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2012'07.23 (Mon)

傲慢に書き綴ったル・ヴィアンディエ 第二章

「おい、おやっさん。冷やをもう一杯」
空になった安物のガラスコップを、頭が禿げ上がった親父に突きつける。親父はじっとりと何か言いたげな瞳を向けながら、コップを受け取った。
「今日は一日中ずっと重い物を引きずっていたから、体中がだるくて適わん。明日は確実に筋肉痛だな」
酒を注いだコップを差し出しながら、親父が尋ねる。
「お兄さん、ガテンかい? あんまりそんなナリには見えんがね」
親父から受け取ったコップを傾けると、安酒独特の醸造アルコール臭さが口一杯に広がる。俺は腹に落ちたムッとする酒気を溜め息と一緒に鼻から吐き出した。すると後には心地良い酔いだけが脳髄に残る。
「元セレブ族な俺が肉体労働などするわけもないだろう。コックだ、コック」
「おや、こいつは同業者でしたかい。どちらにお勤めのシェフさんで?」
「クレセントっていうデブが経営している店さ」
「あの最近ミシュランを取った店かい。お兄さん、良いとこに勤めているね。重い物引きずっていた、ってことはソースかポタージュの仕込み鍋かね。寸胴鍋にたっぷり物が詰まっていると、相当な重量になるわな。若いのにストーブ前を任されているとは大したもんだ」
どこからそうなるのか、親父は勝手に勘違いをしている。俺はまさか訂正も出来ず、曖昧に返事を濁した。
店が閉まって帰路につく頃には当然ながら大概の飲食店は閉店していて、小腹と胸に溜まった鬱屈とした気持ちを満たしてくれる店といえば、ガードレール下の赤提灯くらいである。このままアパートに帰っても、どうせレトルトの麻婆豆腐と口やかましい従姉妹が待っているだけだ。親父が教えてくれなかったやるせない気分を晴らす方法を、俺なりに考えた結果がこれだった。
「それでよ、マエストロは言うんだよ。お前には才能がないって」
大根とガンモと愚痴を肴に、俺は不味い安酒を飲みながら親父に語り掛ける。
「どう思うよ、マスター。たまたま星を取れたポッと出の分際が、この世界中のありとあらゆる美食を食べ尽くした俺に偉そうに意見しやがるんだ。ふざけやがって! 才能どうこう言う前に、一度俺にちゃんとした料理を作らせてから言いやがれ!」
手元の台を拳で叩くと、酒が入ったコップが揺れた。大声で管を巻く俺を軽く諫めながら、親父は腕組みのまま相槌を打つ。
「調理人なら一度は悩む問題でさぁ。自分が精魂込めて作った料理を貶されて才能が無いなんて言われりゃあ、誰だってヘコむさ。あっしだってこんな商売ですからね、しょっちゅうお客さんから味付けがどうのと悪態つかれますよ」
「だろうな。だってこのおでん、大して美味しくないから。醤油の味が強すぎてせっかくの出汁も風味もあったもんじゃない。それに大根もきちんと面取りをしないから味が上手く染み込まないんだぞ。亭主、しょっちゅう言われているなら、少しは改善しようと思ってみてはどうだ?」
親父の顔が笑ったまま凍り付く。俺は気にも留めず、そのさして美味しくないおでんを摘んだ。
「店長、牛スジを使うのは良いが、物が悪すぎて臭みが他の具材にも移ってしまっている。なんでもかんでも、ごった煮すればいいってもんじゃないだろ。別で煮るか、きちんと仕切りをした方がいいぞ。おい、冷やをおかわり」
若干ムッツリとした目つきで親父は俺が差し出したコップを引ったくると、乱暴に渡してきた。俺はその態度に腹を立て親父を睨み返す。
「大将、なんだその態度は。それが客商売をする人間の態度か?」
「……そんなこと、お兄さんに言われたくないね」
酔いで回った頭は乾燥した藁のようなもので、普段以上に着火が早い。俺は明らかに機嫌を悪くした親父に噛みつく。
「思ったことを正直に言っただけだろうが。美味くないものを美味くないといって何が悪い? まだきちんと食べているだけマシだろうが」
「ふざけんな、まだ世間ってものを知っちゃいない若僧が。そんなに美味いものを食いたいんなら、こんな場末の屋台じゃなくてきちんとした店に行きやがれ」
「そうやって客の意見をまともに取り入れようとしない店主の態度が、料理を不味くしているんだよ。潰れてしまえ、こんな屋台」
「作り手を前に、そこまでホイホイ不味い不味いって連呼出来るあんたの性格が一番マズいわ! それと俺の呼び方をいい加減に統一しやがれ!」
売り言葉に買い言葉。頭が茹で蛸のように真っ赤になった親父は、歯をむき出しにして俺を睨む。きっと間に屋台がなかったら掴みかからん勢いだろう。
俺も別に喧嘩を売りたかったわけでもないし、少し言い過ぎたとも反省している。しかしフラストレーションを溜め込んだ今の気分では、そんな冷静な思考などかき消えていた。
「そんなにケチを付けるんなら帰ってくんな。口先だけの若僧に飲ませる酒なんて、もうねえよ。二度と来るな」
「なんだと、ハゲ親父。客を追い返す店員があるか。貴様、それでも商売人か。おい、酒をおかわり!」
「お兄さん、頭が良いんなら民法第百九八条の占有妨害又は第七十九条の不法行為を知っているか? 店は気に入らない客が来たら追い返して良いって法律で決められているんだよ。ほれ、そのコップを空けたらさっさと帰んな」
目つきだけギロリとこっちに向け、親父は手をヒラヒラ振った。俺はその態度にカッときて立ち上がる。こんな最低な店主を見るのは初めてだし、客の立場で来てここまでコケにされたのは初めてだ。
俺は親父にぶつけるセリフを頭の中に用意しながら、コップの中に入った酒を一気にあおった。そしてグッと力を込めて番台にコップをドンと叩きつけて立ち上がる。

「貴様のようなタコやろごぼろげぼばばっ!ぶごぶれぶしょろばっ!おぼろぼぼぼろっ!」

親父の目が点になる。俺の目も点になる。この空間が一瞬にして、静寂に包まれた。
おでんがグツグツと煮える音が妙に大きく聞こえる。
まさに、噴射だった。
自分でもビックリするほどあっという間に、胃袋の中のご馳走が外に飛び出した。
急に酒を大量に飲んで咽てしまったのと、大声を出そうと口を開けて下っ腹に力を込めたのが見事にコンボを決めた。腹筋と横隔膜が条件反射並みに収縮し、胃袋は驚いてパニックを起こし、入ってきた物を入ってきた場所にぶん投げ返した。
最早、留める余裕もなかった。くしゃみをしたら耳から脳みそが出た気分だった。
グツグツと心地良く煮釜に泳ぐおでん達。その上に、場違いな具材が唐突に追加されている。
いくら料理下手な俺でもお好み焼きは煮るものだと思っちゃいない。ましてやお好み焼きを作るのは得意な方じゃない。いや、どちらかといえばお好み焼きを作りたい気分じゃない。というよりも、このお好み焼きはヤバいだろ。
親父が正気に戻るより一瞬早く、俺はここ数年にない反応速度で回れ右をして走り去った。後ろから聞こえてくる親父の怒号に耳を塞ぎながら、とにかく夜の町を全力疾走で駆け抜けた。
たぶん小学生くらいの時だろう。普段はニコニコと料理の話しかしない父親が、珍しく真面目な顔で俺に諭した。どんなことがあっても逃げてはならない、前に進まなくてはならない、前に進むのが辛くても逃げてはならない、立ち止まり歯を食いしばる方がよっぽどマシだ、と。
お父さん! 今はそんな立派なことを言っている場合じゃないよ! 逃げなきゃいけない場面だってあるから、絶対!

無我夢中で走り続けて、息が上がり膝をついた場所はクレセントの近くにある廃品回収置き場だった。
足はガクガクで喉が有り得ないくらいに乾き、もう一歩も動けない。急に走ったせいで酔いが猛烈に回り、俺はゼーゼー荒い息を吐いたまま横向きに倒れた。
最低最悪だ。昨日からずっと最悪なことばかりだ。無駄に長い帽子を被ったおかげで小火騒ぎを起こし、不味い賄いを作ってマエストロから呆れられ、場末の屋台の親父と喧嘩してゲロをぶちまけて逃走。何一つ良いことなどない。他人に迷惑掛けてばかりだ。
しかも全ては自分の傲慢さと不器用さが原因で引き起こした事ばかり。目も当てられない。誰に話しても同情すらしてもらえないだろう。
また、自然と涙が溢れ出してきた。もう何度目になるか分からない悔し涙に呆れ果て、自分自身に嫌気がさしてくる。
拭っても拭っても涙は次々に溢れ出してきて、俺はついに諦めて声を上げ泣いた。
こんなゴミ置き場でボロ切れのように泣き崩れる自分に、一体どれほどの価値があるだろうか。
親父が死ぬ前の頃は、馬鹿みたいにチヤホヤされて、自分がこの世の長か王だと思い込みすらしていた。だが結局のところそんな生活は自分が築き上げたものではなく、他人の財産に胡座をかいていただけで、そんな事すら気付かなかった自分はまさに裸の王様同然。ここに捨てられた粗大ゴミの方がまだ価値あるものだっただろう。
頭上を見上げるとビルの谷間からは、月も見えず星も曇天に隠されている。引きこもり時代に幾度となく味わった孤独の二文字が、空っぽになった俺の胸に寒い風を吹かせた。
迂闊にも屋台で親父に店の名前を言ってしまった。明日か遅くてもその次の日には、あのタコ親父が店に乗り込んでくるかもしれない。
そうなればいくら情に厚いマエストロといえども俺を見捨てるだろう。その場合を想像するだけで、絶望感はさらに胸に広がっていった。
もう一秒も時が進むことすら恐怖になる。出来ることならこの存在すら無かったことにして、消えてしまいたい。
泣き疲れたというのに涙は枯れることはない。このまま泣き続け、体すべての水分を出し尽くしてしまえば朽ち果てられると一瞬思ったが、先に枯れたのは声の方だった。
ビルの狭間に反響していた負け犬の雄叫びも弱々しくなり、そこで俺は傍らで静かにうねりを上げる物に気付いた。
グシャグシャになった目を擦らなくてもそれが何だか分かる。俺が二日間かけて運び出したあの冷凍庫だ。
以前までクレセントで一役買っていた冷凍庫だったが、先日ミシュランで一つ星を取ったのを機に引退を言い渡されたのだ。なんでも、星をもらったレストランが冷凍食品を使うのは相応しくない、という理由らしい。
あまり得意でない力仕事をしたせいで凝った腰をさすりながら体を起こし、俺は冷凍庫に手を当てると微かな振動が伝わってきた。無機質ながらも、こいつが生を成している証だ。
不思議なことにこの冷凍庫は、電源を差し込んでいなくてもキチンと稼働をしているのだ。これはどう考えてもおかしい。どういう構造になっているのだ?
俺はおもむろに冷凍庫の扉を開く。業務用の天面ドアタイプなのでやや重量があるが、不思議なことにドアは途中まで開けると、まるで俺を招いているかのように勝手にスーッと全開になった。俺は庫内に手を差し入れ、指に絡み付く冷気を確かめる。
「随分と冷たい……」
一人ごちながら冷凍庫の内側にマグネットで貼り付いた温度計を確認して唖然とする。
常にマイナス四十度前後をキープしていたのに、今はマイナス八十度まで計測可能な温度計の底を打っていた。もしも温度計が壊れていないならば、今この中はマイナス百度以下の超寒冷ボックスである。
「なんだ、こいつは。本当に壊れてしまったのか? そもそもいくら業務用冷凍庫でも氷点下過ぎるだろ。いや、電源も無しに稼働している時点で……」
コイツについてあれこれ思考を巡らせていたが、はたと溜め息を吐いて打ち切った。この冷凍庫の実態など、俺にとっては最早どうでも良いことなのだ。
ただ、俺の心肺機能を停止させてくれるだけの凍える温度を保っていてくれれば、それでいい。
俺は涙を拭うと躊躇なく冷凍庫を跨ぎ、中に片足を入れる。その瞬間から冷気はズボンの裾から脛へと絡み付く。心臓を鷲掴みするような恐怖がゾッと全身を駆け巡るが、俺はもう片足を冷凍庫の中に入れた。
辛くも絶望感で打ちのめされた魂が、死への恐怖を凌駕してしまったのである。
冷凍庫にスッポリと収まると、俺は扉を閉じてゴロンと仰向けになる。そして胸元で手を組み、静かに瞼を閉じた。耳元に冷凍庫から伝わる振動音が聞こえたが、すぐに意識が遠退くのと同時にかき消えていく。
もう今生に未練はない。誰にも気付かれずにひっそりと息を絶とう。
電源いらずの冷凍庫ならば、このままゆっくりと体温を奪い、今の形を崩さず固めてくれるだろう。そしてそのままこの冷凍庫と共に廃棄処分されれば良いのだ。そうすれば誰にも迷惑を掛けずに済む。それが俺の世の中に出来る最後の気遣いになる。
背中からジワジワと体の表面が凍結していくのを感じる。不思議と痛みはなく、楽に死ねそうだと喜ぶ。体の感覚も最早消え失せ、意識自体も朦朧としてきた。
一瞬だけ、一人アパートで俺を待つメイの寂しげな顔が脳裏をよぎる。
次に頭の中へ現れたのは、無表情にこちらを見つめる親父と写真でしか知らないお袋の姿だった。
ごめんなさい……。親不孝で意気地なしの息子でごめんなさい……。
すぐにそっちへ行くよ。だからあまり怒らないで欲しい。親父から説教をされたことなんてなかったから俺、傷付いちゃうかも。
思考が完全に停止する直前に一度だけ、背後で冷凍庫が大きく唸りを上げた音が聞こえた気がした。


第二章

世界各地のグルメスポットを隈無く網羅することに生涯を捧げた親父だったが、食べ歩きの他に唯一の趣味と呼べるのがドライブだった。
普段は会社から役員支給されているリムジンで移動していたが、オフの時はハマーで颯爽と街を駆け抜けていた。
もっとも颯爽というには贔屓目過ぎるほど運転は下手くそで、急加速急停車急旋回はお手の物と、某ネズミ大国のアトラクションに乗っている気分だった。俺の不器用さは確実に親父からの遺伝だろう。
それでも下手の横好きとは言ったもので、よく俺を誘っては首都高に乗って都外地にある絶品レストランへと向かった。助手席へ乗せられる度に文句を口にする俺へ、親父はバツが悪そうに首を竦めたが、すぐに子供みたく無邪気に笑いハンドルをさばくのだ。
そんなある日、金沢にある料亭に行った帰りのこと。朝早くに出掛けたこともあってか、俺は帰り道に助手席でうたた寝をしていた。そして自分の体が異様なくらいに揺れていることに気付いて目が覚めたのである。
うっすらと目を開けようとした瞬間、何かにぶつかった衝撃を受けて体が座席から浮いた。驚いて顔を上げるとさらに腰が浮き上がる。
局地的な地震か何かと思い視線を外に向けて唖然とした。どこの山かは分からないが、車はアスファルトの上ではなく地肌丸出しの林道の中を猛スピードで走っていたのである。
あんぐりと口を開けようにも、体が跳ね上がって舌を噛みそうになる。寝起きの混乱した俺の耳に聞こえてきたのは、回転数を有り得ないくらいに回したエンジン音と、目を爛々と輝かせた親父の高笑いだった。
どうやらこの親父、山道を走っている間に、オフロードで走ってみたい衝動に駆られたらしい。半ば泣き叫びながら暴走する親父を無理矢理に静止させ、俺は親子の縁を切らんばかりの勢いで親父を怒鳴り散らした。
それからというのも、俺は乗り物の中では絶対に眠れないというトラウマを植え付けられたのである。神経が繊細過ぎると笑われるかもしれないが、そんなものでは済まされないほどの衝撃を味わったのだ。あんな体験をすれば誰だってトラウマになるだろう。
そう、ちょうど今の揺れはあの時の感覚に似ている。

「親父揺れてる、いてっ!」
俺は反射的に身の危険を察して跳ね起きた。しかし勢い良く体を起こした瞬間、額を何かに思いっきりぶつけて、もんどり打つ。
目の前に星が舞い散る。俺は雄叫びを上げながら、両手で額を押さえて目を見開いてみたが、視界は依然として真っ暗闇だった。
頭の中が整理仕切れなくてまごつくが、俺の体は未だにガクンガクン揺れ動いている。何かの中に入っていて、その何かがもの凄い勢いで移動をしているのは分かった。だがパニック状態の脳みそではそこまでが限界で、俺は頭を抱えて漆黒の空間の中、ガタガタと震えていた。
何度目か箱の中で跳ね飛ばされた後、一際強い衝撃をドン! と味わされてから、箱の外は静かになって停止した。俺は仰向け状態で縮こまり、凝り固まった体からゆっくり力を抜く。
そして曲がった脚にグッと力を込めて天面を蹴り上げて立った。
「ふざけるな! シートベルトくらいきちんと締めさせろ! この苦痛、損害賠償程度で済ませられると思うな! 貴様にも深いトラウマが生まれるくらいに毎日ネチネチと俺の作った不味い飯を食わせて尚且つその感想をポートレートにしてブログに一年間記載させ続けてやる!」
気が動転して訳の分からない言葉を口走ってしまった。
そして急に立ち上がったのと暗闇から日光の当たる場所に出たからか、軽く目眩を起こす。眩しい、ということは屋外なのだろうが、何故俺は太陽を拝んでいる? そもそもさっきの震動は? ここはどこだ?
様々な疑問が頭の中で矢継ぎ早に生まれてはしぼんでいく。そして眼もだいぶ慣れてきたので俺は辺りを見渡し、さらに首を傾げた。
俺の目の前には馬に跨った人間が二人。さらにその男の後ろには同じく馬に跨り、棒の先端に尖った刃物を具え付けた人間がずらりと囲んでいた。遠巻きの連中は口元を四角い布で覆い隠している。
馬に乗っているとか、槍を握っているとか、全員の目が点になっているとか、時代錯誤な服装とか。関節がギリギリ唸るほど首をひねりたい光景が俺の周りに溢れていたが、まずは一番に突っ込みやすいところを突っ込んでおきたい。
この中に、俺の知り合いがいた。
「……マエストロ。お前はここで何をしているのだ?」
俺の疑問に正面で目を丸くしていたマエストロは、額にシワを作って唖然とした。
「マエストロ……? お前、誰だ?」
「お前、自分の渾名も忘れてしまったのか。俺が唯一、他人に対して敬意を示した渾名なのだぞ。それともなにか、嫌がらせか? 今日の昼に不味いパスタ食わされた腹いせがそれか?」
「何を言っているのだ? 突然に崖から落ちてきて。俺に東邦人の知人などいない。お前も賊の一味か? いや、だったら何故に仲間を突き落とした」
「誰が族だ。誰が盗んだチャリンコで走り出すだ。そもそも後ろの奴らは何者だ? そっちの方が族っぽいぞ。良い歳こいて山賊ごっこか。なんとも侘びしい趣味だな、マエストロ」
その一言で急にマエストロは顔色を変えると、馬の手綱を引いた。鼻息を荒げた馬が突進してきたのに驚き俺は思わず身をかがめたが、マエストロを乗せた馬は鮮やかに俺を飛び越えた。そしてマエストロは着地と同時に背中に携えた弓矢を構え、放つ。
俺の頭上を掠めて飛んでいった矢は、後ろを阻む馬の胸元に刺さった。その瞬間、眼の色を変えた馬が暴れ出し、乗っていた人間を振り落とし、隣の馬を後ろ脚で蹴り飛ばす。土埃が舞い、馬の悲痛な叫びと大地を踏みしめる音が交差し、辺りは一気に修羅場と化した。
「なんて事をするんだ、マエストロ! お馬さんが可哀想じゃないか! 動物愛護団体から苦情が来ても知らんぞ! お前、向こう一年間は馬肉を食べるの禁止な! 桜肉、超美味しいのに!」
 俺が抗議をしていると、マエストロの傍にいた人間が馬から降りて俺に近付く。顔面を布で覆った怪しい人物にたじろいだが、そいつは俺を冷凍庫から出るように指示をした。
「すまんが、これを借りるぞ」
「は? 冷凍庫を?」
 するとあろうことか、そいつは冷凍庫を発砲スチロールのように軽々と持ち上げると、目の前で道を阻んでいる一団へ向けて放り投げた。冷凍庫をぶつけられた連中が、絶叫と共に馬もろとも崖下へ落ちていく。
 とんでもない馬鹿力に開いた口が塞がらなかった。俺が二日間掛けてやっとのこと動かせたほどの重量だぞ、あの冷凍庫は。
あまりの有り得なさに呆然とした俺を、マエストロは馬上から冷静に俺を見下ろし、馬の鼻先を逆方向へ向ける。
「退路は確保出来た! 逃げるぞ、東邦人! お前がこの賊達の仲間でないのなら、俺と一緒に来い!」
俺はマエストロと後ろで乱舞している一群を交互に見る。
何が起こっているのか、唐突過ぎてさっぱり分からない。
この風景と空気の匂い、マエストロの服装や暴力的な行動に、馬。全てが現実味に欠けていて、自分が夢の中にいるようだ。
頭を抱えて悩む俺に痺れを切らしたのか、マエストロは連れの怪力に声を掛ける。するとそいつは俺の腰を掴み、万力のような力で無理矢理に馬の背中に投げた。そして自分も軽く身をこなし、馬上に跨る。
「走るぞ! しっかり掴まっていろ!」
その言葉で俺は反射的にマエストロへしがみつく。すると何の前触れもなく馬は大地を馬蹄で踏みしめ、駆け出した。覆面の怪力も後方の賊を警戒しながら、あとに続く。
激しく揺れる馬上で俺は振り落とされないよう、必死にマエストロの肥えた腰に両腕を絡める。後ろを振り向くと、矢が刺さった馬が暴れに暴れバランスを崩し、ちょうど崖下へと転落していくところだった。
俺は悲鳴を上げて落ちていく馬を憐れみながら、視線を移す。さっきまで俺が入っていた冷凍庫が、暴れた馬に蹴られて崖下へ落ちていった。
その光景を眼にした瞬間、俺は思わず叫んだ。
「冷凍庫っ! 俺の冷凍庫が落ちちゃった!」
マエストロの体から手を離し、冷凍庫の方に手を伸ばそうとしたが、揺れる馬上では掴んだ物から手を離すのは命を落とすに等しい。離しかけた俺の手を、マエストロが空いている脇で挟み、遮った。
「このまま奴らが追って来られない場所まで突っ走る! それまでは大人しくしていろ!」
風景は飛ぶように変わっていき、あっという間に遠ざかっていった。

どのくらい走っただろうか。いい加減に尻の痛さも限界に達してきた頃、マエストロは手綱を軽く引いて馬の速度を弱めた。
「この辺まで来ればもう安心だ。ゆっくりと道中を進んでも大丈夫だろう」
「あがが、こ、腰が、砕けそうだ。なんだ、乗馬というのはこれほどまでに過酷で殺人的なのか。拷問に近いぞ」
小さく微笑みを浮かべると、マエストロは馬の横腹を足で叩く。すると馬は首を振って軽く嘶いた。
「俺の名前はギョーム・ティレル。お前の名前は?」
「何を今更……。部下の名前を忘れるほどに脳みそにも脂肪が付いてしまったのか? 俺の名前は亀岡渉だ。給与明細に間違った名前を書かないようにキチンと覚えておけ」
こいつ、自分に外人っぽい名前をつけて何様のつもりだ? ミシュランに星をもらったからって、名前までフランス風にするつもりじゃないだろうな。
これだから東北の片田舎から上京してきたお上りさんは品が無くて困る。もっと自分の名前に誇りを持て。お前には日本人らしい不細工な名前があっただろう。……あれ? マエストロの本名って、何だっけ?
「ワタルか、良い名前だな。ところでワタルは、何であんなところにいたのだ? そもそも、さっき入っていたあの白い箱は一体? 東邦人はみんなあの箱を移動手段として用いているのか?」
「そんなわけないだろ。あれはどうみてもお前が捨てた業務用の冷凍庫じゃないか。さっきから白々しいぞ。まともに受け答えをするのが腹立たしくなってきた」
「俺だってワタルの言っている意味が半分も理解出来ん。お前、俺を誰かと勘違いしていないか?」
何かがおかしい。俺の目の前にいるのは確かにマエストロなはずだ。だが瞳の色といい、服装といい、馬に乗っているといい、何かが違う。
もう一度、頭の中を整理する。
俺は昨晩、屋台の親父と喧嘩してゲロをぶちまけて逃げてきた。そして生きている事にほとほと嫌気が差し、冷凍庫に自ら入り凍死自殺を図ったつもりだった。でも次に目覚めると、何故か山奥の崖を冷凍庫で滑り落ち、馬に乗ったマエストロに出会い、冷凍庫を覆面野郎からぶん投げられ……。
目覚めたところから明らかに何かが違う。何故、都会の片隅の廃品置き場にいた俺が、冷凍庫ごと山奥に移動している? 誰がそんな面倒臭いことをしたのだ?
そして、ここはどの辺だ? 山岳地帯ということは、多摩かその辺りなのか?


更新日 7月27日

山岳路は、しばらくすると平原へと続いた。後ろを振り返ると今辿ってきた地形の全容が露わになる。鬱蒼とした木々に囲まれた山だと思っていたものは意外と標高が低く、山というよりも丘が連なったような大地だった。平原に進むと途端に道は開けて、道幅は自家用車が二台は通れるほどに広い。どうやら先ほど通った山道は正規の道ではなく、獣道を切り開いただけのようなものなのだろう。
青々と茂った草原の真ん中に通った道路を悠々と進むのは清々しいほどに気分が良い。頬に当たる風が暖かく、俺は思わず感嘆の吐息をついた。しかし、何かがおかしい。
「なあ、マエストロ」
「だから俺はマエストロじゃない。ギョーム・ティレルだといっただろう」
「なあ、業務タオル。一つ聞いていいか。いや、もっと早くに聞くべきだったが、ここはどこだ?」
まずは疑問の基盤を固めておかなくてはいけない。マエストロは一度、チラリと俺を横目で振り返り、次に目の前に広がる雄大な景色を見渡した。
「ここはプロヴァンスのドフィネ地区だ。お前はそんなことも知らずにフランスへ来たのか」
心が折れそうだ。何を馬鹿げたことをのたまっているのだ、このデブは。
「プロヴァンスといったらフランスの地区だろう! 俺だって親父と何度となく赴いたが、こんな大自然ではなかったぞ。近代的とは言わないが、少なからずとも道路はまともなのが通っていた。それにフランスまで一体どれくらい時差があると思っている。もう少しマシな嘘をついてくれ」
「時差? とは何のことだ」
頭がグルグルと回りおかしくなりそうだ。これ以上、マエストロの下らない冗談に付き合っていられないが、たちが悪いことに俺の本心はマエストロの冗談を冗談だと捉えていない。
「そうだ。ここがプロヴァンスだと言うなら、確かこの辺りにアヴィニョン教皇庁があったはずだ。どの方角だ?」
するとマエストロは急に手綱をひいて馬をとめた。リズムよく歩みを刻んでいたのを邪魔されて、馬は不機嫌に鼻息をフンと荒げる。
「お前、何故この地区に教皇が城を構えることを知っている? 国内でもその機密情報を掴んでいる人間は数人だけのはずだが」
鋭いマエストロの視線が突き刺さり、俺はたじろぎながらも反発する。
「知っているも何も、ガイドブックに載っている程度の知識だろうが。機密情報などと大袈裟に言うものか? いつの間にお前の言うフランスは、観光事業に対して神経質になったのだ」
半ば呆れながら一般常識を語る俺に、マエストロはなおも不審な眼差しを向ける。
「命の恩人だと思って無用な詮索は控えていたが、よくよく考えれば怪しすぎる男だ。東邦人で急に白い箱に乗って現れるわ、妙な服装をしているわ、話は全く噛み合わないわ」
「怪しいのはお前の方だ」
そこでマエストロは値踏みするように俺を頭から爪先までジロジロと眺め、おもむろに口を開いた。
「お前もしかして、魔法使いだな?」
「……駄目だ、こいつ。頭がイッてやがる」
「昔、何かの文献で読んだことがあるぞ。東邦には黄金で出来た神秘的な国が存在し、見たこともない妖術を操る魔法使いが住むと」
「はいはい、そういうことで良いよ、もう。勝手にやっていてくれ、豚野郎」
 隣を並走する覆面野郎も、チクチクした警戒の眼差しをこちらに向けてくる。よく見れば、腰に差したナイフに手まで掛けているのが恐ろしい。
下らない戯言に付き合うのにはウンザリだ。調子が狂うような出来事や話がポンポンと飛び出て、俺は正直に辟易した。一体、誰が何の目的で俺にこんな受難を与えているのだ。
「……もしかして」
その時、俺の頭の中にある憶測が生まれた。
顎に手を当て、更に怪しんだ眼差しで見つめるマエストロを見返しながら脳みそを働かせる。考えを巡らせれば巡らせるほど、予感は実感を得てくる。誰が何の目的で、までは分からないがこんな大それたことが出来る輩に心当たりがあるのは一つしかない。
「なるほど、合点が入った」
親父の実家だった大企業、亀岡グループが仕掛けたドッキリだろう。
奴らほど財産があれば、ここまで大袈裟な芝居の舞台をこしらえるのは容易いはず。
きっとあんな大企業だ。俺が亀岡家トップの仲間入りするに相応しい人物が、試しているのだ。とすると、あの亀岡グループが倒産したというニュース自体も真っ赤な嘘。メイにしても仕掛け人の一人ということか。
しかしながら、数年という長期スパンで随分と手の込んだドッキリを仕掛けたものだ。
そして俺は、もしかしたら親父の葬式も嘘だったのかも知れない、という淡い期待すら抱いた。もしもそうだとしたら、どれだけ嬉しいことか。一瞬だけ胸をよぎった哀愁に苛まれながらも、俺は首だけこっちに向けたマエストロに視線を戻す。


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