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2008'08.25 (Mon)

「ヨーグルト…ケフィア…。最早どうでもいいのです。」 第五章


【More・・・】

桜の花びらが舞い落ちる速度は秒速5センチメートルと何かの文献で読んだことがある。
一方、光の速度は秒速30万キロメートル。
つまり私の50センチ手前で落ちる花びらと私の間で一秒間に行われている世界を紐解くと、
花びらが5cmという距離を位置エネルギーに変換する間に
反射した光が秒速30万kmで50cm離れた私の網膜へと視覚認識する。

実にシンプルな計算だ。
僅か一秒間という凝縮された世界だが実際に体感出来るのは
せいぜい花びらが舞い落ちる様を観測する程度である。
しかし私が知覚出来ないマクロ若しくはミクロの世界では絶えずあらゆるものが
物理法則に則り変動し続けている。物質もエネルギーも時間も。
もともと現状維持などこの世には有り得ないのだろう。
私がそこにあると認識したものは次の瞬間には朽ち果て
風化し新たな何かに再構築されていく。
未来と思われていた時間は瞬きをする間に過去に成り下がっていく。
止め処ない巨大な流れが私を次々と新しい何かに変えていく。
思考が抗えない洪水に浚われていく感触すら覚える。
エントロピーの法則を兼ね合いに出せば容易に説明の付く事なのだが、
私はいつもこの感覚が不思議でたまらない。
だが嫌悪感を抱くわけではない。むしろ心地良いほどだ。
本来体感出来ないはずの感覚を知識とイマジネーションにより脳内で具体化していく。
数式だらけで創造された未知の世界を渇望する私が見せた夢幻に浸り、
数多の記号と数字を紡いでいく作業に没頭している瞬間、
私は言葉に出来ない歓喜を得るのだ。

目の前に舞い落ちる桜の花びらに手を伸ばし指先で掴まえようとしたが、
花びらは私の人差し指に触れる直後、身を翻しすり抜けていった。
私は少し残念に思いながらも視点を桜の花びらから車道を挟んだ建築物に移した。
日本の寺社仏閣の鳥居よりも造作が複雑で大きい朱色の門構え。
東京大学の正門を担う通称「赤門」。
その奥には木々に隠れた古めかしい校舎が整然と居を構えている。

「入試の時以来、かな。ここを通るのは。」

隣で私の手を握っていた彼が独り言のように呟いた。
その握っていた手に若干力がこもる。
曇天が続いた凍てつく冬が終わり、ようやく降り注ぐ春の日差しに
彼は眩しそうに微笑んだまま顔をしかめる。
その表情は春の陽気に当てられた新緑のように穏やかだが、
どこか誇らしげで達成感な満ちている。

私は彼から視線を移し、もう一度赤門の奥に佇む校舎を眺めた。
これから四年、私達が共に過ごすであろう学舎だ。

一昨年の年末、彼のお母様との面談や
日本エネルギー開発促進学会副会長 桑原氏との面会と、
刺激的な出来事を済ませた我々は来る大学受験に備え勉強に本腰を入れ始めた。


その間、桑原氏に許可を得て一時的に研究はしばらく活動休止をさせて頂いたので、
私と彼は放課後になると研究所や市立図書館に赴き勉学に励んだ。

といっても、私の方は模擬試験を受けた結果、
端っから合格するには申し分ない成績を修めていたので、
彼の学習に助言や協力をする事が主だった。
なのであながち退屈を強いられていた私に彼はある雑誌の購読を勧めた。
それは女性ファッション雑誌だった。
かねてより私の髪型や服装に指摘、改善を行っていた彼より
オシャレに対して自己啓発を示唆された。
私としてはあまり興味がなく、これまで通りに彼の好みに委ねていたいというのが
本音なのだが、仕方ない。
自分の中の未開拓ゾーンを広げるつもりで私は毎月、雑誌を購読した。
彼が私に提示した目標値は「清純派お嬢様女子大生」というファッションスタイルらしい。
何の事やらさっぱり理解できなかった当初の私は、
取り敢えず数冊の女性ファッション雑誌を購入し情報収集に勤しんだ。

オシャレというのはその時期によって一定期間のみ流行するものもあるらしく、
その都度また新しいトレンドが生み出されるたび私を悩ませた。
おかげで色彩感覚から服飾関連、果ては民族風俗や個人の所感をまとめた
レポート用紙の綴りは本棚一列分にも納まらない程の量になってしまった。
私はせっかくなので要点だけを掻い摘んだ論文を作成し彼に提出をしたが、
何故か呆気に取られた顔をされた。
試しに桑原副会長にも添削をしてもらおうと提出したところ、
題名を読んだだけでつまらなそうに投げ捨てられ、

「良かったですね。発表会の場面だったら契約を破棄しなければいけないところでした。」

と作り笑いを浮かべて言われた。

そんな事もあってか、彼が受験勉強に精を出す間に私は退屈を持て余す事なく、
今にして思えばなかなか有意義な時を過ごさせてもらった。
私は東大赤門から自分の身にまとった服装に目を移す。

シンプルだがさり気なくブランドのロゴが入ったエナメルのヒール。
今ではすっかりヒールにも慣れた。
膝上までのフリルがあしらわれたスカートは今年の流行を取り入れて
大輪の花柄がプリントされている。
スカートが短すぎると些か品に欠けるのでこの程度の丈が丁度良い。
更に空気力学を考慮して最も自然な動きを実現する形状のものを選んだ。
シルク素材のインナーに春をイメージしてパステルカラーのジャケットを羽織る。
伯母様と違って個性が強い色は私には合わない。
胸元に飾られた小さいハート型のネックレスは
昨年の誕生日に彼からプレゼントされた大切な物。
ヘアースタイルも長いことパーマをかけていた髪型から元来のストレートヘアに戻した。
手入れが楽で助かる。
そしてこれまで敬遠してきた眼鏡もこの度、常時着用する事にした。
おかげで視界も実に良好で、
今まで何故あれほど頑なに拒んでいたのか不思議なくらいだ。
薄く化粧も施しネイルとペディキュアも忘れず。

…完璧である。只今の私の姿はまさに一年という歳月をかけた
研究成果の結晶と言っても過言ではない。
溌剌とした女学生のイメージを全面に表現しながら清純さも欠かさないコーディネート。
尚且つ、上品さを欠かさないお嬢様然とした雰囲気もしっかり出せている。
最近では私を直視しても恥じらう素振りを見せなくなった彼も、
今日の私を目の当たりにして久方振りに顔面を紅潮させた。
どうやら課題に対する評価は合格らしい。


私はもう一度、東大赤門に視線を移す。
何はともあれ、これから私達は新しい生活を始める。
そしてこれからは長いこと封印していた『ケフィア』の研究に専念出来る。
今日はその第一歩として先程まで日本武道館で行われた入学式を終えた後、
東大校舎に来るよう桑原氏に言われている。
今はちょうど校舎内で待っている桑原氏に会いに行く途中だ。

車道の車が通り過ぎ信号が青に変わる。
盲人歩行補助音が流れ出すと同時に彼方から此方から歩行者が横断を始める。
私もその波に促され足を前に踏み出したが、何故か隣の彼に手を引かれ立ち止まった。
いや、正確に言うと立ち止まっていた彼の手を私が引っ張ったのだ。
一体何事かと訝しみ彼を見ると先ほどまでの満足げな表情はどこへやら、
神妙な顔つきで視線を足元に落として黙り込んでいた。
私は不思議に思い首を傾げていると、手を引かれている自分に気付いたのか
彼は我に返り「ゴメンゴメン。さ、行こうか。」と慌てて作り笑いをすると歩き出した。
彼のその様子に私はますます首を傾げたが、
彼はそんな私のシグナルを見て見ぬフリした。

先ほどからこの調子である。
愉しげに会話をしていたと思えば、目を離すと厳しい表情で何か考え込んでいる。
今日の彼はおかしい。
それも私の見込み違いでなければ武道館で行われた入学式の時からである。

あの入学式で気になるような出来事はなかった。
大学校長の挨拶や来賓方の祝辞、新入生代表挨拶など一般的な行事を施行しただけである。
もっとも私は本を読んでいたため内容は全く聴いていないが。
今となっては少し後悔をしている。
あの時、入学式での内容を真摯に傍受していれば彼の違和感の理由に気付けたのに。
しかし傍らの彼が深い溜め息をついたのを聴いて私は僅かだが安心した。
彼が溜め息をつく時は後々必ずその理由を自ら語ってくれるからだ。
焦る必要は無さそうだ。気長に待つとしよう。
私は彼の大きな手を握り返しながら颯爽と横断歩道を渡った。


「私はその教授に対して研究室の一部を貸して貰うように伺いを立てただけなのです。
 それなのに何を勘違いしたのか急に憤慨しましてね、参りましたよ。
 如何に東京大学の教授といえども所詮は当学会のコネクションがあってこそ
 大きな顔が出来るということを忘れていたようです。」

仮面のような笑顔を浮かべ「契約者の分際で私に楯突くなんて有り得ない話ですから」と
言いながら我々を順番に眺める桑原氏。
まるで私と彼に言い含めているようであまり良い気分はしない。
会う度に反抗的な態度を示す彼なぞは今の発言で早くも着火したらしく、
小さく舌打ちをして桑原氏を睨み付けた。
しかし、たった今楯突く姿勢を露わにする契約者
(正確には契約者の協力者。学会と契約を交わしているのは私だけ)を
目の前にしているにも関わらず、桑原氏は全く歯牙にもかけない様子で話を続ける。

「仕方がないので大学側に少々圧力をかけてもらいまして、
 その教授には他の地方大学へ左遷して頂きました。
 あと少しで液体流動力学の権威になれたかもしれなかったのに。非常に残念なことです。」

そう言いながらも桑原氏の表情に残念そうな影は一つもない。
いつものように口角を上げ目尻にはカラスの足跡に似た笑い皺を浮かべているが、
その奥に見える瞳には人として正の感情が窺えない。
濁った艶のない二つの球体がこちらを向いているだけである。

東京大学正門で合流した我々は桑原氏の案内により校舎内を奥に進んでいた。
副会長の足取りに渋滞はなく、氏がこの校舎内の構造を熟知しているのが分かる。
入学式終了直後、桑原氏が我々をここへ呼び寄せたのには訳があった。
と言っても先程聴かされたばかりで上手く要領を得てないが、
端的に言えば「我々に研究室を一つ進呈する」ということだった。
初めは呆気に取られ状況が理解出来ない我々に説明をしてくれたのが今の話である。

「と、いうことで丁度良く研究室が丸々一つ空き部屋になりましたので、
 あなた方にお譲りしたいと思います。
 当学会としては有望な契約者にはより良い環境で研究を行える設備の提供が
 責務だと考えておりますので。」

そう言うと桑原氏はある鉄製の扉の前で足を止める。
そしてジャケットの胸ポケットから鍵を取り出すと扉の施錠を外した。
鈍い音を軋ませゆっくりと扉を開けた桑原氏はもう片方の手で
無言のまま私達を中に招き入れる。
私と彼は一度顔を見合わせると、何かを確認するように頷いた。
そして室内に一歩足を踏み入れその光景を見渡した時、私は思わず感嘆の声を漏らしていた。

我が家の研究所よりは確実に倍以上はあるだろう敷地面積に
カタログや科学雑誌でしかお目にかかれないような高価で稀少な実験器具が
所狭しと設置されていた。
私ばかりでなく彼も驚愕の溜め息をつきながら、
室内に置かれた実験器具を物珍しげに見回している。
私達はしばらくの間、ただただ真新しい実験器具と研究室のそこかしこを眺めたりいじくり回して、
新たな研究の場と今後の実験要項のプロセスに思いを馳せていた。


「もしも必要な実験器具などがありましたら気軽に購入して下さい。
 学会の経費で落としますので。」

私はその桑原氏の言葉を聞いて再び驚愕すると共に、
学会の財力とこの副会長が試行出来る絶大な権力を暗に感じ取った。
それは彼も同じだったのか、いつもなら目が合っただけで邪険な態度を露わにするのだが、
今は眼を白黒させながら「あ、ありがとうございます」と頭を下げている。
この研究室を追い出された教授にしても名前までは知らないが
副会長の話を聞くうちではかなり優秀な経歴の持ち主だったに違いない。
学閥や他の科学者の功績にはとんと疎い私だが次期液体流動力学の
権威とまでいわれた人がどれだけ多大な功績を修めたかくらいは分かる。
それを逆鱗に触れたからといってバッサリ切り捨てるとは。
あの一見清楚に映る仮面の下に隠された桑原氏の本質的な部分、
出来ればお目に掛かることなく穏便に過ごしたいものだ。
その点については彼も同意見らしい。
私のように世間ずれしておらず賢明彼は私と目が合うと小さく二三度頷いた。
その表情にはこれまでの自分の行動を反省している様子が窺える。

「ところで、誠一さんは原さん宅へ居候なさるんですよね?引っ越しは済まされましたか?」

桑原氏は近くの壁に立て掛けてあったパイプ椅子を組み立てると、
腰を下ろしながらそう尋ねてきた。
そんな何でもない挙動に慄きながら彼は畏敬の眼差しで桑原氏を見つめ
「はい。先週から同棲をし始めてます。」と答えた。
東京の大学に進学するにあたり、彼は私の家に居候をすることになった。
というのも、都心部からだいぶ離れた土地で暮らす我々は
進学先の東京大学がそんなに近い場所ではなかった。
特に彼の実家からは電車を利用しても片道だけで三時間弱という通学時間を要する
しかし若干都心部に近い私の家からだと僅か一時間半で通えるのだ。
その差は大きい。私達が大学進学の目的はあくまで更なる研究の進展にある。
受験勉強とオシャレ革命で『ケフィア』の研究開発は一年という長い歳月を
一旦休止を余儀無くされた。
それが解禁になった今、そんな大事な時間を通学に費やすのはまさに愚の骨頂。
大学近辺のアパートに住まうという意見もあったが、
私の家だといつでも実験に着手出来るという利便性があるため、同棲という選択に至った。
これに関して一番の難所とされたのは彼のお母様であったが、
意外にもあっさり同棲を許してくれた。

例の面会依頼、私は折を見て彼の実家に赴きお母様と一緒に会食を楽しむ事にした。
それというのもあの面会の時にお母様が仰った
「私にとっては大事な息子」という言葉が胸に突き刺さったからである。
それまで私は彼を研究所に招き夕飯を楽しむ毎日に何も罪悪感は抱かなかった。
むしろそれをいつの間にか当然のように思っていた。
彼も別段、不平を漏らす訳ではなかったし。
というよりは自ら進んで炊事場に立つことに喜びすら感じていたように見受けられた。
しかし、あの時のお母様の言葉で私はこれまで如何に
利己的に彼を拘束していたか、気付かされた。
私のお父様やお母様がそうしてくれたように、彼もお母様に
惜しみない愛情を注がれ育ったのだ。
そんな息子が他の女性に現を抜かし、家で一人残されたお母様の事を思うと
我慢がいかなくて当然だろう。
なので罪滅ぼしという意味ではないが、少しでも彼とお母様が一緒に
いられる時間を提供すると同時に私自身お母様と歓談をしたかった事もあり、そうなった。
彼の手料理を頂きながら三人で談笑を交わしながら
私はいつも亡くなったお父様とお母様と過ごした日々を思い出し、
愉しいながらも切ない気持ちも感じながら…。
なのでまた私の私事のために彼との距離が遠のいてしまう事に大変申し訳なく思いながらも、
我が家に同棲をする事をお母様に説明したところ
あっさり了承わしてくれたので半分安堵しつつも半分驚いた。
お母様曰わく「可愛い息子には旅をさせよ」という教育方針があるらしく
彼が家を出る事は一向に厭わないらしい。
しかしそんなお母様からも一つだけ条件が提示された。
それは

「しかし若い男女が一つ屋根の下ですか。些か下世話な心配かとは思いますが、
 ショットガンマリッジという結末には充分な配慮をして下さい。
 計画性も無しに生じる結果は研究でも家庭でもあまり建築的とは言えませんから。」

パイプ椅子に腰掛けながら腕を組み、穏やかな笑顔を浮かべ桑原氏はそう言った。
まったくお母様といい桑原氏といい、大人というものは皆一様に同じ忠告をするものだ。
怒りなのか恥じらいなのか、顔を真っ赤に染めた彼は「そんな事は絶対にしません!」と
声を張り上げ抗議をする。
まぁ、ショットガンマリッジでこの世に生を受けた私としては何とも言い難い話題ではあるが、
その事を桑原氏は知らないみたいなのでこの際黙っておくとしよう。
わざわざ取られる為の揚げ足を提供する義理は一つもない。

…あと、彼とそういう結末になるという事態もまた悪くはない、と
私が思ってしまった事も胸の内で留めておこうか。


赤面した彼をさも愉快そうに見つめ、桑原氏は邪悪な笑顔を浮かべ
皮肉の一つや二つでも追撃しようとしていた矢先、
ちょうど桑原氏の胸ポケットで携帯電話の着信音が鳴った。
興を削がれた氏はつまらなそうに携帯電話のディスプレイを眺めてから着信に応じる。
運良く桑原氏の攻撃を回避した彼は最初は赤面で上気した顔だったが、
すぐに表情を戻すとまた俯き黙り込んでしまった。
だいぶ深く思い悩んでいる彼の姿に気を揉んだ私はついに我慢ならず声を掛けた。

「先程からどうしたのですか?体調でも優れないのですか?」

私の問い掛けにハッとして顔を上げる彼。
丸い二つの瞳が私を捕らえたが何故かすぐに反らした。

「い、いや。別になんでも。…体調は、いいです。」

一つ一つ言葉を選びながら答える彼。
話しながらも視線は落ち着きなく宙をさまよっている。
そんな居心地が悪そうな態度を示す彼に対して、私はさらに追及を進める。

「いいえ。今日のあなたは普段らしからぬ態度が目立ちます。
 それも私の推察では入学式あたりから。」

入学式という単語が出た途端、彼は大きく目を見開き私を見つめたまま静止した。
後ろでは桑原氏が「そう、第二研究棟であってます」だの「そこの廊下を右に曲がって」などと
右手を動かしながら誰かに電話越しで指示を出している。
誰か来るのだろうか?

「もしも可能ならばその理由を教えてもらえないでしょうか?」

困ったように眉間にシワを寄せたまま固まっている彼に耐え兼ねて、
私は直接的な言い方で詰め寄った。
本当に実に私らしくない態度だと自分で思ってしまうほどに。
言ってしまって気付いたが、私は今、得も知れぬ焦燥感に駆られていた。
そんな私を見た彼は何かを決したように瞳を閉じると深呼吸にも似た深く長い溜め息を吐いた。

「心配かけてごめんね。実はさっき気になった事があって…。」


ようやく口を開いた彼を見て私は小さく頷いた。それに応えるように彼も小さく頷く。
聞き手側と語り手側、双方の意思が整った合図だ。

「さっき、武道館の入学式でね」

「お取り込み中申し訳ありません。実は私、もう一点あなた方に用件があったのです。」

急に割り込んできた桑原氏の声に私と彼は驚き身を竦めた。
ほぼ同じタイミングで振り向いた私と彼の非難の眼差しを受けとめながら、
桑原氏は少し不思議そうな顔をしたが構わずに言葉を続ける。

「あなた方に是非、紹介したい人がいるのです。
 私の古くからの友人の娘さんでしてね、大変優秀な学生なのですよ。」

いきなり話の腰を折られ憮然した表情をする彼。
私もやり場のないこの気持ちをどうしたものかと、ただ静かに悶絶するばかりだ。

「彼女も東大現役合格ですので歳はあなた方と同じなはずです。
 しかも…確か彼女は原さんと誠一さん、あなた方の知り合いらしいですよ。
 今日の入学式で新入生総代のスピーチをしたとか。見覚えはありませんでしたか?」

彼が小さく「えっ」と呟いたと同時に私と彼は眼を合わせた。
こう表現しては語弊が生じそうだが彼はともかく私には知り合いと呼べる人間が極端に少ない。
しかも彼と共通の知人など高校時代のクラスメートくらいか。
顔も名前も曖昧な数人のクラスメートや彼の友人を頭の中で探ってみても
該当するような人物は誰一人当てはまらない。
それは彼も同じだったようで困惑した表情でアゴに手を当て首をひねった瞬間、
けたましい音を立てて研究室の扉が大きく開いた。

「もぅ!桑原さぁん!さっきの電話何ですかぁ!私はそんなにお馬鹿さんじゃありません!
 馬鹿馬鹿って連呼しないで下さぁい!」

研究室に入ってくるなり大きな声を張り上げる女性。
その少し鼻にかかった声で間延びした口調の女性に全員の視線が注目する。
そして名指しで抗議を受けた桑原氏は

「これは失礼しました。阿呆と訂正致しましょう。」

と微笑みを浮かべて言い返した。
その一言を聞いた女性は途端に頬を膨らませると両手を振り上げ桑原氏に襲いかかる。
しかし当の桑原氏は逃げる様子もなく椅子に腰掛けたまま背中を向けると、
その女性は氏の背中に力がこもっていない拳でポカポカ叩き始めた。
まるで我が儘な子供のように顔を真っ赤にする女性に、
渇いた笑い声を上げなすがまま背中を叩かれる桑原氏。
その光景を呆気に取られながら見つめていたが、
私は頭の中で何かが引っかかっている事に気付いた。

急遽乱入してきたこの女性。
桑原氏との親しげなやり取りを見るとどうやらこの人が
私達に紹介したいと言っていた本人には違いなさそうだ。
それはいいのだが、何故だろう。
…私はこの女性に見覚えがある。
いつどこでなど詳しい事は全く思い出せないが、
あの幼さ残る表情に無邪気な態度を私は知っている。
しかし誰だかが分からず悩んでいると、隣にいた彼が小さく何かを呟いた。
私は思わず聞き返すと、目を大きく見開き顔を真っ赤にした彼が
絞り出すような声でもう一度呟いた。

「…野原、苺さん……。」

その彼の言葉を聞いた瞬間、私の頭の中で何かが音を立て弾けた。
そしてバラバラに散らばった回路が一つに繋がり一つの光景を脳内に投影し始める。
真新しい校舎、小さい机と椅子、赤いランドセル、
犬のぬいぐるみ、風になびく巻き毛、無邪気な笑顔。

そう。彼女は私の小学校時代のクラスメート、野原苺だった。

更新日9月2日

「あのですねぇ、桑原さん!私だってもうちゃんとした大人なんですぅ!
 それに東大だってきちんと合格出来たんだから!
 もうイチゴの事をお馬鹿さん呼ばわりしちゃ駄目なんですよ!」

「ですから先程訂正したではないですか?学業の成績が悪い人間は馬鹿です。
 しかし思考力が著しく劣る人間は阿呆だと。つまりあなたは」

「イチゴはアホだと言いたいんですかぁ!?ムキー!!」

「そのいくつになっても直らない舌っ足らずな話し方が何よりの証拠ですよ。阿呆。」

さらに顔を朱色に染め桑原氏を叩く野原苺。
相当憤慨している様子だが上下する腕には力が感じられずとても本気さは見受けられない。
桑原氏にしても皮肉混じりの会話は相変わらずだが、
相手を突き放すような威圧感は全く感じられない。
どことなく冷たい印象しかない瞳も野原苺を見るときには柔らかく感じる。
まるでこの二人、親子のようだ。
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06:43  |  「ヨーグルト…。…いいえ、ケフィアです!」  |  CM(23)  |  EDIT   このページの上へ

Comment

1げと!
某サイトで推敲して頂いたAir Bride!の冒頭を掲載しましたよ
同じ物書きとして、ぜひ「批評」を頂きたいと思います

要人さんのは、隙がないので批評し辛いのです(´・ω・`)
蒼響黎夜 | 2008年08月25日(月) 18:10 | URL | コメント編集

おお!東大合格ですかw
素子ちゃんはともかく誠一くんもすごいな~!

あれ?っと思ってしまったんですが、
東大って教養課程は駒場キャンパスとか、
レベルによって分かれてたような…?
うろおぼえなんで違ってるかも知れませんけど^^;
まあ、近未来だしいいのかなって気もしますw応援ポチ♪
momokazura | 2008年08月26日(火) 02:44 | URL | コメント編集

>>蒼響黎夜さん
批評などとんでもない!楽しんで読ませて頂きます♪
私のもバシバシ批評しちゃっていいですよ!
じゃないと書いてて良いのか悪いのか分からなくなってきちゃうんで。

>>momokazuraさん
え?やっぱりそんな感じですか?
いやぁ、資料を全く探さずに書いてしまったのでこうなっちゃいました。
「東大と言ったら赤門!」という脊髄反射並みの想像力しかなかったんで申し訳ないです!!
結局あんまり突っ込まれたら「近未来なんで!」で逃げる予定です♪

応援いつもありがとうございます♪
要人(かなめびと) | 2008年08月26日(火) 05:22 | URL | コメント編集

最近アクセスできなかったので、流れに遅れてしまった(つд`)

第五章見ていきなり吹きました。秒速ネタはヤバいっすww

いよいよ、大学生ですね!
大学生かぁ…苦い思い出が蘇るっ(゜Д゜)
キイト | 2008年08月26日(火) 08:39 | URL | コメント編集

>>キイトさん
苦い思い出ですか・・・。
私は大学に行ってないので出来れば行ってみたかったですよ。
要人(かなめびと) | 2008年08月26日(火) 20:08 | URL | コメント編集

論文提出や空気力学を考慮したスカート!
そんな素子ちゃんが微笑ましくて愛しいです^^
とうとうメガネっ子になったんですねw応援ポチ♪

momokazura | 2008年08月27日(水) 02:22 | URL | コメント編集

>>momokazuraさん
ついに念願の眼鏡っ子です!これも彼女なりにファッションの一部ということで。
応援ありがとうございます♪
要人(かなめびと) | 2008年08月27日(水) 06:04 | URL | コメント編集

ツインテをやめる代わりに眼鏡ッ子。
外見が変わってもしっかり萌えを抑えておく
要人さんの良心に涙が出ました。
ありがとうっ!ありがとうっ!
雲男 | 2008年08月28日(木) 01:20 | URL | コメント編集


久々にコメントさせて頂きます♪

この小説が始まった3月21日から毎日見てます。
要人さんの文は本当にもう…脱帽ですね。凄いの一言です。

これからも毎日来ますんで疲れない程度に頑張って小説書いて下さい!!

もと | 2008年08月28日(木) 03:59 | URL | コメント編集

>>雲男さん
どうしても萌え要素を一つは入れないといけないみたいです。
書いている最中に見えない力が働いた、とでもいいましょうか・・・。
もしや、雲男さんの生霊!?

>>もとさん
どうもお久し振りです♪
来月でこのブログで出来て半年が経ちます。
これもひとえにもとさんやたくさんの方々が
励ましの言葉を下さったからだと深く痛感しています。
これからももっと楽しいお話を書けるように頑張りますので期待していて下さい!!
疲れなんて屁の河童ですよ!!!
要人(かなめびと) | 2008年08月28日(木) 05:42 | URL | コメント編集

オシャレの論文作成なんて、素子ちゃん凄い!
それを桑原さんにまで提出するとは…爆
桑原さん、イイ感じですね~。 こんな人、微妙に好きかも(笑)
誠一君の様子が気になりますね。
この先も楽しみデス!
夢 | 2008年08月28日(木) 15:59 | URL | コメント編集

>>夢さん
先日はありがとうございました♪
桑原副会長は私の中でも一押しな人物です。
大好きなんです、こういうおっさん♪
要人(かなめびと) | 2008年08月28日(木) 17:24 | URL | コメント編集

塾で二時間かけて眼鏡っ娘を描いたのは良い思い出
当たり前のごとく授業中
何で鉛筆+ルーズリーフで頑張れたんだろう
心の中に素子ちゃんが居たと信じておきます
楚良 紗英 | 2008年08月29日(金) 19:42 | URL | コメント編集

>>楚良 紗英さん
以前描いて頂いたときはまだ素子がツインテールの時でしたね♪
最近では素子も容姿がコロコロ変わってるので私もすっかり忘れている時があります。
要人(かなめびと) | 2008年08月29日(金) 21:12 | URL | コメント編集

や、僕も大学にはいってないんですよ。(今年高校卒業)
というか合格はしてたんですけど、
ちょっとゴタゴタしちゃって、結局入学せずって感じですねww

この学歴社会になにやってんだかって自分でも思ってますよww
キイト | 2008年08月30日(土) 00:41 | URL | コメント編集

桑原氏、おっかないですね~><
そ、それにしても同棲とはナニゴトデスカッ!
初々しかった二人がとうとう…嬉しいような淋しいような…
あのお母さんがよく許してくれましたねww応援ポチ♪
momokazura | 2008年08月30日(土) 03:04 | URL | コメント編集

>>キイトさん
なんと!そうだったんですか。
そういえばプロフィールに20歳以下とあったですね。
変な詮索しちゃってごめんなさい><

>>momokazuraさん
まぁ、歳も歳ですから。いや、早すぎるか!?
要人(かなめびと) | 2008年08月30日(土) 05:33 | URL | コメント編集

いいなあ、素子ちゃん。
かわいいv-344

しかし、同棲かあ・・。
誠一君、やること早いなあ。(^^;)
みい | 2008年08月30日(土) 13:08 | URL | コメント編集

>>みいさん
ある意味高校一年の頃から半同棲状態ではありましたので。
一人住まいの彼女にとっては流れ的に当然かな、と思いました。
誠一は単なるエロです。
要人(かなめびと) | 2008年08月30日(土) 20:27 | URL | コメント編集

初めまして!いつも見ています。このタイミングで新キャラが登場するとはびっくりです。
ブラウン | 2008年09月01日(月) 14:08 | URL | コメント編集

なんという印象的な登場をさせるんですかww心臓に悪いですよ^^;
てか、まさかな~とは思ってたんですが苺ちゃんが東大生!?不正入学かな笑
なぜ素子ちゃんが総代じゃなかったのか不思議に思ってたんですよ。
すごいです、この設定!笑いが込み上げてどうしようもないです^^
ウチのしょぼ絵よりもケフィアワールドの苺ちゃんの方が断然光ってます!
本当にありがとうございます!続きがとても楽しみですw応援ポチ♪
momokazura | 2008年09月02日(火) 03:02 | URL | コメント編集

>>ブラウンさん
いつも読んで頂いて本当にありがとうございます♪
実はこの子、新キャラでもないんですよ。
「ヨーグルトではなく、そう・・・」の第五章にちらっと素子の同級生役で登場しています♪

>>momokazuraさん
お待たせ致しました!!遂に苺ちゃん始動です!!
これからますます苺ちゃんがケフィアワールドで大暴れですよ♪
詳しいことは後々読んで頂くってことで♪
乞うご期待!!
応援ポチありがとうございます♪
要人(かなめびと) | 2008年09月02日(火) 06:16 | URL | コメント編集

単なるエロよばわりww誠一かわいそかわいそなのです

せめてサルww
八頭身派 | 2008年10月21日(火) 22:05 | URL | コメント編集

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