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2010'07.25 (Sun)

私の星乞譚。 第七章

 動物園内を小走り気味に歩き回りながら、私はキョロキョロと鎌田君を探した。
 男女ペアで歩いている創天高校の生徒を見る度に、胸がドキリとすくむ。もしも鎌田君が他の女の子と仲良く歩いているところなんて見てしまったら、きっとショックで固まってしまう。なんせ鎌田君はあのとおりの容姿だし、スポーツ万能で優しい。私以外にも胸をときめかせている女子がいても不思議ではない。
 そんな妄想を必死に振り払いながら私は園内を隈無く探す。すると、ベンチに一人で座っている鎌田君を発見した。
 私の胸がコトリと乱暴に高鳴る。
 先生方と話していた時には何故だか根拠のない自信が宿っていたけど、いざ本人を前にするとどうしても尻込みしてしまう。
 それでもこんなチャンスは滅多にない。鎌田君が一人きりでいるのだから。このチャンスをものにしなきゃこれから先、進展は期待できない。
 あの店番の時、結局勉強に誘えなかった事を私は未だに悔やんでいた。同じ後悔は二度としたくない。見逃した彗星は必ず同じ周期で巡ってくるとは限らない。
 私は意を決して、鎌田君に話し掛ける最初の一言を必死で呟きながら足を踏み出した。
 でも、鎌田君まであと数メートルとなった時、私は思わず足を止めた。
 目を凝らしてもう一度確かめてみる。ベンチに腰掛けた鎌田君の表情が、どことなく哀しそうに見えた。
 私は前に一度だけ、同じ顔をした鎌田君を見たことがある。あれはちょうど、それこそ店番をしていたあの日の夜だった。味噌を二種類買った鎌田君と料理の話になって、私が鎌田君を凄いと褒めた時だったと思う。弱々しく微笑んだ彼の表情。瞳の奥に寂しさをグッと押し込めたような、沈痛な表情。
 今、目の前にいる鎌田君はまさにそんな顔をして、魂を失ったように真っ直ぐ前を向いていた。
 どうやって話し掛ければいいか模索していた言葉達が、ハラハラと頭の中からこぼれ落ちる。あんな表情をしている鎌田君に、私はなんて声をかければいいのか、分からなかった。話し掛ける事がはばかられるような、そんな目に見えないオーラを鎌田君が発しているようで、私は彼との間にある僅かな距離に大きな壁を感じた。
 ひとつ気になって鎌田君の視線の先を追ってみる。そこには檻の中にライオンが一匹いるだけだった。
 立派なたてがみを冠した容貌はまさに百獣の王だけど、夏の暑さにあてられたからか、近所の野良猫のようにだらしなく肢体を投げ出している様は、とてもじゃないが野生味が全く感じられない。それもそのはず。レオと名付けられたそのライオンは、私が幼い頃から今と同じく檻の中で飼われている。だから野性的な一面を見せるのはせいぜい食事をしている時くらいで、あとは人が通るたびにだらしなく野太い猫なで声を出すほどの体たらくだ。
 だからこそ不思議に思った。
 鎌田君だってもう何度も見慣れているはずのライオンなのに、ずっと哀しい表情を浮かべたまま凝視している。そんな鎌田君を見つめる私は、何も言えずに気付かれないようその場を去った。今の彼に踏み込めるほど、私は勇敢でないし傍若無人でもない。今は場面が悪い。もう少し後になったらまた訪ねてみよう、と私は臆病風に吹かれた自分を罵りながら、当てもなくトボトボと園内を散策し始めた。

 しかしそれから十分後、三十分後になっても、鎌田君はベンチから腰を浮かす事はなかった。ポラリスのようにずっと座標から動かず、視線は真っ直ぐライオンを見つめただけだった。
 当のライオンはいい加減に見つめられるのに飽きたのか、背を向けて居眠りをしている。私はもう完全に景色と同化した彼の後ろを何度も素通りしては、聴こえないように静かに溜め息を吐いた。
 いつの間にか集合時間の十分前になっている。これから園内の散策に誘っても、大した成果は得られなさそうだ。がっくりと肩を落としながらも、私はせめて話し掛けるくらいはしたいと思い、歩み寄った。
 敢えて事前に話し掛けるセリフは決めていかない。どんな言葉を繕っても何だか作り物めいて、そんな言葉が今の彼には届かないと思った。自然と胸に閃いた言葉が、そのまま彼の心に滑り落ちてくれれば良い。
「鎌田君、そろそろ集合時間だよ」
 一瞬だけ体をピクリと震わせると、彼はすぐに笑顔を繕って私に見せた。
「あぁ、酒留か。もうそんな時間になったのか」
 私も鎌田君に倣って微笑む。普段なら鎌田君の笑顔を見ただけで心臓がときめくのに、今は胸の奥が潰れそうなくらいに苦しかった。
「隣、座っていい?」
「うん、いいよ」
 少しズレて私が座る位置を用意してくれた鎌田君。いつもと同じ、優しい彼だった。私は小さく「ありがとう」と呟いて腰掛ける。今まで鎌田君が座っていたからか、左側のお尻の部分だけ温かかった。
「ライオン、さっきからずっと見ていたね」
「……うん。なんだ、見られちゃっていたか」
 わざとくさく照れ笑いを浮かべる。そんな彼の仕草に、私はまた胸が痛んだ。
「ライオン、好きだったんだね」
「ん、まぁね。いや、そんなに好きってほどじゃないけど」
「じゃあ、なんでずっと見ていたの?」
「……」
「一時間以上も。暑い中、日除けもしないで」
 きっと私は今、鎌田君が触れられたくない部分に触れたのだと悟った。
 それは彼が懸命に、偽りの笑顔すら繕って隠しておきたかった、仄暗く深い心の奥。
 突き放されてもいい。面倒臭くおせっかいな幼なじみと思われたっていい。私は彼がひた隠したがるソレを知りたかった。
 ソレを知ったからといって自分に何が出来るとも思わなかったけど。知らなければ、本当に彼の事を好きでいちゃ駄目なような気がして止まなかった。
「前もお店に来たとき鎌田君、ふと寂しそうな顔をしていた。今だってそう。ねぇ、私に何が出来るかわからないけど、おせっかいかもしれないけど。鎌田君の事をもっと知りたいから、もっと近くにいたいから」
 いつの間にか次々に溢れてくる言葉に突き動かされて、私は鎌田君にグッと寄り詰めていた。
 困ったような、驚いたような顔をしている鎌田君に気付き私はハッとし、顔を真っ赤にして離れる。あんなに近くで、触れ合うほどの距離で鎌田君の顔を見たのは初めてだった。
 顔から火が出るほどの羞恥心で私はそれ以上何も言えなくなり、この場から消え去りたい気持ちでいっぱいになった。それでも私は立ち上がる事が出来ず、鎌田君と向き合えもせず、ただ俯いてベンチに座っている。
 遠くからは動物や野鳥の鳴き声、創天高校の生徒の声が聞こえる。けれど私達の間には無駄な沈黙だけが、どっしりと腰掛けていた。
 園内のアナウンスが鳴り、創天高校生徒の集合時間を告げる。
 何の成果もなくこの課外授業を終えた私は、失望感にも似たやるせなさを噛み締めながら立ち上がる。いつの間にか、背中にはじっとりと汗を掻いていた。
 私に合わせて鎌田君ものそりと立ち上がる。いつも活発としている彼らしくもない仕草だった。そして哀しげな瞳を私に向け、ぽつりと呟いた。

「俺は、このライオンみたいなものなんだ」


 酒屋である店舗を抜け、母屋に入るとちょうどお母さんが夕飯の支度をしていた。さほど広くない台所をクルクルと立ち回るお母さんの背中に声を掛ける。
「ただいま。お母さん」
「あら、お帰りなさい。心恵」
 学生服から家着に着替えると、私は再び台所に戻ってきた。普段は夕飯まで滅多に立ち入らないのに、珍しく女の仕事場にいる娘に母は目が点になる。
「どうしたの、心恵? まだ夕飯の支度は出来てないわよ」
「違う。そうじゃなくて」
「じゃあなに? 手伝ってくれるの?」
 おずおずと頷いた私に、お母さんは大袈裟に驚いた仕草を見せると笑顔になった。
「急にどうしたの? あんたの方から手伝ってくれるなんて」
「別に。ただ、たまには」
 少し考えた後、母はそれより深く尋ねようとせず手を家事に戻した。
「あ、そう。じゃあせっかくだから手伝ってもらおうかしら。そこにある茹で卵の殻を剥いて」
 お母さんの指示に従い私も台所に立つが、やり馴れなれていないせいか上手くいかない。茹で卵の殻を剥いても身までボロボロにしてしまい、野菜を切ろうにも大きさがバラバラで、しまいには自分の指まで切ってしまう始末。娘の失態に溜め息を吐きながら、母が最後に私へ出した指示。
「夕飯出来たから、店番をしているお父さんを呼んできて」
 肩を落としてしょげる私がその日唯一こなせた仕事は、これだけだった。
 家族三人、食卓を囲んで夕飯を食べる。お父さんは相変わらずの仏頂面を提げて、野球中継を観ながらビールをちびりちびり飲んでいた。
「そういえば心恵、あなた今日は天野動物園に行ってきたんだったわね」
「うん。触れ合いコーナーに世界のウサギ展っていうのがやっていてね、凄く可愛かった」
 自分で剥いた不格好な茹で卵を箸でつつきながら、私は母と今日あった出来事を語り合った。
 我が家は三人家族で子供は娘の私一人。寡黙なお父さんとおしゃべりなお母さんなので、家の中では常に私とお母さんの声だけがこだましている。私達がいくらペチャクチャと話していても、父は煩わしくも相槌を打つわけでもなく、ムッスリと隣にいるだけ。たまに話し掛けても不機嫌そうに曖昧な返事をするだけだ。
「だからウサギ達よりも先生方の方が可愛くて。よっぽど地球が気に入っているみたい」
「お母さんも一度くらいは見てみたいわ。月とか金星がこんな身近にいるなんて、なかなか出来ない体験よ。それにウサギ達も良いわね。その催しが終わる前に一度行ってこようかしら」
「行った方がいいよ。本当に可愛かったもん。お父さん、今度お母さんを動物園に連れて行ってよ。店番は私がしてあげるから」
 そう言って横目で父を見たが、父はテレビから目も反らさず黙々とビールを傾けるだけだった。まぁ、もとから反応なんて期待してないけど。
「でも暑かったからかな。ほとんどの動物は檻の中でぐったりしていたよ。レオなんてだらしなく寝っ転がっていたし」
「仕方ないわよ。レオだってもうおじいちゃんなんだし。あなたが小さい頃からずっとあの動物園にいるのよ」
 私はその時、日中に鎌田君とあったことを思い出して、胸がズキッと痛んだ。
 寂寥感をグッと溜め込んだ鎌田君の表情。弱々しく呟いた言葉。熱くなるほどに座っていたベンチ。彼の隠された心の中を知る事が出来ずに、私は気落ちしるしかなかった。
 急に俯く私が気に掛かったのか、お母さんが心配そうに顔を覗き込む。
「どうしたの、心恵。なんかあったの?」
 私はハッとして箸を手に持ったままブンブンと振る。その衝動で箸が私の湯呑みに当たり、お茶をこぼしてしまった。慌てて台拭きやらティッシュでアチコチを拭く私とお母さん。お父さんだけは変わらず、ムッスリと野球中継を観ていた。
 騒ぎも収まって再び食卓についた私は、鎌田君のことをお母さんに話した。
 自分の星乞い相手を親に話すのは照れ臭くて仕方なかった。でもお母さんにしてみれば鎌田君は未だに娘の幼なじみという認識なのか、すんなりと聞き入ってくれる。
「それでね、鎌田君が最後に言ったの。俺はライオンみたいなものだ、って。どういう意味なんだろうね」
 別に何か有力な情報が得られると思って話題にしたわけじゃない。ただ話の流れというか、夕飯時の他愛ないお喋りのネタとして言ってみただけだ。
 それなのに、驚いたことに話を聴き終わったお母さんは何か言いたげに困った顔をして、そのまま閉口してしまった。
「なに、お母さん黙っちゃって。お母さんは鎌田君の言った意味がわかるの? 何か知っているの?」
 食い入るように母へ身を寄せた。この人は私の知らない鎌田君の秘密を知っている。それは表情から読み取れる、きっと大人は知っている決して明るくはない話。
 それでも私は渇望せずにはいられなかった。彼のことならどんな事だって知りたい。例えそれが、心に火を注ぐような痛みを伴おうとも。
 私があまりにも真剣に問い質すからか、お母さんはどうしたらよいか分からず、たじろぐ。そこへ、今まで黙りこくっていたお父さんが低い声で呟いた。
 私もお母さんも、目を丸くして振り返る。そしてお父さんが語る話を聞くにつれて、私の心の中にも濁った曇天の夜空が広がっていった。
「あいつは、あの坊主はな。ライオンって言うよりも、仔ライオンみてえなもんだ」


 日中の熱気が幾分か収まった夜風が優しく私の襟足をさらっていく。少し外れにある用水路からは蛙の合唱が聴こえてくる。そして何処からか、時間帯を無視した蝉の声も聴こえてくる。
 私は歩を進めながら、夜空を仰いだ。
 夏を代表するベガとアルタイルが燦然と輝くその間には、きっと淡白く光る天の川が流れていることだろう。もう少し山よりに行けばお目にかかれるだろうが、街灯が明るい市街地からではその雄大な流れも輪郭すら掴めない。せっかくの南斗六星も今日は雲に隠れて見えなかった。
 夜空を見上げてこんなに哀しい気持ちになるのは初めてだった。
 いつもなら星が少ない寂しげな夜空でも、懸命に瞬く星達を見ると勇気付けられたのに。意識しなくてもさっき聞いたお父さんの話が何度も胸の中でこだまして、哀しみだけがいたずらに膨らんでいった。

「あいつの父親は昔から知っているけどな、どうにも家庭を支えるとか所帯を持つとか、そういうガラじゃない奴だった。根は悪い奴じゃねえんだが、自分のやりたいことばかりにのめり込むのが悪い癖でな。今でも写真家になるだの、絵描きになるだの芸術家気取りなことを言ってはまともに家へ寄り付かねえ。
 そんな奴に愛想を尽かした女房は、早いうちに家を出ちまってな。今じゃあ坊主が一人であの家に住んでいるようなもんだ」
 テレビから目を反らさずに、独り言みたく話をするお父さん。私はそれを聞きながら、長年の疑問が氷解していくのを感じた。
 なぜ鎌田君はいつもうちに日用品を買いに来るのか。
なぜ鎌田君は料理に詳しいのか。
 なぜ私は鎌田君の両親の顔を知らないのか。
 なぜお父さんが事ある毎に鎌田君へ差し入れをするのか。
「ライオンっていうのはな、幼い頃に自分の子供を大草原に放っぽり出すんだ。千尋の谷に突き落とすって話もあるが、似たようなもんだろ。あの坊主も言ってみりゃあライオンみてえな境遇さ。物心ついた頃から親に見離され、てめえの事は全部てめえでやらなきゃならねえ。あのクソ親父もたまには家にいるようだが、それでもまとまった金が出来たら半分は坊主に預けて、てめえは夢にまっしぐら。どっちがガキだか分かんねえよ」

 僅か数十メートル進むと、一際大きい門構えの店が視線に飛び込んでくる。幼なじみであるともえちゃん家の呉服屋だ。そこを通り過ぎて大手道の角にある公園を右に曲がると、目指す鎌田君の家が見える。
 孤独と切なさで溢れたライオンの巣穴だ。
 私は醤油の入った一升瓶を持ち直す。この程度の距離でも重たいものは重い。これはお父さんから預かったものだ。

「他人様のうちの事をごちゃごちゃ言う気はねえ。だがな、あの坊主は小せえ頃から文句も言わず、やさぐれもせず懸命に生きてやがる。他人に同情されねえように、妙な気を遣わせねえように笑顔でいやがる。偉いじゃねえか。気高いじゃねえか。坊主は立派なライオンになるぜ。だから俺達、近所の連中も黙って見守ってやろうって事にしているんだ。だからお前らも妙な気を坊主に回すんじゃねえぞ。下手な同情は逆に失礼だ」

 鎌田君の家の前に立って、軽く指で前髪を直す。そして一度深呼吸をしてから呼び鈴を鳴らした。程なく中から鎌田君の声がして、それからすぐに扉が開いた。
「あれ、酒留。どうしたの、こんな時間に?」
 いつもと変わらない、朗らかな笑顔を浮かべて尋ねる鎌田君を見て、私の胸はズキリと痛む。それでも心の内が悟られないように、私も努めて笑顔で返した。
「夜遅くにごめんなさい。お父さんがコレ、持っていけって」
 一升瓶を鎌田君に手渡すと、彼は驚いて私と一升瓶を交互に見た。
「え、こんなに。くれるのは嬉しいけど……」
「あ、気にしないで。商品入れ換えでどのみち無くしちゃうらしいから。どうせ捨てるなら、ってお父さんが言っていた」
 幾分困った様子の鎌田君にお父さんからの言葉を伝えると、納得したのか遠慮がちに感謝を述べて受け取った。
 鎌田君の背後から家の中での生活を感じ取る。ちょうど夕飯時だったのか、醤油と鰹だしの香りが鼻孔をくすぐる。そしてテレビの音も洩れてくる。お父さんが観ていた野球中継ではなく、きっとバラエティー番組だと察する。
「酒留、もう感想文は書いた?」
 店番で会うときみたく、日常的な話題をしてくれる鎌田君。
「うぅん。まだ書いてない。これから帰ってやろうかな、って」
「そうか。俺もお風呂に入ったら今日中にやってしまおう。明日になったら書くこと忘れちゃいそうだ」
「だよね。小さい頃から何度も通っている動物園だもの。今更、感想文を書けって言われても書き尽くしちゃった」
「こんな事ならいっそのこと、前に書いた感想文をコピーして保管しておけば良かった。中学と高校なら先生が違うからバレないだろうし」
「あ、それ名案」
 顔を見合わせてクスクスと忍び笑う。
 その時、台所の方から笛を鳴らした音が聞こえた。きっとやかんでもコンロに掛けていたのだろう。その合図が、私達だけの他愛ないおしゃべりへ幕を降ろす。
「それじゃあ、私は帰るね」
「うん。おじさんにありがとうって、伝えおいて。酒留も、ありがとう。わざわざ持って来てくれて」
「うぅん。ご近所だもの。それじゃあ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
 玄関から道路に下りて、鎌田君に手を振る。すると鎌田君も左手で手を振り返しながら、戸を閉めた。私は鎌田家の玄関が閉まるまで手を振り続ける。戸がピシャリと閉まるまで、鎌田君はずっと微笑んだままだった。


家までの帰り道、私は来たときよりもゆっくりと歩く。夏草を撫でた風が私の前髪をふわりと撫でていく。少し前髪が乱れたのに、私は気にも留めずに歩き続けた。
 鎌田君の背後から香った夕飯の匂い。たった一人しかいないはずなのに、きちんとした食事を作っているのがはっきりと分かった。私なんて全く料理が出来ずに、お母さんの手伝いをすれば指を切るほど不器用なのに。何も出来ない自分が恥ずかしく思えた。
 そして聞こえてきたテレビの音。私にとってはお母さんとお話をしていると邪魔にしか感じないのに。一人ぼっちなあの家で、彼にとっては唯一の話し相手がテレビなのだろう。
 鎌田君を通して伝わってくる家の中の空気は切ないくらい孤独に満ちていて、そこにいるだけで魂を切り裂かれるような哀しみで溢れていた。それなのに鎌田君は、そんなことなど微塵も感じさせないように精一杯、懸命に笑顔を取り繕っていた。
 そんな彼の優しい微笑みが哀愁感をさらに際立たせて、息が出来ないほど胸が苦しくなる。
 私の両目からいつの間にか、止め処なく涙が溢れていた。
 私は足を止めて顔を覆うと、その場にうずくまる。そして声にならない嗚咽を漏らし、バラバラになりそうな体と心をつなぎ止めるため、両腕で小さな体を抱き締めた。
 これまで胸の奥に貯めてきた、鎌田君に対する柔らかくて淡い気持ちや星の光ほど朧気だけど確かな輝きを持つ思い出というものが、一瞬で全てこぼれ落ちていく。
 私が大事に育てて、いつか、はにかみながら照れながら彼へ告げようと抱いていた言葉達も、暁にかき消えていく東の空の星達みたく霧散していった。
 とにかく私が鎌田君に向けていた全てのものが、そこには始めから何もなかったかのように、キレイに失われてしまった。
 私が自ら胸の内に秘めた思いを投げ出してしまったのは、自分があまりに浅はかで幼稚だったから。こんな思いを、あの孤高な魂を持つ鎌田君に差し出すには相応しくない。私のただ頬を赤らめるしか能のない稚拙な気持ちが、彼の孤独を救えるとは微塵も思えなかった。
 私は今晩、鎌田君の揺るがない笑顔を目の当たりにして、ハッキリと悟った。
 私の脆弱な星明かりでは、彼を漆黒の闇から照らしすくい上げることなど到底適わない。
 絶望に打ちひしがれた私は、立ち上がる気力もなく、その場にうずくまり泣き続けるしかなかった。私の頬を伝う涙はベガのような真珠の光など放てるわけもなく、情けなく弱い自分を慰める輝きすら持ち合わせていない。ただただ無駄な思いで潤っていた心をカラカラにしたくて、涙を流すしかなかった。

更新日 7月31日

 だからその光に気付いたのは、だいぶ時間が経ってからだと思う。
 声を押し殺して咽び泣く私の頭上あたりに、何かが漂う気配を感じた。何かと思いしゃくり上げながら顔を起こす。すると視界の隅に、フワフワと宙を漂う光の粒が現れた。
 風に舞うタンポポのように頼りなく浮かんだ光は、私に気付くとクルクル旋回を始める。
 有り得ない光景に息を飲みながら、私は鼻を啜って涙で濡れた目元を拭った。
最初は不気味に感じた光だけど、徐々に不信感は薄れていき、じゃれつくように私の周りを旋回し始めた頃には、その光の粒の正体に気付いた。
 私は胸元に手を突っ込み、小さな巾着袋を取り出す。中から恒光石を取り出すと、いつも以上に淡く光を点滅させていた。そんな恒光石に呼応するように、宙を舞う光も緩やかに点滅を繰り返す。
 私は手元の恒光石を数える。私が持つ恒光石は全部で六つ。しかし今、手元には五つしかない。そしてフワフワと漂う光の粒に意思を共鳴させてみた。するとその光は途端に眩く輝きを増し、クルクルと加速する。
 間違いなかった。この空中に浮かんでいる光の粒は、私の恒光石だ。
 何故、この子がいつの間にか私の胸元から離れ、こうして宙を舞っているのか、分からない。ただ、たまにはしゃぐように、たまにおどけるように自由奔放に空中を漂う姿を眺めているうちに、私の瞳から流れる涙は止まり、険しく寄った眉毛は解けていた。
「私を……慰めてくれたの?」
 そう呟き手を伸ばすと、途端に恒光石は輝きと速度を増し、私の手にじゃれついてきた。まるで子犬みたいに。
 そんな仕草が可笑しくなってきて、私はいつしか頬を緩めて微笑んでいた。
 そしてその恒光石を掴まえ、両手で包み込み祈るように額に押しいただく。他の五つの恒光石には既に命名をしていたけど、最後の一つだけはどうしてもしっくり来る名前が見つからず仕舞いだった。
 だけど今、この子にピッタリな名前が弾けるように頭へ浮かぶ。うん。この子に相応しい名前だ。
 私はその名前を口にしないよう注意を払い、恒光石に意思を通わせる。そして左の胸にギュッと押し付けて、そっと心の中で命名をした。
「……!」
 その瞬間、淡い光を放っていた恒光石は天を焦がすほど眩い光を放つ。他の恒光石も共鳴するかのように、力強い輝きを点滅させた。
 でもそれはたった一瞬の出来事で、次に目を開いた時には六つの恒光石は既に胸元の巾着袋へ納まっていた。
 私はしゃがみ込んでいた体を起こし、背筋を伸ばしてみる。
 さっきまで絶望に包まれていた心は、霧が晴れたみたく不思議と澄み渡っていた。そして胸の中には確かな煌めきが熱く宿り、前へと進む勇気を与えてくれる。
 私は一度だけ鎌田君の家がある方を振り返り、大きく深呼吸をすると帰路に着いた。それまで心の中へ大事にしまっていた、ただ頬を染めてときめくだけの好きという気持ちはキレイさっぱりと無くなっていた。
 その替わりに、何があろうとも揺らぐことのない確固たる屈強な思いが胸に宿っていた。
 確かに今の私では鎌田君を支えることも、彼の孤独を救えることも出来ない。だからといって卑屈になったり自分に絶望したりするのは止めよう。だって私にはいつでも見守っていてくれる、暗闇でも行く末を照らしてくれる星があるから。
 ふと空を見上げれば、雲は切れて北の空にケフェウス座が輝いていた。私は涙で濡れた瞳を拭い、ケフェウス座を目印に線を伸ばしポラリスを探し当てる。

 鎌田君が孤独なライオンならば、私は彼を照らす星になろう。
 そばで寂しさを紛らわすことは出来なくても、慰めることも出来なくても、いつでも天空から見守り、暗く悲しい夜に迷わないように。そんな北極星のような星になろう。
 そう決意した時に、私は初めて『星乞い』を本当の意味で理解した。
 彼の星を乞うのではなく、私は私の星を乞う。
 彼のために。

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