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2012'09.27 (Thu)

傲慢に書き綴ったル・ヴィアンディエ 第十一章

東棟にある厨房『陽日の胃袋』は、これまで味わった事のない緊張感に包まれていた。
普段は喧騒で目まぐるしい厨房内が、押し黙ったように静まり返っている。皆、唾を飲み込む事さえ躊躇うほどの静寂に、ただ頭を下げていた。
その時、遠くから近付いてきた足音が厨房の扉を開ける。その使用人は一斉に注目された視線にたじろきながらも、実直に役目を果たす。
「正餐の間に来賓の方々、全員が着席なされました。ドフィネ公の挨拶も済まされ現在は丁度、乾杯酒が振る舞われているところ」
そして一度呼吸を整えると、やや上擦った声で告げた。
「シャルル王子を招いた正餐が、始まりました」
その合図と共に調理人達は、厨房の中央に立つ俺とサリーへ視線を映す。俺は腕組みを解き、賄い用の竈の脇辺りで大きい構えの椅子に座ったマエストロへ、目配せをする。無理矢理ベッドから抜けてきたからか、若干の苦悶を浮かべるが、強がって大御所らしく頷いた。
俺は視線を調理台へ戻し、軽く深呼吸をすると全体に届く声で伝えた。
「ではアミューズに取り掛かる。温めておいた食器をここへ。サリー、ラビオリを湯から引き揚げろ。ディック、ソースの準備を」
『ウィ! ムッシュ!』
俺を指示に合わせてサリーを中心にした調理人達が一斉に動き出す。
全員、一糸乱れぬ整頓された行動はまるで一個の生命体のようだ。それもそのはず、この時の為に幾度となく導線は確認している。
正餐に列席した貴族は全員で十二名。
主賓であるシャルル王子を始め、ホスト役のドフィネ公とその夫人。デザートにうるさいパバローネ伯爵に諸国の要人を少々。僅か十二名のために約五十人はいるであろう調理人が動く。給仕係の連中を含めれば人数はその倍はなるだろう。
「サリー、ラビオリは一人に対して五つずつ。盛り付ける順番と向きに気を付けろ」
「アイアイサー」
お手製のキッチントングを使い、機械のように精密に皿の上へ料理を盛り付けていくサリー。その後に続けてディックが仕上げのソースをかけていく。
サリーに比べれば幾分愚鈍に感じるが、これが通常の人間の速度だ。サリーの手の動きが速すぎる。周りで見守った調理人達は、サリーのその手捌きの良さに思わず感嘆の溜め息を漏らした。
「第二テーブルはオードブルに取り掛かる。皿の準備、カリフラワーのクリームとガルニのハーブ班は支度を整えろ」
『ウィ! ムッシュ!』
「参謀長殿、アミューズが完成した! 最終チェックを頼む!」
「良し。コミ・ウェイター達、運びに掛かれ。一人一枚でいい。持つ時は皿の縁に指紋が付かないように注意しろ。慌てて走るな。気負うな。サリー、オードブルの盛り込みに取り掛かる前に必ず一度は手を洗え」
『ウィ! ムッシュ!』
俺はマエストロのように饒舌ではないから、淡々と無機質な指示出ししか出来ない。というよりも、あまりの緊張で目と口を動かし指示を出すだけが精一杯なのだ。
脳天は昨晩からマヒしたように痺れ、手足は震えが止まらない。冷や汗などは出し尽くしたのか、肌の表面はガサガサで敏感になり痛い。
何かの拍子に心のタガが外れそうで、叫び逃げ出したい衝動に駆られてしまう。しかしそれをどうにか抑制していられるのは、懸命に立ち振る舞う調理人達や、脇腹の痛みを必死に堪えているサリーの姿があるからだった。
彼らが臆病に固まった体の代わりに、手指となって動いてくれる。この厨房自体が同じ精神で繋がった共同体でいてくれるから、俺の神経もギリギリのラインでつなぎ止められていられるのだ。
ならば彼らやサリーに敬意を払い、俺も俺の役目であるブレインの立場を遂行するまで。全員でこの正餐を成功させるのだ。
だが、そんな張り詰めた精神状態の中でも、一つだけ気掛かりなことがあった。
あの晩にサリーと交わした会話の中で生まれた懸念、本当にこのメニューで正しいのかという不安だった。
俺の中にあるレシピ本の総力を結集して、この時代にこの地方にある全てを用いて最高峰のメニューを作ったと自負している。
でも何かが足りないような気がしてならなかった。
味やメニュー構成ではなく、もっと根本的な料理の本質のような何かが欠けている気がしてならなかった。それが何なのか探り当てられないまま、順調に時間は進行していった。

魚料理まで出し終え、続いて肉料理に取り掛かる。未だ緊張感は途切れないものの、渋滞のない進行に厨房内の空気は幾分穏やかさを取り戻してきた。
ウェイターによれば客人の評判は上々で、今のところ賑やかに正餐は続いているという。俺は胸の中にあるシコリのような気掛かりからは一旦、目を反らして指示を出す。
「続いて本日のメインディッシュだ。アレン、仔牛のローストをオーブンから外せ。サリー、デクパージュ(客の目の前で切り分けること)は昨日練習した通りだ。曲芸をしろとは言わんが、客に魅せるのも調理人の役割だぞ。存分に包丁を振るってこい」
「アイアイサー」
おとなが寝そべられそうなほど大きいプラッターに盛り付けられたのは、丸焼きにされた仔牛と付け合わせの野菜が各種。こればかりはこの時代に合わせた料理にしたが、ソースは本格派のフォンド・ボー。目でも舌でも存分に味わえるはずだ。
御輿のように担がれたプラッターの後ろを、サリーやソース担当の盛り付け補助の調理人が追っていく。あとはあちらに任せてこっちはゆっくりとデザートの準備に取り掛かればいい。
皆、同じ気持ちだったのかホッと肩を楽にした。
このまま何事もなく正餐が終わる予感に、厨房内の空気が弛緩する。俺も取り敢えず気持ちだけは張り詰めつつも、姿勢を崩して厨房内を見渡した。
マエストロの忠告もあったからか、内通者の妨害を警戒してサリーの傍から離れないように気を付けたが、そんな雰囲気など微塵も感じられなかった。ここまで人が密集し皆が規律正しい行動をとれば、不穏な動きを見せる人間などすぐに捕らえられるだろう。どうやら取り越し苦労だったらしい。
その時、厨房の隅で一際キツい芳香を放つスパイス置き場にいる、マルコ爺さんが目に付いた。
今日はベタベタの香辛料たっぷり料理は完全に排除したメニュー構成になっている。だから当然ながらマルコ爺さんの役目などなく、しょんぼりとうなだれているが、マルコ爺さんは何故か熱心に乳鉢で何かをすり潰していた。
「なぁ、アクラム。マルコ爺さんは一体何をしているのだ?」
俺は近くにいたウェハー担当のアクラムに尋ねる。するとアクラムはしばらく考えた後に答えた。
「あれはきっとマエストロの滋養剤を調合しているんじゃないかな」
「滋養剤? あんなただのスパイスが効くのか」
「スパイスはどうかしらんが、ハーブにはそういった効用があるというぞ。事実、マエストロは体調が悪い時はいつもマルコ爺さんの滋養剤を飲んでいる」
そう言われれば、と感心しながら俺はゴリゴリと乳鉢を摺るマルコ爺さんを眺めた。あの爺さん、舌は馬鹿だが調合の腕は確かなようだ。
まるでスパイス挽きではなく薬剤師のようだ、と思った瞬間、頭の中で何かが音を立てて弾ける。
ビクリと身を竦めた俺を訝しむアクラム。
「ど、どうかしたのか。参謀長?」
「……これだったのだ、足りなかったものは」
アクラムの問い掛けにも目をくれず、俺は高速で頭を回転させた。あの晩からのモヤモヤした原因がようやく氷解したのと同時に、俺はどうにかしなくては、とはやる気持ちを抑えきれず、ソワソワと辺りを見渡した。
理由を伝えれば他の調理人でも理解してくれるだろうが、果たして俺の要望に見合う食材をポンと用意出来るか疑問だ。俺はレシピ本を高速でめくり検索を掛ける。ちくしょう、この時代にある食材では不足過ぎる。この時代では無理だ!
その時、俺はあることを思い出していた。マエストロは確か、誰かが引き上げて持っていったかもしれない、と言った。
そんなことをする人間に心当たりがあるとすれば、あいつしかいない。それにあいつなら、そこまで人員を動かせる権限を持っているはず。
途端に様子がおかしくなった俺を、他の調理人達は何事かと見守る。壁際のマエストロも眉間にシワを寄せて俺を眺めていた。だが俺はそんな視線など構わず、通用口に向けて駆け出した。
しかしそんな俺の行く手を、急に誰かが阻む。
「どうした、参謀長殿! まだ正餐の最中だぞ。何か必要な物を取りに行くなら、私も同行しよう!」
俺の前に立ちはだかったのは、デザート担当のドライゼだった。左腕には痛々しく包帯が巻かれている。本来なら寝床で療養していろと沙汰があったが、後学のために是非居させて欲しいと頼まれたので渋々了承した。
「いや、大した用ではない。俺一人で大丈夫だ。通してくれ」
横をすり抜けようとする俺を、なおもしつこく通せんぼうをするドライゼ。
「そうはいかん。参謀長殿は我らにとって大事な身、なにかあっては困る。ささ、私も共に行こう」
なんだ、コイツは。怪我人のくせにしつこい奴だ。と若干イライラしつつも、俺はあることに気付き首を傾げた。
コイツ、確か襲われたのは二週間前。あの時に負傷したのは右腕じゃなかったか?
俺の見間違いだろうか。コイツ、何故左腕に包帯なんか巻いている。
その時、俺はあの晩にサリーがいった言葉を思い出すと同時に、戦慄が走った。
『一人だけ良い動きをしていた奴がいたが、左腕を斬りつけておいた』
努めて表情に出さないようにしたが、どうやら遅かったようだ。
俺が勘付いたことを悟ったドライゼは、笑顔をそのまま醜く歪めた。俺は視線を反らさず一歩後退して、声の限りに叫ぶ。
「コイツが内通者だ!」
その瞬間、ドライゼは空いている右手で懐から鈍い光を放つナイフを引き抜き、振りかぶる。誰の声か知らない、絶叫が厨房内を駆け巡った。
俺は凶刃から逃れようとして足がもつれ転んでしまい、地面を這い蹲り逃げる。
覆い被さるように追うドライゼ。きっと俺の用心棒代わりのサリーが離れるこのチャンスを待っていたのだろう。
俺は心の中で何度もサリーの名前を叫んだが、ドライゼは足で俺の背中を踏みつけ、動きを制した。
絶体絶命! ナイフが俺の背中に突き刺さる! と思った瞬間、疾風が俺の背中を駆け巡ったと同時に、体がふと軽くなった。
恐る恐る頭を上げると、厨房の壁に叩き付けられたドライゼと、俺の傍にダラリと腕を垂らして構えた男が一人、立っていた。
「……ダ、ダンディーヌ?」
見上げる俺に、ダンディーヌは親指をグッと立てて満面の笑みを浮かべる。
何が何だか分からず混乱する俺の目の前で、壁に叩き付けられたドライゼは立ち上がると、怒り狂った形相でナイフを振り回し突進してきた。
万事休す! と思った矢先、ダンディーヌは勇ましくも強靭な刃物を持ったドライゼへと立ち向かっていった。
俊敏に体を左右に振りナイフを交わしがてらフェイントを当てる。そしてその体へ左手を滑り込ませたと思った瞬間、ドライゼは軽々と宙を舞った。
「左から来た何かをっ! 右へっ! 受け流すっ!」
吹っ飛ばされたドライゼは反対側にある壁に叩き付けられ、その頭上に壁面へ掛けてあった鍋や調理機材が雪崩のように降り落ちた。
「今だ! ひっ捕らえ!」
ダンディーヌの掛け声で我に返った調理人達は、既に調理機材で埋まったドライゼの上へ覆い被さり、縄でグルグル巻きにした。
呆気にとられた俺に微笑みを浮かべ、手を差し伸べるダンディーヌ。その手を握ると、俺の体をスッと立ち上がらせた。
ダンディーヌの動きはまるで合気道のようで、まさに左にあったものを右へ受け流してしまったようだ。
「あ、あの……何と言ったらいいか。とにかく助かった、ありがとう」
この滅多に他人へ感謝を述べない俺が思わず素直に頭を下げるほどの功績を、妙なフランス人は親指を立て、
「何の事だい! 僕はただ、左から来たサムシングを右へ受け流しただけさ!」
と爽やかに受け流しただけだった。
命の恩人にこんなことを言うのも何だが、お前のスキルは本当に調理場では必要ないだろ。最早、呆れを通り越して……さすがは中世ヨーロッパだな。
キラキラと輝く笑顔のダンディーヌにしばらく呆けていたが、俺は今やるべき事を思い出す。ダンディーヌにもう一度、礼を述べると、俺は通用口の扉を開けて、西棟へ続く通路を躊躇なく駆け出した。
以前、マエストロから屋敷内を案内してもらったときに、敢えて足を踏み入れなかった場所がある。それが西棟の厨房『月光の胃袋』だ。
俺はその厨房の扉前に立ち、呼吸を整える。思わず腰が引けそうになるが、いま勇気を出さなくていつ出すのだと自分に発破を掛けて、俺は勢いよく扉を開けた。
「メイ! いるか!」
屈強な肉体を持つ調理人が、一斉にこちらを振り向いた。東棟の連中と違って明らかに人相の悪い男達に、俺は思わずたじろぐ。
すると、そんな男達の奥から聞き覚えのある声が上がると同時に、モーゼの十戒のように人垣が道を開けた。
その先には、着崩したチャイナ服姿でワインが入ったジョッキを傾けるメイがいた。
「よくここに来れたな、ダメ岡。敵地に丸腰で乗り込むなど、なかなか見上げた根性アルね。今だけは、ほんのりダメ岡くらいに昇格してあげるよ。で、何の用アル?」
 とろりと目尻を下げるメイに、俺は火急の用件を告げる。すると最初は驚いて目を丸くしたメイは、嬉しそうに立ち上がった。
「うむ! 今だけはさらに、ダメじゃない岡に昇格アル!」
 ……いい加減に、ダメから少しは離れろ。

デザートはすっかり出し終え、貴族達は正餐の余韻に浸りながら、食後酒に舌鼓を打っていた。
ドフィネ公の部屋と造りが似た大広間の中央に、たった十二名が席に着くには広すぎる大理石のテーブルが置かれている。そのテーブルに対して一番下座に位置する席から三メートルほど離れて、サリーが恭しく頭を垂れていた。その隣にはマエストロが、負傷した体を精一杯伸ばして椅子に座っている。
きっと今晩の正餐の料理の総評でも頂戴しているのだろう。
「いやはや、至極満足とはまさにこの事よ。次から次へと見たこともない料理の数々、私は異国の地に赴いたような気分を味わいましたぞ」
「うむ、しかもそれがまことに美味! これまで食べてきたものが一体なんだったのかと、疑いたくなるような絶品ばかりであった」
「我が輩は魚料理が最も気に入った。真鯛がまるで舌の上で泳ぐような甘美な感覚であった」
「フハハ、ドレル公爵らしい実に詩的な感想である。儂はやはり何と言ってもデザートであるな。先日も当屋敷でプリンなる摩訶不思議なデザートを食させて頂いたばかり。今日も今日で満足だったぞ、タイユヴァン。しかし……どうにも理解しがたいのは、この小さな皿かのう」
「う、む……。私もこの様式の正餐は初めてな体験だったので新鮮であった。小さな皿に各々の料理が盛り付けられている。確かに芸術性は感じられるが、随分とこじんまりした印象であった」
「我が輩もそれは気になった。正餐というものはこう、テーブルの真ん中に料理をこれでもかというほど、豪勢に盛り付けてもらわなくては気分が乗らん」
初めは絶賛していたが、次第に今回の料理スタイルについてケチをつけ始める貴族達。
こういった連中は総じてこんなものだ。最初は誉められるだけ誉めちぎっておいてから、批判をしなければ気が済まないのだ。まるで批判をするのが自分のステータスだと言わんばかりに。
「こんなチマチマとした料理の出し方、何か意味があるのかね? 貴様等、調理人とて面倒であっただろう」
「むう、以前に何かの文献で見聞きしたことがありますぞ。なんでも古代ローマ帝国では、かような食事作法が流通していたとか」
「なんと! では我々はそのような野蛮な食わされ方をされていたのか! これは、いやはや……」
「粗野であること、この上ない。道理で味付けも薄すぎると思っていた。いつものふんだんなスパイスはどうしたのかね? こんな煮汁ばかりで味付けしたような料理は、一体どういうことか、タイユヴァン」
「我々には貴重なスパイスなど食される価値がないと思われたか。解せんな」
次々と批判を漏らす貴族達に対して、反論も出来ずただ頭を下げているマエストロ。
サリーも同様に頭を低くしているが散々に言われて悔しいのか、握り締めた拳がプルプルと震えている。
同席していた主催者であるドフィネ公は、高貴に微笑みを浮かべて沈黙しているが、その裏に不安の色を隠しているのが手に取るように分かった。料理の批判は自分の屋敷全体に対する評価に等しい。サリーやマエストロ以上に心苦しいだろう。
隣の一番上座に居るシャルル王子だけが、眼を閉じてジッと黙っていた。まだ若いうえに少し痩身な王子に批判的な言葉を漏らされないだけが、せめてもの救いか。
俺は溜め息を吐くとテーブルに歩み寄り、空いている場所へ手に持った土鍋を置いた。
突然の闖入に目を見張る貴族達。ドフィネ公は以前に俺から詰め寄られた経緯があるからか、あからさまにビクッと身を竦めた。
「お前ら、まだ胃袋に余裕はあるか?」
つっけんどんな俺の言い方に、お歴々の貴族達は眉をひそめる。
「お前は何者じゃ?」
「今日の正餐を全て取り仕切った当屋敷の東棟厨房『陽日の胃袋』、料理指南参謀長だ」
マエストロが額に手を当てて低く唸った。こいつにしてみたら俺の存在は出来るだけ秘匿しておきたかったのだろうが、知ったこっちゃない。それに俺からしてみれば貴族とはいえ所詮は七百年前の人間。先祖でもなければ化石燃料にすらならない存在に敬意を払う義理はない。
「で、ぐだぐだとケチをつけるくらいならまだ腹には余裕があるのだろ? だったら最後に是非食べて貰いたい料理があるのだ。サリー、全員分を取り分けろ。そこに突っ立っている給仕係、皿を持って来い」
俺の指示で正気に戻ったのか、サリーがおずおずと前に歩み寄る。次いで壁際にボサッと立っていた給仕係が動き出す。
全員に料理が行き渡る。貴族達は不思議な顔で取り分けられた料理を見つめた。
「これは、粥か?」
「あぁ。冷めないうちに早く食いな」
俺の合図に合わせて貴族達は木のスプーンで粥を救うと、恐る恐る口へ運んだ。そして咀嚼をしていくにつれ、みるみるうちに表情が変わっていく。
「この粥は、この風味は一体……」
「懐かしいような、それでいて新鮮な感激が胸に溢れる……」
「参謀長とやら。これは一体何の粥だ。説明をいたせ」
偉そうに言う割にせわしなくスプーンを動かすパバローネ伯爵。俺は小さく鼻で笑い飛ばして説明を述べた。
「これは米を用いた粥で、カツオを燻製にした出汁を使ったスープをベースにした、俺の国特有の料理だ」
「ではこのハーブはなんじゃ? 初めて嗅ぐ芳香を放っている。他に具材といえば、大根や蕪か?」
粥の中に漂う緑色の葉をスプーンで突っつく貴族。そんな疑問に俺は自分の国なりの言葉で返した。
「セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロ」
独特のリズムに乗せて語を読む俺に、一同は目を丸くする。他の文化を持つ人間が耳にすれば、まるで呪文を唱えたように聴こえるだろう。
「俺の国ではこの料理を七草粥と呼ぶ。年明けの弱った胃袋を元気付けるために食されるのが一般的だな」
その時にサリーはハッとした表情で俺を振り向いた。俺はそんなサリーの眼差しを敢えて無視して、話を続ける。
「俺の国には医食同源という言葉がある。健康と食事は密接な関係上にある、という意味だな。食事とは肉体を維持する役割と、嗜好を満たす役割を担う。だがお前らときたら、ただ単に珍しいもの、ただ単に刺激が強く美味いものばかり追い求める。まぁ、それは調理人である俺たちにも一端の責任があるのだが」
そう言って俺はマエストロを横目で睨む。まぁ、知らなくては仕方ないことだがな。
その時、一番前に座っていたパバローネ伯爵が憮然と反論をした。
「それのどこが悪いのじゃ。好きな物を好きなだけ食らう。そういった生活に浸れるのも我々、貴族の特権である。平民のそなたにはわかるまい」
「その割には七草粥を食べる手が止まってないぞ。体が正直に求めている証拠だ」
さっきからむさぼるように粥をがっついているパバローネ伯爵。指摘を受けたことが恥とばかりに睨みつけるが、依然としてスプーンが止まらないので迫力に欠ける。
「確かに俺の国にも、忠告を無視して美食に狂う馬鹿もいる。そういった人間が行き着く先は総じて同じ。……死だ」
その言葉に全員、心当たりがあるのか一斉に手を止める。俺は目の前にいる、その美食に狂った末路に一人息子を置いて他界した、その愛すべき馬鹿に似たドフィネ公を見つめる。
「過度な味付けは体の機能を破壊し、過度な香辛料の刺激は味覚と精神を狂わせる。そんな生活を続けていって死んでいった人間が、お前らの近辺にも山のようにいるだろう。それなのに改善しようとしないお前らの意識も既に蝕まれていると、何故気付かないのだ? たかが食事、されど食事なのだ。生きるためのはずの食事が、お前らの命を奪うのだ。だがな、さっきも言ったように医食同源だ。食事は薬にもなる。今、食べている七草粥などが最も良い例だ。これらの香草がお前らのボロボロの胃袋を必死で修復してくれているだろう。さっきの食事もそうだ。無駄に味を誤魔化すスパイスは使わず、食材の持ち味を最大限に引き出し、バランスの良い栄養価を計算した」
シンと静まり返った大広間に、俺の演説だけが響く。
「俺はな、そこまで考えてこそ、食べる人間の本当の幸せを願ってこそ、調理人ではないかと思う。ただ美味いだけ、ただ珍しいだけなど料理ではなく曲芸だ。食べる人間の体調や健康を気遣える調理人こそ、俺の目指す調理人なのだ」
それが、俺が二十年間、世界中の美食を食べ尽くして、大好きだった親父の死を通して学んだことだった。
一言も発してはいないが、貴族達の体は本当に正直なもので、まるで空になった皿に説教でもされているかのように、首を垂れていた。
その時、真っ正面に座っていたシャルル王子が急に立ち上がり、手をたたき拍手をした。
「見事! なんとも見事な心意気に感銘を受けました、参謀長殿!」
一同がキョトンとする中、シャルル王子は咳払いをするとゆっくりと腰掛けた。
「皆様もご存知のように私は幼い頃から体が病に蝕まれて、年の割にみすぼらしい痩身であります。ですから食事には常日頃から気を遣い、皆様と同じ食事を最後まで付き合うことが叶いませんでした。しかし、見て下さい! なんと病弱な私が、初めて正餐の食事を完食し果たせたのです! これも一重に参謀長殿の深いお心遣いのおかげと感謝申し上げます!」
興奮に瞳を輝かせなからも、すっきりと背筋を伸ばしたシャルル王子の姿は品の良さを損なわない。シャルル王子は再び列席した貴族達を見渡す。
「皆様も知っての通り、我がフランス王国は宿敵イングランドとの戦況も思わしくないばかりか、追い討ちをかけるが如く黒死病の蔓延と、国民は常に不安と隣り合わせの生活を送っていると聴きます。それなのに、国民を守る我々貴族が不摂生を続け、命の灯火を戦場ではなく食卓で散らすのはとんでもない不名誉ではないでしょうか! 貴族である我々は国民の模範であるべき、とは貴族として騎士として当然の責務です。我々がだらしない食事を続ければ国民も倣い、いずれは王国そのものを腐敗させていくでしょう。私は今夜の正餐に王国の行く末と、貴族としての正しい志しを見直す機会を神が与えて下さったような気がしてなりません。だから、いずれはこの王国を背負う者として、改めて国民のために全身全霊を賭して模範である貴族であり続けることをここに宣言します!」
高らかに宣誓を述べたシャルル王子に感銘を受けたのか、貴族達はすかさず立ち上がり大きな拍手を送った。尊厳な眼差しを向けてシャルル王子が言った。
「もう一度感謝を述べさせて頂きたい、参謀長殿。そして満身創痍ながらお越し下さったタイユヴァン殿と、可憐な懐刀であるサリー殿にも絶大なる感謝を。『陽日の胃袋』の存在は後世まで末永く繁栄されるよう、私からも引き立てさせて頂きます。如何でしょうか、ドフィネ殿?」
それが合図のように、ドフィネ公とマエストロは目配せをして頷き合った。
俺はそのやり取りに安堵の吐息を漏らし、急に手の平を返したように料理を絶賛し始めた貴族に背を向けて、大広間を後にした。

美術館のような長い回廊を歩いていると、後ろから俺を追ってくる足音が聴こえてきた。俺は歩調を緩めずそのまま真っ直ぐ進む。
「ワタル! 待ってくれ、ワタル!」
サリーの弾む声に後ろ髪引かれる思いで足が止まりそうになるが、俺は歯を食いしばって歩き続けた。
「待てと言っているだろう!」
サリーの白魚のような指が俺の腕を捉え、歩みを阻んだ。慌てて走ってきたからか、サリーの乱れた息が耳につく。
「正餐は大成功だったようだな。これでマエストロは正式に料理長に就任するだろうし、そうなればこの屋敷で起こっている下らない紛争も終結するだろう。サリー、お前も今回の手柄で昇級するかもな。お前、いま星いくつだ?」
「……一つだよ、馬鹿者」
「じゃあ三つ星くらいにはなるんじゃないか。でもお前、頭悪いから駄目だ。あまり上の立場になると下の人間が迷惑だから、やめた方がいい」
「う、うるさい。ほっとけ。……お前一度、元いた時代に戻っただろう?」
驚いて振り向いた俺の目の前に、怒ったような悲しいようなサリーの顔があった。やっぱりさっき、七草粥の説明をしていたときにサリーは気付いていたのだ。
「……イヤな女だ。馬鹿なくせに妙なところで勘が鋭い」

更新日 10月5日

「あんな形状の鍋に、この時代に存在しない香草! 誰だって分かる! お前、一度は七百年後へ帰ったのに、また私達の時代に戻ってきてくれたんだよな? なのに、どこに行こうというのだ?」
つくづく癪に触る女だ。余計な時にだけ頭の回転が良い。
だが、そんなサリーが憎いとか、煩わしいとか、そういった気持ちは全く湧いてこなくて、替わりにどうしようもない愛しさが胸にこみ上げてきた。
「マエストロと交わした約束は果たした。どこに行こうとお前が知ったことではない」
踵を返して歩き出そうとした俺を、サリーが再び阻んだ。ただ阻んだのではなく、両手を回して後ろからきつく抱きしめて……。
「嫌だ! 行っちゃ駄目だ! タイユヴァンだって、他のみんなだってワタルがここに残ってくれるのを望んでいる! 七百年後になんて、帰らないで……! ずっと、そばにいて……!」
叫ぶサリーの声が徐々に掠れていき、弱々しくなっていく言葉に反比例して、俺に巻き付いた腕は解けないようにと強さを増す。
「私の傍から……いなくなっちゃ、やだ……」
サリーの声がすすり泣きへと変わっていった。目頭がグッと熱くなり、喉に堪えていたものが突き上がる。
しかし俺は、ボロボロと崩れそうな気持ちを懸命に我慢して、強く抱き締めたサリーの腕を丁寧に解いていった。そしてサリーの手を握り、涙でグシャグシャになった瞳を指で拭う。
「サリー、どうか元気で。いつか、立派な調理人に……」
それが限界だった。俺はサリーを突き飛ばすと、全てを振り切るように駆け出した。
後から追ってくる足音は、もう聴こえない。

回廊を抜けて、厨房へと続く廊下をいくと、前の方からチャイナ服を着た女が、小気味良くやって来た。
「どこに行っていた、メイ?」
「ちょっとタイユヴァンの執務室に。書きためていたル・ヴィアンディエを抹消してきたアルよ」
あっけらかんと微笑むメイに、俺は肩をすくめて見せた。さすがは従姉妹、考えていることは筒抜けらしい。
俺は感謝の意味を込めて、メイの頭を撫でたが、すぐ邪険に払い落とされた。
「触るな、ダメ岡。私に触れたかったら、もっとお金持ちになてイケメンになてからアル。もっともお前には到底無理アルけど」
「ふん。お高く止まりやがって。セレブに返り咲いても、絶対お前には触らん。麻婆豆腐臭いのがうつる」
お互いいつものイヤミの応酬を交わすが、顔を見合わせると小さく噴き出す。そして同じ歩調で目指すべき場所に向かった。
「やっぱり、帰るアルか」
「あぁ」
「あ~、明日からまたバイトを探す日々が始まるね。そうそう、冷凍庫は中庭に移動させておいたアルよ」
俺達は中庭へと続く通路を歩く。後ろ髪を引かれる思いではあるが、元いた世界に戻ろう。
さらば、中世ヨーロッパよ。



目次
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2012'09.16 (Sun)

傲慢に書き綴ったル・ヴィアンディエ 第十章

シャルル王子を招いた正餐が、一週間に迫っていた。
厨房から戻ってきた俺は、マエストロの寝室に顔を出す。ベッドに横たわったマエストロは腹に置かれた書類から顔を上げた。
「どうだ、マエストロ。ある程度の食材は仕入れが可能だろ」
包帯が巻かれた手で紙の端を摘み、ヒラヒラと振ってみせる。
「あぁ、大体は問題ない。ただどうしても時期的に難しいのと、この時代に存在しない具材には印を付けておいた。この野菜にある、トマトと読むのか? どんな野菜なのだ?」
「ほう。十四世紀にはトマトが無いのか。ヨーロッパ原産のイメージが強いが違ったのだな。赤くて酸味が聞いたフルーツのような野菜だよ。煮込みにもサラダにも使える万能選手だ」
感心したように次の書類に目を通すマエストロ。正餐で出すフルコースのメニューと、それに使われる具材や調理法を事細かに書き記したものだ。

・フォアグラのラビオリ
・キャビアのジュレ、カリフラワーのクリーム
・伊勢海老 ヴァプール仕立てのエテュベ 人参のクーリで
・セップとジロールの包み揚げ、軽く仕上げた栗のスープ
・真鯛 グリエしてグリンピースの葉を添えサラダ風に
・小エビのクリームスープ
・ラカン仔鳩 ローストにクレソンとほうれん草のムースリーヌ
・仔羊鞍下肉のロースト、エスペレット唐辛子のジュ
・シェーヴルチーズ、タプナードと南欧風サラダ
・ウフ・ネージュ、イチジクのジュレ添え
・ショコラとキャラメルのミルフィーユ

「これを全て一人前の皿に盛り付けて一人ずつに配っていくスタイルか。今の時代ではとても思い付かないな」
中世ヨーロッパではプレートに盛り付けた料理を、大きなテーブルの中央へ装飾品のように置かれ、それらを自分で皿に取り分けて食事をするらしい。温かい料理を温かいうちに食べるという考え方はなく、テーブルを華麗にコーディネートすることを重視するようだ。
「それだってこのスタイルでの料理サービスが画一化されてきたのは、俺の時代からまだ五十年前らしい。だからこのワンプレートサービスを『ヌーベル・キュイジーヌ』と当時は読んだらしいぞ」
「ヌーベル・キュイジーヌ……新しい料理という意味か。そうだな、我々にしてみれば斬新で冒険心に満ちたスタイルだ」
それゆえに不安もある。正餐に出席するのは歴々の貴族ばかり。真新しいものを素直に受け入れてくれれば評価も上がるが、保守的な人間にはどう感じるだろうか。
特に主賓であるシャルル王子が機嫌を損ねたとなれば、マエストロだけなくドフィネ公の顔にも泥を塗ることになる。昨晩もそれで給仕係や他の調理人と散々揉めたのだ。
「気にすることはないぞ、ワタル。やりたいようにやってくれて構わん。昨日も言っただろう、全責任は俺が持つと」
俺の懸念を見透かしてか、マエストロは額に巻かれた包帯の下から笑顔を覗かせて励ました。
ヌーベル・キュイジーヌスタイルについて、元来通りの料理スタイルで行くべきと多数の反対意見があったが、それを抑えて味方をしてくれたのがマエストロだった。結局はマエストロの鶴の一声で渋々決定したようなものだ。
「もとより私は冒険好きでね、新しく面白いと思ったことは、試さないと気が済まないのだよ。私が今までやってこれたのも、無鉄砲にも感じる冒険心のおかげさ。シャルル王子だろうが気にする必要はない。むしろワクワクしているくらいだ」
「元気なオッサンだ。なに、気になどするものか。給仕係共にまで指導をしなければならないのが面倒なだけさ。明日もう一度、サービスの動作を練習させなくては」
わざと胸を張り、強がってみせる。ミイラのように包帯でグルグル巻きにされた怪我人が気丈に振る舞うので、こちらにしても負けていられない気持ちになった。
「厨房の方は問題ないか? 皆、ちゃんとワタルの指示に従っているかね」
書類について二点三点確認を終えると、マエストロは疲れたように深い溜め息を吐きながら尋ねた。確かに怪我人をあまり酷使するのは可哀想だ。
「あぁ、問題ない。みんな案外素直に聞いてくれている」
「サリーは、あの人は大丈夫か?」
「元気過ぎるくらいだよ。水を得た魚みたいに活き活きとしている。それにしてもあの馬鹿女の腕前は本当に凄いな。他の調理人共が追い付いていけてないくらいの速さ、そして正確さを兼ね備えている。今日の分の仕込みだって、ほとんど一人でやっつけてしまった」
切って良し、焼いて良し。ありとあらゆる調理器具を巧みに使いこなす。傍に張り付いて事細かに指示さえ出せば、サリーは実に正確に従ってくれる。これが自分の頭で考えて間違いなく行動出来るようになれば、歴史に名を残すほどの調理人になるだろう。残念なことに天は二物を与えず、か。
「そうか。それはきっと、ワタルとの相性が良いからだろう」
「んなことあるか。未だに水と油だ。まぁ、お互いに足りない部分を補い合っているのは事実だが。脳みそと腕前」
 俺の言うことにフムと独りごちてから、マエストロは声を一オクターブ落として言った。
「実はサリーにな、縁談がきているのだ」
何故だろう、急に話題が切り替わったからか、すぐに返答が出来なかった。喉の奥から飛び出そうとする言葉はたくさんあったが、グッと押し込めて洩れた声は「へぇ……」の一言だけ。寂寥感に似た感傷がじんわりと胸に滲んだ。
俺の顔色を注意深く観察するように、マエストロはポツポツと話を続けた。
「あの人も今年で十七歳、どこかへ嫁ぐには申し分がない年齢だ。そりゃ頭はちょっとだが、気立てが良くてご覧の通りの美貌なのでな、引く手も数多なのだよ」
「相手は……貴族か?」
「ほほう、これはこれは。本人から話は聞いていたか。そう、ご明察の通りとある貴族の方から熱烈なアプローチを受けている。没落という身分など気にも掛けないほどだ」
貴族に嫁ぐとなれば気苦労もあるだろうが、華やかな世界に返り咲ける。俺ならば喜んで戻るだろう。だが……。
「あいつは、何と言っているのだ? その気はあるのか?」
「もともと乗り気ではなかったようだが断るに断りきれない様子でな、承諾する運びに傾いてきたのだが……」
一瞬、サリーのウェディングドレス姿が脳裏をよぎった。体がビクンと竦み、頭の先端がチリチリと熱くなる。
「ここ二日間で意見が急に覆ってきたのだ。やはり嫁に行く気はない、とな」
「それは、なんでまた……」
たじたじと聞き返す俺に呆れたような眼差しを向け、マエストロはぶっきらぼうに「知らんよ」と言い捨てた。その態度が何を意味するのか、精神的に未熟な俺には知る勇気がない。
ただ俯いて頭の中を飛び交う甘酸っぱい憶測に、悩殺されるのが関の山だった。
「それと先程、悪い知らせが届いた。ワタルがご所望だった例の白い箱だが、すでにあの場所から姿を消していたらしい。見つけられなくて申し訳ない」
「ほ、本当か?」
「あぁ。サリーが放った後に崖下へ落ちていったがな、何者かに引き上げられた痕跡はあったようだ。そうなると見つけるのは、これまた至難の業になる」
「そうか。……それは残念だ」
だが口で言うほど本心からガッカリしていない事に、自分でも驚くほどだった。
七百年後の日本に、俺が元いた世界に帰る……つい数日前には心の底から願っていたことなのに、今となってはそれほど切望していない。
『陽日の胃袋』の調理人達の顔が頭の中に浮かんでは消える。そして、先ほど思い描いたサリーのウェディングドレス姿に、心は荒波のように揺れた。
「なぁ、ワタル。この度の正餐について取り仕切りをしてもらい、俺は言葉では言い尽くせないほどの感謝をしている」
マエストロは静かに語り始めた。
「だからこんなお願いをするのは筋違いだというのは重々承知している。承知した上で請う。この時代に留まる気はないか?」
「……」
「いや、そんな顔をせんでくれ。含むところはなく、このギョーム・ティレル一個人の本心を言ったまでよ。ワタルがやってきてからな、我が『陽日の胃袋』に変化の兆しが見え始めている。進化、といった方がいいか。他の調理人達もワタルを尊敬し慕っているし、ゆくゆくはワタルが当屋敷の厨房を担う器に大成すると思っているのだ」
真っ直ぐに見つめるマエストロの眼差しには、嘘の色など微塵も感じられない。部屋を照らす蝋燭が、ジジッと音を立てた。
「ワタルにも帰りたい故郷があるのだろう。それは分かるが、ここがワタルにとって魂の拠り所にはならないだろうか。私も他の調理人達も望んでいるし、勘違いでなければサリーだって望んでいるぞ」
無理矢理に感情を押し込めたからか、顔が真っ赤になっていくのが自分でも分かった。何か一言でも口にすれば都合のいい本心がボロボロと零れそうで、俺は口を噤んで踵を返した。
残念そうに溜め息を吐いたマエストロは、苦しげに体をベッドに横たえた。肥えた体を預けられたベッドがギシリと悲鳴を上げる。
「今すぐ答えを聞きたいわけではない。ワタルにとっては一生の決断になるだろうからな。ただ、件の正餐が無事に成功した暁には、ワタルの本心を伺いたい」
俺は返事もせずに、薬臭い怪我人の寝室を後にした。

☆ ☆ ☆

「ただいま~」
ふらつく足で部屋に戻ると、そのままベッドに崩れ込んだ。ちょうどアンアンと淫らな声を上げながら包丁を研いでいたサリーが目を見張る。
「やっと戻ったか、ワタル。お前、だいぶ酒を飲んだのか? んふっ」
体中にまとわり付いた酒気を咎められ、俺は靴を脱ぐと仰向けになった。
「正餐で振る舞うワインを選んでいたのだよ。給するワイン一つで料理の味がガラリと変わるからな。それにしても、この時代のヴィンテージ物は美味い。ついつい杯が進んでしまった」
この時代のワインはまだガラス瓶が発明されていないので、樽内熟成が基本となる。現代のヴィンテージ物と違った風味があり味わいが良いが、どうしても料理の邪魔になりがちになる。
ワイン担当の給仕と散々協議をして、フレバーが控え目で腰がしっかりしたワインを選んだが、本当にひと苦労だった。
「なにせこの屋敷には百種類以上のワインが貯蔵されてあるからな。単なるテイスティングでも相当な量になる」
「百種類以上もあるのならばな。あまり飲み過ぎるなよ、んんっ。ワタルはゲソなんだから」
「それを言うなら下戸だろ。誰が烏賊の脚だ」
「そうそう、それ。もう少しで本番なんだから体調は整えておいてくれよ、ふぐぅ」
いつもの下らないやり取りが酔った脳みそに心地良い。そしてサリーとのやり取りがいつの間にか日常になっていると感じ、胸がキュンと縮まった。
「なあ、ワタル。何度も言うようだが、お前が考えたメニューの料理は本当に凄いな。画期的というか斬新というか、私達が予想もしなかったものばかり。まさに目からウンコだよ」
「ウロコだろ。それじゃ目ヤニじゃん。本当に糞が好きだな、ガーベラお嬢様」
「うむ。このメニューならばきっと列席された貴族の方々も満足されるだろう」
「満、足……?」
「そうだ。珍しく豪華な料理を口にしてこそ、本当の満足が得られるのではないか? あふんっ」
サリーの言葉が引っかかった。確かにこの時代で求められるサティスファクションを追求すればそうなるだろう。俺も色々考慮してメニュー構成をしたはずだ。
それなのに、気持ちのどこかで納得しかねる自分もいる。満足の裏側にあるはずの、本当の満足。分かりそうで分からない、そんな感触に気持ちはざわついた。
「それが、料理の本質なのだろうか。珍しくて豪華なだけの料理がもてはやされて、それで俺達は納得していいのだろうか」
「そういうものじゃないのか。ワタルは相変わらず小難しいことを考えるのだな。本質でも何でも良いではないか……うんっ、あはっ」
俺の独り言にサリーは包丁を研いだまま言葉を返す。何だかそれでかえって頭の中のモヤモヤは膨らんでいき、俺はベッドの上で幾度となく寝返りを打った。
「すまないが少し仮眠を取る。二時間ほどしたら起こしてくれ」
 それと、その変な声のボリュームも少し落として欲しい。悶々して眠れない。
「おいおい、まだ働く気か」
「当たり前だ。もう一度、当日の作業手順に抜かりはないか確認をしなくては」
「明日でも間に合うだろうに。タイユヴァンも言っていたぞ。んはっ、一流こそ催眠は上手く取る、と」
「睡眠だろ。自己暗示でも掛ける気か? とにかく起こせ。言うとおりにしろ」
ぞんざいな返事をするサリーに背を向けて、俺は固く目をつむった。
部屋にはサリーがナイフを研ぐ音と卑猥な声が響く。その規則正しい音に誘われ、日中にマエストロと交わした会話がふいに思い出される。酔いのせいか頭の滑りが良く、言葉が次々とリフレインされていった。
トマト……白い箱……シャルル王子……留まる……サリーの縁談……あはんうふん。
次々と浮かんでは消える言葉を振り払うように、俺は顔の前で腕を振る。そして体の向きを変えると、包丁研ぎに精を出すサリーを見つめた。
あんな怪力をどこに隠しているのかと、疑ってしまいたくなるような細い肩。少し荒れた白い手指。真剣に研ぎあがっていく包丁を見つめる表情と輝く瞳。
こんなまだあどけない少女が、縁談という矢面に立たされているのが信じられなかった。
時代のせいや文化の違いという、抗えない固体化した空気に包まれて生活を送る者として当然の義務だろう。そんなことは理屈で分かっていても、享受しかねる感情を持て余す自分が不思議に思えて、モヤモヤはさらに膨らむばかりだった。
もう一度、鬱屈とした気持ちを払拭したくて腕を振る。そんな俺を不審に思ったサリーが小首を傾げる。
「どうしたのだ、ワタル。寝ないのか? さっきからパタパタと手を振って。腕相撲の練習か?」
「どんな状況だよ、それ。とにかくうるさい。眠りの邪魔」
なおも不満げなサリーだったが、ふと押し黙ると、ベッドに横たわる俺の脇に膝をついた。そしておずおずと口を開く。
「そんなに寝付けないなら、ちょっと月光浴をしないか?」
決して目は合わせず、でも両目にはしっかりと光を湛えたまま、サリーは俺を夜の散歩へ誘った。

満天下の夜空を支配するのは、まん丸の月。原っぱ一面が月明かりに照らされ、幻想的で美しい。
サリーは嬉々と俺の手を引いて、白銀のステージに呼び寄せた。
「今夜は随分と月光が明るいな。まるで昼のようだ」
「まったくだ」
屋敷の脇にある草原に招いたサリーは、月光の養分を吸っているかのように精気を増していく。俺の手を離すと一人で原っぱの中央まで駆けていき、リズムに合わせて体を揺らし始めた。
不思議なステップを踏み、身をくねらせて踊るサリーに、俺は目を奪われる。
酔っていたというのもあるが、淡い月明かりのステージで舞うサリーがこの上なく清楚に見えて、自然と高鳴る胸の鼓動が抑えきれなかった。そして反面、何だかもの凄く切ない気持ちも波のように寄せては返した。
一通り踊り終えてすっかりご機嫌になったサリーは、子犬のように俺に駆け寄ってきた。
「どうだった、私の踊りは。今のもサリーに教わったのだ」
「あぁ、良かったよ」
「本当か? 久しぶりだったから、きちんとステップが踏めるか心配だったよ。ワタルも一緒に踊ろう」
そう言ってサリーは俺の両手を掴むと、原っぱの特設会場に招き入れた。
ダンスなんて生まれてこの方、やったことはない。サリーが強引に振り回すので、俺はやけくそになりデタラメなステップを踏んだ。
「ハハハ、なかなか上手じゃないか。これならダメ岡から、ややダメ岡に昇格だな。略してヤダ岡」
「うるさい! ダメ岡って言うな!」
怒って反論するが、口角が緩んで迫力に欠けた。サリーはそんな俺を見て、また楽しそうに笑い声を上げた。
激しいステップからサリーは徐々にテンポを落とす。それに合わせて俺も、ワルツのステップでゆったりと体を揺らした。
「なぁ、ワタル。知ってのとおり私は元貴族だが、今は単なる庶民でしかない。だから貴族特有の煩わしいしがらみに縛られる必要もないのだ」
俯き加減でボソボソと口を開くサリー。独り言のような呟きの後、何かを決心したようにサリーはパッと顔を上げた。
「ワ、ワタルのいた世界ではどうなっている? 婚姻について、何か特別なしきたりや制約はあるのか?」
俺はサリーにまつわる縁談の話を思い出した。とある貴族からアプローチを受けているが最近では悩んでいる、と。
「特にない。年齢制限くらいだな」
「身分は?」
「関係ない。そもそも俺のいた世界には分け隔てる身分などないのだ。全員が庶民だよ」
そうか、と頷いてサリーは押し黙ってしまった。ステップの刻みが段々と遅くなっていく。八拍子から四拍子へと弱まっていき、振り子と化して同じリズムを刻んでいた俺達は、緩慢に動きを止めた。
「ワタル。私をどこか遠い場所に、連れて行ってくれないか?」
心臓が乱暴に跳ね上がった。
キラキラと潤んだ瞳が、哀願するように俺へ訴えている。
「お前、何を言っ……」
「貴族から見初められた庶民に選択肢はない。今まで仕事のことや身分違いを理由にして、返事をうやむやにしてきたけど、これ以上は引き延ばせない。仲介役となっているドフィネ公やタイユヴァンにも、多大な迷惑をかけている。もう、私は嫁ぐしかないのだ!」
弾かれるようにサリーは俺の胸に飛び込んできた。虚を突かれて動揺する俺を、サリーは腕にギュッと力を込めて抱き締める。
「ワタル、シャルル王子を招いた正餐が終わったら、私と一緒に……」
震える声を押し出して言った、その時だった。

「その願いは叶わないよ」

背後から突如として聞こえた声に反応して、俺達は反射的に身を離した。そしてサリーは素早く抜刀をして俺を背に立ちはだかる。
「何者だ。返事によっては我が愛刀の錆びに変わるぞ」
「せっかくイチャイチャしていたところ、ゴメンね。機嫌を損ねたかな? 私は西棟のジノ・イエール。そう答えればいくらお馬鹿なサリーちゃんでも、どんな用事で私が来たか、察してくれるね」
その名前を耳にして、悪寒が体中を駆け巡った。マエストロを動けない身体にした、西棟の裏参謀が自ら表舞台に現れたのだ。
「誰がお馬鹿だ。それにまずは名前くらい名乗ったらどうだ!」
「いや。今思いっきり名乗っていたぞ」
さらに驚いたことがある。
やや鼻にかかった甲高い声。細くスラッとしたシルエット。顔こそは暗闇ではっきり捉えられないが、イエールとは女性だったのだ!
サリーといい中世ヨーロッパの女は凶暴過ぎる。しかし、イエールの声がどうも俺の耳に引っかかった。
「それにしても、お前もお前ね。見知らぬ土地、いや見知らぬ異界に訪れて、本名を名乗るなど愚の骨頂アル。だからお前はいつまでたってもダメ岡なのよ」
気付けば、大きな声で叫んでいた。
その口調に口ぐせ。抜群なプロポーションを包んだチャイナ服。妖艶な瞳が月明かりに照らされて煌めいた。
「メイ! どうしてお前がここにいる?」
俺のよく知った従姉妹が、中世ヨーロッパに現れた。しかも敵対する立場で。これで驚かない人間がこの世にいるだろうか。
「お前とはひどいアルな。可愛い従姉妹が、こんな世界にまで追い掛けてきてくれたのに」
「お前も、あの冷凍庫に入ったのか?」
「そういうこと。ただし時間軸設定が微妙にズレていたから、お前よか二ヶ月も先に来てしまたアルよ」
「……なんであの中に入ろうとした?」
「お前が言うか、ダメ岡? 理由なんて一つしかないアルよ。しかし悔しいと言えば、思考の行き着く先がお前なんかと同じというところね。どうせ逝くならスリーピングビューティーが、フェミニンな亀岡家の流儀だったからアルよ」
俺達の会話にサリーはナイフを構えながらも、不信感を露わにしてキョロキョロと目を動かした。
『陽日の胃袋』の人間にすれば、イエールという人物は忌むべき存在。そんな宿敵と自分らの参謀長が、明らかに互いを知り合い面しているのだから。
「おい、ワタル! この女は敵なのか! それとも味方なのか!」
理解出来ない状況に耐えきれなくなったサリーが吠えた。
決して俺が敵と内通しているわけがないと、この少女が自分に寄せてくれる信頼がこの上なく心地良かった。しかしそれが、刃物を向けた相手に斬りかかるべきなのか否か、サリーの中にある判断を大きくブレさせている。 
俺は答えることが出来ずに低く唸る。俺自身でさえ、いま目の前にいるメイをどう扱えばいいのか、探りあぐねいているのだから。
だが、そんな愚かな俺達に、西棟の裏参謀は無碍もなく言い捨てた。
「敵よ。私は敵アルよ、ダメ岡にサリーちゃん。一週間後に控えたシャルル王子を招いた正餐を、何があても成功させてはならない。最強の包丁か、最高のレシピ本。どちらかを挫かせて頂くアルね」
その一言がサリーの行動信号を本能レベルで直結させた。一瞬で間合いを詰めたサリーのナイフが、メイとすれ違う刹那に激しく閃いた。
中世ヨーロッパに来て、生まれて初めて気持ちを通わせた少女が、俺の従姉妹に切りかかったのだ。
しかしメイは斬撃を受けたというのに、何事もなかったかのように姿勢を崩さない。あまりに薄い手応えに、サリーは自分の握り締めたナイフと身じろぎ一つしないメイを見て、大きく目を開いた。
「やれやれ。こんな小娘に大の男が三人もやられるなんて。カタギの調理人には荷が重すぎたアルか」
メイの両腕からスルッと、黒い棒が姿を現した。柄が付いたその棒を、まるでカメラを向けられたモデルのように、メイはごく自然に構えた。その一分の隙もない構えに、サリーはゴクリと生唾を飲み込んだ。
「お前、それトンファーか? いつの間に……」
「アマゾンで検索して買たアルね。護身用よ、護身用」
ふざけるな、何が護身用だ。この女、中国拳法を幼少期から習っていて、十代前半には腕前が既に達人級と評判だった。
同じ戦士として、対峙した瞬間に相手の実力を把握したのだろう。サリーは額から流れ落ちる汗を止められず、せわしなく何度もナイフを構え直す。
その目に見える焦りが、メイの余裕と嘲笑を引き出した。
「そういうことね、お馬鹿なサリーちゃん。無駄な足掻きは止めとくのが賢明よ。そこで一つ、取引はいかがか? 一週間後の正餐が終わるまで、あなたとダメ岡をこちらで幽閉させてもらう。もちろん手荒な真似はしないアルよ。ダメ岡は私の大事な親族アルし、あなたも使い道が無くはなさそうアルからね」
メイの取引内容に、体の震えが止まらなかった。こいつは一体、何を原動力にここまで俺達にハッキリとした敵意を持っていられる? 俺がこの時代にくる前の二カ月間の何が、メイをここまで変えたのだ?
素人目にも分かったが、サリーの力がメイを上回っているとは思えない。それは本人が顕著に感じたはず。正餐は失敗するかも知れないが、サリーが必ずしもこの場に命を懸ける必要はない。しかし……。
「うるさい! そんなナイのかアルのか言動が定かでない人間となんぞ、誰が取引などするか! それとワタルのことをダメ岡と連呼するな! そのあだ名はワタルが一番嫌うことを知ってのことか!」
……まぁ、お前もさっき普通に言っていたけどね。
理屈や論理が全く通じない生粋の戦士であるサリーは、戦ってしか相手の善悪を計れない。だからサリーは、自分の物差しであるナイフを両手にしっかりと握り締め、メイに疾走していった。
笑みを浮かべたまま、メイはサリーのナイフをトンファーで受け止める。強烈な力と力が衝突したように空気がビリビリと震えた。
「うぉー!」
喝を入れて次々とメイへ攻撃を止めないサリー。息つく隙のないほどに襲い掛かるナイフを、メイは丁寧にトンファーで防いでいた。
目まぐるしい攻防に、素人な俺はどちらが劣勢か分からなかった。しかし、月明かりを浴びながらうごめく二人の戦士の動きが、徐々に目で追えるようになってくると気が付く。やっぱりサリーの方が押されていた。
メイはサリーの斬撃をトンファーで捌きながら、蹴り技を織り交ぜていく。サリーはその蹴りを紙一重でかわすが、急所は避けながらも何発か貰っていた。その積み重ねが、サリーの動きを鈍らせていく。
いつの間にか攻守は入れ替わり、メイの攻撃をサリーがどうにかナイフで防いでいるという図式になっていた。
苦悶に顔を歪ませるサリー。また太ももをメイの蹴りが掠めた。
長引けば圧倒的不利だと悟ったのだろう。サリーは身を一旦低く構えると、メイに向かって突進していった。
蹴りを喰らってでも一太刀浴びせようと、捨て身の覚悟で相討ちを狙ったのだろう。地面を滑るように走っていくサリーへ、メイの脚がピクリと反応した。
しかし、その瞳は待ってましたとばかりに見開いていた。
「駄目だ! サリー!」
俺の声と同時に、地を這ったメイのトンファーが天空へと昇天する。鞭のように長くしなったトンファーが、サリーの脇腹をしたたかに突き上げた。
ミシッと嫌な音と共にサリーの体は宙に舞う。
「蹴りが攻め、トンファーが受けだと見事に引っかかってくれたアルね。お馬鹿なサリーちゃん」
吹き飛ばされたサリーはすぐに立ち上がろうとしたが、膝がガクリと折れる。脇腹をやられたのか、吐血が混じった咳にむせ込んだ。
「私の技は変幻自在が売りアルよ。トンファーの間合いの広さにビクリしたか?」
追撃はしようとせず、距離を取って不敵に微笑むメイ。闘争心は潰えていないが、確実に深手を負ったサリーは立ち上がれず悔しそうに唸った。
猛禽類のような鋭い眼差しで、獲物の弱り具合を目算したメイは、トンファーを構えるとゆっくりサリーへ歩み寄る。
「ではタイユヴァンみたいに両腕を挫かせてもらうよ。大人しくしていれば一瞬で済むアル。下手に抗えば手元が狂て、命ごと奪っちゃいそうで危険よ。はい、動かないで下さいね~」
俺は弾かれるように駆け出し、両手を広げ立ちはだかった。
「もう止めろ、メイ! 取引に応じるから、これ以上サリーを傷付けないでくれ!」
「ダ、メだ……ワタル。お前が、いなくては……厨房が回らん。今すぐに、逃げろ。私が、やられれば……」
「黙れ! 俺はもう、お前が傷付く姿を見たくない!」
あくまで護衛という役を全うしようとするサリーに俺は抗った。そんな俺達のやり取りに、メイはスッと表情を消す。
「なに、その臭い芝居? 反吐が出るから本気で止めて欲しいアル」
底冷えするような眼差しを向けるメイにゾクッとしながら、俺は声を振り絞った。
「メイもいい加減にしろ! 何を理由にここまでする必要がある? そもそも何故、お前が西棟の裏参謀として暗躍していた? 何が目的だ!」
するとメイは高笑いを上げる。乾いた笑い声が銀色の草原にこだました。
「ただ自分の居場所を守りたかっただけアル。お前も一緒と違うか?」
「居場所?」
「そうよ。ダメ岡、お前は元いた世界、日本に戻りたいと思うか?」
心臓が乱暴に跳ね上がった。
「あの誰も必要としない世界、自分が酷く惨めな存在にしか思えない、あそこに。お前もこの世界では理想の日常を築けたのと違うか? 自分を慕ってくれる仲間にチヤホヤされるのは、何とも言えない喜びアルよね? 私も同じよ。この世界にはまだ存在しない知識をちょろっと披露すれば私だて、たちまち重宝された。まるで亀岡家がまだあたあの頃みたく……そうアルよ」
メイは狂気にも似た執念を露わにして、高らかに叫ぶ。
「私は西棟の連中を率いて料理長になるアル! ひいてはドフィネ公をも手中に収めて、亀岡家以上の繁栄を我が物にしてみせるよ!」
「傲慢だ!」
「何が傲慢アルか! お前だて同じ穴のムジナよ! 未来人しか知らない知識をひけらかしタイユヴァンに取り入った! お前なんてズルいレシピ本さえなければ、誰からも相手にされない三流シェフじゃない!」
「……違う!」
俺の代わりに叫んだのはサリーだった。口元の血を拭い、脇腹を押さえてヨロヨロと立ち上がる。
「ワタルは、お前なんかとは違う。ワタルは一度たりとも、私達へ媚びるために料理の知識をひけらかしたことはなかった。私や、タイユヴァン……東棟のみんなが本当に困った時にだけ、渋々ながら英知を授けた。だからワタルは、お前が思うほどそこまでダメ岡じゃない!」
メイの頬がヒクッとつり上がる。そしてダラリと垂れ下げていたトンファーを構えた。
「小娘の分際で知ったような口を。……気に入らないわ」
「奇遇だな。私も口癖が安定しない中途半端な女が大っ嫌いなのだよ。アルが抜けてるアルよ」
「ふざけるな! 貴様に私の何が分かる!」
地を蹴って憤慨したメイが一気に距離を詰める。殺意の塊と化したメイに対峙して足が竦んだ俺を、サリーが乱暴に突き飛ばした。
驚いて顔を上げた俺に、一瞬だけニコリと微笑んだサリーは、腰をしっかりと据えてメイを待ち構える。さっきの相打ちを狙った態度とは違う、決死の覚悟が見えた。命を賭してでも一撃を喰らわせるつもりだ。
ナイフを頭上に構え、メイを迎え撃つサリー。俺は心の中で南無三! と唱え、サリーとメイの間に立ちふさがり、歯を食いしばった。

更新日 9月26日

瞬時に意識を奪うような衝撃が襲ってくるのを、今か今かと待っていたが一向に訪れない。
俺は恐る恐る目を開くと、黒光りするトンファーが鼻先数寸で止まっていた。驚愕に身を翻しかけた時、頬に冷たい何かが触れて体を強張らせる。サリーのナイフの峰がキラリと閃いていた。
目だけを動かし現状を探ると、お互いに武器を振りかぶった二人が、俺を間にして動きを止めていた。
トンファーが小刻みにプルプルと震える。苦悶を浮かべたメイが、悔しそうに歯を鳴らした。
「どうして邪魔をするのよ。お前だって分かるでしょ? 私はもう、あんな惨めな思いはしたくないの。みんなに頼られ尊敬され、愛されて生きたいの」
俺は細く鼻から息を吐く。そしてトンファーに手を掛けると、メイは力なく腕を下げた。そしてサリーの腕にも手を触れると、ブロンズヘアの少女もダラリと構えを解いた。
「……分かるよ。メイの言いたいことは、俺が一番分かっている」
キッと顔を上げて俺を睨み付ける。だが強がるメイの瞳に、うっすらと涙が滲んでいた。
「何がいけないの! 私はただ、私らしく生きたいだけなのに! いつも身勝手に周りが去っていく! 亀岡家も! お父さんも! お前も! だから自分から掴もうと努力しただけ! もう二度と自分が欲しいと思った世界が逃げないように、掴もうとしただけなのに!」
そう叫んでトンファーを振り上げたメイを、俺は力いっぱいに抱き寄せた。
「お前が間違っているわけじゃない! ただ、ココじゃ駄目なんだ!」
俺は今までになく愛おしいと感じた従姉妹に、耳打ちをするように切々と語った。同じ環境を送り、そして同じ絶望を味わった肉親の両手をこれ以上、罪で汚さないために。
いつの間にか、メイの頬を伝った涙が俺の肩を濡らしていた。
幼少時に怖い夢を見たと俺のベッドに潜り込んできた、あの頃のように、メイはしずしずと涙を流した。ゆっくりと手を離したトンファーが、地面に落ちる。そしてメイはその手を俺の腰に絡めた。
ホッと安息して俺は後ろを振り返ると、複雑な表情をしたサリーがナイフを鞘に納め、ぐったりと腰を下ろした。
月明かりに包まれた草原に、メイのすすり泣きが、いつまでもこだましていた。

 それ以降、西棟からの妨害はパタッと止んだ。
もともと全てはメイが策謀していたことなので、裏参謀自らの襲撃も失敗に終わった今では、おのずと行動を起こそうとする輩はいないだろう。
 ただし、例外が一つだけあった。あの晩、メイが去り際に不気味な発言を残していった。
『東棟に潜ませていた内通者が一人、幾度の召集にも応じないアル。他の連中にはこれ以上、馬鹿騒ぎをしないよう釘は刺しとくけど……。正餐の当日、重々気を付けるね』
 不安は拭い切れないながらも、正餐の準備は着々と進んでいく。
そしてタイムリミットはあっと言う間に訪れ、ドフィネ公の屋敷ではこれほどにはないくらい盛大にして豪華に、シャルル王子を出迎えた。




目次
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2012'09.10 (Mon)

傲慢に書き綴ったル・ヴィアンディエ 第九章

深い酔いで気だるくなった瞼を開く。視界の外はまだ暗闇で、辺りはシンと静まり返っていた。
やたらと酒臭い自分の吐息に眉をしかめて身の周りを確認する。今にも崩れそうな安物の包丁研ぎ台に、藁を重ねて拵えたベッド。どうやら俺は自分の部屋に戻ってきたらしい。
それにしても記憶が定かでないのが薄気味悪いが、外で寝転がったままでなくて良かった。このプロヴァンスでも季節はもう冬に入っている。危うく風邪を引くところだった。
体にはしっかりと毛布が掛けられていた。その温もりにホッとしつつ、俺は背中に一際温かい何かを感じて首を傾げる。そっと手を這わせて確かめると、指先が柔らかいものに触れた。おやっ? と思いさらに弄る。プリンのように崩れそうな弾力。何だ、これは?
そして、首筋から聞こえる微かな呼吸で、俺はハッと気付いて身をすくめる。後ろにいるのはサリーじゃないか!
女性の肢体を無遠慮に触ってしまった恥じらいよりも、反射的に身の危険を感じて青冷める。サリーの腰に携えた三本のナイフが、鈍い光を放つ場面がブワッと目の前に広がった。
殺される! と恐怖で跳ね起きようとしたが、体が上手く動かない。腕と足を使って身を起こそうとしたが、何かに阻まれ身動きが利かない。あろうことか、サリーの腕がガッチリと俺の腰に巻き付いていた。
体が一気にパニック状態に陥る。俺に出来たことは、声を上げず体を硬直させるだけだった。無理に喚いて体を密着させた獣を起こしてはいけない。そう瞬時に判断出来た自分に、賞賛を送ってあげたい。
俺は早鐘を打つ心臓を無理矢理宥めながら、口を閉じて息を潜める。そして背後から洩れるサリーの寝息を聞きながら、冷静に状況判断を始めた。
たぶん先程、屋外でサリーと杯を酌み交わしているうちに、俺が酔いつぶれてしまったのだろう。そんな俺をベッドまで運び介抱をしているうちに自分も眠りに落ちてしまった、と。まぁ、こんなところだろう。
それはいいが、問題はこれからだ。このまま寝過ごし朝を迎えようものならどうなるだろうか。きっとこの馬鹿女のことだ。自分から俺のベッドに入ってきたにも関わらず、条件反射で切りかかるだろう。話しても聞き入れてもらえる自信がない。だってこの娘、馬鹿だもん。
俺の中にいくつかの選択肢が浮かぶ。
選択その一。今すぐ寝ているサリーを起こし、穏和に話を聞き入れて誤解をといてもらう。
……無理だ。今、自分で話を聞かない馬鹿な娘って言ったばっかりじゃん。死亡。
選択その二。サリーが起きないように、ゆっくりとベッドから抜ける。
……無理だ。有り得ないくらいの力で腰に抱きついている。ちょっとでも無理矢理に腕を外そうとしたら起きてしまう。死亡。
選択その三。この際、どのみち助からないならと男の野生を目覚めさせ、獣になって獣に立ち向かう。
……無理だ。そもそもそんな度胸なんかねえよ。死亡。
どのみちバッドエンドな四面楚歌状態に俺は頭を悩ませた。いやだ、こんなよく分からん中世ヨーロッパにタイムスリップして、女の子に切り刻まれるなんて。俺は心の中でもんどり打った。どうにかせねばとパニック状態な俺に対して、のんきにスヤスヤ寝息を立てるサリー。ちくしょう、無邪気な息遣いが死の宣告にすら聞こえる。
その時、サリーが僅かに寝返りをうった。ビクッと過剰に反応してしまった俺だが、サリーは目覚めるわけでもなく再び寝息を立てる。
途端のことで体の感覚が敏感になり、俺は背中に触れた二つの物体に気付いた。若干、隆起した二つの柔らかい何かが、さっきから俺の背中に押し付けられていた。サリーが身じろぎしたからだろうか。その感触がさらに生々しく俺に伝わってくる。
心臓がけたましく鳴り響く。命の危険に晒されたさっきまでとは、まったく違う種類の鼓動だ。背中に密着したそのマシュマロよりも弾力を持つ物体が、男としての性を目覚めさせる。
酒の匂いに混じって鼻腔をくすぐるサリー特有の甘い香りが、理性を崩していく。
どうせ死ぬなら……せめて最後なら、その感触をこの手で……。
俺の頭が、今まで生きてきた中で一番よこしまに葛藤を繰り返した。
悶々と悩んでいたその時、ふと部屋の中に漂う空気の流れが変わった。
不審に思い、目だけでさほど広くはない部屋の中を見渡す。すると、部屋の正面にある扉がゆっくりと音も立てずに開いた。
恐怖に心臓がドクンと躍る。暗がりの中から人影が三つ、素早く部屋の中に侵入してきたのが分かった。
俺は声も出せずに震えそうな体を必死に抑える。こんな夜中に音もなく部屋に入ってくる人間なんて絶対怪しいに決まっている。
その時、一番近くにいた人影が懐から、キラリときらめく刃物を取り出した。次いで後ろの二人も刃物を構える。
今まで味わったことのない恐怖が全身を駆け巡った。こいつら、確実に俺の命を狙っている!
固く目をつぶり掛けたその瞬間だった。一番前に出ていた人影が低い呻き声を上げてうずくまる。その脚にはいつの間にか小型のナイフが突き刺さっていた。そして俺の背後からのんびりとした声が聞こえてきた。
「今宵は、随分と大きいイタチが屋敷に紛れ込んだものだな。それも、三匹……」
途端に気配を変えた後ろに控えた二人が、うずくまった人影を荒々しく飛び越え襲い掛かる。俺は顔面を蒼白にして身を強ばらせると、体に被せてあった毛布がブワッと舞い上がった。
毛布が狼藉者の視界を塞ぐと同時に、俺の真上を疾風が駆け巡る。両手にナイフを携えたサリーが三人の人影に立ち向かった。
「この狼藉者共が! 我が愛刀の錆に変えてくれよう! もっとも毎日研いでいるから錆びんがな!」
一瞬の騒動だった。暗闇を人影がうごめいたと思うとバタバタ足音が遠退いていき、部屋の中央にはサリーだけが凛々しく立ち残っていた。
宙を舞っていた毛布がパサリと地面に落ちる。それと同時にサリーが、糸を切られたマリオネットのように倒れた。
「サリー! 大丈夫か! 返事をしろ!」
飛び跳ねてサリーに駆け寄り肩を抱く。俺の呼び掛けにサリーはうっすらと目を開き、口をパクパクと動かした。
「よ、酔いがまた回った……」
額を手で抑え深呼吸をするサリー。どうやら寝起きで急に動き回ったので、気分が悪くなったようだが、怪我などはなく無事らしい。俺は安堵の溜め息を吐いた。
「致命傷までは至らないが、全員に二太刀ずつは浴びせておいた。一人だけ良い動きをしていた奴がいたが、左腕を斬りつけておいた。これでしばらくは襲いに来ないだろう」
そして首を回し辺りを確認する。最初に放った小型のナイフが血を滴らせて落ちていた。
「良かった。私のペティナイフをちゃんと置いていってくれたようだ。これがないと野菜の皮むきが不便なのだ」
「何者なんだ、あいつ等は。西棟連中の一味か?」
「恐らくそうだろうな。まさか三人掛かりで襲ってくるとは思わなかったが、大した手練れじゃなくて助かった」
そう言ってサリーは不敵に笑みを浮かべた。
サリーの左手からナイフがこぼれ落ち、地面に乾いた音が響く。白魚のようなしなやかな指には、襲撃者の返り血で濡れていた。こんな可憐な女の子が俺のために、命を張ってまで守ってくれたのか……。
俺はサリーの手を両手で包み、額に押し抱いた。
「済まなかった、サリー。俺なんかのために身を危険に晒してまで……。本当に済まなかった」
サリーはホッと目を丸くすると、照れくさそうに小さく笑った。
「タイユヴァンからの命令だからな。それにこの程度、ゴキブリほいほいさ」
「……もしかして、お茶の子さいさいのつもりか?」
「あぁ、そうとも言うな」
顔を見合わせて低く笑い合う。ひとしきり笑うとサリーは身を起こし、地面に落ちていたナイフをしまい、毛布を拾った。
「まさか今夜はもう誰も襲ってこないだろう。済まないが私は寝させてもらうぞ。寝不足は美容の天敵だからな」
「あ、今の騒動で疲れただろう。どうかそちらのベッドを使ってくれ。俺は藁の方で充分だ」
するとサリーは少し考える素振りを見せ、言った。
「何だったら一緒に寝てもいいんだぞ?」
先ほど背中に感じた柔らかい感触を思い出し、俺は慌てて首を振った。
「い、いや! 遠慮するとしよう! こう見えても俺はジェントルマンだからな!」
するとサリーはニンマリと微笑んだ。
「それもそうだな。しかしさっきは危なかったな。危うくあの輩共より先に、私から息の根を止められるところだったぞ、ワタル?」
「……起きてらっしゃったのですか?」
背筋がゾクゾクと凍り付いた。
その時、屋敷のどこかで大きな悲鳴が聞こえてきた。弾かれるように扉を開け通路に出るサリー。そして耳をそば立てて静かに瞼を閉じた。
俺も恐る恐る、通路に出た。
「今の悲鳴はどこから?」
「たぶん、タイユヴァンの寝室の方向……」
その言葉を口にした瞬間、サリーは形相を変えて駆け出す。俺も急いで後を追った。
通路の突き当たりにある部屋の扉が開いていた。サリーがマエストロの名前を叫びながら部屋に足を踏み入れる。悲鳴に気付いた何人かが、俺を押し分けて中に入ってきた。
ベッドの上にナイフを握り締めたまま横たわるマエストロ。その体は全身が青く打撲の痕で腫れ上がっており、両腕が有り得ない方向へと曲がっていた。
「タイユヴァン! 大丈夫か! 返事をしろ!」
血の気が引いた顔をしたサリーが駆け寄り、マエストロの頬を叩く。何度目かの呼び掛けに、マエストロが低く声を洩らし反応した。サリーの顔がクシャクシャに崩れる。
「大丈夫か、タイユヴァン! 私の声が聞こえるか!」
「……あぁ、聞こえますとも。……しかし、しくじりました。やったのは、イエールです。癪なことに本人が自ら名乗って……」
「もういいから喋るな! 誰か、救急箱を! 包帯と人を呼べ!」
マエストロの寝室は一時騒然となった。『陽日の胃袋』の調理人が右往左往する中、サリーは肩を震わせて、ずっとマエストロの手を握り締めていた。

「うむ。全員揃ったな……」
体を起こしているのも辛いのか、マエストロは苦悶に顔を歪めながら一同を見渡した。
襲撃を受けたマエストロは何とか一命を取り留めたものの、両腕は複雑骨折していて、医師の診察では向こう二ヶ月は動けない様態らしい。
そんなマエストロが手当てを受けてすぐに、『陽日の胃袋』の五つ星以上を持つ調理人に召集を掛けた。
「サリー、お前もここにいてくれ」
退室しようとしたサリーを呼び止めたマエストロ。五つ星を持つ連中と同じ空間にいることに臆したのか、サリーは仕方なくすごすごと部屋の隅で待機した。
「さて……諸君等をここに呼んだのは、この事態に対する収拾を図るためではない」
「何を言う、タイユヴァン。俺はいい加減に我慢の限界だ。これは西棟からの宣戦布告だ。今こそ全員で立ち向かわなくてどうする」
ドレッシング担当のピーターがいきり立つ。それに続けて他の調理人達も鼻息を荒げた。
「もうやられっぱなしなんて御免だ! タイユヴァンがやられた以上、こっちもイエールの野郎の首を取ってやる!」
「下の連中も今回ばかりは制止しきれないぞ。いずれ我々がやらなくても個々で行動をおこすはずだ」
「まったくだ。こればかりはいくら私としても、右に受け流すわけにはいけない」
え、こいつも五つ星だったの?
今にも包丁やおたまを武器に、西棟へ乗り込まんばかりの調理人達。気を鎮めろといっても難しいだろう。何せ自分達の大将が負傷したのだから。
しかしマエストロは固く目を閉じ、首を横に振るだけだった。
「報復など一時の憤りに身を任せる愚行であり、得るものなど何一つ有りはしない。それよりも我々はもっと重要な事態に直面しているのだ。二週間後に開催されるシャルル王子が御来館なされる正餐を誰が取り仕切るか、だ」
あれだけ威勢の良かった調理人達の表情が一気に曇る。
「ご覧の通り私は前線で指揮を取るには難しい体になってしまった。この身に鞭打って厨房に立とうと全く使い物にはならないだろう。悔しい……口惜しいがそれでも我々は何としてでも、シャルル王子が満足される料理を食卓へ運ばなければならない。そこで、正餐の全指揮をワタル殿とサリーに執って欲しい」
「……は? 俺、達?」
突然の指名に度肝を抜かれる。サリーなどは驚きのあまり声にならないようだ。

更新日 9月15日

「ワタル殿の深い料理知識と度胸を見込んで是非ともお頼み申したい。この『陽日の胃袋』始まって以来の窮地を切り抜けるには、貴殿の力が必要なのだ。メニュー構成から調理スタイルまで、全て好きにしてもらっても構わない。私の指示で調理人達を全面的に協力させる。だから頼む。このとおりだ」
「ま、待てマエストロ。いくらなんでも急過ぎるし無茶だ。責任が重大だし、俺はそんな器じゃない」
「だからサリーの力を貴殿に託す。今まで誰の指示も受け入れきれなかったサリーを、そなたは手足のように扱ってのけた。最高のレシピ本に最強の包丁が組み合わされば、これ以上心強いことはない。頼む、我々に力を。我々を導いてくれ」
しどろもどろになる俺は、やり取りを黙って見守っていた調理人達に視線を向ける。どいつもこいつも、すがるような瞳で俺を見ていた。
そして部屋の隅にいるサリーに目を移す。あのいつもひょうひょうとしているサリーが、急な大抜擢に恐れをなして震えていた。
しかし視線だけで何かを俺に訴えかける。その瞳の奥に灯した小さな炎が、俺の心にも火を点けた。俺の中にある、調理人としてのプライドが赤々と燃え上がってきた。
唐突に与えられた特権に怖じ気づいて、躊躇したのは一瞬だけ。すぐに気持ちを立て直した自分を、今回ばかりは誉めてあげたい。
「マエストロ、俺もやるからには一切妥協はしない。貴様の部下たちはきちんとついて来られるのだろうな?」
ざわめく調理人達。マエストロは大きく目を見開くと、包帯で被われた腕を俺に差し出した。
「当然だ。我が『陽日の胃袋』の屈強な調理人達を、思う存分に使ってやってくれ」
俺はマエストロの手をがっしりと握り返す。取り巻きの調理人達にはそれがバトンタッチに写ったのだろう、意気揚々と俺の肩や背中に手を当てた。
俺は振り返り、目を爛々と輝かせるサリーに最初の指示を出した。
「聞いたか馬鹿女。これでお前はマエストロ公認で正式に俺の右腕になった。目一杯に暴れさせてやる。まずはその血が付いたナイフを研いでこい」
待ちきれんばかりに素早くナイフを引き抜くと、サリーは二本のナイフを胸の前で合わせた。
「アイアイサー!」
自分が目に見えない何かに試されているような不思議な感覚だ。きっとこういう境遇を人は運命とでも言うのだろう。ならば結構、受け入れてやろうじゃないか。
「なんとも頼もしい言葉だ、参謀長殿。どうか我らの命運を東邦の光で導いてくれ」
そう言ってベッドに体を横たわらせようとしたマエストロの手を、グッと引き寄せた。
「痛っ! 何をするか、ワタル殿!」
「おい豚、何を居眠りここうとしているのだ。早速料理メニューについて打ち合わせを始めるぞ」
「え、ちょ……。俺、怪我人なんだけど?」
思わず素に返るマエストロの鼻を指で弾く。
「そうだぞ、ワタル。タイユヴァンはご覧のとおり体を起こすだけでやっとの身。少しは労ってあげても」
「知ったことか。頭と口は動くのだろ? だったら寝ながらでもいいから参加しろ。なに、安心してくれ。死なない程度に働かせてやる。もっとも死んだとしてもチャーシューとして具材の一部にしてやるよ。それと給仕係の主な人間とワインを管理している連中も呼んでこい。今から話し合いをつけておかないと間に合わん」
途端に仕切り始めた俺に、マエストロをはじめ調理人達はスーッと顔を青ざめさせた。そんな弱気な連中に叱咤激励をする。
「なにせ俺は、過労死という言葉が存在するほど勤勉な国の出身だからな。任されたからには完璧にプロデュースをする。貴様等も向こう二週間は寝る暇などあると思うな。死ぬ気でついてきてもらおうか」
恐ろしいものを眺めるように調理人達は口々に、悪魔だの死神だのと囁き合っている。情けないことだ。上役の命令に眉をひそめているようでは、即刻リストラの対象だぞ。
自分の采配でコース料理のメニューを全てコーディネートする立場に就く。きっと現代の日本にいたら数十年は叶わない願いだったかもしれない。
頭の中では既にレシピ本が音を立ててページを舞い上げている。
さぁ、究極の料理達を生み出してみようか。



目次
20:25  |  ル・ヴィアンディエ  |  CM(0)  |  EDIT   このページの上へ

2012'09.04 (Tue)

傲慢に書き綴ったル・ヴィアンディエ 第八章

その夜、俺は木製のジョッキに並々と注がれたワインを片手に、夜空を見上げていた。
酒が飲みたい気分だったのでマエストロに頼んだら、二十リットルは入っているだろうワイン樽が部屋に運ばれてきた。七百年前のワインと最初は興奮したが、飲んでみれば何ということはない。まだ若く甘ったるいだけのワインだった。酸化防止剤は当然ながら使われていないだろうが、明らかに深みの薄い安酒を傾けながら、俺は夜空に散りばめられた星屑を数えた。
街灯も町明かりもない夜空とは、恐ろしいくらい星空が眩しい。今にも零れ落ちそうな星達に吸い込まれそうな感覚に陥る。
よく見ると月が出ていないにも関わらず、足元が明るい。都会育ちの俺には星明かりなど初めての体験で、新鮮な感動が生まれた。緯度が同じだからか、日本でも慣れ親しんだ星座を探しながら、俺は今日あった厨房での光景を思い出した。
マエストロ考案のバケツプリンで、件のデザート狂というパバローネ伯爵は文句なしの大絶賛だったらしい。
ドフィネ公も大層喜んでいて、二週間後のシャルル王子が来るという正餐も大船に乗ったつもりでいられると、マエストロは太鼓判をもらったと皆に労をねぎらった。
そして特別に、ということで『陽日の胃袋』全員にもバケツプリンが振る舞われたのである。調理人達は狂喜乱舞し、ちょっとした宴にまで盛り上がりをみせた。
調理人がデザートのメニューとはいえ貴族と同じ料理を口に出来ることは滅多になく、ドフィネ公が何かのお祝いの折にと格別な計らいとして許しを出す時のみらしい。彼らが涙を流さんばかりに喜んでいたのも頷ける。
中には料理用の酒を傾ける陽気な連中もいたが、奴らは俺の元に来ると手をがっしりと握り締め、呂律の回らない口調でとにかく褒めそやした。そして肩を組み、馬鹿のような声で歌い出すのだ。
一人去ると次は二人と、俺の周りが空けば待っていましたとばかりに誰かが話しかけてくる。それが何だかこそばゆくてたまらなかった。
ここの連中はおかしなもので、最初は参謀長だの東邦の神秘だのと、奴らにとっては摩訶不思議な料理知識を持つ俺を讃えるのだが、馴れてくるとまるで旧知の友のように親しげな雰囲気で話し掛けてくる。二日前には自殺を図ろうとしていた、どん底だったこの俺に。
正直なところ、これまで俺はこんな人間関係を体験したことがなかった。誰かに必要とされることもない。誰かに好んで接してもらうこともない。誰かに褒められることもない。誰かに側へ来て話し掛けてられることもない。
きっと普通の人が当たり前のように味わう感情を、俺は時代も土地も遥か別次元である中世ヨーロッパのフランスで、初めて与えられた。
初めて自分が、周囲に認められた居場所に収まっている安堵感を得た。
ジョッキを傾けゴクリと赤ワインを飲み下す。胃の奥に溜まったアルコールがのんびりと鼻から抜け、心地良い陶酔感が頭を泳いだ。
マエストロの言葉を信じれば、きっと三日後には例の冷凍庫が荷馬車に引かれてこの屋敷に到着する。そうすれば俺はもうこの時代とも、陽気で人情味の厚い調理人達ともお別れだ。そしてまた、あの誰も俺を必要としないレストランで悔しさに歯を食いしばる日々が始まる。
はたして、本当にそれが正しいのだろうか?
マエストロがさっき厨房でポロリと漏らした本音を思い出す。あの山に置いてきた白い箱、やっぱりありませんでしたという報告が来ないものかな、と。
はたして、俺は本当に元いた時代に戻りたいのだろうか? この時代に留まるという選択肢はないのだろうか?
少し酔いが回ってきたからか、頭がそれ以上追及することを拒むように思考を煙に巻いた。
そしてモヤモヤと漂う頭の中の霧を、後ろから近付いてくる足音が払った。振り向くとそこには、手にジョッキを持ったサリーがいた。
「やぁ、ワタル。隣に座ってもいいか?」
するとサリーは俺の返事も待たずに、腰掛けていた丸太の横に座った。
何故だろう。振り向く前に、近付いてきたのがサリーだと俺は分かっていた気がする。
俺はサリーが手に持ったジョッキを見咎める。こいつ、さては部屋にあったワインを持ってきたな。するとサリーは悪びれた様子もなく、逆にニンマリ微笑みジョッキを俺に掲げた。
「女の身であるが、私もお酒を頂くぞ。たまには体内をアルコールで清めることも必要なのだよ。はい、カンパ~イ」
俺のジョッキに自分のジョッキを当てようとするサリー。だがジョッキがぶつかる直前、俺はスッと手を引く。生憎だが、俺は自分と同格の人間としか杯を揚げない主義なんだよ。
当然ながらサリーは不服だったのか、頬を膨らませるとワインをグビリと飲んだ。ほう、と息を吐くと続けてゴクゴクと喉を鳴らす。あまりに威勢のいい飲みっぷりに、俺は口に運びかけた手を止めた。この馬鹿女、酒が強いのか?
ほうっ、さっきより大きな吐息を漏らし、サリーは俺を見た。
「なぁ、ダメ岡」
その一言に俺の中の堪忍袋がビキッと反応した。
「おい、なんでお前がそのあだ名を知っているのだ?」
「昨晩、寝言でいっていたぞ。ダメ岡って言うな~! って」
「俺が夢うつつ状態で言うなっていったのに、なんでお前はわざわざ聞いちゃうかな? 言ったんでしょ、レム睡眠の俺が。言うなって」
「あ……ごめん。で、なんでダメ岡なのだ?」
「だからダメ岡って言うんじゃねえ!」
勢い良く振り向いたのでジョッキに入ったワインが揺れてこぼれる。サリーからはすまなそうな態度は一ミリも感じられず、俺は怒るだけ暖簾に腕押しだと諦め、ワインを口に含んだ。
「名字がカメオカということもあるがな、俺のいた国には料理をテーマにした書物がたくさんあるんだ。その中でも特に著名で多くの人に知れ渡っている作品があり、その主人公の名前が『山岡』というのだ」
「すごいな、東邦! 料理の書物がいっぱいあるのか! しかし、それがなんでダメ岡なのだ?」
「……俺が料理について蘊蓄をたれる姿が、その主人公にそっくりなんだとよ。なんでその、ダメかというと……察してくれ」
蘊蓄ばかり偉そうで技術が覚束無いなど、いくら本当のことでも自分の口からは絶対に言いたくない。そんな俺の態度を気遣ってか、サリーは慈愛に満ちた微笑みを浮かべ、優しく頷く。この女、馬鹿なりにきちんと察してくれたのか。
「うむ、分かっているぞ。ダメなんだよな、顔が」
「顔じゃねえ!」
「え、じゃあ性格が?」
「哀しいかな! 否定出来ねえ!」
やっぱりこの馬鹿女と喋っていると頭がおかしくなりそうで仕方ない。俺にとって中世ヨーロッパはかなり異世界なのに、この女の頭の中はさらに異次元だ。
「しかし、ワタルのいた国は凄いな。料理に関することが書物になっていたりするのか。いや、七百年後が凄いのか」
ワインが喉につっかえて派手にむせた。咳き込む俺の背中をさすろうと伸ばしたサリーの手を、邪険に払いのける。
「お前! 何故に俺が未来からきたことを知っている?」
「タイユヴァンが教えてくれたのだ」
あの豚野郎、俺達の極秘情報をひょいひょい流出するとは、一体どういう了見だ。
「私がワタルについてしつこく詮索したのでな、きっと私には意味が理解できないと思って話したのだろう」
「それで、お前はどう解釈したのだ。俺が未来からやってきたという事実を」
「うむ。ワタルは七百歳を越える長生きなお爺ちゃんだったんだけどな、急に若返ったのだ。なかなかメルヘンチックな存在だな、長生き野郎」
「オーケー、だいたい合っているぞ。素敵な発想だ」
確かにこれならマエストロがこの馬鹿女に喋ったのも頷ける。そもそもこの時代に時を遡るなどというSF思考などあるわけないので、七百年後からやってきたと言ってもサリーのように想像するのが正常か。マエストロの方がよっぽど異端だ。
「だろ。だってワタル、言うことやることがひねくれているから、間違いなくクソジジイだもん」
「クソジジイって言うんじゃねえ! ちょっと傷付くだろ!」
「それで、クソお爺さまは七百年後の未来で何をしていたのだ? やっぱり魔法使い?」
「丁寧な言い回しでもクソをつける辺りに、お前が俺に対する気持ちがはっきりと分かるよ、クソ女。俺は調理人をやっていた。もっともちょっと前までは学生だったがな」
「学生? それはまた、随分と悠々自適で高尚な身分だったのだな」
この時代に学生というとそういったイメージになるのか。
「高尚かどうかは疑問だが、悠々自適ではあったな。しかしそれも十五歳までだが」
まだ親父が生きていた時期を思い出して俺は溜め息を吐く。そんな少しメランコリックな俺を察してか、サリーも黙って口を噤んだ。
そして星の瞬く音が聞こえそうなほど静寂に包まれた中、サリーが小さな声で言った。
「悠々自適、か……。私にもそんな時期があった。こう見えても私はな、元は貴族の生まれなのだよ」
驚いて顔を上げた俺に、サリーは幾分寂しげな笑顔を向けて言葉を続けた。
「貴族と言っても今は、没落してしまったがな。ガーベラ・ルージュドール・ド・サンテミリオン……それが私の本当の名だ」
オリオン座の左肩に光る赤い星の脇を、流れ星がスッと落ちていった。

「ボルドー地方にある、田舎の小さな領地を有するサンテミリオン家の長女として私は生まれた。他に兄弟が居なかったからな、それこそ蝶野花子と育てられたものだ」
「なんだそのプロレスラーに嫁いだ新喜劇の女王みたいな慣用句は。もしかして蝶よ花よと言いたいつもりか?」
「それだ、それ。そんなわけで私は、超超超超いい感じに優しい父様や母様から大事に可愛がられて育ったのだ」
「あのさ、前から言おうとしていたけどさ、お前絶対二十一世紀のアラサーOLか何かだろ。何だか平成時代の匂いがプンプンするもの」
「だがそんな幸せな日々が終わりを告げたのは、私が十四歳の時だった」
「ちょ、無視かよ」
一旦口を潤すようにサリーはワインをゴクリと飲み込んだ。そして言い辛いことを告白するみたいに沈痛な顔を俯かせる。
「父様が旅の行商人にたぶらかされてな、香辛料の商売に手を出し始めたのだ。もともと商才があったわけでもないのに上手く口車に躍らされて、気付けばさほど多くもないサンテミリオン家の財産は既に底をついていた。屋敷が傾くのも、没落するのも本当にあっという間で……私は幼い身空で路線に迷ってしまったのだ」
「シリアスな話の最中にごめんね。路線じゃなくて路頭だから。路線に迷うって若手芸人じゃないんだから」
「だが私はたまたま、以前にサンテミリオン家のシェフとして雇われていたタイユヴァンと知り合ってな、幸いにもこの屋敷へ身を置かせてもらう事になったのだ。元貴族という身分は伏せて、という条件付きで。それが今からちょうど三年前になる」
なるほど、これで合点が入った。なぜこの頭が悪いサリーがテーブルマナーだけはきちんと身に付いているのか。マエストロがサリーを「あの人」と呼んだのか。
「しかし、何で元貴族という身分は秘匿しなければならんのだ? いいじゃないか、今は貴族じゃないんだし」
「そんな簡単な話ではなくてな、没落したとはいえ貴族は貴族。一般の民衆には畏怖の対象なのだよ。どう足掻いても生まれた里を替えは出来ない。私が厨房のみんなと分け隔てなく触れ合うには、貴族の名を隠すしかないのだ」
そしてサリーは再びワインをグビリと飲んだ後にホッと吐息をつき、寂しそうに笑った。
今までただ馬鹿なだけの女だと思っていたが、無邪気な笑顔の奥に複雑な事情を隠していたとは。一度高みから没落した人間が市井に紛れ住む空しさを、それでも堪え生きていかなければならない悔しさを、俺も知っている。
サリーの事がどうにも気に掛かる理由がやっとハッキリした。やっぱりこの女は俺と似ているのだ。埋めがたいコンプレックスも、思春期に味わった絶望感も、耐え忍ぶ日々を過ごす辟易も。
俺達は時代も土地もまったくかけ離れた場所で育ったのに、同じ空気を吸って過ごしてきたのだ。
それと同時に、認識してしまったからだろうか。サリーに対して同一種以上の親しみも心の内に芽生えた。
「しかし、一つ驚いたことがある。まさかお前が俺より年下だったとはな。西洋人は歳より老けて見えるというが、十七歳とはビックリしたぞ。てっきり同い年か年上だと思っていた」
するとサリーは途端に真っ赤な顔をして、俺をキッと睨む。そして力任せに突き飛ばした。
「ば、馬鹿っ! 七百歳のジジイに比べて年下に決まっているだろう! 同い年だのと馬鹿にして! それよりもなんで私が十七歳だと知っている! 妖術で読み取ったか?」
「お前まだ俺が七百歳だと信じているのか! それに歳の話は、さっきお前が自分でバラしてたから! 十四歳で没落して三年が経つって!」
「あ……うるさい! それでもレディの前で年齢の話をするのは、ジェントルマンとして御法度だぞ、馬鹿!」
「馬鹿はお前! ついでにとんでもない馬鹿力!」
五メートルはぶっ飛ばされただろうか。天地が逆になりながら怒鳴る俺を見て、サリーは元貴族らしく羞恥に頬を染めた。俺もビックリだよ。まさか自分の体がこんなに軽々と飛んでいくとは思わなかった。
慌てて俺を抱き起こすサリー。そしてすっかりぶちまけて空になったジョッキを預かった。
「本当にすまなかった、ワタル。今、新しいワインを注いでくるから待っていてくれ」
そう言って屋敷内に駆け出すサリーだったが、走りながら自分の手持ちのワインも一気に飲み干す。あいつめ、自分のもお代わりするつもりか。
俺は草の上に寝転がったまま、星空を眺めてサリーを待つことにした。なんだかここ数年、味わうことのなかった清々しい気分だった。そう、まさに今夜の夜空のように晴れ渡って曇りのない……。

しばらくするとサリーが戻ってきて、草原に寝転がった俺の手を引いて起こしてくれた。そして並々と注がれたジョッキを手渡す。
「そういえば、お前の本名がガーベラならばサリーという名は何から取ったのだ? ガーベラならガーベラでもいいじゃないか」
「サリーは私が貴族だった頃、屋敷で働いていた召使いの名前なのだ」
そう言ってサリーはジョッキを傾けたので、俺もそれに倣ってゴクリと飲んだ。
「サリーは、南にある砂と太陽が支配する国から流れてきた、褐色の肌を持つ女性だった。召使いというよりは私の侍女の役割を担っていた、第二の母様のような女性だった」
サリーの声が少し弾んで聞こえる。察するによほど昵懇で親密な間柄だったのだろう。
「彼女は庶民の出身でありながら、様々な知識に精通した不思議な女性でな。私も貴族としての立ち振る舞いや礼儀作法は、全て彼女に教えてもらったのだ。今でもサリーの教えは胸に残っている……。ガーベラお嬢様、朝起きてまずお顔を洗いなさいませ。ガーベラお嬢様、パンは千切ってお食べ下さいませ。ガーベラお嬢様、他人の悪口を人前で仰ってはなりません。ガーベラお嬢様、鼻糞を食べるのはおやめなさい」
「え、鼻糞食っているよ? 鼻糞食っていたんだ、ガーベラお嬢様」
「サリーの教えは、今日の私の大きな支えになっていると言っても過言ではない。おかげで現在では鼻糞をほじるに留まっている」
「ほじるな!」
「他にもサリーには体術を仕込まれた。勉強の息抜きに組み手をしたり筋トレをしたし。ナイフの扱い方を教えてくれたのもサリーだった」
なるほど。こいつがこんなに強いのは褐色の肌を持つ侍女の手解きがあったからか。しかし貴族の娘に何を教え込んでいるのだ、そのサリーとやらは。つくづく十四世紀の人間は訳が分からない。
その時にふと、ある疑問が浮かんだ。
「そんなに慕っていた召使いならば、没落した後に頼れば良かったではないか。お前とそのサリーならばきっと良い傭兵稼業が出来ただろうに。今どこにいるのだ、そっちのサリーは?」
「ん、死んだ」
あまりに呆気なく答えられたので、俺は一瞬でその言葉を飲み下せなかった。
「し、死ん……」
「サリーは死んでしまった。もっとも死に目に逢えたわけではないが、きっと死んだのだろう」
だんだんと酔いが回ってきたのかほんのり目尻を下げながら、サリーはあまりに辛辣な過去を物語でも解説するかのように話した。
「屋敷が崩壊する直前にな、父様と母様は使用人の賃金を未払いのまま逃亡を図ろうとしたのだ。だが結局は事実が露呈してしまい、怒った使用人達は鍬や鎌を携えて武装蜂起をおこしたのだよ。今にして思えば当然の報いだが、あの頃の私は逃げるのに精一杯だった。つい昨日までは朗らかに会釈を送ってくれた使用人達が、憤りに上気して刃物を向けてくるのだから。恐怖なんてものじゃなかった。それでもサリーだけは私に味方をし、逃亡の手助けをしてくれた。あと少しで屋敷の外に抜けられると思ったその時、武器を持った使用人の男が三人、私達に追い付いた。その時のサリーの言葉を私は今でも忘れない。『ガーベラお嬢様、ここは私が殿を努めます。どうぞ、お逃げあそばされませ』……サリーは笑っていた。それが私の聞いたサリーの最後の言葉だった」
そう話を締めると、十七歳のサリーも笑った。
壮絶な人生に掛ける言葉もない。サリーが身分を調理人達へ明かせない本当の理由が別にあるような気がした。
名前や身分を隠すことにより、悲惨な過去を封印したかったのではないか。そして慕っていた召使いの名前を名乗るのは、命を賭して守ってくれた女性を忘れたくないのではないか。
黙り込んだ俺に居心地が悪くなったのか、サリーは肩をぶつけると陽気にジョッキを掲げた。
「まぁ、そう悲観的にならんでくれ。この時代、人の命を奪って生き長らえるなど当たり前のことなのだ。どんな形であれ、生きているものが勝ち、死んでしまったものは哀れむだけ。だから私は精一杯に生きて、この身が朽ちる前にいつかは立派な調理人になりたいのだ」
「そういえば、サリーは何で調理人になろうと思ったのだ? この時代で女だてらに調理人を目指すなど珍しいだろうに。マエストロから拾われたからといって、必ずしも調理人になる必要はなかったはずだ。他にもこの屋敷で仕事はあるだろう。給仕とか曲芸人とか」
するとサリーは一瞬驚いたように瞳を丸くし、次に満面の笑みを浮かべた。
「……やっと、サリーって呼んでくれた」
こぼれるような温かい微笑みを浮かべたサリーは夜だと言うのに眩しくて、思わず目を反らしてしまいたくなるほどに神々しく輝いていた。
「ち、違う! だってたまには名前を呼んでやらないと、俺がサリーの名前を知らないと勘違いするだろ! いいか! 俺はお前と違って頭の出来は良いんだ! 一度他人の名前を聞いたら絶対に忘れないんだからな! お前と違って!」
「あ、またサリーって呼んでくれた」
照れる俺をからかうのが面白いのか、サリーは俺の紅潮した頬を突っつこうとする。俺は手を振って払いのけた。
「もういいだろ、馬鹿女! なんで調理人になどなろうとしたのだ。せめて質問にくらい答えろ」
再び問い掛けるとサリーはからかうのを止めて、ワインを一口飲むと真っ直ぐ前を見た。

更新日 9月9日

「うちの父様と母様はな、たいそうなグルマンだったのだ。大抵の貴族は軍備の強化かキレイな庭園を管理することに出資するが、サンテミリオン家は豪勢で美味な食事にばかり財を費やしたのだ。この屋敷ほど大きくない弱小貴族がタイユヴァンを召し抱えるくらいだ、異常なほどの力の入れようなのがわかるだろう。だから私も幼い頃から上質なものばかり食べて育った。頭は残念ながら……だが、舌と手先の器用さには自信がある」
「すると、知識さえ身に付ければ他の調理人には遅れを取らない、と」
「うむ。まぁ、そんなに上手くはいかないことばかりだけどな、いつかはタイユヴァンに負けないくらいの調理人になってやる。それに、調理人になりたかったのは他にも理由がある」
秘め事を打ち明けるように一拍呼吸を調えるサリー。その瞳はキラキラと輝いていた。
「私は、私の作った料理をみんなから食べてもらって、幸せな気分を味わってもらいたいのだ。美味しい料理は幸福に満ち溢れている。どんなに辛いことや悲しいことがあっても、美味いご飯を食べれば全て吹っ飛んでいってしまう! 料理にはそんな魔法の力が込められているのだ。だから私も誰かを、私の料理を食べた誰かを幸せな気持ちにしてあげられるような立派な調理人になりたいのだ」
腹の底から温かい気持ちが沸々と湧き上がってくる。俺はとうとう堪えきれずに、声を上げて笑った。怪訝な顔をするサリー。
「笑うことないじゃないか。どうせ頭の悪い女が届かない夢を見ていると、馬鹿にしているのだろう。やっぱり言わなきゃ良かった。ワタルの馬鹿。鼻糞」
「鼻糞はお前だろ、ガーベラお嬢様。いや、違うのだ。馬鹿にしていたわけじゃない」
頬を膨らませるサリーに俺は手を振って詫び、誤解を解いた。
「お前がな、あまりにも俺と同じ事を言うので、ついおかしくなってしまったのだ。ここまで境遇が一緒だと不思議な縁を感じる」
「私がワタルと同じ、境遇?」
「いや、こっちの話だ。俺が調理人になったきっかけもな、サリーと同じで料理で誰かを幸せに出来ればと思ったからなのだ。生まれ育った時代は違えど、俺達は同じ動機でここにいる。まさに不思議な縁だよ」
そう言って俺はサリーにジョッキを突き出す。最初は目を丸くしたサリーだったが、すぐに顔を崩すと嬉しそうに自分のジョッキをぶつけてきた。
「立派な調理人……目指すなら目指してやろうじゃないか」
「お互いに、な」
そして乾杯を済ませた俺達は高らかに声を上げて笑い合った。
あぁ、本当にこんなにも清々しい夜は初めてだ。誰かと気持ちが通い合うという感触とは、こういうものなのか。
降ってきそうな星空を見上げて目尻を拭う。笑い過ぎたからか、星明かりが眩し過ぎたからか、涙が溢れ出しそうになった。
「なあ、ワタル。お前がいた世界の話を聞かせてくれ。きっとこのフランスとはだいぶ異なる世界なのだろうな」
「当然だ。今の数百倍は文明が発達している。移動手段などは馬になんぞ頼らず、自動車や電車といった鉄で出来たカラクリに乗るのだ」
「なんと、馬が鉄で出来ているのか」
「違う違う。自動車の中に動力源となるカラクリが入っていているんだ」
「つまり鉄の中に馬を閉じ込めて走らせているのだろ。お馬さん、可哀想……」
「だから違うっつーの。人の話をちゃんと聞け」
分かりやすいように俺がいた時代の話をするが、トンチンカンな解釈ばかりするサリー。まともに会話が成り立たないが、言葉と言葉でじゃれ合うような感覚でそれがまた楽しかった。
高揚した気分が酔いをさらに加速させ、さほど酒が強くない俺はいつしか記憶が途切れ途切れになり、そのまま意識が遠退いていった。酔いで湾曲する視界が最後に捉えたのは、サリーのとろんと甘えた笑顔と西の空から上り掛けた三日月だった。


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