとなんら変わらない。
それはあまりにも酷過ぎる。
そもそも彼女が記憶を失っている原因は医師の話によると心因性らしい。
つまり彼女の記憶に蓋をしているのは精神的ショックなのだ。
彼女は記憶が蘇るのが恐いと言った。
それは無意識のうちに辛い過去を思い出したくないと思っているから…。

僕は深く溜め息をつくとまだ料理が残っている皿を重ね始めた。
もう今日は彼女がここに戻ってくることはないだろうし、
僕もとてもじゃないが食事を喉に通す気力がない。
自ら作った料理が殆ど手が着けられることなく片付ける、
本来ならば発狂してしまいそうな行為だが僕は黙々と処理をした。
頭の中ではただ彼女のことばかりがグルグルと廻っている。
その中で彼女が発した一つの言葉がずっと胸に残っていた。

『今の私じゃダメなの!?価値がないの!?』

今の彼女にある人格が主張した明らかな自我だった。
以前の彼女ですらそんなに強く自己主張することはなかったのに…。
これは今の彼女が生み出したものなのか、それとも以前の彼女が隠していた本音だろうか?
わからない。わからないけど、それが彼女の意思ならば受け入れなければならない、
はずなのだがそうする事を僕の本心が拒んでいた。
彼女の瞳の奥に眠ったままの記憶を望みながら、今の彼女と向き合うなんて出来ない。
結局はどうすることも出来ずに僕も彼女のように
自分の殻に閉じこもっているしかないのだろうか?
一つ屋根の下、互いに手を伸ばせず途方に暮れる僕達を沈黙だけが嘲笑う。





↓素子「以前の私も、コレを押していたの?」
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08:48  |  「ヨーグルト…。…いいえ、ケフィアです!」  |  CM(10)  |  EDIT   このページの上へ

Comment

やっと帰って来たんですね! お帰りなさい♪
半袖で過ごせたなんてイイですね~。
末娘はは今朝、元気の無い状態で学校へ行きました。 そして何と私もうつり、日曜の夜から熱と戦う始末(泣)
素子ちゃんの日常生活、凄いですね(驚) いやぁ~、数年前育児をしていた時の自分と誠一君がダブってしまいました(笑) きっと誠一君はイイお父さんになれるでしょうね♪
今後の展開、ハッピーエンドを期待してます。
夢 | 2009年01月08日(木) 09:25 | URL | コメント編集

>>夢さん
熱大丈夫ですか!?
私はこっちに帰ってきたら風邪でも引くのかと思ってましたが、
そんなんでもなかったです。
やっぱり寒いところはしばれるや~!
要人(かなめびと) | 2009年01月08日(木) 09:59 | URL | コメント編集

おかえりなさいませ~!
健全なバカンスを過ごされたようで何よりです^^

以前の素子ちゃんのずぼらな性格に、
……トイレの水くらいは流そうよw
と思ってしまいました^^応援ぽちぽち♪

それと20000ヒットしたんですね~!
おめでとうございます!スゴイ!別次元だww
momokazura | 2009年01月08日(木) 21:36 | URL | コメント編集

>>momokazuraさん
水を流さないはやりすぎかな、と少し反省しています。
でも他のはうちの嫁さんの行動を参考にしました。
マジでずぼらな嫁です。
いつの間にか2万いってましたね!!
これも一重にmomoさんの応援のおかげです。
本当にありがとうございます!
要人(かなめびと) | 2009年01月09日(金) 05:56 | URL | コメント編集

やっぱり記憶を失った素子ちゃんと一緒に
暮らし続けるのは難しいみたいですね~
人格が変わってオドオドした素子ちゃんも
可愛いかも……って思ってしまいましたが、
こうなると早く記憶を取り戻してほしいです!
そして最後、苺ちゃんとの間に何が!?
気になりますねww応援ぽちぽち♪

前回のコメ返しの件、私の応援など微々たるものですが、
面白い小説を書き続けてきた要人さんの実力ですよww
momokazura | 2009年01月11日(日) 00:57 | URL | コメント編集

>>momokazuraさん
実際に記憶喪失になった人って人格も変わるのか、ちょっと疑問ですが・・・><
ご安心を!必ずハッピーエンドで終わらせますので!!
応援いつもありがとうございます♪
要人(かなめびと) | 2009年01月11日(日) 07:25 | URL | コメント編集

身の回りにずぼらな女性は扉を閉めない
ソースは謎
すれ違いがさらなる亀裂になっていくのが恐ろしいです。

感想ありがとうございます。キャラクター多すぎwと悩みながらの作品だったので、個性の濃淡で失敗したようです。
副会長に関しては友人に同じ事を言われました。狙いが逆効果なようで……。
時間とページ数に余裕があればラストをもっと精練できたなぁと後悔です(切り詰めて4枚しか余らなかったり
ちなみに昔の彼女は押したのではなくクリックしていました。と素佳は訂正するよ
蒼響黎夜 | 2009年01月11日(日) 21:13 | URL | コメント編集

>>蒼響黎夜さん
生意気な感想ですいませんでした。
でも前回より作品の幅としては広がっていますし、
着実に執筆力は上がっていると思います。
こちらも負けないように頑張らないと!
要人(かなめびと) | 2009年01月12日(月) 06:12 | URL | コメント編集

今回のケフィアを読ませて頂いて、
いまの素子ちゃんの言い分ももっともだなって思いました。
誠一くんも苺ちゃんも悪気がないだけに…^^;応援ぽちぽち♪

腹痛の方は大丈夫ですか?…安静になさってください><
あんまりひどいようだったら病院に行きましょうね。
私、一度だけ我慢できない痛みに襲われて病院行きましたが、
スーパーの割引の挽肉にあたったのが原因だったようです^^;
momokazura | 2009年01月13日(火) 00:55 | URL | コメント編集

>>momokazuraさん
今の素子には今の素子なりに悩みがあるということですね。
時には優しさも人を傷付ける、というやつでしょうか?

おかげさまで腹痛は治りました♪(たぶん)
原因は未だに不明です><
応援ありがとうございます!
要人(かなめびと) | 2009年01月13日(火) 06:17 | URL | コメント編集

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