2017年09月 / 08月≪ 123456789101112131415161718192021222324252627282930≫10月

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--:--  |  スポンサー広告  |  EDIT   このページの上へ

2008'11.24 (Mon)

「やっと、ヨーグルトはケフィアになれるのですから…。」 第四章


【More・・・】

「ところで先程桑原副会長が仰った話ですが私のお父様がお酒を召されていたと…ふぐっ!」

僕の話が一段落してところを見計らって彼女が口を開いた。
どうやらさっきの話で気になる事があったらしいが、
亡くなったお父さんの事を思い出してしまったのか、泣き上戸に再びスイッチが入ったようだ。

「ふぇぇ、お父様が生前お酒を召し上がらなかったのは、
 てっきり醗酵抑制物質保持者としての弊害だとばかり思っておりました。
 えぐっえぐっ、お父様は醗酵食品が口に出来なかったはず、えぇーん!お父様ぁー!」

「もう泣くんだか喋るんだかはっきりして下さい。
 確かに醗酵抑制物質保持者が醗酵食品を口にすると発作を起こすらしいですが。
 そもそもお酒は醗酵済み食品なのです。」

そう言いながら桑原さんは自分の猪口に手酌すると手前に掲げた。

「確か醗酵抑制物質は一次醗酵の段階で作用するはずです。
 なので既に醗酵が終わった状態にある酒類には反応しようがないのです。
 熟成は細かく分類すれば醗酵作用ではありませんから。」

そんな事も知らなかったのかと蔑んだ目で僕らを見渡し、手に持った猪口を口に運ぶ。
相変わらず人の神経を逆撫でるのが上手くて感心してしまうが、
僕にとってこれは無視できない話だ。

「えぇと、僕も彼女のお父さんと同じく醗酵抑制物質保持者なんですけど、
 醗酵食品を食べると蕁麻疹が出るんです。それって…」

「ちなみに何を食べると発症しますか?」

「乳製品とかは駄目です。」

「でもあなた、紅茶を毎日飲んでますよね。あれも醗酵食品ですよ。
 それに味噌はどうですか?」

「あ、そういえば。でも納豆は駄目ですけど。」

「八頭君と同じですね。彼は食べれる醗酵食品と食べれない醗酵食品がありました。
 例えば彼はワインは飲めるのにウィスキーは駄目でした。
 つまりそれは単なるアレルギー体質であって醗酵抑制物質は全く関係ないのです。
 気になるなら一度病院で調べてもらった方がいいでしょう。」

これはまさに目からウロコだった。
僕が彼女から醗酵抑制物質の話を聞いてから今まで信じてきた事が間違いだったなんて。
がっかりした反面、今まで頑なに避けてきた醗酵食品が
食べれるかもしれないという事実が素直に嬉しかった。

「ということはでしゅよぉ~、誠一きゅんもお酒が飲めるってことでしゅかぁ、先生ぃ♪」

机に頬杖をついてフニャフニャ体を動かしながら野原さんが尋ねた。
それを聞いた桑原さんは飲みかけた猪口をぴくりと止めて僕をじっと凝視し考え込んだ。
その視線が粘着性を帯びていて少し怖い。
なんだか嫌な予感がしたので、
隣でメソメソ泣いている彼女をなだめる振りをして逃げようとしたが、捕まった。

「そうですね。確か八頭君は日本酒は大丈夫でした。たぶん誠一さんもいけるはずです。」

自分の猪口になみなみ酒を注ぐと僕に差し出す。

「飲みなさい。」

粘着性を帯びた濁った瞳はジットリと僕を捕らえる。
なんという事だろう。この副会長も知らないうちにしっかりと酔いが回っていたなんて。


もしも差し出された猪口を押し返したらどれほど恐ろしい事になるか、
サディスティックに歪んだ口元を見れば自ずと答えは導き出される。
僕は再び鷹に睨まれた蛙に戻った。
ただしこの鷹は蛙相手でも全力でいたぶるだろう。
どうにも逃げ場のない状況に
アルコールのせいでテンションが上がった女性陣がさらに拍車を掛ける。

「そうだぁー!誠一きゅんも飲むのだぁー!!
 男になれよっ!!飲めば男になれりゅんだょぉー!!」

だいぶ下火になりつつあったテンションが一気に燃え上がる。
僕の初恋の相手は最早単なる酔っ払いに変わり果てていた。
野原さん、もう本当に勘弁して下さい。

「えぐっ、えぐっ!私のお酒が飲めないと!あなたはそう言いたいのですね!うゎーん!!」

あなたの酒じゃないでしょうが。
対抗手段など始めから持ち合わせているはずもない僕は
全てを諦めて桑原さんから酒が入った猪口を受け取った。
せめてもの強がりで桑原さんを睨みつける。

「も、もし、僕に発作が起きたら、ちゃんと病院に連れて行って下さいね。」

「ご安心を。きっとこの店の店員が救急車を呼んでくれるはずです。」

じっとりと座った目を向け声を上げずに空笑いをする
桑原さんから手に持った猪口に視線を戻す。
僕はついに腹を決めて一気に酒を口の中に流し込んだ。
味わうつもりは無いのでそのまま勢いで喉を通過させる。
すると一拍置いて胃の辺りから熱風のようなものが逆流して鼻からスゥと抜けた。
鼻孔がアルコール臭を感知して一瞬麻痺した後にジンジンとした痺れだけ残った。
胃の辺りはなおも火が着いたように熱かったが、さほど不快感はない。
頭の中も軽く混乱が残っているがどちらかというと心地良い程の高揚感すら感じる。
アドレナリンが脳内で分泌されている時と酷似した感覚だ。
舌の上にかすかに残った酒の味は多少苦味はあるものの嫌いな味ではない。
香りも何度か実験で用いた麹菌とお米そのものだし、
アレルギー反応も今のところ見受けられない。
僕の心の中に微かな期待が灯る。
これはもしかして、いける口ではないか?

今まで僕だけがノンアルコールだったのでこの酒席ではすっかり除け者扱いだったが、
飲酒が解禁になりやっとみんなの輪の中に溶け込む事が出来る。
心臓の鼓動が加速していくのをひしひしと感じていると、
桑原さんが無言のまま銚子を差し出す。
いつもは嫌悪感すら感じるこの人の薄笑いが
今は大人の扉をようやく開けた僕を歓迎しているように見えてくる。
僕は苦笑いで副会長のお酌を頂き、そのまま口に運んだ。
一度目はすぐに飲み込んでしまったせいで酒の味を全然味わえなかった。
なので今度はじっくりとその味を堪能した。
甘美なものが喉を通過し、それに伴い脳下エンドルフィンがドッと分泌される。
心臓の鼓動は更に加速し、自然と顔が綻ぶ。
隠しきれない喜びは言葉として吐息と一緒に口から零れ落ちる。

「美味しい…!」

僕の声に反響するように感嘆の声が上がる。

「誠一きゃんもやっとおとにゃのにゃかま入りなのれぇ~♪おめでちょ~!」

「あなたもまた一つ成長したのですね!うわーん!」


まさかお酒がこんなに美味しくて楽しいものだとは思わなかった。
僕は桑原さんの手から銚子を奪い取ると手酌で注ぎ、いそいそと口に運ぶ。
自分の酒を取られて腹を立てたのか眉間にシワを寄せているが気にしない。
普段はもっと酷い事をされているんだからおあいこだろう。
そのまま矢継ぎ接ぎに二、三杯あおると銚子はすぐに空になった。
銚子を逆さにして振っても滴しか落ちてこない事にガッカリしながら、
僕はやっとそこで一息ついた。
全身が弛緩してまるで宙に浮いているような感覚だ。
頭は眠りに墜ちる直前のようにぼんやりとだが様々な思考が行き来していて可笑しい。
とにかく気分は最高潮で今ならどんな事でも出来そうな気がする。
そしてとりあえずもっとお酒が飲みたい!心がお酒を渇望している。
僕はタッチパネルを弄るように操作していると、隣から呟くような声が聞こえた。

「あなた…だいぶ顔が紅潮しておりますが大丈夫ですか?」

ついさっきまで泣きじゃくっていた彼女が酔いと涙で腫れぼったくなった目で
心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。
気付くと周りにいる全員が神妙な顔つきで僕を見つめている。
どうしたというのだ?
さっきまでは乱痴気騒ぎだったのに今は水を打ったように静まり返っている。

「誠一きゅん…ちょっと急に飲みしゅぎだと思うんだけど…。」

「おいおい、野原さん。どうしたの?さっきみたいに騒ごうよ!
 僕ね、今すっごく良い気分なんだ!」

酔いがピークに達していた時の野原さんみたいに僕は笑顔で両手をバタバタ振ってみせた。
しかし野原さんは苦笑いを浮かべると視線を逸らした。
これはおかしい。一体どうしたというのだ?
僕もやっとみんなの仲間入りが出来てこれからせっかく楽しもうと思ったのに。
…なんだか白けてしまう。そもそもいつもみんな勝手過ぎやしないか?
研究中だっていつも雑用はぼくにまかせて自分たちはいつもいつもお喋りしてばっかり桑原さんにしたってそうだいつも人のしゃくにさわる事ばかりいってぼくをいたぶってそんなにたのしいのか?いつだってみくだしやがってぼくがどれだけはらをたてているかしっているのかそろそろがまんもげんかいになっ

「お待たせしました~!日本酒の熱燗、お持ち致しました!」

ハッとして顔を上げると、トレイに銚子を乗せた店長がいつの間にかそこに立っていた。
一瞬何を考え込んでいたのか忘れてしまったが、
普段は表に出すことがない感情がむくりと顔を上げたので僕はドキドキした。
今のは一体なんだ?よく分からない自我におののきながらも、
店長が手に持った銚子を見て心が躍った。

店長が僕の顔を見てギョッとたじろぐ。
満面の笑みを浮かべ店長に労いの言葉を掛けながら銚子に手を伸ばすと、
横から桑原さんが素早く掠め取っていった。
その横暴さにムッとして睨みつけると、
桑原さんは怒りを押し殺したような微笑みで僕に対抗した。

「誠一さん、その飲み方は良くないですね。
 どうやらあなたに勧めたのは私のミスだったようです。
 今日はここら辺でお開きとしましょうか?」

その言い方に僕はカチンときた。
人に飲ませておいてそれはあまりにも自分勝手ではないだろうか?

「そうだよぅ。止めとこうよぅ。」

「文字通り今が潮時かと。」

いつもは僕の味方であるはずの彼女達が桑原さんを擁護する。これにはかなり失望した。
自分達は散々飲み倒しておいて、
いざ僕が良い気分になってきたところで桑原さんに加勢するのか。この子達も勝手過ぎる。
僕は鼻を鳴らすと桑原さんの手から乱暴に銚子を奪うと、
そのまま口をつけてラッパ飲みした。
そしてそのまま一気に飲み干すと大きいおくびを漏らす。
熱燗だったせいで腹の中がかなり熱くなってしまったが、
血の巡りが活性化し体中にアルコールが瞬時に行き渡り、僕は満足感に浸った。
全く飲み方がどうのこうの言われる筋合いがあったもんじゃない。
第一僕を注意する前に彼女達に文句を言うべきだろう。
桑原さんも偉そうにしているくせに結局女の子に甘いんだな。
僕は可笑しくて声を上げてケラケラ笑った。
そしてたった今自分で空にした銚子に再び口をつける。
もちろんいくら傾けようと何も流れてこない。
しかし桑原さんに文句を言われないからといって彼女達もちょっと調子に乗りすぎではないか。
彼女だって前よりは僕に対する態度がそっけないというか、軽いというか。
野原さんだっていっつも彼女とおしゃべりばっかりで研究はすすんでいるのか本当に。
まったく女は野放しをするとつけあがるからたちが悪い。
いやそれよりも何よりもやっぱり気に入らないのは桑原さんだ。
なんなんだこの人はなんでこんなにいつもえらそうなんだ。それにひとのくろうも知らないでまいかいまいかいレポートのだめだしばかりしやがってそのくせ量はふえていくしいったいぼくになにをさせようとしているんだこっちのみにもなりやがれいいかげんレポートばっかりやっているせいかつもつかれるんだよまったくこのひとのせいでこいつのせいでくわはらのせいで

「おいっ!桑原っ!!」







気が付いて目が覚めると朝だった。僕はベッドの上で横になっていた。

見上げてた天井の色や布団の柄で自室のベッドに横たわっているというのはわかった。
ここは以前、彼女の父親が使っていた部屋らしく天井や内壁は白一色で統一されている。
なので自分で選んだ水色が下地の掛け布団で僕のベッドだと判断したが、
どうにも頭の中がぼんやりしている。
僕は一度目を閉じて記憶を探った。

昨日の夜、実験棟を後にして駅前の居酒屋に三人で行った。
オーダーに戸惑う店員。水のようにガバガバ飲んでいた彼女と野原さん。
よくわからない話で盛り上がっていると桑原さんが途中で参加してきた。
お酌をさせられたり進路を相談したり。

ここまでは鮮明に思い出せる。問題はその後だ。
急に場面が飛び飛びになり最後には電源が切れたように記憶がばっさりと欠落していた。
曖昧模糊な感覚で思い出せる場面と言えば、
薄笑いを浮かべて僕に銚子を差し出す桑原さんと怯えた表情の彼女と何故か店長さん。

…だめだ。何度記憶を巻き戻してもさっぱり思い出せない。
僕は目を開いて首を窓の外に向ける。
カーテンレース越しに少し曇りがかっているのがわかったがだいぶ陽は昇ったようだ。
体内時計と照らし合わせてみると、現在時刻はたぶん9時半頃。
少々のんびり寝過ごしてしまったようだ。
そろそろ起きなくてはと発奮し体を起こそうと顔を反対側に捻ると、
いつの間にか隣に寝ていたばっちりと目を見開いた彼女と目があった。
驚愕のあまりホラー映画のような悲鳴を上げかけたが
なんとか一瞬早く戻った理性が口を塞いでくれた。
ただし心臓は発作のようにバクバクと音立てている。
しかし、隣に寝ていられるのは良いとして、寝起き直後にどアップは
さすがの彼女とはいえちょっとキツいものがある。
しかも何故だか眉間にシワを寄せ険しい顔になってるし。
驚いてしまったのは申し訳ないが、如何せん声を掛けづらい。
どうしようかと悩んでいると、彼女は険しい表情をさらに歪めて唸るように声を搾り出した。

「…あ、頭が、い、た…痛い…ですっ!」

そういうと眉毛をへの字に曲げ大きく輝く瞳を潤ませた。
僕は安堵の溜め息をつく。なんて事ない。単なる二日酔いなようだ。
僕は布団から手を出して彼女の頭をさすり「水、持ってこようか?」と尋ねると、
彼女は無言で懇願した。どうやら頷けないほど頭痛が酷いらしい。
僕は小さく伸びをするとベッドから起き上がった。
実家の母さんも調子に乗って飲み過ぎた次の日は大概頭痛に悩まされ
ベッドから出てこれなかった。なので二日酔いの看病には馴れている。
もっとも二日酔いは病気でも何でもなくただの惰性だが。
確か冷蔵庫にグレープフルーツジュースがあったはずだと思いながら
僕はベッドの彼女へ振り向いた。

「あのさ、昨日の事だけど僕後半なぜか記憶がないんだよね。
 僕が何したか、君覚えている?」

寝起きに抱いた疑問、昨日同席していた彼女なら知ってるかもしれない。
僕の記憶が続いているうちでは、彼女は泣き上戸になっていたので覚えてないかもしれない、
それならそれで構わないと希望的観測を込めて尋ねてみた。
するとそれまで小さくうなり声を上げていた彼女は急に静かになり、僕をジッと見つめ答えた。

「…私の口からでは些か憚り(はばかり)があります。」

そう言うと彼女は布団を頭から被ってしまった。
どういう事だ?憚りがあるって何だ?
いつもなら言わなくても良いことまで事細かに説明するくせに、珍しくも彼女が答えを濁した。
その態度で僕の疑惑が徐々に不安へと変わっていく。
彼女が答えられないほどとんでもない事をしたというのか?
僕はもう一度必死に昨日の欠落した記憶を甦えさせようとしたが何も思い出せなかった。
切り取られた昨夜の時間が僕の不安な気持ちを悪戯に煽る。


頭を抱えたまま寝室を抜けリビングに行く。
テーブルの上には僕の財布、携帯電話、鍵、鞄などが乱雑に置かれていた。
僕はしばらくそれらを見つめた後、携帯電話に手を伸ばす。
あの場にいたのは何も彼女だけではない。
最も貴重な情報源の口が開かないというならば、もう一人の目撃者に聞くまでだ。
彼女ではばかられるならば野原さんから教えてもらうしかない。
それにたぶん今日は研究を中止しなくてはいけなさそうだ。
リーダーがあの調子ではチームも機能しない。
何度目かのコールの後に少し眠たげな声が受話器から聞こえてきた。

「ふぁ~い、イチゴでしゅ~。誠一くんおはよぉ~。」

「おはよう野原さん。調子はどう?」

「うぅ~ん、ちょっと眠いかもぉ~♪」

気怠そうだがいつもの明るい感じが声質で伝わってくる。
さすがに以前からワインなどを嗜んでいたという事だけあって、
次の日に残らない飲み方を心得ているらしい。僕はホッと胸を撫で下ろした。

「それで用件なんだけど、素子さんが二日酔いでダウンしちゃってるんで
 今日はお休みという事でいい?」

「アッハハハ~♪やっぱり素子ちゃんダウンしちゃったのぉ~。
 うん、了解だよぉ~♪イチゴも今日はお眠したいのぉ~。」

「だよね。野原さんもだいぶ盛り上がっていたから。」

「そうなのぉ~♪イチゴ、昨日はすんごぉく楽しかったわぁ♪」

「ところでさ昨日、僕何かした?全然記憶ないんだけど。」

「………。」

口を噤まれてしまった。
出来るだけ自然な流れで聞き出そうとしたんだけど無駄だったようだ。
何もしていないのに額から冷や汗が出てくる。
僕は今、自分自身が怖くてたまらなかった。
昨晩僕は、あの実直な彼女も天真爛漫な野原さんも
閉口してしまうような事をやらかしてしまったらしい。

「あ、あの!僕本当に記憶がさっぱりないんだ!
 前半の事は覚えてるんだけど最後の方は全然覚えてないんだよ!
 お願い!何があったのか教えて!素子さんも教えてくれないんだよ!」

見えない何かに怯えるように僕は受話器にすがりついて懇願した。
一度黙秘した彼女は貝のように固く口を閉ざしてしまうので、
頼りになるのは野原さんしかいない。
僕の切羽詰まった様子が伝わったのか、野原さんはおずおずと声を洩らした。

「あの…えっと…。昨日のはね、誠一くんだけが悪いわけじゃないんだよ。
 ただね…。
 …ワンワンニャンニャンだけは本当に勘弁して下さい。」

その後野原さんは口早にお暇を告げると電話を切ってしまった。
僕は落胆のあまりしばらく電話を耳に当てたまま茫然と立ち尽くした。
ワンワンだのという意味不明な単語よりも何よりも、
野原さんから敬語を使われた方にショックが大きかった。
いつでも誰にでも屈託無く接する野原さんとの間に深い溝が出来てしまったのを感じた。

僕は携帯をテーブルの上に置くと頭を抱えて塞ぎ込む。
誰も昨日の僕について語ろうとしてくれない。
初めは不気味に感じていたが、今では自己嫌悪に陥り消えて無くなってしまいたい気分だ。
明日になったらみんなちゃんと僕に接してくれるだろうか?
目を見て話してくれるだろうか?
無視されたりしないだろうか?
そればかり考えると不安で胸がいっぱいになり、僕は頭を抱えたまま床をもんどり打った。
するとテーブルの上に置いた携帯から着信音がなる。
僕は一瞬たじろいだが、何かにすがるように携帯を引ったくりボタンを連打した。
着信したのはメールだった。
桑原さんからの。
僕の心臓がギュッと収縮する。
そして次にだくだくと血液が激流した。

更新日11月29日


自分の体が不自然な程に震えている。携帯を握った手にはじっとりと汗が滲んでいた。
昨日あの場にいた僕以外の三人。うち二人の女子には既に確認を取った。
なので残るは桑原さんのみだけど、どうしても躊躇せずにはいられない。
昨晩の件でもしも僕が乱心していたとしたら、間違いなくその矛先は桑原さんに向いたはずだ。
そうなってしまう心当たりが多すぎるし、
それにぼんやりとだが桑原さんに何かした、という事だけは覚えている。
本当に些細な感触を体が教えてくれている程度だが。
正直なところ、このメールを開くのが恐い。
蛇のように粘着質な性格の副会長はいくら酒の席だったからと言って
粗相を見逃すようには思えない。無礼講という言葉が最も似合わない人だ。
このメールに昨日の失態に対する叱責がネチネチと書き込まれているかも知れない。
いや、それだけならまだマシな方だ。
もしも桑原さんの腹に据えかねない事をやらかしてしまっていたとしたら…。
学会からの解約通知だったらどうしよう。
あの冷徹非道な副会長ならば充分有り得る話だ。
せっかく研究もここまで漕ぎ着けたのに、彼女に申し訳が立たない。
さっき野原さんが口にした「ワンワンニャンニャン」という
意味不明な言葉が恐怖心に拍車を掛ける。
それでもこのまま放置していても何一つ解決しない。
僕は震える指で携帯のボタンを押した。
件名を一文字ずつ食い入るように見つめながら頭の中で言葉を繋いでいく。

「発電所開発会議の、詳細に、ついて…?」

つい声に出して読み上げてしまった。
あまりにも普通の内容に拍子抜けしたが、気を取り直して本文にも目を通していく。
内容としては昨晩桑原さんが僕達に伝えた発電所開発にあたる第一回目の
会議の日にちや場所、会議の内容について記載されていた。
僕は文章を目で追いながら徐々に心の重荷が一つずつ落ちていくのを感じた。
昨晩の事については一切触れておらず、更に文章からはそんな素振りも全く窺えない。
どうやら僕の取り越し苦労だったようだ。
いくら酒席で記憶を無くしたからといって必ずしも誰かに酷い事をしたという訳ではないだろう。
きっと彼女達も飲み過ぎて記憶があやふやだったから口を噤んだだけかも知れないし、
はたまた僕を驚かそうとしているだけなのかも。
最近は彼女もだいぶ人間味が出てきてジョークの一つも言うようになってきたし。

そんな事を考えながらすっかり胸をなで下ろし、気分良くメールを読み流していると、
会議時の諸注意事項の後に「つきまして会議に必要な資料を提示するよう…」
というくだりがあり、改行された後にその資料について詳細が記されていた。
僕はその内容を読んでいくにつれ、顔が強張り背中に冷や汗が滲んでいくのが分かった。
僕はついその資料の内容をもう一度読み返す。
桑原さんが僕に提示せよと要求した資料は、
これまで僕が毎月必死に作成していたレポートの二倍以上に相当する量だった。
今でさえ毎日すればっかりに執心してやっと提出出来ているというのに。
その倍以上となると寝る時間を削って
実験棟に泊まり込みでやらないととてもじゃないが難しい。
いや、不可能だ。
僕は何かの間違いだと思いとにかく読み進めていき、
最後の一文を読んで更なる衝撃を受けた。
そこには「ワンワンニャンニャン」とだけ無造作に記載されてあった。
僕は心底落胆してがっくりと肩を落とした。
その単語がどういう意味なのかは未だにさっぱり分からない。
ただ、その単語で桑原さんがどれだけ本気で怒っているかは察する事が出来た。
そして桑原さんの怒気がこういう仕打ちで僕に返ってきた事を理解した。
僕は携帯を閉じると重い足取りで隣接する研究所へと向かう。
のんびり寝ている暇はない。資料の提出期間は1ヶ月後。
その次の月には第一回目の発電所開発会議が行われる。
僕は失意の中、1日どの程度のペースで資料作成をすればいいか
算段を立てて更に落ち込んだ。
どうやら向こう1ヶ月間の睡眠時間はほとんど無いに等しいらしい。
僕は昨晩の自分と陰険に過ぎる桑原さんを呪いながら、深く溜め息をついた。




↓誠一「えぇと、押してもらった方が良いんだよね?」
にほんブログ村 小説ブログへFC2ブログランキング
スポンサーサイト
07:57  |  「ヨーグルト…。…いいえ、ケフィアです!」  |  CM(17)  |  EDIT   このページの上へ

Comment

これ何て死亡フラグ?
楚良 紗英 | 2008年11月26日(水) 17:07 | URL | コメント編集

●お初です(^3^)ノ

初めまして。Robin62です。
ランキングからのぞきに来ました。
長文&漢字フェチの私としてはウハウハな小説ブログです。足跡がわりに、取り急ぎコメントさせていただきました(^v^)これから最初から読みますね。
各種ランキングもポチッとしておきました★
また遊びに来ますね(^▽^)♪
Robin62 | 2008年11月26日(水) 19:20 | URL | コメント編集

>>楚良 紗英さん
ちゃふ子さんお久しぶり♪
ちょっと復活したようで楽しみにしてますね♪
死亡フラグじゃないよ!死んでないよ!

>>Robin62さん
どうも初めまして♪
そちら様も小説ブログですね><今度遊びに行かせていただきます♪
ぽちありがとうございました!!
要人(かなめびと) | 2008年11月27日(木) 06:48 | URL | コメント編集

何日かぶりに見に来れましたよ><
誠一君の途切れた記憶が気になりますねぇ。 
桑原さん、やっぱりイイですね(笑)
夢 | 2008年11月27日(木) 13:25 | URL | コメント編集

>>夢さん
私も最近は忙しくてなかなかまともにPCが触れない状況でしたよ><
桑原さん、私も大好きです♪
むしろこっちが主役でいいくらい(嘘)
要人(かなめびと) | 2008年11月27日(木) 16:05 | URL | コメント編集

いや~笑っちゃったww
素子ちゃんの口からも言えないほどの…
誠一きゅん、これはヤバいですね~><;
桑原さんと会う時が楽しみですw応援ポチポチ♪
momokazura | 2008年11月27日(木) 19:34 | URL | コメント編集

>>momokazuraさん
私も飲み会の次の日に会社の同僚から同じことを言われた経験があります。
なんかみんな妙に他人行儀でしたっけ・・・。
応援ありがとうございます♪
要人(かなめびと) | 2008年11月28日(金) 06:51 | URL | コメント編集

桑原さんのメール内容、早く知りたいです!!
私は今日は4時半起きでしたよ(眠) 早起きは三文の得と言うけれど、今日1日もつのか不安です…
夢 | 2008年11月28日(金) 08:53 | URL | コメント編集

ヤバい、気になる~><桑原さんからのメール!!!
苺ちゃんからも口を閉ざされたとなると相当ですね~
ワンワンニャンニャンって何よw応援ポチポチ♪

実は十代半ばで急性アル中で命落としかけた過去があり、
あまりエラソーなことは言えません^^;
momokazura | 2008年11月29日(土) 00:10 | URL | コメント編集

>>夢さん
四時半はかなり早起きですね!
それじゃあ昨日の夜はかなりぐっすり眠れたんじゃないですか♪

>>momokazuraさん
急性アル中あぶない!!一命を取り留めたなら良かったです。
私も酒癖は相当悪いのでお酒は本当に程ほどにですね。
応援ありがとうございます♪
要人(かなめびと) | 2008年11月29日(土) 06:34 | URL | コメント編集

桑原氏が携帯でワンワンニャンニャンと打ち込んでいる
ところを想像したらシュールすぎて吹き出しました
ごめんなさい桑原さん
楚良 紗英 | 2008年11月29日(土) 13:43 | URL | コメント編集

ワンワンニャンニャンが何なのか気になります!
早くその先を知りたい!!

昨日は9時前からストーブの前でグッスリうたた寝をしました(汗) 
で、今朝は3時起き…昨日と言い今日と言い、得な事なんてないんですけど(泣)
夢 | 2008年11月29日(土) 17:07 | URL | コメント編集

>>楚良 紗英さん
「送信、っと。」っていう姿を私も想像して笑えてきましたwwwwww
次章からは桑原さんがいっぱい登場します。

>>夢さん
3時で起きるなんて体内時計はどうしたんでしょうね!?
二度寝は出来ないんですか?
要人(かなめびと) | 2008年11月29日(土) 22:40 | URL | コメント編集

さすが陰険な桑原さんですね~
仕返しがねちっこいぞぉ~><;
それにしても「ワンワンニャンニャン」気になるわw
応援ポチポチ♪

お気遣い、ありがとうございます^^
私もいろいろ失敗ありまして、人前で酔わないように
セーブするうちに、いまではほとんど飲まなくなりましたw
momokazura | 2008年11月30日(日) 23:30 | URL | コメント編集

>>momokazuraさん
ワンワンニャンニャン、私も何のことやらよくわかりませんが。
(実は意味がなかったりします!)
ねちっこくてなんぼの桑原さんですから!
応援ありがとうございます!
要人(かなめびと) | 2008年12月01日(月) 06:03 | URL | コメント編集

ムッツリな誠? の事だからいやらしい行為に違いあるまい。許せん!
ワンニャンの破壊力については考慮する必要がありそうです
蒼響黎夜 | 2008年12月01日(月) 13:25 | URL | コメント編集

>>蒼響黎夜さん
確かに誠一はムッツリですね。しかも女性陣が一歩引くようなことと言ったら・・・。
でもね、ここだけの話、ワンニャンって私も分かりませんorz
要人(かなめびと) | 2008年12月02日(火) 08:27 | URL | コメント編集

コメントを投稿する


 管理者だけに表示  (非公開コメント投稿可能)

このページの上へ

 | HOME | 
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。