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2008'08.03 (Sun)

「ヨーグルト…ケフィア…。最早どうでもいいのです。」 第三章


【More・・・】

「あそこに大きい建物があるでしょ。あれが母さんの勤めている病院。
 僕の家はそこのすぐ近くだからもうちょっと歩くよ。」

彼の指差す先には縦に長い高層ビルといった出で立ちの建築物があった。
周囲の建物より倍は高いその白い外観の病院をこれだけ近くで見るのは初めてだった。
普段通学時に電車の窓から見かけた事があったが、
学校とは方向が逆なためそれ以上間近で観察する事がない。
だからと言ってそれほど興味を示す建築物でもなかったので、
彼から聞いて初めて病院だと知った程だ。
この街、広野市は古来から寺や小規模な古墳といった重要文化財が
あちらこちらに点在するため、敷地面積の確保や区画整理がままならない。
街自体がさほど広大な面積を有してない割には
商業が発展しているため人口密度はきわめて高い。
故にあの病院が無駄に縦に長い構造になってしまうのも頷ける。



「あのさ、疲れない?」

彼が声を掛けてきたので私は顔を上げる。
いつもは頭一つ分背が高い彼の顔が今は近い。
彼は服だけではなく靴まで買ってくれた。しかも私が美容院で寝ている隙に。
ヒールが高く出来ている靴を履くのは初めてで最初のうちは慣れなかったが、
今はさほど違和感なく歩けるようになった。
私は彼の肩に唇が触れないように注意をしながら「いいえ。」と答えた。
彼の肩についている淡い桃色の口紅の痕跡は先程私がつけてしまったものだ。
高いヒールのブーツと初めての化粧による私の失態の証拠。
昨今の美容院は化粧まで施してくれるらしい。
彼は「うん。ならいいんだ。」と言いながら私をまじまじと見つめる。
そして真っ赤な顔をして慌てて目を逸らした。
まったく、美容院を出てから彼はずっとこの調子だ。
大した要件でも無いのに私に声を掛け朱色に染めた顔のまま
私を頭から爪先までじっくりと眺めるのだ。
なかなか不躾な視線ではあるが、決して不快ではない。
私はちょうど歩道に隣接した建物の窓ガラスに映る自分を見た。

裾にフリルがあしらわれた生地を幾重にも折り合わせた短めのスカート。
薄手のセーターの上には緩く編み込んだ羽衣のようなもの(ショールと言うらしい)を羽織っている。
肩に触れる長さにあった真っ直ぐの髪は少々短めにカットされ
何故かひどい寝癖のようにクシャクシャにセットされた。それが良いらしいが…。
そしてどうして私の足の寸法を正確に知っているのか
並々ならぬ疑問が残るほどサイズがピッタリなシンプルだが自己主張が激しい黒のブーツ。

…まるで私ではないみたいだ。
確かに目の前に映るのは私なはずだが他人を見ている感覚だ。
先程からすれ違う人達が必ず私を振り返っていく。
いつもは感じることがない視線がこそばゆい。
そしてあからさまな彼の反応。私は漠然とだがやっとこの現状を経て理解をした。
着飾るというのはオシャレをするというのはこういう事なのか、と。
ただ衣服を纏うという行為がどことなく心地良くて誇らしい。
自然といつもより背筋が伸びてしまう。

私は片手に持った紙袋に目を落とした。
今私が纏っている衣服だけではなく彼が何点か見立てた衣服が数点と
彼に衣服を仕立ててもらう前に私が着ていた白衣とジャージ。
昨日までは普通に着衣していたはずなのに
今となってはとても恥ずかしい物のように感じてしまう。
そんな事を思ってしまう自分に罪悪感を抱いてしまうほどだ。

私はもう一度窓ガラスに映る自分を見て、しみじみと思った。
出来得るならばお父様とお母様にも見せたかった。
そんなことは決して叶うはずが無い事は重々承知だが
今の私を見たあの二人の反応を直に確かめたかった。
…そう思わずにはいられなかった。


「あのさ、うちの母さん結構独特な性格だから。
 ちょっと変な事を言うかもしれないけど、あんまり気にしなくて良いからね?」

また始まった。ここに来るまでもう何度目かになる彼の台詞だ。
彼は先程から自分の母親の特徴を繰り返し私へ語る。
そんな彼のお母様の特徴を要約すると「独創的で変わり者で陽気で自儘で豪快な女性」らしい。
確かに話を聞く限りでは個性的な人なようだが、
生憎私は似たような女性を幼い頃から知っている。

…伯母様は今、どこにいるのだろうか。
あの学会発表の日、我々を裏切り忽然と姿を消した伯母様。
本来ならば憎むべき人なのだろうが
(彼なぞは伯母様の話をするだけで急に不機嫌になるほどに嫌悪感を抱いている)、
私はどうしても心の底からは憎めないでいる。
それは同じ科学者だったからか血がつながった親族だからか、分からない。
まぁ、とにかく一時期ではあるが共に一つ屋根の下で暮らした事のある女性に
似ているというならば、そう肩肘張る必要は無さそうだ。
せいぜい前触れもなく仕掛けてくる強烈な抱擁と
睡眠薬入りのコーヒーにさえ注意をすれば充分だろう。

それよりも問題は彼の方だ。
自宅に近付いていく毎に溜め息の頻度が段違いに増している。
神妙な面持ちで何やらブツクサ呟きながら隣で歩を進める彼を見て私はただ訝しむばかりだ。
他人同士を引き合わせるという事がそんなにも気が重い作業なのか?
いや、そもそもそれ程に自分の母親に私を会わせるのが
苦痛な顔を浮かべるような事ならば初めから立案しなければ良い。
私としても別段彼のお母様に謁見を賜る要件があるわけではないし。

時々彼は私の思考が及ばないところで悩んでいる事がある。
人間誰しも悩みの一つや二つはあるだろう。
それを否定するわけではない。
しかし研究以外の事にとんと疎い私ではあるが、
たまには助勢を求めてくれても良いではないか?
せめて相談くらいは乗ることが出来るのに。
たぶん他人に気を遣うのに長けた彼の事だ。
私にいらぬ心配を掛けまいと思っているのだろう。

誠実な男性だと思う。しかし誠実も度が過ぎれば卑屈なだけだ。


「そんなに心配なさる事も無いでしょう。一般的な挨拶を交わせば良いだけでは?」

「う、うん。そうなんだけどね…。
 ただうちの母さん、変な質問とかするかもしれないけど適当に答えてくれれば良いから。」

「ならば容易い事です。我々の関係や普段の行動を説明すれば良いのでしょう?
 例えば私があなたに恋をしている事や一日に一度は口付けをしなければいけないことや、
 あなたが暇を持て余すと必ず私の胸部を弄」

「ストーーーップ!!!」

これ以上赤くなるかというほどに顔を朱色に染めながら彼は咄嗟に
私の口に自らの右手を押し当てた。
急な事に驚いた私はつい自分の舌を噛んでしまった。
口の中に微かに鉄の味が広がる。
私は口を塞がれてしまったので視線だけで無言の抗議をすると、
それに気付いた彼は慌てながら私の口から手を外し「ごめん」と詫びた。

「適当な返答をすれば良いと言ったではありませんか?」

「た、確かに適当は適当だけど!…出来ればそういう事は言わない約束でお願いします!」

私は釈然としない気持ちで小首を傾げた。
言えといったり言うなといったり、まったく彼の要望は曖昧すぎる。
もう少し厳密な指示が欲しい。

「よく分かりませんが。では毎週土曜日は必ず二人で湯船に、もが」

「だからストーーーップ!!!」

再び私の口を手で塞ぐ彼。
あまりに大きい彼の声に通行人が我々を奇異な眼差しを向ける。
そんなに強く手を押し当てたらせっかくの口紅が取れてしまうではないか。
私はさらに険しい目つきで彼に無言の抗議をした。


高層ビルのような縦に長く真っ白な外観を持つ病院。
市内だけではなく市外からも通院や手術で通う人もいるという巨大な医療機関である。
現在では街のシンボルにもなっているその巨大な建築物のすぐ隣に彼の住居があった。
さほど大きくも小さくもない平均的な日本の二階建て家屋の玄関の前に私達は立っていた。

時計は既に夕方の5時を回っている。
私の衣服の購入や散髪にやや時間を使いすぎたようだ。
一体何時でお母様と待ち合わせをしていたか定かではないが、
決してそんなに短い時間待たせたとは思えない。
それは彼の様子を見ても容易に想像がつく。
自分の家の前にいるというのに俯いたままなかなか玄関の戸を開けようとしない。
何故か鼻の頭に汗が滲んでいる。
いくら温室効果ガスの影響といえどもそこまで気温は高くない。
私は全く動こうとしない彼に声を掛けようとしたその時、やっと意を決したのか
彼は玄関の戸に手を掛け恐る恐るゆっくりと扉を開けた。
聞こえるか聞こえないかの、か細い声で帰宅の挨拶をする彼。
その開いた戸の隙間から洩れてくる匂いに気付き、私は眉をひそめた。
この物が炭化したすえた香り…。
燻臭い。幼い頃にお母様の実家で時々嗅いた匂い。
お祖父様が吸っていた煙草の香りだ。

彼が無言で屋内に上がるように促した。
私は彼に見習った訳ではないが恐る恐る敷居を跨いで、つい茫然とした。
家の中全体に薄く靄がかかっている。
もちろん煙草の煙だろうが私は咄嗟に開いていた口を閉じようとして思わず咳き込んでしまった。

正直、私は煙草の匂いとケムリが苦手である。
確固とした理由があるわけではないが理屈ではない。
どうしてもこの匂いを嗅ぐと咽せてしまって仕方がない。
彼はそんな私の様子に気付くとすぐに玄関の戸や小窓を開け、
靴を脱ぎ家の奥に進んでいった。
私も履き慣れないブーツを脱ぎ「お邪魔します」と半ば咳き込みながら呟き彼の後に続いた。
玄関から続く廊下を進むと突き当たりに扉があった。
たぶんそこがリビングなのだろう。
彼は私より一足先に室内に入ると素早く窓という窓を開け放した。
廊下や玄関よりもさらに濃く靄がかかっているリビングに
私は激しく咳き込みながら室内を見回した。
お世辞にも広いとは言えないリビングにソファーやサイドボード、テーブルなどの
家具が所狭しと配置されている。
しかし日用品や雑貨といった類の物はきちんと整理されてあり
目に付かない場所に保管されていた。
そしてテーブルの上に二つ、サイドボードの上にも二つあるティッシュに
ご丁寧に布製のカバーが掛けられている。
何故ティッシュがこんなにあるのか疑問だが
それら全てにカバーを掛けたのは彼の仕事だろう。
そんな気がする。


私は一通り室内を見回してから再びソファーに目をやる。
ソファー自体がこちらに背を向けているので正面からは見えないが人の後頭部が突き出てる。
そこから私の咳き込む原因である煙が立ち上っているところから
推測されるにソファーに腰掛けているのが彼のお母様なのだろう。

「ねぇ…誠一。今日は言わないの?煙草臭くなるから窓を開けろ、って。」

一瞬誰のことを呼んでいるのかピンとこなかったが、
そういえば彼が誠一という名前だった事を思い出した。
まぁ名前なぞ呼称の識別さえ出来れば大して意味を成さないが。
その誠一と呼ばれた彼はお母様の問い掛けに答える事なく顔面蒼白のまま俯いていた。
体調でも悪いのだろうか?
そんな口を開こうとしない彼に気にせずお母様はまた彼に話し掛けた。

「それにね、母さん昼間っからビール空けちゃってます。
 …それについても文句はないの?」

一言一言区切るように落ち着いた声で話す彼の母親。
彼から聞かされた人物像とは随分違う印象を受ける。
もっとアグレッシブなイメージがあったのだが。

鼻の頭にじっとりと汗を滲ませて俯く彼。
先程から微動だにせず黙って立ち尽くしている。
まるで天敵に睨まれた捕食動物のようだ。

「だって母さん、あんまり待たされちゃって飽きちゃったんだもん。
 …何時に連れてくるって言ってたっけ?」

母親の再三に渡る問い掛けに体をビクッと震わせた彼は
ここまで聞こえる程に音を立てて唾を飲み込んだ。
そして右手で鼻の頭に滲んだ汗を拭いながら「ごめんなさい」と小さく呟いた。

そんな彼の声が聞こえたと思った瞬間、母親の怒鳴り声が部屋中を駆け巡った。
私は反射的に手で両耳を塞いだ。

「ごめんなさいじゃないでしょ!一体何時間待たせれば気が済むっての!
 あんた1時には連れてくるって言ったわよね!?今何時!?今何時よ!!
 何時だと思ってるの!!母さんね! グチグチ口うるさい男と
 時間を守れない奴が一番大っ嫌いなの知ってるわよね!!」

関を切ったように怒号を撒き散らし暴れる彼の母親。
灰皿の吸い殻が散乱しテーブルの上に置かれた空き缶が宙を舞う。
一方その怒りの矛先である彼はこれでもかと言うほど身を小さく縮め
「ごめんなさい!ごめんなさい!」と呪文のように繰り返しながら
床に散りばめられた吸い殻を拾い集める。

なるほど、確かに彼から聞かされていたイメージ通りになかなかアグレッシブな女性である。


一悶着の末、だいぶ落ち着きを取り戻したお母様に促され
我々はやっとソファーに腰掛ける事を許された。
ソファーの上に胡座をかき、酷く不機嫌な表情を私に向ける彼のお母様。
如何せん視力が覚束無くてはっきりとした輪郭は捉えられないが、
どことなく隣に座る彼に似ている。

「…初めまして。誠一の母親です。」

憮然とした態度で深い溜め息をつきながらお母様は口を開いた。
溜め息のつき方が彼にそっくりだ。
溜め息は彼特有の癖だと思っていたがどうやら遺伝だったらしい。
私は先に年輩者から挨拶をさせてしまった非礼を詫びつつ改めて自己紹介をする。

「お初にお眼に掛かります。原素子と申します。
 以後お見知り置きの程宜しくお願い致したく存じ上げます。」

恭しく低頭する私を眉間にシワを寄せながら見つめるお母様。
正直なところ、あまり他人から長いこと凝視されるのは良い気持ちがしない。
しかもあからさまに好感を抱いてない素振りでは私もどうすれば良いか反応に困る。
どうしたものかと彼に助け舟を貰おうと顔を横に向けた時、再びお母様が口を開いた。

「なかなか可愛い子じゃないの?誠一。
 あなたの事だからあんまり冴えない女の子を連れてくるのかと思ってたけど…。
 母さん少しあなたを侮ってたわ。」

私自身さほど冴えているとは思わないが褒められるのは嫌ではない。
そして母親からの低評価を向上させた彼は苦笑いながらも満更な表情を浮かべている。
しかしお母様はそんな彼を無視し「ところで素子さん、だっけ?」と私に視線を向けた。

「私は回りくどいのが大っ嫌いだから単刀直入に聞くけど。
 うちの誠一とはどういった関係なのかしら?」

「大っ嫌い」の部分を強調して鼻の頭にまでシワを浮かべ、お母様は私に問い質した。
随分と嫌いなものが多い女性だ。
私はどう答えれば良いか迷い、首を傾げた。

と言うのも此処に来る前に彼から禁則ワードを指定されている。
大まかには我々が研究所で行っていること。
『ケフィア』の事はもちろん二人きりの時に我々がしている事
…まぁ、主に彼が「恋人同士はやっている当たり前の事」と私に教授した事柄は
全て黙秘するよう言い渡されてある。
そうするとお母様の質問に対して私は矛盾が生じるような曖昧な返答をするしかなくなる。
それは科学者として私のポリシーに反する。

私が困惑のあまり口を閉ざしていると代わりに隣の彼が答えた。


「前にも話したと思うけど、彼女は一年の頃からの同級生なんだ。ね?」

やや口早に答えた彼は何故か最後に私の同意を求めた。
彼の言葉に相違点が無いので私は黙って頷く。

「じゃあ何?あんたは単なるクラスメートに毎晩毎晩毎晩毎晩夕飯を作りに通っているわけ?ん?」

彼よりも更に口早に切り返すお母様。随分と滑舌が良い女性だ。

「彼女からはいつも勉強を教えてもらってるからそのお礼だよ?
 なんせ彼女は学年トップの成績なんだ。
 僕が今の成績を維持出来ているのだって彼女の指導の賜物だよ。
 母さんだって僕が成績を落としたら嫌でしょ?」

確かに勉強を教えているのは事実なのだがなかなか上手い言い回しを考えるものだ。だが、

「あんたの成績なんて知ったこっちゃないわよ!」

私は感嘆の声が喉から出掛かった矢先、突然お母様は目の前のテーブルに拳を叩きつけた。
あまりの大きな音に私と彼は同時に「ひっ!」という小さな悲鳴を上げ竦み上がった。

「成績が上がろうが下がろうが関係ない!
 あんたがどこの大学に行こうがどうせ出す学費なんて同じでしょうから!
 それにね!私はあんたに話をしてるんじゃないの!この子に聞いてんのよ!?」

「ちょっと母さん!落ち着いて!酔っ払ってんの?」

「当たり前でしょうが!
 あんた達が来るのあんまり遅いからビール飲んでたってさっき言ったでしょ!
 頭良いんならちゃんと記憶しておけ!」

何と表現すればいいのか、アグレッシブにも程がある。
あまりに威圧的なお母様の態度に彼は陸に上がった魚のように口をパクパクさせ、
何も言い返せなくなった。
彼なぞまだ良い。発言を封じられただけなのだがら。
問題は私だ。
凶暴な光を宿したお母様の視線の矛先は今や私の両目だけではなく全身を捕縛している。

これは最早彼から言い含められた禁則など念頭に置いている余裕は無さそうだ。
当たり障りなく曖昧な回答は出来そうにない。
脳から放たれる危険信号がそう教えている。
彼には悪いがここは素直に答えるのが最適と私は判断したい。

「彼と私の関係で御座いますが正直に申せばお互いに好意を寄せ合っております。」

私は渇いた喉を潤すように大きく一度嚥下すると言葉を続けた。

「我々が出会った当初は私が一方的に私利の為彼の協力を要請していたおりました。
現在は僅かながら解消されてはいると思いますが
その関係が今でも多少続いている事に私は弁解のしようがありません。
その点でご家族であられるお母様に多大なご迷惑をお掛けしていることを知りながら
これまでお詫びの一言も無かった事に対する非礼に深くお詫びを申し上げます。」

私は慇懃と彼の母親へ頭を下げる。
すると彼女は大きな溜め息を吐きながら言った。

「私はね、別にあなたから謝って欲しくて此処に来てもらったわけじゃないのよ?
 だから頭なんか下げないで頂戴。
 それと小難しい言葉並べられても、私よく分からないから。」

顔を上げると幾分表情を和らげたお母様と目があった。
そして小さな溜め息をついて目を逸らしながら小さく含み笑いを漏らす。
その仕草が彼によく似ていて凝り固まっていた私の心もだいぶ綻んだ。

「ただね、私も最近この馬鹿息子の作るご飯が食べられなくてちょっと寂しかったのよ。
 あなたも知ってると思うけど、この子は小さい頃に父親を亡くしているから
 私が一人で育てたようなもんなのよ。」

その話は彼から聞かされている。
知ってるが故に何故もっと早くお母様の気持ちを汲めなかったのか反省をした。
しかしながら、一人でも思ってくれる肉親が残っている彼に
微かな嫉妬を抱かなずにはいられなかったが。

「今後はお母様の要望に応えられるよう彼の拘束時間を考慮して参りたいと思います。
 やはり彼に料理のいろはを伝授されたのはお母様なのですか?」

「もちろんよ!うふふ、うちの息子の料理美味しいでしょ?」

「至極美味であります。」

得意気に満面の笑みを浮かべる母親を尻目に隣に座る彼は
視線を横に逸らしながら何やらブツブツ呟いている。もしかして照れているのだろうか?

「何か文句があるの、誠一?」

少々威圧的な語気で問いただされた彼は一瞬反発するような態度を見せたが、
母親と目が合うとすぐに口ごもり塩らしくなってしまった。


「母さんが何でそこまで怒っているか、やっと分かったよ。
 僕が他の人にご飯作っているのに、自分が食べられないのが気に食わないだけでしょ?」

「当然じゃない?」

さも当たり前のような表情を息子に向け「今更何言ってんの?」と追いうちをかけるお母様。
そんな母親の態度に彼はこれでもかというほどの深く長い溜め息を返す。
只今の溜め息で彼はこれまでの1日最多溜め息数の新記録を樹立した。
私の予想通り本日は更に記録を更新出来そうだ。

彼の落胆した様子が可笑しかったのか、お母様は小さく吹き出すと次第に声を上げ笑い出した。
最初は憮然とした態度をとっていた彼もお母様につられて徐々に笑顔になっていく。
先程までは殺伐としていた空気が弛緩していくのを感じながら私はホッと胸を撫で下ろした。
何はともあれ彼とお母様の間にあったわだかまりもスッカリ氷解したようだ。
ここに来るまでは緊張しきっていた彼の表情が今では
だいぶ緩やかになっているのが何よりの証拠だ。
私とお母様が対面した事で彼の中の懸念事項が解消されたのならば、
私としてもこれほど喜ばしい事はない。

そんな事を思っていると、鬼の形相から一変して
菩薩のような微笑みを浮かべながらお母様が私に問い掛けてきた。

「ところでさ、あんた達っていつから付き合っているの?」

私はどう答えたら良いか分からず口ごもっていると彼が少し恥ずかしげに
「実は正式に付き合い始めてからまだそんな経ってないんだ。」と私に代わり答えてくれた。
そんな彼の様子を見留めながらお母様は
テーブルの上にあった煙草に手を伸ばし火を付ける。
そして悪戯な笑みを浮かべながら再び私に問い掛けた。

「あんた達、まさかもうやること済ましちゃったんじゃないでしょうね?」

「何を、でしょうか?」

言いたい事がよくわからず私は小首を傾げると、
お母様は少女のように愉快な顔のまま煙を大きく吐き出した。

「もうやだ~素子ちゃん♪オバサンに最後まで言わせるなんて~♪
 エッチの事ですよ、エッチ♪」

更新日8月12日


幾分顔を赤らめながらハツラツと答えるお母様。
よっぽど楽しかったのか、お母様は自分の膝を叩きながら高笑いをし始めた。
私はお母様の言葉を聞いて、それの事かと合点が入った。

研究所に二人きりでいるとき彼が時々私に要請する行為である。
その単語を最初は水素の元素記号か、はたまた何かのイニシャルの事かと思ったが、
実体験の後に色々と独学で調べたので今なら分かる。

「模擬繁殖行為もしくは性行為の事でしょうか?はい。私と彼は実践済みです。」

そう答えた瞬間、それまで流れていた温和な空気が一気に凍てつき真空状態に変わった。
つい今しがたまで豪快な笑い声を上げていたお母様は微笑を浮かべ
煙草を口にくわえたまま静止している。
隣を振り向くと、苦笑いのまま眉間に深くシワを刻んだ彼が非難の眼差しを私に向けている。
私は自分の失態に全く気付かずお母様と彼の顔色を交互に窺った。
この沈黙の理由がさっぱり掴めない私は彼に解説願おうと声を発したその時、
向かい側のソファーに座ったお母様が口にくわえた煙草をゆっくり灰皿に押し消した。
それと同時に顔面を蒼白にした彼は脱力したままゆらりと立ち上がった。
そのただ事ではない雰囲気に一体何が始まるのかと訝しんだ刹那、
脱兎の如く駆け出した彼の背中に眼にも止まらぬ早さでお母様が飛びかかった。
ソファーに押し潰された彼はなおも逃げようと抗ったが、
全体重を背中に掛けているお母様に押し潰されている。
逃げる事を諦めた彼は亀のように両腕で後頭部を守り固めたが、
そんな事はお構い無しにお母様は振りかざした拳を容赦なく息子に
何度も渾身の力を込めて振り下ろした。

「この盛りついた馬鹿息子がっ!お前は一体何の勉強をしていたんだっ!あんっ!?」

「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!本っ当にごめんなさい!!」

彼の髪を乱暴に掴むとそのまま後ろに仰け反らせる。
たまらず顔を上げてしまった彼は今度は仰向けになりお母様の拳を顔面で受ける羽目になった。

泣き叫びながら哀願をする彼を見て、
私はここに来る前に彼から最も強く言い含められていた禁則ワードを思い出し、
改めて取り返しのつかない事を言ってしまったと深く反省した。
しかしそれと同時に、これまで彼に言われるまま体を任せていた自分にも疑問を感じた。
いくら信用しているとはいえ、拒みもせず何でも受け入れてきたのは
些か軽率で深慮に欠けていたのかもしれない。
好奇心が旺盛と言えばそれまでだが今後はある程度の慎みを保とうと、
なおも母親に懇願する鮮血で真っ赤に染まった彼の顔面を見ながら私は誓った。
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06:37  |  「ヨーグルト…。…いいえ、ケフィアです!」  |  CM(27)  |  EDIT   このページの上へ

Comment

ちょっと、切ないですね……
キイト | 2008年08月03日(日) 10:28 | URL | コメント編集

>>キイトさん
ちょっと、・・・ですけどね。
要人(かなめびと) | 2008年08月03日(日) 15:51 | URL | コメント編集

大人の階段のぼ~る~♪
が脳内で再生されました。
彼の様子を見てると素子ちゃんの心配は杞憂みたいですね。
四葉dort | 2008年08月03日(日) 19:44 | URL | コメント編集

>>四葉dort さん
こんにちは♪
リンク先なんですけど「桜散る中」に変更した方が
いいですかね?
要人(かなめびと) | 2008年08月04日(月) 06:27 | URL | コメント編集

お父さんとお母さんに、オシャレした自分の姿を
見せたかったというくだりは、グッときました…

変化していく素子ちゃんの心理描写が、
みごとだと思いました^^応援ポチ♪
momokazura | 2008年08月04日(月) 16:46 | URL | コメント編集

お願いいたしますm(_ _)mお手数おかけします。
四葉dort | 2008年08月04日(月) 17:31 | URL | コメント編集

コーヒに注意に吹いたwww

普通の女の子らしくなってく感じが可愛らしいですね。
頭の中で容易に想像出来る、外見の描写も見事です♪
雲男 | 2008年08月05日(火) 01:16 | URL | コメント編集

>>momokazuraさん
素子が両親のことを思い出すシーンはどうしても
湿っぽくなってしまいますね。
これはいかん。

>>四葉dort さん
了解しました!!

>>雲男さん
なんやかんやで素子もまだ17歳くらいですから。
花盛りですから♪
要人(かなめびと) | 2008年08月05日(火) 05:53 | URL | コメント編集

なんという思春期。
くそぅ彼が羨ま(ry

やっぱり二人のやりとりは楽しいですね♪
少なからず嫉妬しますが………
キイト | 2008年08月05日(火) 06:38 | URL | コメント編集

>>キイトさん
最近の高校生ってこのくらいはやっててもおかしくはないかな?って思いまして。
もう少しソフトに、の方が良かったですかね?
要人(かなめびと) | 2008年08月05日(火) 23:12 | URL | コメント編集

まあ、確かに最近の高校生なら
このくらいのことはやってますね^^
二人の微笑ましい様子から、
ちょっとみくびってましたよ~><

いよいよバトル開始ですねw応援ポチ♪
momokazura | 2008年08月06日(水) 01:52 | URL | コメント編集

>>momokazuraさん
毎日放課後一つ屋根の下で若い男女。
これで何も起こらない方が異常です。
ある意味健全ではないかと判断しました♪

ぽちありがとうございます♪
要人(かなめびと) | 2008年08月06日(水) 07:59 | URL | コメント編集

内容に関係ないんですが、原稿用紙400字詰めで250ページほどの小説書けと言われたら、何日で書き上げられると思います?
身近に聞ける人いなかったんで貴方に
蒼響黎夜 | 2008年08月07日(木) 18:51 | URL | コメント編集

●来ましたよ(^.^)

なんかストーリーが盛り上がってきてますね(^.^)

それよりこういうのを創作するってすごいと思います。
ランクリやって行きますね。
ゆうきん | 2008年08月07日(木) 20:53 | URL | コメント編集

彼の名前がつ、ついに!!!
なかなか良い名前だと思います^^
応援ポチ♪
momokazura | 2008年08月07日(木) 23:13 | URL | コメント編集

>>蒼響黎夜さん
そうですね、第二部の「ヨーグルトじゃない!ケフィアだ!」で
大体62000文字なので、改行などを入れていけば
原稿用紙200枚弱程度になるんじゃないでしょうか?
その人の書くスピードにも拠りますけど私は一ヶ月半くらいあれば250枚は可能です。
もっとも自分のフリー時間を全て費やして、ですけど。
もしや小説大賞に応募するんですか?私は一度も出した時はないんですが
いい励みになると思いますよ。

>>ゆうきんさん
ゆうきんさんに読んで頂けるだなんて光栄ですわ♪
ランクリサンクスです☆

>>momokazuraさん
誠実な誠一ってことで。
書きながら「あ、これでいいか。」って感じで決まりました。
要人(かなめびと) | 2008年08月08日(金) 06:28 | URL | コメント編集

原素子・・・原子と素粒子ですか。(^^;)
でも、素朴な感じでいいですね。^^

関係はビックリでしたけど。(^^;)
いいえ、名無しです | 2008年08月08日(金) 18:05 | URL | コメント編集

>>名無しさん
はじめは苗字を「塚元」にしようと思ったんです。
元素みたいな。
でも発音すると「もともと」になって語呂が悪いので
「原」にしました。
要人(かなめびと) | 2008年08月09日(土) 08:30 | URL | コメント編集

あ、ごめんなさい。
昨日の名無し、私です。(^^;)
原子じゃなかったんですね。
でも、「原」の方が似合ってる。^^
みい | 2008年08月09日(土) 14:56 | URL | コメント編集

バトルの真っ最中に失礼します^^;
調子に乗って要人さんの息子さんと
娘さんを描いちゃいました…
このあと載せます…事後承諾のように
なってしまってごめんなさい。
問題があるようならご連絡くださいw
ではでは、応援ポチ♪
momokazura | 2008年08月10日(日) 00:55 | URL | コメント編集

>>みいさん
いえいえ、「原子」でも合ってます。
というかその発想はなかったです><

>>momokazuraさん
早速拝見させてもらいました!!
いやはや!素晴らしかったです!!!
まさか自分のキャラが描かれるなんて。
至極幸福です♪
近々画像を上げさせてもらいます。
本当にありがとうございました!
要人(かなめびと) | 2008年08月10日(日) 10:41 | URL | コメント編集

お母様のお怒りがちょっとだけ緩和されたような…
最後の「塩らしく」…気になりました^^;

絵、気に入って頂けてよかったですw
こちらこそありがとうございました♪
momokazura | 2008年08月10日(日) 14:10 | URL | コメント編集

うかつにも、momokazuraさんのブログで
彼の名前を知ってしまいました。

お母様いいですね。
雑な女性を見ると、裏の繊細な部分を
ついつい想像してしまいます。
今のところ繊細な部分はほとんど見えませんがww
雲男 | 2008年08月11日(月) 02:46 | URL | コメント編集

>>momokazuraさん
般若モードのお母さんにはさすがの彼も敵わないのです。
男の子ってそんなもんです。

>>雲男さん
残念ながらこのママン、繊細な部分はありませんwwwwwww
要人(かなめびと) | 2008年08月11日(月) 06:48 | URL | コメント編集

流血する程顔面を強打するお母様に惚れましたw
ってこれじゃ、まるっきり私変態ですねww
……否定はしません。
雲男 | 2008年08月20日(水) 01:59 | URL | コメント編集

>>雲男さん
これでもお母様はナースなので致命傷に至る直前を見極めて
殴ることが出来るというスキルを持ってます。
ご安心を♪
要人(かなめびと) | 2008年08月20日(水) 06:15 | URL | コメント編集

ごめんなさい!ごめんなさい!に不覚にも萌えてしまった
そしてやっぱやったのかww
セクロス!セクロス!(*゜∀゜)〇彡゜
いいえ、名無しです | 2008年10月21日(火) 18:58 | URL | コメント編集

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