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2008'11.17 (Mon)

「やっと、ヨーグルトはケフィアになれるのですから…。」 第三章


【More・・・】

「しかし野原さん。かの政治界一の重鎮 野原林檎郎の孫娘が
 こんな庶民的な居酒屋で警護の人間も伴わずに飲んだくれとは。
 そろそろ自分の立場を理解しても良い年頃だと思いますけど?」

「なによぉ~。イチゴらってもう大人なんだからぁ~。桑原しゃんには関係ないれしょ~。」

「とりあえず人払いはしておきました。
 いくら未成年の飲酒について規制が緩くなったといっても、
 マスコミにとっては格好のスクープでしょうから。」

おしぼりを持ってきた店長に「熱燗を」と落ち着いた声で注文する桑原さん。
その固定された微笑みは仮面のように崩れる事を知らない。
だがこの人の瞳だけは全く笑いを含んでおらず、冷たく鈍い光を放っている。

「と、ところで何で桑原さんは僕達がここで飲んでいるって分かったんですか?」

視線を反らしながら恐る恐る聞いてみる。
さっきの会話は絶対に本人から聞かれたはずだ。
迂闊すぎるほど調子付いていた自分を諫めずにはいられない。

「イチゴが連絡したにょ~♪
 桑原しゃんも一緒に飲みたいかなぁ~って気を回してみましたぁ~♪」

そう言って両手を頭上に上げヒラヒラと振る野原さん。
そんな無邪気な姿に「何で教えてくれないんだよ!」と心の中で悪態をついた。
桑原さんは野原さんの隣に座ったので自然と僕達の正面になる。
目の前にいる僕達を順番に舐めるように渇いた底深い瞳で眺めた。

「ところで原さん。その手帳に何を書き留めているのですか?」

桑原さんの視線が彼女の手元で止まる。
彼女はだいぶ目尻が下がりきってきた両目でしばらく桑原さんを凝視した後、
ボソボソと実験の主旨を説明した。

「後日改めて正式に論文として学会へ提出したいと思います。」

最後にそう締めて手元にある琥珀色の液体が入ったグラスを一気に飲み干す。
桑原さんはその様子をしげしげと眺めた後に大きく頷いた。

「なるほど。提出するしないは自由ですが、
 その瞬間に私はあなた方を実験棟から叩き出し全ての権利を剥奪しなければなりません。
 それでも宜しければ、どうぞご随に。」

要約すると、そんな下らない事をしてる暇があるなら研究を進めろ、
学会はお前達と手を切る事は厭わないと言っているのだ。
よっぽど本気だったのか、彼女は「では遠慮致します。」と言い肩を落としてうなだれた。
そういえば以前、彼女はオシャレについて独自にまとめた膨大な量の論文を
桑原さんに提出している。
その時も全く取り合ってもらえなかったらしいが、どうやら彼女は何でもかんでも
論文にしないと気が済まない性分らしい。
彼女にしてみたらこの世の中に溢れる全ての現象が研究の対象に見えて仕方ないのだろう。

そんな事を思っているとお盆に銚子と猪口を乗せた店長が席に来た。
その表情には疲労と怯えの色が濃く表れている。
ただでさえどんな不可解な注文をされるか
警戒していながら車輪の勢いで飲み物を運んできて、
さぞかしクタクタに疲れているところに今度は無駄に威厳高い中年が加わり人払いを命じる。
たぶんそれなりの金額を積まれたのだろうが、決して店側にしたら嬉しい客ではない。
面倒くさい学生の集いが一気に謎の集団になってしまった。
店長は注文の品をテーブルに置くとそそくさと去っていってしまった。
心の中で店長に同情とお悔やみの言葉を並べていると、
人差し指と親指だけで猪口を持った桑原さんが
全く愉快そうに見えない微笑みで僕を直視していた。
僕は桑原さんの意図するところが全く分からず首を傾げると、呆れたように溜め息をつかれた。

「学生といえども一端に酒を飲める歳になればそれなりの礼儀を覚えていて然るべきでしょう。
 まったく恥ずかしい話です。あなたは目上の人間に手酌をさせるつもりですか?」

桑原さんの目が一瞬鋭い光を放つ。
背中から冷や汗が噴き出すほど底冷えする光は確実に僕に向けられている。
どうやらさっきの発言が本気で癪に触ったらしい。
普段桑原さんとの会話のやり取りで彼の皮肉った言い方にカチンときて
その場で言い返す事はあるが、あれは桑原さんが
僕をからかうためワザとやってるのを分かっていた。
だから僕も少しくらいは過ぎた口を利いてもいいだろうという気持ちで応対している。
しかし、今回は違う。
桑原さんは完全に怒っている。


「ごめんなしゃ~い、桑原しゃん♪ではではイチゴがお注ぎしますねぇ~♪」

「いえいえここは私が一献。」

だいぶ酔っているはずの女性陣二人も
一瞬にして変わった空気に正気を取り戻したのか、気を回す。
しかし桑原さんはそれを空いている手で制すると、猪口を僕の方にずいっと向け
「良い社会勉強です。注ぎなさい。」と言った。
僕はしどろもどろになりながら震える手で銚子を掴むと、
静かに桑原さんが持つ猪口に熱燗を注いだ。
チョロチョロと細く流れる酒を見ながら、
僕は敗北感と同時に桑原さんに対する服従を味わった。
きっとこれがこの人なりの仕返しなのだろう。
なんとも嫌みたらしい方法だが、
別の見方をすればこの程度で済んで助かったのかもしれない。
軽く意見を述べただけで逆鱗に触れ潰された団体もあると聞く。
僕が悔しい思いをしただけで済むのなら安いものだろう。
隣にいる彼女を守ろうと誓ったのに、足を引っ張るような事になっては申し訳が立たない。

桑原さんは僕が注いだ酒を一口で飲み干すと
微笑みを浮かべたまま「不味い。」と難癖をつけた。
そしてその猪口をテーブルに置くと腕組みをして僕に再び視線を戻す。

「それで、私に何をガツンと言ってくれるんでしたか?」

「はい!すみませんでした!僕が調子にのってたんです!
 以後慎みますのでご勘弁下さい!!」

すかさず両手をテーブルにつき平に謝る。
相手に屈辱を味わせてなおも追撃を止めない
この人の蛇のような執着深さにはとても適わない。
本当に勘弁して欲しい。
だがそんな副会長の渇いた瞳は今や意地悪く微笑みを浮かべている。
どうやら腹の虫は収まったようで僕は少しホッとした。

僕の必死な様子を野原さんがひとしきり笑ってくれたおかげで、
凝り固まった場の空気はすっかり氷解し、もとの和やかな酒席に戻った。
桑原さんの手元の猪口が空になったのに気付き、
僕は前の教訓にならってお酌をしようと銚子に手を伸ばすと、
桑原さんは僕に手のひらを突き出した。

「男に酌をされても酒が苦くなるだけですので結構。やはり女性から注がれた方が美味い。」

相変わらず人をおちょくるのには長けている副会長にムッとする僕の手から
彼女が銚子を取ると桑原さんに差し向ける。

「生物学上では私も女性の部類に入ります。宜しければ一献。」

桑原さんはそれを無言で受け取る。
そしてそれを口に運ぶとさっきと同じように「不味い。」と口汚く罵ったが、
今度は追想も付け加えた。

「まったく、こういう店の酒はどうも不味くて適わない。
 どうせ添加物がたっぷり混じった安酒でも使用しているんでしょう。」

女性にお酌をされて不満で返した事にはばかりがあったのだろうか。
散々皮肉っておきながらフォローもしないこの人にしては珍しい言葉だった。
もしかして桑原さん、彼女に対しては遠慮をしているのだろうか?

「さて、見たところまだ正気は残っているようですので少々大切な話をお伝えしておきましょう。」

仮面のような笑顔を浮かべたまま桑原さんは真っ直ぐ彼女を見つめる。
彼女もその言葉に反応すると、だいぶ下がっていた目尻をキッと引き締めた。
そして桑原さんは「後日正式に書面でお知らせしますが」と前置きしてから口を開いた。

「来月中に環境庁の主な関係者と発電所に関する第一回目の会議を開催します。
 それを皮切りに定期的な会合を開きながら、
 同時進行で発電所の建設も進めていく予定です。」

そこで一度言葉を区切ると、桑原さんは熱燗を手酌で注いでグイッと飲み干し、話を続けた。

「発電所第一号の完成予定目標は四年後。
 あくまで第一号の予定は四年先と定めていますが、環境庁と我々学会は
 間を空けず三号、四号と発電所を開設していくつもりで計画を進めていきます。」

桑原さんの最後の言葉を待たずに酒席は歓声に包まれた。
僕と野原さんは声を上げ手を叩き喜びを表し、彼女は瞳を閉じ静かに歓喜を噛み締めていた。

「ついに!ついに!!『ケフィア』が発電所になるんですね!!
 すごいよ!これはすごい!僕信じらんないよ!!」

「発電所が一個だけじゃなくて三個も四個も建っちゃうのぉ!
 『ケフィア』大活躍だねぇ!イチゴ研究もっと頑張るのぉ!!」

「…感無量です。」

桑原さんの「まだ暫定的な話なので感情だけ先走らぬように」という忠告も全く耳に入らない。
これが喜ばずにいられるだろうか?
来る日も来る日も学会から押し付けられるレポートに追われ、
提出する度にダメ出しをされ日を重ねる毎に増してくるレポートの量と密度に磨耗しながらも
頑張った日々がやっと報われるのだ。彼女達だってそうだ。
自分達が本当は取り組みたい研究は後回しにして
学会から要求された実験に従事してきたのだ。
ただ研究室で喋っていたわけではない。
それでも僕達は発電所開設を信じて学生らしい遊びもせずに耐え忍んできた。
桑原さんの言葉がどれだけ僕達に達成感をもたらしたことか本人はわからないだろう。

「そしてその会議にはもちろん私も出席しますが、原さん。あなたにも出席をして頂きます。」

彼女が名字で呼ばれる事は珍しいので僕は一瞬誰か分からなかったが、
隣の彼女が小さく「はい。」と応じたのと同時に思い出した。

「あの、桑原さん。その会議に出席出来るのは彼女だけですか?」

おずおずと尋ねる僕にその場にいた全員の視線が集中する。
特に野原さん以外の二人の眼差しは常人より威圧感がこもっているので痛い。

「その、出来れば僕もその会議に参加したいんですけど、駄目ですかね?」

「あなたの気持ちがわからない訳ではないんですがね…。
 確かにあなたは当学会の契約者である原さんの協力者でありその功績は私も認識してます。
 しかしそれはあくまで表面上に出ることのない中だけの話であり、こう言っては何ですが
 誠一さん、今回の会議ではあなたは部外者なのですよ。」

口調は淡々としているが眉間に浮かんだ皺は困惑を表していた。
この冷徹な副会長にしては珍しい態度だ。僕もその事は重々承知している。
僕がこれだけ努力しているのは全て彼女のためであり、
それが全て彼女の評価になることも厭わない。
自分でもそんなに自己顕示欲が強い方だとは思わないし。

「でも、でもですね。僕は『ケフィア』の行く末をしっかり自分の手の届く範囲で
 見守っていきたいんです。携われる事には全て携わっていたいんです。
 じゃないと兵器として使われた『ケフィア』で命を失った人達へ申し訳が立たないですし、
 無責任な気がしてならないんです!」

過去に戻る事は出来ないし過ちを取り返す事も出来ない。
ただ過去は後悔という遺産を残しただけだ。
だから新たな後悔を産み出さないために、今自分がやれる事があるなら精一杯やりたい。
僕は両手をテーブルにつき頭を下げた。

「桑原さん!お願いします!」

自分でも何でこんなに熱くなっているのか分からない。
この人相手に懇願する事がどれほど意味を為さないかも良く知っている。
それでも僕の心の中にある何かが突き動かした。
黙って僕を見つめていた桑原さんは腕組みを解くと熱燗を一口飲み吐息を漏らした。

「わかりました。会議の席を一つ空けておきましょう。
 ただし、余計な事をしたり不必要な発言があった場合は
 即刻退去してもらいますのでそのつもりで。」

「あ、ありがとうございます!」

僕はもう一度深く頭を下げた。嬉しくて何度も小さくガッツポーズをする。

「いいなぁ~♪いいなぁ~♪誠一くぅん♪桑原しゃ~ん♪イチゴも一緒に行きたいよぉ~♪」

「あなたこそ一番部外者でしょうが。それに学会の品位を落としかねませんので勘弁を。」

甘えた声でおねだりする野原さんをばっさりと切り捨てた。
流石は副会長。「ムキー!!」と金切り声を上げて発憤する野原さんを歯牙にもかけず
平静な顔で酒が入った猪口を傾けた。
そんな様子がまるで本当の親子のようで可笑しくもあり、どこか微笑ましくもあった。
僕は安堵の溜め息をつきながらテーブルにおいた手を下におろした時、
何か柔らかいものが触れた。
おや、と思っていると温かみを帯びた柔らかいソレは
僕の掌にするりと滑り込み程良く絡みつく。
この心をくすぐるような良く知った感触は彼女の手だ。
僕は確認のため隣に視線を移す。
テーブルの下に隠された甘い密会にではなく、少しはにかんだ無表情を拝見するために。
案の定彼女は少し俯き、だいぶ酔いが回ってトロンとした瞳を輝かせている。
そんな仕草がたまらなくカワイくて、愛おしくて…。
僕は誰にも聴こえない小さな溜め息を吐くと彼女の手を強く握り返した。
基本、僕達は言葉を交わすことが少なく2人っきりでも無言のままでいることが多い。
何故なら言葉を交わす必要がないからだ。
今のように彼女の手から伝わる温もりや
無表情だけど僕だけが分かる感情の起伏で充分だから。

それから僕は桑原さんからレポートのダメ出しをネチネチと言われ続け、
女性陣はペースを落とすことなくグラスを空にし続けた。
気付けば時計の針は22時を回っていた。
当初、目上の人にお酌をしないとは何事かと憤っていたはずの桑原さんは、
猪口が空になる度に進んでお酌をしていた僕達に
「やはり他人に注がれた酒ほど不味いものはない」と言い捨てると、
それ以降は手酌で飲み始めた。
つくづくその他人を小馬鹿にした言動が癪に触る人である。
彼女達は彼女達で相当な量を飲んだようでホロ酔いなどはとうに通り越して
今では殆ど泥酔一歩手前という域まで達してる。
新しい飲み物がくる毎に手帳へこまめに
飲んだ量、アルコール度数、体調の変化を書き込んでいた彼女だが
ついにメチルアルコールの魔の手は手元まできてしまったのか、
正常に文字を記入出来ないほど意識障害に陥り泣く泣く手帳を閉じた。
だが何故かテーブルの上に並べられたグラスに伸びる手は止まる事を知らない。
野原さんも野原さんでこれまで空にしたグラスの数に比例するように
テンションが上がり続け、僕が生きてきた中でこんな人は見たことがないと思わせるほど
ハイテンションな生き物になっていた。
支離滅裂な言葉で叫ぶは歌うは…。
只でさえ声が大きい野原さんの声が今は頭の中までギンギン響くほどうるさい。
新しい飲み物を持ってきた店長へ騒々しくしている事の詫びを述べると
「他にお客様がいませんので別に…」と曖昧な笑顔で返された。
そういえば人払いをしたと桑原さんが言っていたっけ。
つまり今この店内には僕等しかいない事になる。
それが幸か不幸かはさておきこの酒席は現在混沌の坩堝と化し、
シラフでいる僕はどうもこの人達のペースに着いていけず肩身の狭い思いに苛まれていた。
もういい加減家に帰りたいと溜め息をついていたそんな時、
四本目の銚子に手を着けた桑原さんが口を開いた。

「誠一さんは将来の進路をもう決めていますか?」

今まで僕が毎月提出するレポートの内容で取られる揚げ足を
隈無く取りながらそれを酒の肴にしていた桑原さん。
そんな彼がいきなり僕の進路を伺ってきたので素直に驚いた。
呆気に取られて即答出来ない僕を見下した後、
順番に女性陣を眺めながら桑原さんは声を掛けた。

「野原さんは大学を卒業したらどうするつもりですか?」

「ふぇ~。イチゴちゃんれすかぁ~。イチゴちゃんはれすねぇ~、
 パパしゃんの研究チームにぃ入ってぇ~、世界一のエンジンを開発しゅるんだよぉ~♪
 キャハハッ!!イチゴちゃんはねぇ、えんじにあですからぁ~♪
 てか、世界一ってなんですかぁ~!」

面白おかしくけたまう野原さんをよそに今度は彼女に尋ねる。

「原さんは?」

「…『ケフィア』です。」

非常に簡素な会話だが彼女相手ではそれで充分だ。
というか彼女はそれ以外答えようがないだろう。
『ケフィア』の研究は彼女のライフワークと言っても過言ではない。
『ケフィア』という一言に彼女の思いや覚悟といったものが全て凝縮されている。
当研究チームのブレインである二人の回答を聞いて満足げに頷き、
桑原さんは僕に視線を戻した。

「で、あなたはどうするのですか?大学を卒業した後は普通に民間の企業へ就職するのか、
 または院へ進むか、官僚を目指すという事もあなたならば可能かも知れませんね?」

その場にいる全員の視線が集中し、耐えきれなくなった僕は隠れるように俯いた。
何故ならばその話題は僕がもっとも避けていた事だからである。
高校の時はただ純粋に彼女の側で研究を続けたいという一心であの大学を志望した。
それは彼女も望んだ事だったし、進学自体には何の支障も無かった。
ただ、進学してしまった今となっては話が違ってくる
。四年間という大学生活が終わってしまえば僕は否応無しに社会に投げ出されてしまう。
その礎を築かなければいけない学生時代は研究に忙殺される予定になっている。
桑原さんが言いたいのはそういう事だ。

「なに言ってるんでしゅかぁ~桑原しゃ~ん。誠一きゅんは素子ちゃんと一緒にぃ~
 研究を続けるに決まってるじゃないてしゅかぁ~♪そんなこともわからないでぇ~
 ふくかいちょーでしゅかぁ~?キャハハハハー!!オバカァ~!!」

「馬鹿はあなたです。
 それでも別に良いでしょう。ですがそれでは誠一さんは一生原さんの
 助手という事になりますよね。奥様から食い扶持を与えられる生活を良しとするならば
 私は反対しませんが?誠一さんはそれで良いんですか?」

僕は俯いたまま首を横に振る。
さっき桑原さんが僕に卒業後の進路を聞いた時に「研究を続けるのか」という
選択肢を出さなかったのはそういう事だからだ。
意地という訳ではないけど、僕にだって張りたい見栄はある。

「つまりあなたは私の稼ぎでは生活出来ないと言いたいのですね?」

呟くような声が聞こえた気がしたので横をむくと、
ひどく落ち込んだ様子で彼女が口を尖らせていた。
始めて見る表情に呆気にとられていると、彼女は眼鏡を外し「くっ!」と小さく唸ると
目頭を押さえて泣き出した。
急な展開に慌てふためていると彼女は泣き声を押し殺しながら吐き出すように語り始めた。

「だから、あなたは、私が以前言ったプロポーズを、断ったんですね、えぐっ。
 財力の無い女とは、一緒なれないですか、ひぐっ。そうですか、ぐすっ。
 そうなんですね、ふぐっ。」

さめざめと涙を零す彼女を目の当たりにして僕はただ動揺するばかりだった。
そもそも彼女の泣き顔を見たのは過去に二度しかない。
それもあの時はどちらもかなり緊迫した場面だったので決して良い思い出ではないが、
まさか今この場面で泣かれるとは。彼女にとっては余程デリケートな話題だったようだ。
あの鉄壁のガードを誇る彼女の涙腺を崩壊させる威力があったとは思いもしなかった。
自分の軽はずみさを反省しながらどうやってなだめようか困惑していると、
顔面におしぼりが投げつけられた。反射的に正面へ目を向けると、
般若の形相で怒りを露わにした野原さんが僕を睨み付けていた。

「素子ちゃんを泣かせたらダメなんらからぁ!!なに泣かせてりゅのよぉー!!
 あやまれぇ!あらまれぇ!あられめぇ!あまやれぇ!!」

酔っ払いながらも友人思いに過ぎる野原さんは喚き叫びながら
箸やらおしぼりやら手当たり次第に投げつけてくる。
幸いに多少は理性が残っているのか、食器やグラスは投げてこなくて助かったが、
とにかく力任せにぶん投げてくるので両手で防ぐのが精一杯だ。
だがそんな僕達のやり取りに一切関与せず、冷ややかな目で眺めていた桑原さんは
ゆっくり猪口を口に運ぶ。

「単なる泣き上戸なだけでしょうが。
 原さんの父親、八頭君も酒を飲む度に泣きじゃくってましたけどね。
 酔い方は父親から遺伝しましたか。」

更新日11月22日

もう手元に投げるものがなくなり悔しそうな表情を浮かべ拳を握り締めた野原さん。
鼻息を荒くして僕を睨み付けているが、今の桑原さんのセリフをちゃんと聞いて欲しい。

「これが、泣き上戸なんですか?」

隣でポロポロと涙を零している彼女を指差しながら尋ねた。

「そうです。酔いが一定を越すと何やら悲しくなり急に泣き始めるらしいです。
 原さんの父親の八頭君はこの酒癖が嫌だったので人前で酒を飲むのを自ら禁じていました。
 だから昔は八頭君が気に入らない時には無理矢理お酒を飲ませて泣かせてましたねぇ。
 私にとっては実に良いストレス解消でしたよ。」

遠くを見つめ若かりし日を懐かしむ桑原さん。なんて最低な大人だ。
予想以上の性悪さに呆れていると、桑原さんは遠くへ向けた視線を僕に戻す。

「さてだいぶ話が反れてしまいましたが。前々から聞いておきたかったのですが、
 誠一さんは自分で研究してみたい事はないのですか?」

微笑みで出来た鉄仮面が僕に尋ねる。
その質問に僕だけではなく泣きじゃくっていた彼女も荒ぶっていた野原さんも首を傾げた。

「つまりあなたが主体となって研究してみたいテーマは無いかと聞いているのです。
 原さんに付いて様々な実験を手伝ったり、大学の講義などで興味を持ったり
 取り組んでみたいと思った研究はないんですか?
 あまり人を誉めるのは好きじゃないのですが、
 原さんを含めたあなた方が取り組んでいるのは
 科学界の中でもかなり高度な水準の研究ですよ。
 なんせこの私が直接担当をしているくらいですからね。」

「イチゴもねぇ、時々思っていたのよぉ~。
 誠一きゅんってばぁ頭良いのにデータ整理ばっかりしてるのぉ~。
 自分でもなんかやってみたら面白そうなのにぃ~♪もったいにゃいのよぉ~♪」

「確かにあなたは理解力や洞察力の鋭さなど目を見張る点が多々あります。
 それを生かして独自に研究へ着手してみるべきかもしれません。」

正直考えてもみなかった。
僕にとって研究は彼女との繋がりの一つであり、
食事を作ってあげたり洗濯をしてあげたりという彼女をサポートする仕事でしかなかった。
科学者である彼女を尊敬していたし憧れてはいたが、
自分が科学者になるなんて想像すらした事がない。
だが、今みんなの話を聞いてうっすらと一本の道が見えた気がする。
…僕が科学者になる。心臓の鼓動が小さく高鳴るのを感じた。

「原さんの助手としてではなく、あなた自らが学会と契約をするという可能性もあるわけです。
 当学会は論文さえ発表してもらえればどんな素姓の人物であろうと契約を結びます。
 まぁ、ご存知のように簡単に出来る事ではありませんが。」

挑戦的な眼差しを僕に向け桑原さんは小さくほくそ笑み
「普通に就職した方が無難ですけどね。」と付け加えた。
確かにそうかもしれない。
今はレポートのまとめでそんな事を考えている暇も無さそうだし、
何より今の今に初めて提案されて何かを思い付くほど
出来のいい素晴らしい頭脳を持ち合わせていない。
だけど…

「今は何とも言えませんが、えぇと、ちょっと考えてみます。」

胸の奥に灯った小さな炎は、弱々しくだが確かに燃え始めた。


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06:23  |  「ヨーグルト…。…いいえ、ケフィアです!」  |  CM(13)  |  EDIT   このページの上へ

Comment

桑原さん、いつもながらですね~!
それにしても、誠一君の後ろに桑原さんが現れた時の様子を想像すると笑っちゃいますね~。 久々の桑原さん登場、楽しいですね~。

ホームページは相変わらず進まず…今は先に年賀ハガキを作ろうとチャレンジお休み中です(汗)
夢 | 2008年11月18日(火) 11:14 | URL | コメント編集

誠一氏ね(弾幕風に
誠実な男性のイメージが(ry
ともかく素子の口調には少なからずも良い衝撃でした!
蒼響黎夜 | 2008年11月18日(火) 13:06 | URL | コメント編集

これは怖いwwwww
情景が鮮明に浮かびましたw
でも桑原さんは好きなタイプのキャラクターなので
登場は嬉しかったです。
いいですね。
ちょっと一息入れるエピソードが効果的だと思います。
ここからちょっとお堅い話になるんですね。

…覚悟して読みますwww
雲男 | 2008年11月19日(水) 02:43 | URL | コメント編集

>>夢さん
ホームページ大変そうですね。htmlとか理解しないといけないらしいですからね。
てか、もう年賀状の季節になりましたか!一年はあっという間です><

>>蒼響黎夜さん
「一」を取ると誠氏ねwww
いくら誠実な男性でも一つ屋根の下に彼女と同棲すればやることやっちゃうってことですよ。
それが自然界の法則です。

>>雲男さん
要所要所にちゃんとした話を入れていかないと話がぼやけちゃって><
でも前半はどうしてもゆるゆる進行になりそうです。
要人(かなめびと) | 2008年11月19日(水) 06:35 | URL | コメント編集

うふふw桑原さんの仕返しの仕方が洒落ててゾクッときました^^
力関係がたまりません、誠一くんがワンコに見えてきたw
そしてやっとケフィアが形になる日が…
兵器に使われた過去を思えば…感無量です。応援ポチ♪
momokazura | 2008年11月19日(水) 18:06 | URL | コメント編集

>>momokazuraさん
借りは百倍にして返さないと気がすまない桑原さんですから♪
ついにケフィアも世界平和のために使われる日が来るようです。
応援ありがとうございます♪
要人(かなめびと) | 2008年11月20日(木) 05:51 | URL | コメント編集

素子ちゃんは泣き上戸なんですか~! 要人さんは酒乱!? 私はある程度飲むと頭が痛くなるので暴れるまでは飲みません。
それにしても、誠一君の進路は私も気になる所ですね。
夢 | 2008年11月21日(金) 11:55 | URL | コメント編集

苺ちゃんのムキー!!に君はのだめか?と一人ツッコミorz
誠一くんにこっそり甘えてる素子ちゃんも可愛いですw
たまにはお酒もいいもんですね…泣き上戸の素子ちゃんも可愛いな♪
でも一番たまげたのは素子ちゃんのパパさんの泣き上戸!

誠一くんの進路の話題で一瞬、桑原さんの下で働く
かわいそうな誠一くんの姿を想像しちゃいました^^;応援ポチ♪
momokazura | 2008年11月21日(金) 21:37 | URL | コメント編集

>>夢さん
私、酒乱なんで外では絶対にお酒を飲まないんですよwwww
これまで迷惑をかけたことは星の数ほどwwwww

>>momokazuraさん
私も思いました、それwwwのだめwww
素子の酒癖は当初の予定では
「飲みすぎると波動方程式やプランク定数の計算を永遠やり出す」
にしてたんですけど、面倒だったので泣き上戸にしました♪
応援ありがとうございます♪
要人(かなめびと) | 2008年11月21日(金) 22:23 | URL | コメント編集

文章の最後にランキングボタンがついたんですね。^^
いつも横と下を押してから読んでたけど、並んでるので押しやすくなりますね。

私は飲むと楽しくなって、そのまま寝るタイプです。
それはいいんだけど、一度道で寝たことが・・(><)
みい | 2008年11月22日(土) 07:39 | URL | コメント編集

泣き上戸っすかwツボりました
最後の『押してみるのも~』に吹いたので手段を試させて頂きましたよ
蒼響黎夜 | 2008年11月23日(日) 11:49 | URL | コメント編集

桑原さんは好きな人をイジるのがお好きなんでしょうね^^
だんだんこの人のことが好きになってきました。
素子ちゃんパパの場合もストレス解消とか言いつつ懐かしそうですしw
ランキングボタン設置したんですねw応援ポチポチ♪
momokazura | 2008年11月23日(日) 20:15 | URL | コメント編集

>>みいさん
流石に道路で寝たことはないですねwwww
記憶を無くしてもどうにかこうにか家には着くみたいでした。
タクシーに乗ると呪文のように住所を呟くそうです><

>>蒼響黎夜さん
試してみましたか!で、どうでした?

>>momokazuraさん
私も桑原さん大好きですよ♪
でもなんだか桑原さんがメインになりつつあります。
これはいけませんね!
応援ありがとうございます♪
要人(かなめびと) | 2008年11月23日(日) 23:15 | URL | コメント編集

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