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2012'07.16 (Mon)

傲慢に書き綴ったル・ヴィアンディエ 第一章

レストランの厨房はいつだって真剣勝負の場だ。
『二番テーブル、オーダー! 手長海老のサラダ、サフラン風味! 仔牛胸線肉の筒巻きブレゼ!』
『ウィ! ムッシュ!』

研鑽と絶え間ない好奇心を培った調理人。俺達の屈強な魂は、ある一つの信念に向かってのみ、捧げられる。
そして俺達の行動は純粋に、緻密なまでにその信念だけを追い求め、蠢く。
『三番テーブルのオードブル、上がりました!』
『一番テーブルのビアンドはまだか! ゲストのご婦人は魚よりもビアンドが先だとオーダーしただろ!』
『山根! そろそろ六番テーブルのアントルメに掛かれ! クラシック・ガトーショコラティエ!』
『ウィ! ムッシュ!』

さほど広くない厨房内を計算し尽くされた手捌きで、次々と料理を仕上げていく。
一つの料理を手掛けるシェフの数は少なくとも三人以上。寸分の狂いも無駄な動作もなく、芸術品に近い料理を完成させる姿は、さながら精巧な高級腕時計の歯車のように正確だ。
『三番テーブルのホストが、魚料理のワインをイタリア産からフランスのピノ・ノワールに変更! 可能ならばソースもワインに合わせて頂きたい!』
『ウィ! 了解だ!』
『おい、ダメ岡! ソテーパンはまだか! ラスト一枚しかないぞ!』
『一番テーブルのビアンド、上がりました! 遅れて申し訳ない!』
『安心しろ! 今は先に出したバケットにご執心中だ!』

俺達が胸に宿した信念はただ一つ。お客様が平伏すほどパーフェクトな料理を提供すること。
そのためならば、たとえこの身が熱したフライパンで焼かれようとも厭わない。この世にまだ存在しえない絶品な料理を作るためならば、喜んで全てを捧げよう。
何故なら俺達は、永遠の探求者であり、貪欲な聖職者でもあるからだ。
『山根! アントルメは後回しだ! 先に五番テーブルのガルニを盛り付けろ!』
『三番テーブルのポワソンのソース、やり直せ! 佐々木の言ったワインの話を聞いてなかったのか!』
『ウィ! すみません! ムッシュ!』
『ダメ岡! 何をブツブツ言っている! ソテーパンはまだか! さっさと洗え!』

俺はそんな探求心の奴隷である事を、恥だと思ったことは一度もない。
歯車の一部であることに、反抗心を抱いた事は一度もない。何故ならそれが俺の存在意義。調理場の一部である事が俺を俺たらしめる、唯一の瞬間だからだ。
『ダメ岡! ……おい、ダメ岡! 燃えているぞ!』
あぁ、言われなくても分かっているさ。
俺の魂は熱く、だが冷静さを失わない青い炎でたぎっている。
この燃え盛る思いは誰にも止められない!
「だからダメ岡! 燃えているって! 頭が!」
……頭?

洗い物で溢れかえったシンクから顔を上げると、厨房内にいる奴らが一斉に俺を見ていた。奥の方にいるホールスタッフまで、俺を見ていやがる。
一体なんだ。注目されるのは嫌いじゃないが、理由もなくというのは気分がいいものじゃない。
俺は口をあんぐり開けて固まっている馬鹿共を無視して、辺りをキョロキョロと見渡す。そう言えばマエストロのデブが叫んでいた。頭が燃えている、と。俺が燃やしていたのは、熱い魂だが。
ちょうど横を向いた時、鏡のように磨かれた食器棚に自分の姿が映る。そして、驚愕した。
俺のコック帽の先端が、紙製のマッチのように燃えていた。
「うぉーい! カチカチ山じゃねーか!」
冷静沈着な青い炎を宿した俺の魂が、いっぺんにパニックを引き起こす。もう、アラートアラートだ! 真っ赤なサイレンがウィンウィン鳴りまくっているよ!
頭のてっぺんから炎を発して厨房内を駆け回る俺を避けようと、シェフ共も慌てて右往左往する。
「おい! 誰か消してくれ! 俺の頭がカチカチ山の狸になっている! 違う違う! 狸は俺! カチカチ山はこっち!」
「うわぁ! こっちに来るな、ダメ岡!」
「お前ら! 炎を自由自在に操る調理のスペシャリストだろ! この位の火なんて一発で鎮火出来るだろうが!」
「もう何言っているんだか分からねえよ! お前なんてダメ岡じゃなくて、馬鹿岡だ!」
ギャアギャア喚き散らすシェフ共に驚いた他のホールスタッフも、何事かと全員駆け付ける。
その時、叫び声を上げて狂乱する俺の首根っこを、太く無骨な手が掴まえた。そして俺の頭ごと、水が張ってあったシンクに突っ込む。
炎の勢いのわりに、ジュッとしょぼい音を立てて鎮火した様子を見て、シェフ共はホッと胸をなで下ろす。
俺も一先ず安堵したが、鼻に入った水をダバダバ垂らしながら、シンクに俺の頭を突っ込んだ肥えた腹を持つ男を睨み付けた。男は額に青筋を浮かべながら、ニッと微笑む。
「どうだ。スペシャリストは、鎮火の仕方も一流だろ?」
「鮮やかさに欠けている。三流だ、三流」
鼻から荒い息を噴き出して、デブはもう一度、俺の頭を押さえてシンクに突っ込む。
俺のせっかく有り難い指摘の何が不服だったんだ! これだから頭の中にカニ味噌しか入っていない馬鹿を相手にするのは、苦痛でならない。

「そもそも、シンクで頭を下げたすぐそこに、コンロがあるという設計がおかしいんだ。少し考えればわかるだろ、常識的に」
濡れた髪をタオルで拭きながら、俺は目の前でむっつり腕を組んだマエストロへ、防火管理の指摘を促す。
六本木のギリギリ一等地にあるレストラン、ここ『クレセント』のオーナーシェフがこの男だ。何がクレセントだ。満月みたいな体型をしやがって。自分の願望を店名につけるな。
「防火管理者は自分なのだろ? そんなことも分からないようじゃ、オーナー失格だ。ボロがでないうち、早々にミシュランの星を返上した方が身のためだぞ」
するとマエストロは、シンクに浮いている半分焼け焦げた俺の帽子を掴み上げると、俺に投げつけた。
「俺だってな、新米がこんな長いコック帽を被っているなんて、思いも寄らなかったんだよ! 帽子の長さと立場がミスマッチ過ぎて、建物の構造の問題を超えているわ!」
どうやら引火の原因は、下を向いて洗い物をしていた俺のコック帽の先に、ちょうどコンロがあったからだ。厨房で使用するガスの火力は一般家庭の比ではない。紙や布類などを近付ければ、たちまち炎へと変わる。
「こっちは知らないうちに頭上が大火事だったんだ。カチカチ山の狸の気分を味わされたのだぞ。あの気付かないうちに身辺がメラメラと燃える恐怖感。この歳になってさらにトラウマが増えたじゃないか。損害賠償請求ものだぞ。どうしてくれるのだ、マエストロ?」
「うるせえよ。お前が火傷したらな、傷口にたっぷりと粒入りマスタードを塗りたくってやるよ」
「つまり俺をディアブル風にしようってか? まったく、どこまでも美味しくすることしか考えない奴め」
「黙れ、ダメ岡。ていうか、お前にはちゃんと新米用の新しいコック帽を渡してあるだろ。あれはどうした?」
「都合良く俺のアパートがその日、燃えるゴミの日だったからな。あんな威厳も格式もなさそうなコック帽なんぞ、貰ったその瞬間に捨てた」
「支給品を勝手に捨てる馬鹿があるか。お前も一緒に捨てられろ。じゃあその長いコック帽はどうしたんだ?」
「買った。アマゾンで検索して発注した。イワキユニフォームのが一番被り心地が良かった」
「メーカーなんざ、どこでもいいんだよ。あのな、お前は知らんだろうがな、コック帽の長さはそのレストランでの等級を表しているんだ。シェフの技量や格に比例して長さが決まるっていうヒエラルキーが、この厨房という小さな戦場には存在しているんだ」
「そんなこと、知っているに決まっている」
「だろうな。だからまだまだ下っ端で技量も経験もないお前なんざ、パートのオバチャンが被るようなほっかむりで充分……て、知っていたのかよ!」
顔を真っ赤にしたマエストロは地面に落ちている俺の帽子を拾うと、あろうことかもう一度、俺に投げつけた。
「汚っ! なんで一度地面に落ちたものを触れるんだ! その歳で未だ三秒ルールを適応しているつもりか? 言っとくけど、完全に三秒以上過ぎていたから。エンガチョだから。サルモネラ菌だから」
「うるせえよ! 汚物に汚物をぶつけて何が悪い! お前、知っていて敢えて長いコック帽を被っていたのかよ! 俺より三センチも高い帽子だったのかよ!」
いつの間に長さなんて計ったのだ。体型のわりに細かい事を気にする奴だ。
「お前みたいな小物なんてな、田んぼの跡地に作った低い平屋立て貸家のように短いコック帽で充分なんだよ。下っ端の分際で調子こいて東京タワーなんか被るんじゃねえよ」
「エッフェル塔だ。フレンチレストラン的に」
「どっちでもいいんだよ! いちいち口答えするな! ……はぁ。ったくよ」
そこでマエストロは一端深呼吸をするとコック帽を脱ぐ。そしてでっぷりと太った腹の上に、組んだ腕を乗せた。
「お前よ、前々から言っているが何でそこまで偉そうなんだ? 元・大企業の亀岡グループ御曹司なんて肩書きはとっくに過去のものだぞ。親父さんが死んで、養ってくれた親戚の家から逃げ出して、大学辞めて、他に行くとこがないんだろ。だったらここで歯を食いしばってでも頑張らねえと、また居場所を失うじゃねえのか」
「……」
俺はマエストロに聞こえるように大きく舌打ちをすると、俯いて目をそらした。それでもこの豚は、真っ直ぐに俺を見据えて話を続ける。
「俺も若い時には亀岡グループ直轄のホテルで世話になったから、でかい口は叩けんがな。それも五年前に経営破綻して倒産。最早、大昔の栄光でしかないぞ。ここの連中に気が荒いのはいないから幸いしているがな、他の店だったらとっくにボッコボコにされて外に放り出されてもおかしくねえよ。お前がどんなに鼻につく元ブルジョワでも、みんな我慢していてくれる。でもな、それでもここにはお人好しばかり雇っているわけじゃねえ。お前の方から腰を低くしてみんなに歩み寄らないと、誰もお前を認めてくれないぞ」
「認めろだなんて頭を下げる気は毛頭ない。俺は貴様等から調理技術を残さずに盗み取るだけだ。なぜなら俺は孤高な一匹狼、イテっ!」
「敬語を使えと言っているだろ」
マエストロの拳が俺の脳天に落ちる。手加減くらいしろ、親父にも粛正されたことがないんだから。
俺は憤然とマエストロに言い返した。
「食材や調理法に関する知識も、料理センスだって、俺はここにいる奴らより劣っていると思った時など一度もない。俺がこの店で一番秀でているのは、火を見るよりも明らかなのだ。だがお前等は、いつまで経っても年功序列という悪しき習慣に浸って惰性を貪っている。そんなに恐いか? 若造の俺が貴様等よりも優秀なシェフになるのが」
憮然と反論する俺に対し、マエストロは額に手を当て、顔を渋くしかめただけだった。その表情が呆れの陰に、どことなく哀れみが潜んでいたのを見逃さない。
……くそ、豚から同情されたところで嬉しくも何ともない。
始めは俺達のやり取りを眺めていたシェフ共だったが、徐々にランチタイムの忙しさがピークに達してきたのだろう。厨房内はまた慌ただしさに背中を押され、誰も俺達を見向きしようとはしなくなった。
マエストロも繁忙してきた調理場が気に掛かってきたのだろう。気分を切り換えるように深呼吸のような溜め息を一つ吐くと踵を返した。
「ダメ岡、洗い場はもう良い。お前が厨房にいるとトラブルの元だ」
「おい、マエストロ! じゃあ俺は何をしたらいいんだ?」
「外にこないだ廃棄した冷凍庫がある。アレを裏路地の廃品回収置き場まで運んどけ。あの程度の距離で、業者を呼ぶのは勿体ない」
裏の勝手口を顎でしゃくるマエストロ。正直、力作業は大の苦手だ。俺は思いっきりしかめ面をマエストロに向ける。
「俺一人で運ぶのか? あんな重そうなヤツを」
「当たり前だ。この忙しい時間帯に暇を持て余しているのは、お前くらいだからな」
「……お前が暇にしたんだろうが。豚野郎」
「何か言ったか、ダメ岡。仕事を与えてやるだけでも有り難いと思え。軍手は納屋の棚にあるから使えよ。調理人にとって手指は生命線だ。いくら不器用なお前でも怪我をされたら困るからな。良かったな。優しいオーナーシェフで」
したり顔と労いの言葉を残すと、マエストロは喧騒な戦場の中に紛れて消えた。俺は肥えた背中を一睨みすると、濡れた前掛けを外して勝手口から外へ出る。
何が優しいオーナーシェフだ。単に労災の手続きが厄介なだけだろ。

☆ ☆ ☆

「ただいま……」
夜の九時。帰宅の挨拶もそこそこに万年床の布団に突っ伏す。足腰がだるくてもう一秒も立っていたくない。
「お帰りね、ダメ岡。何よ、だらしない。帰ってくるなりボロ雑巾のようアルよ」
妙な抑揚をつけて憎まれ口を叩く主に、俺は鋭い視線で威圧する。妖艶な瞳が平然と見返した。
「ダメ岡って言うなといつも言っているだろう、メイ」
「だったら早くダメ岡からせめてちょいダメ岡か、そこはダメ♪ 岡くらいに昇格するアルね」
「それ、昇格しているのか?」
減らず口の応酬に飽きた俺は、疲労が溜まった足をさすって体を起こす。
「もういい。飯だ、飯を食わせろ。メイ」
際どいスリットの入ったチャイナ服を身にまとったメイは、ブツブツと文句を言いながら温まったレトルトパックを、そのままの状態でご飯が盛られた丼に乗せて出してきた。
「お前さ、舐めてんの? せめて封を切ってご飯にぶっかけてから出せよ」
「じゃあ平伏して懇願するアルね。大陸が生んだ絶世の美少女、アジアンビューティーの亀岡メイ様と。さぁ、言うアル、島国産の傲慢な猿」
「何が絶世の美少女だ。自分で言うなよ、恥ずかしいから。それにお前、産まれも育ちも日本だろ。母親が中国人ってだけだろ」
「パパも中国人アルよ。広島県出身って言っていた」
「それ、中国地方だから」
あまりのアホらしさに俺はこれ以上無駄な掛け合いはしたくなく、レトルトパックを破ってご飯に掛けた。そして嗅ぎ慣れた豆板醤の香りと小粒な豆腐がご飯を覆ったのを見て、げんなりとする。
「また麻婆豆腐かよ……」
露骨にイヤな顔をする俺をよそに、メイは小さな口を丼に寄せてサラサラと麻婆ご飯を流し込む。
「何か不服か。麻婆豆腐、超美味しいアル。まさに中国三千年の歴史が生んだ至宝の一品ね。西麻布に住むトヨ婆さんが、不治の病の爺さんのために編み出した秘伝の愛の味。感謝しながら有り難く食べれ」
「それじゃあ中国関係ないじゃん。そして麻婆豆腐はそういう意味の料理じゃないから」
「知っているね。ゴチャゴチャ言わんと食べれ。それと麻婆豆腐レトルトパック、近所のスーパーで安売りしていたから大量に買い込んどいたよ。百パックでたったの三万ポッキリだたアル! パピコ並みにポッキリなお値段にビックリ! さぁ、この買い物上手なメイ様に涙を流して拝むね」
絶望感に本気で涙が出そうになる。大して安くない上に何故に百個も買ってくるのか。この金の使い方が下手くそなのが、いかにも亀岡家の血統らしくて親戚ながら情けなくなる。

メイは俺と同い年の従姉妹で、つい一ヶ月前から同居をしている。
親父が代表をしていた大企業の亀岡家一門が倒産してから五年近く、親戚中をたらい回しにされた挙げ句に捨てられたらしい。たまたま繁華街をうろついていたところをバッタリ再会し、行く宛もなさそうだったので仕方なく保護した。
まぁ、落ちぶれたもの同士だったからつい同情心が芽生えた、といったところか。
これから数ヶ月はお世話になるだろうおかずをモソモソと咀嚼していると、メイは早々に食べ終わり丼と箸を投げた。そしてマニキュアを取り出すと、あろうことか目の前で爪に塗り始めたのである。
「おい、馬鹿メイ。見てわからないか? 俺まだ食事中。シンナー臭い、そのマニキュア」
「おや、麻婆豆腐にスパイスが加わったと思えば何てことないよ。それに昔のヤンキーはシンナーをアンパン言てたアル。やた! おかずが一品増えたよ!」
「うわ最悪。育ちの悪さが垣間見えるな。親の顔が見てみたいよ」
「昔から見ているだろが。お前の叔父さんだた人よ。もっとも五年前の倒産騒ぎで私を捨てて逃げてから、全く顔を見てないから忘れちゃたけど」
明け透けと言い放つメイに俺はグッと胸が詰まる。表情一つ変えずにこんな事を言えるようになった従姉妹の様子から、これまでの壮絶な人生が垣間見える。
「ところでお前、今日はこれからバイトじゃなかったか? そんなにゆっくりしていると遅れるぞ」
マニキュアを持った手が一瞬ピクリと止まる。メイは爪に視線を落としたまま呟いた。
「バイトは、休みになたよ。今日も明日もこれからもずっと」
「お前、それって……」
「ハハハ。またクビになってしまたアルよ」
眉間にシワを寄せてカラカラと笑うメイ。俺が丼を置いて溜め息を吐くと、メイも一緒に溜め息を吐いた。
「お前さ、これで何度目だよ。バイトをクビになるの」
「た、確か八回だた気がするアル」
「九回目だよ、馬鹿」
「覚えているなら敢えて聞くな。性格悪いアル。だって有り得ないよ。レジの打ち方一度間違えただけでクビなんて、器量の狭い店よ」
憤然とするメイだったが、俺は冷めた眼差しで見つめる。
「どうせお前のことだ。お釣りを間違えて多く渡したんだろ」
「ほんの少しよ。二桁くらいなんて、ほんの些細なミスね」
「馬鹿ヤロー! そりゃ一発でクビになるわ!」
「何よ! 日本人、よく冗談で言うでしょ? ウン十万円のお返し、とか。私もそんなノリだただけ!」
「ノリ! みんなノリで言っているだけ! 本当に渡してしまう馬鹿はお前くらい!」
丼ではなく頭を抱えてしまう俺。メイはいつもこうだ。一般的に有り得ないミスをやらかし、その度に仕事を変えざるを得ない羽目になる。今回なんてまだ勤めて三日間だぞ。最短記録を更新しちまった。
「やっぱり私、サービス業は向いていないよ。事務職の方が向いている気がするね」
「レジ打ちすら満足に出来ない女が、どうやって事務などやれるのだ。お前、見てくれはいいんだから絶対ホール向きだろう」
するとメイは口をすぼめると、ニヤニヤ笑いながら俺に膝を詰める。俺は丼を持ちながら身構えた。
「へぇ~。お前、私をそんな風に見ていたアルか。でも変ね? その見目麗しい美少女と一ヶ月間も同棲しているのに、手すら出してこないとはどういう了見アルね。男色か、お前?」
潤んだ瞳と濡れた唇で挑発を掛けてくるメイ。襟元が緩いチャイナ服だからか、たわわに実った二つの果実が描く谷間が見えた。
俺はゴクリと喉を鳴らして理性を総動員させる。確かに一般男性からみれば、メイは非常に魅力的な年頃の女だろう。しかし、こいつは従姉妹。昔は共にシーツへ世界地図を描いた仲だ。言ってみれば妹のような存在に、その類の欲情など有り得ない。神に誓って。
……神、誓うほどの神がいないな。八百万の神を信仰する国というのに、どうもその手のことは疎くて困る。まぁいい。身近に居そうな奴にでも誓っておこう。
俺はメイの豊潤な肉体になど、これから先も興味を抱かないことを、貧乏神に誓うのである。
「そんなんだからお前は童貞なのでアル」
爪にフーフーと息を吐きかけながら、メイはつまらなそうに呟いた。
勝手に人の思考を読むな。それになんでこいつ、俺が未だに貞操を大事に温めている事を知ってやがる……。
「そんなにお色気を発揮したいなら相応の場所があるだろうに。甚だしくいかがわしい店でなければ、水商売も選択肢に入れてもいいんじゃないか?」
軽く冗談のつもりだったが、メイは途端に目をカッと見開いた。
「ふざけないで! それだけは絶対にイヤ!」
痛烈な魂の叫びが狭い部屋中に響き渡る。深い憤りに顔を歪め、メイは唇を噛み締めて押し黙った。
亀岡グループが倒産してから、俺は母方の親戚に引き取られて多少は真っ当な生活を送れたと思う。みすぼらしい下級生活だったが、きちんと三食にはあり付けたし、中退はしたが大学の費用も出してもらっていた。
しかしメイは母が中国人で妾腹だったせいか、さぞかし辛い日々を送っていたのだろう。
繁華街で再会した時の、他人への信頼を一切拒む、すえたメイの瞳を俺は未だ忘れることが出来ない。
やるせなさに包まれた部屋で、俺は空気に堪えきれず言った。
「おい。アルを付けるの忘れていたぞ」
「……うるさいアル。心底ダメ岡」
これも血統だろうか。憎まれ口には憎まれ口で応酬してしまうのが、俺達の悪い癖だ。メイは明らかに機嫌を損ねたご様子で、イライラとマニキュアを塗りたくる。
「そもそもお前だて他人にとやかく言えるアルか? いつまでたても皿洗いばっかり。調理人なんて向いてないアルね」
「うるさい。向き不向きでなら適応性バッチリだ。この世の美食を食べ尽くした俺様に死角はない」
「腕前がヘッポコ過ぎて死角だらけが何を言う。まだレジ打ちの方が適応性あると違うか」
売り言葉に買い言葉。お互いにプライドばかりは一人前なせいで、口喧嘩は途絶えることを知らない。
「そんなだから、お前はいつだってダメ岡よ。いつまで経ってもややマシ岡、略してヤマ岡になれないアルね。不味しんぼアルよ」
社会の爪弾き同士が不毛な争いをしているということは、嫌になるくらい分かっている。それでもこれぐらいしか俺達には、鬱憤を晴らす方法がないのだ。段々とムカムカしてきた俺は、さして美味しくない麻婆丼をかき込むと着替えもそこそこに布団をかぶった。
メイにいつまでも付き合っていたら、堪忍袋がすり減って体に良くない。三十六計、逃げるが勝ちだ。
それにオーバーヒートし過ぎると、思わずメイに「出ていけ!」と言いかねない。それだけは絶対に言っては駄目だと、俺は同居を始めた時に貧乏神へ誓ったのだ。
早々に狸寝入りを演じる俺に、メイはもう何も言わず自分も布団を用意すると、明かりを消した。そしてモゾモゾと落ち着きなく寝返りを打ち、か細い声で囁いた。
「……明日、新しいバイトを探してくるね」
重苦しかった心が、ふと緩む。その拍子に疲れた体が眠りの狭間へと誘い込み、あっという間に夢の世界へ落ちていった。

☆ ☆ ☆

物心がつくより前にお袋を亡くし、十六歳の時に親父が死んだ。
もともと肝臓やら大腸やらが病に冒されていたというのに、贅沢な食生活を止めず世界中の美味い物を求めて飛び回っていた。贅沢三昧で命を落としたのだ。
親父の盛大な葬儀が終わって呆然自失としている間もなく、今度は実家の企業が倒産した。その報道をテレビのニュースで知って、目を白黒している暇もなく、着の身着のまま家を追い出された。マンガのようだが本当に投げ捨てられるとは思ってもいなかった。
路頭に迷っていた俺を、死んだ母方の伯父が保護をしてくれた。俺は涙が出るほど嬉しかった。事実、叔父夫婦の前で涙を流し、住む場所を与えてくれたことに感謝した。
だが、喉元過ぎれば熱さ忘れるとはよく言ったもの。
長いことエグゼクティブな暮らしを送っていた俺に、一般庶民の生活は耐えられないものだった。日に三度の粗末な食事に、田舎町の公立高校。全てが下らなく惨めったらしく見えて、俺は叔父夫婦の家での暮らしに馴染めなかった。
叔父夫婦も始めのうちはそんな俺に我慢していたが、とうとう我慢しきれなくなったのか、露骨に疎ましい態度を示した。俺は自分を救ってくれた人達にさえ、まともに接することが出来なかった。
高校三年生に上がり大学受験、俺は少しでも叔父夫婦と離れたく東京の大学を志望した。
ボンボン私立に通っていたが、もともと成績は上位ランクだったので、多少は公立高校という勉強の進みが遅い場所でも挽回は出来た。そして俺は意地とプライドで、早稲田大学へと合格を果たし、叔父夫婦とも田舎暮らしとも決別した。
だが、特になんの理由もなく大学を志望した俺を待っていたのは、無気力な学生生活だった。
興味がない授業に、ただ馬鹿騒ぎしたいだけのサークルやゼミ。昔から自発的に他人と関わるコミュニケーション能力など皆無な俺は、大学内でもすぐに孤立していき、次第に外に出ることすら煩わしくなり、二年生に進級はしたが夏の終わりに中退した。
あの当時は、生きる意義とやらを毎日考えていたような気がする。
親を失い裕福な生活を失い、叔父夫婦や田舎町を捨てて、大学も辞めて残ったのは孤独と莫大な余暇だけだった。
何をすることもないので無駄に頭は哲学を語る。自分の存在意義、生きる目標、今後の人生。考えても考えても結局はネガティブな答えにしか行き着かず、負の感情が積もりに積もるだけだった。
そして生き地獄のような堂々巡りにも疲れ果てた頃、やっと俺はあれほど重く感じたアパートのドアを開けた。
この世に別れを告げるために。
どうせなら最後にうんと美味い料理を食べておきたかった。
死を意識すると必ず親父の顔が思い浮かぶ。世界中の美味いものを食い尽くしたといっても過言ではない親父は、病に体を蝕まれはしたが幸せな人生に見えた。事実、食事をしていた親父は常に至福満面の笑みを浮かべていて、死ぬ間際も悔いが無いかのように穏やかな表情を俺や親族の連中に振りまいていた。
ならば俺も、死ぬ前くらいは心から幸福な気分になりたい。そうすれば天国へ行った時、親父や写真でしか見たことがないお袋と笑って再開出来る気がした。
いざ最後の晩餐を飾る店を捜そうと街へ繰り出したが、なかなか俺の胃袋に見合う店がない。
どうしたものかと街を徘徊していた俺を、ある店から漂ってきた香りが足を止めさせた。それが六本木のギリギリ一等地にあるレストラン『クレセント』だった。
鼻腔に一瞬だけまとわりついた残り香だけで、ここがどういった店か判断出来た。こちとら生まれた頃から美味いものばかりを食わされて育ってきた。匂いだけで名店か残飯製造所か判断がつく。間違いなくこの店は本物のレストランだった。
俺はほんの少し悩んだが、すぐに結論を出した。この店の料理を最後の晩餐にしよう、と。
運ばれてきた料理を目の前に、俺は最後くらいはと礼儀正しく背筋を伸ばし、ナイフとフォークを握る。そして食べやすい大きさに切り分け、口に運んだ。
その瞬間、一陣の柔らかい風が俺の全身を駆け巡っていった。そして次の瞬間には体中から温もりに満ちた感情が溢れ出す。美味いという一言で片付けるには失礼なほど、その料理は一瞬にして俺を虜にした。
決して最高級な食材を使用しているわけでもない。どれも平凡な食材ばかりだ。だがそれらの持ち味を殺さず完全に引き出し、食材と食材の絶妙なまでの相性を一つの皿の上に生み出している。これは確実に料理人の類い希な感覚と、絶え間ない研鑽と努力の結晶だった。
俺は息をする事すら忘れて、貪るように料理を食べた。気付けば両目から涙が止め処なく溢れているが気にならない。最後の一品まで完食した俺は、気がつくとオーナーシェフであるマエストロの足元に土下座して懇願していた。この店で働かせて欲しい、と。
死ぬつもりでいた俺を、たった一度の食事で生きる希望を取り戻させた料理を作ったこの男に、渇望にも似た興味を抱いた。そして、今まではずっと食する側にいた俺だが、初めて誰かに料理を作ってあげたいという純粋な願いがうまれたのである。
親父はいつも美味いものを食べているとき、本当に幸せな顔をしていた。きっと俺も同じような顔をして料理を食べていただろう。他の誰かにも同じ気持ちを味わってもらいたい、俺が初めて自分の意志で自分のやりたい事を見つけた瞬間でもあった。
初めは困った様子を見せていたマエストロだったが、あまり熱心に頼み込む俺にとうとう折れたのか、皿洗いからでいいなら、としぶしぶ店で働くことに了承してくれた。
それがちょうど、二ヶ月前のことである。

調理場の昼飯の時間は遅い。
店のランチタイムのラストオーダーは二時。客足が完全に引ききるのが二時半くらいで、そこから簡単な片付け作業をすれば、食事にありつけるのは三時を越える。
俺達は人が至福の時を味わうことを生業としているのでさもありなんだが、元引きこもりの俺にしてみればこの狂った生活リズムに慣れるまでは、それはそれは血反吐をはくほど過酷でならなかった。
ニートだった頃の方がよっぽど規則正しい生活だったぞ。何度遅刻して何度マエストロに殴られたことか……。
ランチタイムが終わり、厨房でシェフ共が後始末をしている頃、ホールスタッフは客席を店の中央に移動する。これからやっと、戦士達にとって束の間の安らぎを得る時間だ。
シェフ共が椅子に座ると同時に、ホールスタッフが各々の席へ昼食を配る。そして配膳し終えたホールスタッフも自分の賄いを持つと着席する。
それが整ったのを見計らって、マエストロが仰々しく食卓の上座に着くのだ。
本日の賄い料理をしばらく無言で眺めた後、マエストロはおもむろにフォークとスプーンを持ち「いただきます」と唱えた。もったい付けやがって。面倒くさい男だ。マエストロに続いてその場にいた全員も食器を持つと、一斉に食事を開始した。
解き放たれた鷲のように皿の上の料理を貪るシェフ共やホールスタッフ。そんな品行に気遣いもない奴らを横目に、俺はやれやれと鼻で笑いながら目の前の皿に視線を落とす。
「今日の賄いは寒ブリのマリネを使用した冷製カッペリーニか。パスタの素麺とも言われる極細のパスタは冷製に適している。ランチに冷たい主食とは些か時期外れな気もするが、走りの脂が乗った寒ブリを使用することで旬を取り入れている。それに各種のハーブが清涼感を引き立てて、複雑ながらもバランスを崩していない。ふむ、さては年明けで弱った胃袋をケアすることを意識したな」
別に講釈を垂れるのが好きなわけではない。料理を目の前にして思った感想を率直に述べるのが俺なりの礼儀なのだ。これは死んだ親父からの受け売りである。
俺の癖に対して店の連中はいつものことだと見向きもしない。頭も上げずに黙々と飯を食っている。もっとも口を挟まれては迷惑なので放ってくれる方が都合いい。
「寒ブリも只のマリネではないな。さばいた後にバーナーで軽く表面を炙っている。香ばしさが寒ブリ独特の脂臭さを調和して、尚且つ必要な脂だけを内に残している。マリネにしたのも酸味でハーブとカッペリーニに上手く絡むためか。なかなか考えたものだ」
俺は姿勢を正すと、恭しくフォークとスプーンを握る。
「だが肝心なのは味だ。料理は不味ければ一片の価値もない」
フォークで器用にカッペリーニとハーブを絡め巻きつける。そしてそれを口に運び、ゆっくりと咀嚼する。次にスプーンでマリネされた寒ブリをすくうと、口の中でカッペリーニを混ぜる。
眼を閉じてじっくりと料理を噛み締め、飲み込む。次に俺は手に持ったフォークとスプーンを投げ出すようにテーブルへ戻し、嘆息した。
「カッペリーニの茹で時間が長すぎて芯も何もあったもんじゃない。パスタは冷水にさらすと温製よりも格段に固くなるが、そういうレベルじゃない。麺がグチャグチャだ。それよりもグチャグチャなのは……何だ、この寒ブリは? 新鮮さの欠片もない。物自体は悪くないのだろうが、魚の卸し方がお粗末過ぎて身を潰しているぞ。口の中に入れた瞬間に気持ち悪い生臭さがモワッと広がった」
調理をした人間の腕が悪すぎる。正直いって美食家の俺にとっては耐えられないが、それでもシェフ共やホールスタッフはしかめ面のままフォークを動かし、口に詰め込む。こんなクソ不味い料理をよく何も言わずに食えるものだ。こいつらの神経が理解できない。
調理人にとって食事が単なる栄養摂取に成り下がってはおしまいだ。たとえ空腹であろうとも、自らの繊細な舌を不味い料理で汚される事に意地でも甘んじない。
俺はまったく手付かずの皿を押しやると、憮然として腕を組んだ。
「残念ながら豚の餌以下だ、この料理は。一体どこのどいつだ? ここまで最低な料理を作れるおめでたいシェフは」
上座にいたマエストロのフォークがピクリと止まる。そして額に青筋を浮かべながらこちらを睨み付けると、立ち上がり歩み寄ってきた。俺はマエストロに視線を向けず、眉間にシワを寄せて怒鳴り散らす。
「マエストロもマエストロだ! こんな賄いすら満足に作れないシェフを厨房にのさばらせていては、店の品位に傷が付くぞ。再教育し直すか放り出すか、どっちかにした方が良いんじゃないか?」
顔を真っ赤にしたマエストロが腕を振り上げる。
「今日の賄いを作ったのはお前じゃねぇかっ!」
マエストロの拳を受けた俺は椅子ごと吹っ飛ばされ、店の壁に叩きつけられた。それと同時に食事をしていた全員が一斉に苦い顔をして食器を投げ出す。
「散々偉そうにケチ付けているがな! それを作ったのはお前だから! カッペリーニと寒ブリをグチャグチャにしたのはお前だから!」
……言われなくてもわかっている。畜生め。

更新日 7月22日

「俺だって好き好んで不味い料理を作りたかったわけではない! 量が多すぎるんだよ! 二十人前なんて殆ど学校給食じゃないか! そりゃカッペリーニもクタクタになるさ! 茹で上がった後にザルへ上げてもなかなか冷めずクタクタさ!」
「アホか! たかだか二十人前の何が学校給食だ! 毎日ウン百人相手の食事を作っている給食のおばちゃんに謝れ! ついでに食材にも謝っといて!」
「給食のおばちゃん達はあれでも公務員だからいいんだ。俺が納税した瞬間に感謝を示したとカウントされるから問題ない。デュラム小麦さん、いつもごめんなさい」
「パスタには素直に謝りやがった! それより寒ブリの方がもっと可哀想過ぎるぞ! よりによって包丁じゃなくて手でさばかれたからな! そりゃグチャグチャにもなるさ!」
ホールスタッフの一人がウッと唸って口元を押さえる。他の人間も同様に苦々しい表情でこちらを見た。
「なんでお前、包丁も使えないのに調理人を目指すんだよ! そんなの電卓が使えない税理士並みに能無しだよ!」
「それは言うなと何度も言っているだろう。俺は幼い頃に学校の調理実習で指を切り、それ以来包丁はトラウマになったのだ! キラッと光る刀身を見ただけで、身の毛もよだち古傷が疼く。そして思い出す、左薬指にじんわりと滲んだ鮮血を……」
「じんわりレベルでトラウマかよ! どんだけ精神弱いの! せめてどばどばレベルでトラウマになろうよ! そんなんじゃトラウマじゃなくてウマシカだよ!」
「だから今回は手じゃなくてキッチンバサミでチャレンジしてみた。素手よりはやり易かった。身の厚い寒ブリの腹をハサミで裂く感じは、赤ずきんちゃんに出てくる猟師気分だったぞ」
「お前は急に道端で料理チャレンジをさせられる女子大生か! コメンテーターもゲストも画面の隅で苦笑いだよ!」
「随分ボロクソに言うが、なかなかの工夫を凝らしている事も評価されたい。例えば寒ブリの表面を軽くバーナーで焼き目を付けるなんて、小粋じゃないか。真似していいぞ、マエストロ」
「焼き目どころか半分焼き魚になっているよ! 表面焦げすぎ! バーナー当てすぎ! 中だけ生な寒ブリなんて食感の悪さに拍車を掛けているから!」
俺達の会話に食欲が失せたのか、シェフ共やホールスタッフは食事も中途半端に、三々五々解散した。
テーブルの上には、俺の作ったパスタが半分以上手付かずの状態で残っている。料理に対する正当な評価に、悔しさよりも虚しさが湧き上がってきた。
「お前さ、知識やセンスは認めるが調理技術がヘボ過ぎるよ。言いたかないが、小学生以下だ。どうしたらここまで不器用にやれるのか不思議でならん。包丁は握れない。レードルはへし折る。フライパンは焦がす。鍋は爆発させる。オーブンは炎を吹き上げる。お前が来てから食材費よりも備品代の方が出費激しいんだけど」
「……壊した備品はちゃんと給料から天引きしているだろう」
「それでも追い付かねえから。第一お前が生活出来る程度の給料は払ってやらないと困るだろ。あのさ、こんなことを言うのも何だがお前、調理師に向いてないんじゃないか?」
マエストロから突き付けられた言葉がザラリと背中をなぞる。きっと顔が青ざめているだろう俺に、マエストロは決心するような口調で言葉を続けた。
「お前、中退はしたが頭がいい大学に通っていたんだろ。だったら無理して調理師なんか目指さなくても、普通の仕事してりゃ普通の暮らしが出来るだろ。お前だって今の生活が辛いはずだ。朝から晩まで馬車馬のようにこき使われて……まぁ、こき使っているのは俺だが。とにかくこの仕事は頭よりも腕でのし上がっていく世界だ。頭でっかちなだけで野菜一つ刻めない調理人なんて、どこも欲しがらんよ」
そこでマエストロは一度話を区切ると、少し言い過ぎたと反省したのか、渋い顔をして頭を掻く。
「そういうことだ。お前が居たいっていうなら俺から辞めろとは言わん。だがさっきも言ったがここは実力主義な世界だ。たとえお前より後から来た奴でも腕が良かったらガンガン引き上げる。居座っても辛くなるのはお前の方だぞ。それと、午後からはまた厨房に入らなくてもいい。さっさと冷凍庫を廃品回収置き場に持って行け。車や人通りがないから良いが、道の真ん中に中途半端なまま戻って来やがって。置きっ放ししていたら近所迷惑だからな。というか、たったあれだけの仕事に丸二日も掛けやがって」
そしてマエストロは深い溜め息を吐くと、捨て台詞を残して立ち去っていった。
「好きでもなくちゃ、やってけない仕事なんだよ、調理人ってのは。そして、好きってだけでもやってけない仕事なんだよ、調理人ってのは」
遠ざかっていくマエストロの足音を、俺は俯いたまま聞いていた。
遠くからはシェフ共やホールスタッフの笑い声が聞こえてくる。何の話をしているかは分からないが、卑屈にも俺を馬鹿にする声に聞こえてならなかった。
ふと、視界が滲む。俺は力の限りに両拳を握り締め、下唇を食いしばった。そして右手拳で足をダンダンと叩いた。鈍い痛みで少しだけ気が紛れるが、すぐに惨めな気持ちが喉の奥から突き上げて、涙が零れそうになる。
嬉しい時には美味しい料理を食べればいい、悲しい時も美味しい料理を食べればいい、美味しい料理が何もかもを洗い流し浄化し解決してくれる、親父がいつも言っていた。
俺はこれから、誰にも完食してもらえなかった手料理を、自らゴミ箱に捨てなくてはならない。そしてその後に、せわしなく活気づく厨房を背中に聴きながら、孤独に冷凍庫を引きずらなくてはならない。
やるせない気持ちの時にも美味しい料理を食えば笑顔になれるのか。やるせない気持ちになる事など、親父がいた時には体験させてもらえなかったのに。
こんな気分の時にはどうすればいいのか、親父は教えてくれなかった。


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