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2012'09.04 (Tue)

傲慢に書き綴ったル・ヴィアンディエ 第八章

その夜、俺は木製のジョッキに並々と注がれたワインを片手に、夜空を見上げていた。
酒が飲みたい気分だったのでマエストロに頼んだら、二十リットルは入っているだろうワイン樽が部屋に運ばれてきた。七百年前のワインと最初は興奮したが、飲んでみれば何ということはない。まだ若く甘ったるいだけのワインだった。酸化防止剤は当然ながら使われていないだろうが、明らかに深みの薄い安酒を傾けながら、俺は夜空に散りばめられた星屑を数えた。
街灯も町明かりもない夜空とは、恐ろしいくらい星空が眩しい。今にも零れ落ちそうな星達に吸い込まれそうな感覚に陥る。
よく見ると月が出ていないにも関わらず、足元が明るい。都会育ちの俺には星明かりなど初めての体験で、新鮮な感動が生まれた。緯度が同じだからか、日本でも慣れ親しんだ星座を探しながら、俺は今日あった厨房での光景を思い出した。
マエストロ考案のバケツプリンで、件のデザート狂というパバローネ伯爵は文句なしの大絶賛だったらしい。
ドフィネ公も大層喜んでいて、二週間後のシャルル王子が来るという正餐も大船に乗ったつもりでいられると、マエストロは太鼓判をもらったと皆に労をねぎらった。
そして特別に、ということで『陽日の胃袋』全員にもバケツプリンが振る舞われたのである。調理人達は狂喜乱舞し、ちょっとした宴にまで盛り上がりをみせた。
調理人がデザートのメニューとはいえ貴族と同じ料理を口に出来ることは滅多になく、ドフィネ公が何かのお祝いの折にと格別な計らいとして許しを出す時のみらしい。彼らが涙を流さんばかりに喜んでいたのも頷ける。
中には料理用の酒を傾ける陽気な連中もいたが、奴らは俺の元に来ると手をがっしりと握り締め、呂律の回らない口調でとにかく褒めそやした。そして肩を組み、馬鹿のような声で歌い出すのだ。
一人去ると次は二人と、俺の周りが空けば待っていましたとばかりに誰かが話しかけてくる。それが何だかこそばゆくてたまらなかった。
ここの連中はおかしなもので、最初は参謀長だの東邦の神秘だのと、奴らにとっては摩訶不思議な料理知識を持つ俺を讃えるのだが、馴れてくるとまるで旧知の友のように親しげな雰囲気で話し掛けてくる。二日前には自殺を図ろうとしていた、どん底だったこの俺に。
正直なところ、これまで俺はこんな人間関係を体験したことがなかった。誰かに必要とされることもない。誰かに好んで接してもらうこともない。誰かに褒められることもない。誰かに側へ来て話し掛けてられることもない。
きっと普通の人が当たり前のように味わう感情を、俺は時代も土地も遥か別次元である中世ヨーロッパのフランスで、初めて与えられた。
初めて自分が、周囲に認められた居場所に収まっている安堵感を得た。
ジョッキを傾けゴクリと赤ワインを飲み下す。胃の奥に溜まったアルコールがのんびりと鼻から抜け、心地良い陶酔感が頭を泳いだ。
マエストロの言葉を信じれば、きっと三日後には例の冷凍庫が荷馬車に引かれてこの屋敷に到着する。そうすれば俺はもうこの時代とも、陽気で人情味の厚い調理人達ともお別れだ。そしてまた、あの誰も俺を必要としないレストランで悔しさに歯を食いしばる日々が始まる。
はたして、本当にそれが正しいのだろうか?
マエストロがさっき厨房でポロリと漏らした本音を思い出す。あの山に置いてきた白い箱、やっぱりありませんでしたという報告が来ないものかな、と。
はたして、俺は本当に元いた時代に戻りたいのだろうか? この時代に留まるという選択肢はないのだろうか?
少し酔いが回ってきたからか、頭がそれ以上追及することを拒むように思考を煙に巻いた。
そしてモヤモヤと漂う頭の中の霧を、後ろから近付いてくる足音が払った。振り向くとそこには、手にジョッキを持ったサリーがいた。
「やぁ、ワタル。隣に座ってもいいか?」
するとサリーは俺の返事も待たずに、腰掛けていた丸太の横に座った。
何故だろう。振り向く前に、近付いてきたのがサリーだと俺は分かっていた気がする。
俺はサリーが手に持ったジョッキを見咎める。こいつ、さては部屋にあったワインを持ってきたな。するとサリーは悪びれた様子もなく、逆にニンマリ微笑みジョッキを俺に掲げた。
「女の身であるが、私もお酒を頂くぞ。たまには体内をアルコールで清めることも必要なのだよ。はい、カンパ~イ」
俺のジョッキに自分のジョッキを当てようとするサリー。だがジョッキがぶつかる直前、俺はスッと手を引く。生憎だが、俺は自分と同格の人間としか杯を揚げない主義なんだよ。
当然ながらサリーは不服だったのか、頬を膨らませるとワインをグビリと飲んだ。ほう、と息を吐くと続けてゴクゴクと喉を鳴らす。あまりに威勢のいい飲みっぷりに、俺は口に運びかけた手を止めた。この馬鹿女、酒が強いのか?
ほうっ、さっきより大きな吐息を漏らし、サリーは俺を見た。
「なぁ、ダメ岡」
その一言に俺の中の堪忍袋がビキッと反応した。
「おい、なんでお前がそのあだ名を知っているのだ?」
「昨晩、寝言でいっていたぞ。ダメ岡って言うな~! って」
「俺が夢うつつ状態で言うなっていったのに、なんでお前はわざわざ聞いちゃうかな? 言ったんでしょ、レム睡眠の俺が。言うなって」
「あ……ごめん。で、なんでダメ岡なのだ?」
「だからダメ岡って言うんじゃねえ!」
勢い良く振り向いたのでジョッキに入ったワインが揺れてこぼれる。サリーからはすまなそうな態度は一ミリも感じられず、俺は怒るだけ暖簾に腕押しだと諦め、ワインを口に含んだ。
「名字がカメオカということもあるがな、俺のいた国には料理をテーマにした書物がたくさんあるんだ。その中でも特に著名で多くの人に知れ渡っている作品があり、その主人公の名前が『山岡』というのだ」
「すごいな、東邦! 料理の書物がいっぱいあるのか! しかし、それがなんでダメ岡なのだ?」
「……俺が料理について蘊蓄をたれる姿が、その主人公にそっくりなんだとよ。なんでその、ダメかというと……察してくれ」
蘊蓄ばかり偉そうで技術が覚束無いなど、いくら本当のことでも自分の口からは絶対に言いたくない。そんな俺の態度を気遣ってか、サリーは慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、優しく頷く。この女、馬鹿なりにきちんと察してくれたのか。
「うむ、分かっているぞ。ダメなんだよな、顔が」
「顔じゃねえ!」
「え、じゃあ性格が?」
「哀しいかな! 否定出来ねえ!」
やっぱりこの馬鹿女と喋っていると頭がおかしくなりそうで仕方ない。俺にとって中世ヨーロッパはかなり異世界なのに、この女の頭の中はさらに異次元だ。
「しかし、ワタルのいた国は凄いな。料理に関することが書物になっていたりするのか。いや、七百年後が凄いのか」
ワインが喉につっかえて派手にむせた。咳き込む俺の背中をさすろうと伸ばしたサリーの手を、邪険に払いのける。
「お前! 何故に俺が未来からきたことを知っている?」
「タイユヴァンが教えてくれたのだ」
あの豚野郎、俺達の極秘情報をひょいひょい流出するとは、一体どういう了見だ。
「私がワタルについてしつこく詮索したのでな、きっと私には意味が理解できないと思って話したのだろう」
「それで、お前はどう解釈したのだ。俺が未来からやってきたという事実を」
「うむ。ワタルは七百歳を越える長生きなお爺ちゃんだったんだけどな、急に若返ったのだ。なかなかメルヘンチックな存在だな、長生き野郎」
「オーケー、だいたい合っているぞ。素敵な発想だ」
確かにこれならマエストロがこの馬鹿女に喋ったのも頷ける。そもそもこの時代に時を遡るなどというSF思考などあるわけないので、七百年後からやってきたと言ってもサリーのように想像するのが正常か。マエストロの方がよっぽど異端だ。
「だろ。だってワタル、言うことやることがひねくれているから、間違いなくクソジジイだもん」
「クソジジイって言うんじゃねえ! ちょっと傷付くだろ!」
「それで、クソお爺さまは七百年後の未来で何をしていたのだ? やっぱり魔法使い?」
「丁寧な言い回しでもクソをつける辺りに、お前が俺に対する気持ちがはっきりと分かるよ、クソ女。俺は調理人をやっていた。もっともちょっと前までは学生だったがな」
「学生? それはまた、随分と悠々自適で高尚な身分だったのだな」
この時代に学生というとそういったイメージになるのか。
「高尚かどうかは疑問だが、悠々自適ではあったな。しかしそれも十五歳までだが」
まだ親父が生きていた時期を思い出して俺は溜め息を吐く。そんな少しメランコリックな俺を察してか、サリーも黙って口を噤んだ。
そして星の瞬く音が聞こえそうなほど静寂に包まれた中、サリーが小さな声で言った。
「悠々自適、か……。私にもそんな時期があった。こう見えても私はな、元は貴族の生まれなのだよ」
驚いて顔を上げた俺に、サリーは幾分寂しげな笑顔を向けて言葉を続けた。
「貴族と言っても今は、没落してしまったがな。ガーベラ・ルージュドール・ド・サンテミリオン……それが私の本当の名だ」
オリオン座の左肩に光る赤い星の脇を、流れ星がスッと落ちていった。

「ボルドー地方にある、田舎の小さな領地を有するサンテミリオン家の長女として私は生まれた。他に兄弟が居なかったからな、それこそ蝶野花子と育てられたものだ」
「なんだそのプロレスラーに嫁いだ新喜劇の女王みたいな慣用句は。もしかして蝶よ花よと言いたいつもりか?」
「それだ、それ。そんなわけで私は、超超超超いい感じに優しい父様や母様から大事に可愛がられて育ったのだ」
「あのさ、前から言おうとしていたけどさ、お前絶対二十一世紀のアラサーOLか何かだろ。何だか平成時代の匂いがプンプンするもの」
「だがそんな幸せな日々が終わりを告げたのは、私が十四歳の時だった」
「ちょ、無視かよ」
一旦口を潤すようにサリーはワインをゴクリと飲み込んだ。そして言い辛いことを告白するみたいに沈痛な顔を俯かせる。
「父様が旅の行商人にたぶらかされてな、香辛料の商売に手を出し始めたのだ。もともと商才があったわけでもないのに上手く口車に躍らされて、気付けばさほど多くもないサンテミリオン家の財産は既に底をついていた。屋敷が傾くのも、没落するのも本当にあっという間で……私は幼い身空で路線に迷ってしまったのだ」
「シリアスな話の最中にごめんね。路線じゃなくて路頭だから。路線に迷うって若手芸人じゃないんだから」
「だが私はたまたま、以前にサンテミリオン家のシェフとして雇われていたタイユヴァンと知り合ってな、幸いにもこの屋敷へ身を置かせてもらう事になったのだ。元貴族という身分は伏せて、という条件付きで。それが今からちょうど三年前になる」
なるほど、これで合点が入った。なぜこの頭が悪いサリーがテーブルマナーだけはきちんと身に付いているのか。マエストロがサリーを「あの人」と呼んだのか。
「しかし、何で元貴族という身分は秘匿しなければならんのだ? いいじゃないか、今は貴族じゃないんだし」
「そんな簡単な話ではなくてな、没落したとはいえ貴族は貴族。一般の民衆には畏怖の対象なのだよ。どう足掻いても生まれた里を替えは出来ない。私が厨房のみんなと分け隔てなく触れ合うには、貴族の名を隠すしかないのだ」
そしてサリーは再びワインをグビリと飲んだ後にホッと吐息をつき、寂しそうに笑った。
今までただ馬鹿なだけの女だと思っていたが、無邪気な笑顔の奥に複雑な事情を隠していたとは。一度高みから没落した人間が市井に紛れ住む空しさを、それでも堪え生きていかなければならない悔しさを、俺も知っている。
サリーの事がどうにも気に掛かる理由がやっとハッキリした。やっぱりこの女は俺と似ているのだ。埋めがたいコンプレックスも、思春期に味わった絶望感も、耐え忍ぶ日々を過ごす辟易も。
俺達は時代も土地もまったくかけ離れた場所で育ったのに、同じ空気を吸って過ごしてきたのだ。
それと同時に、認識してしまったからだろうか。サリーに対して同一種以上の親しみも心の内に芽生えた。
「しかし、一つ驚いたことがある。まさかお前が俺より年下だったとはな。西洋人は歳より老けて見えるというが、十七歳とはビックリしたぞ。てっきり同い年か年上だと思っていた」
するとサリーは途端に真っ赤な顔をして、俺をキッと睨む。そして力任せに突き飛ばした。
「ば、馬鹿っ! 七百歳のジジイに比べて年下に決まっているだろう! 同い年だのと馬鹿にして! それよりもなんで私が十七歳だと知っている! 妖術で読み取ったか?」
「お前まだ俺が七百歳だと信じているのか! それに歳の話は、さっきお前が自分でバラしてたから! 十四歳で没落して三年が経つって!」
「あ……うるさい! それでもレディの前で年齢の話をするのは、ジェントルマンとして御法度だぞ、馬鹿!」
「馬鹿はお前! ついでにとんでもない馬鹿力!」
五メートルはぶっ飛ばされただろうか。天地が逆になりながら怒鳴る俺を見て、サリーは元貴族らしく羞恥に頬を染めた。俺もビックリだよ。まさか自分の体がこんなに軽々と飛んでいくとは思わなかった。
慌てて俺を抱き起こすサリー。そしてすっかりぶちまけて空になったジョッキを預かった。
「本当にすまなかった、ワタル。今、新しいワインを注いでくるから待っていてくれ」
そう言って屋敷内に駆け出すサリーだったが、走りながら自分の手持ちのワインも一気に飲み干す。あいつめ、自分のもお代わりするつもりか。
俺は草の上に寝転がったまま、星空を眺めてサリーを待つことにした。なんだかここ数年、味わうことのなかった清々しい気分だった。そう、まさに今夜の夜空のように晴れ渡って曇りのない……。

しばらくするとサリーが戻ってきて、草原に寝転がった俺の手を引いて起こしてくれた。そして並々と注がれたジョッキを手渡す。
「そういえば、お前の本名がガーベラならばサリーという名は何から取ったのだ? ガーベラならガーベラでもいいじゃないか」
「サリーは私が貴族だった頃、屋敷で働いていた召使いの名前なのだ」
そう言ってサリーはジョッキを傾けたので、俺もそれに倣ってゴクリと飲んだ。
「サリーは、南にある砂と太陽が支配する国から流れてきた、褐色の肌を持つ女性だった。召使いというよりは私の侍女の役割を担っていた、第二の母様のような女性だった」
サリーの声が少し弾んで聞こえる。察するによほど昵懇で親密な間柄だったのだろう。
「彼女は庶民の出身でありながら、様々な知識に精通した不思議な女性でな。私も貴族としての立ち振る舞いや礼儀作法は、全て彼女に教えてもらったのだ。今でもサリーの教えは胸に残っている……。ガーベラお嬢様、朝起きてまずお顔を洗いなさいませ。ガーベラお嬢様、パンは千切ってお食べ下さいませ。ガーベラお嬢様、他人の悪口を人前で仰ってはなりません。ガーベラお嬢様、鼻糞を食べるのはおやめなさい」
「え、鼻糞食っているよ? 鼻糞食っていたんだ、ガーベラお嬢様」
「サリーの教えは、今日の私の大きな支えになっていると言っても過言ではない。おかげで現在では鼻糞をほじるに留まっている」
「ほじるな!」
「他にもサリーには体術を仕込まれた。勉強の息抜きに組み手をしたり筋トレをしたし。ナイフの扱い方を教えてくれたのもサリーだった」
なるほど。こいつがこんなに強いのは褐色の肌を持つ侍女の手解きがあったからか。しかし貴族の娘に何を教え込んでいるのだ、そのサリーとやらは。つくづく十四世紀の人間は訳が分からない。
その時にふと、ある疑問が浮かんだ。
「そんなに慕っていた召使いならば、没落した後に頼れば良かったではないか。お前とそのサリーならばきっと良い傭兵稼業が出来ただろうに。今どこにいるのだ、そっちのサリーは?」
「ん、死んだ」
あまりに呆気なく答えられたので、俺は一瞬でその言葉を飲み下せなかった。
「し、死ん……」
「サリーは死んでしまった。もっとも死に目に逢えたわけではないが、きっと死んだのだろう」
だんだんと酔いが回ってきたのかほんのり目尻を下げながら、サリーはあまりに辛辣な過去を物語でも解説するかのように話した。
「屋敷が崩壊する直前にな、父様と母様は使用人の賃金を未払いのまま逃亡を図ろうとしたのだ。だが結局は事実が露呈してしまい、怒った使用人達は鍬や鎌を携えて武装蜂起をおこしたのだよ。今にして思えば当然の報いだが、あの頃の私は逃げるのに精一杯だった。つい昨日までは朗らかに会釈を送ってくれた使用人達が、憤りに上気して刃物を向けてくるのだから。恐怖なんてものじゃなかった。それでもサリーだけは私に味方をし、逃亡の手助けをしてくれた。あと少しで屋敷の外に抜けられると思ったその時、武器を持った使用人の男が三人、私達に追い付いた。その時のサリーの言葉を私は今でも忘れない。『ガーベラお嬢様、ここは私が殿を努めます。どうぞ、お逃げあそばされませ』……サリーは笑っていた。それが私の聞いたサリーの最後の言葉だった」
そう話を締めると、十七歳のサリーも笑った。
壮絶な人生に掛ける言葉もない。サリーが身分を調理人達へ明かせない本当の理由が別にあるような気がした。
名前や身分を隠すことにより、悲惨な過去を封印したかったのではないか。そして慕っていた召使いの名前を名乗るのは、命を賭して守ってくれた女性を忘れたくないのではないか。
黙り込んだ俺に居心地が悪くなったのか、サリーは肩をぶつけると陽気にジョッキを掲げた。
「まぁ、そう悲観的にならんでくれ。この時代、人の命を奪って生き長らえるなど当たり前のことなのだ。どんな形であれ、生きているものが勝ち、死んでしまったものは哀れむだけ。だから私は精一杯に生きて、この身が朽ちる前にいつかは立派な調理人になりたいのだ」
「そういえば、サリーは何で調理人になろうと思ったのだ? この時代で女だてらに調理人を目指すなど珍しいだろうに。マエストロから拾われたからといって、必ずしも調理人になる必要はなかったはずだ。他にもこの屋敷で仕事はあるだろう。給仕とか曲芸人とか」
するとサリーは一瞬驚いたように瞳を丸くし、次に満面の笑みを浮かべた。
「……やっと、サリーって呼んでくれた」
こぼれるような温かい微笑みを浮かべたサリーは夜だと言うのに眩しくて、思わず目を反らしてしまいたくなるほどに神々しく輝いていた。
「ち、違う! だってたまには名前を呼んでやらないと、俺がサリーの名前を知らないと勘違いするだろ! いいか! 俺はお前と違って頭の出来は良いんだ! 一度他人の名前を聞いたら絶対に忘れないんだからな! お前と違って!」
「あ、またサリーって呼んでくれた」
照れる俺をからかうのが面白いのか、サリーは俺の紅潮した頬を突っつこうとする。俺は手を振って払いのけた。
「もういいだろ、馬鹿女! なんで調理人になどなろうとしたのだ。せめて質問にくらい答えろ」
再び問い掛けるとサリーはからかうのを止めて、ワインを一口飲むと真っ直ぐ前を見た。

更新日 9月9日

「うちの父様と母様はな、たいそうなグルマンだったのだ。大抵の貴族は軍備の強化かキレイな庭園を管理することに出資するが、サンテミリオン家は豪勢で美味な食事にばかり財を費やしたのだ。この屋敷ほど大きくない弱小貴族がタイユヴァンを召し抱えるくらいだ、異常なほどの力の入れようなのがわかるだろう。だから私も幼い頃から上質なものばかり食べて育った。頭は残念ながら……だが、舌と手先の器用さには自信がある」
「すると、知識さえ身に付ければ他の調理人には遅れを取らない、と」
「うむ。まぁ、そんなに上手くはいかないことばかりだけどな、いつかはタイユヴァンに負けないくらいの調理人になってやる。それに、調理人になりたかったのは他にも理由がある」
秘め事を打ち明けるように一拍呼吸を調えるサリー。その瞳はキラキラと輝いていた。
「私は、私の作った料理をみんなから食べてもらって、幸せな気分を味わってもらいたいのだ。美味しい料理は幸福に満ち溢れている。どんなに辛いことや悲しいことがあっても、美味いご飯を食べれば全て吹っ飛んでいってしまう! 料理にはそんな魔法の力が込められているのだ。だから私も誰かを、私の料理を食べた誰かを幸せな気持ちにしてあげられるような立派な調理人になりたいのだ」
腹の底から温かい気持ちが沸々と湧き上がってくる。俺はとうとう堪えきれずに、声を上げて笑った。怪訝な顔をするサリー。
「笑うことないじゃないか。どうせ頭の悪い女が届かない夢を見ていると、馬鹿にしているのだろう。やっぱり言わなきゃ良かった。ワタルの馬鹿。鼻糞」
「鼻糞はお前だろ、ガーベラお嬢様。いや、違うのだ。馬鹿にしていたわけじゃない」
頬を膨らませるサリーに俺は手を振って詫び、誤解を解いた。
「お前がな、あまりにも俺と同じ事を言うので、ついおかしくなってしまったのだ。ここまで境遇が一緒だと不思議な縁を感じる」
「私がワタルと同じ、境遇?」
「いや、こっちの話だ。俺が調理人になったきっかけもな、サリーと同じで料理で誰かを幸せに出来ればと思ったからなのだ。生まれ育った時代は違えど、俺達は同じ動機でここにいる。まさに不思議な縁だよ」
そう言って俺はサリーにジョッキを突き出す。最初は目を丸くしたサリーだったが、すぐに顔を崩すと嬉しそうに自分のジョッキをぶつけてきた。
「立派な調理人……目指すなら目指してやろうじゃないか」
「お互いに、な」
そして乾杯を済ませた俺達は高らかに声を上げて笑い合った。
あぁ、本当にこんなにも清々しい夜は初めてだ。誰かと気持ちが通い合うという感触とは、こういうものなのか。
降ってきそうな星空を見上げて目尻を拭う。笑い過ぎたからか、星明かりが眩し過ぎたからか、涙が溢れ出しそうになった。
「なあ、ワタル。お前がいた世界の話を聞かせてくれ。きっとこのフランスとはだいぶ異なる世界なのだろうな」
「当然だ。今の数百倍は文明が発達している。移動手段などは馬になんぞ頼らず、自動車や電車といった鉄で出来たカラクリに乗るのだ」
「なんと、馬が鉄で出来ているのか」
「違う違う。自動車の中に動力源となるカラクリが入っていているんだ」
「つまり鉄の中に馬を閉じ込めて走らせているのだろ。お馬さん、可哀想……」
「だから違うっつーの。人の話をちゃんと聞け」
分かりやすいように俺がいた時代の話をするが、トンチンカンな解釈ばかりするサリー。まともに会話が成り立たないが、言葉と言葉でじゃれ合うような感覚でそれがまた楽しかった。
高揚した気分が酔いをさらに加速させ、さほど酒が強くない俺はいつしか記憶が途切れ途切れになり、そのまま意識が遠退いていった。酔いで湾曲する視界が最後に捉えたのは、サリーのとろんと甘えた笑顔と西の空から上り掛けた三日月だった。


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