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2012'08.28 (Tue)

傲慢に書き綴ったル・ヴィアンディエ 第七章

「……と、以上が昨日作ったソースの本来のレシピだ。ちなみに煮汁、というかブイヨンをきちんとフォンド・ボーを使用してフルーツの甘みをマディラワインだけにすれば、正当なデミグラスソースになる」
「フォンド・ボーとは、何だ?」
「仔牛の骨や肉と野菜で煮出した出汁のことだ」
「仔牛を? 煮汁だけのためにわざわざ幼い牛を一頭潰すのか」
呆れた様子でペンを止めるマエストロ。そうだった、この時代に牛は農耕用の家畜としての扱いが一般的で、食用など年老いたものだけだったらしい。
「俺の時代で牛は食用で最も人気の高い家畜だ。もっとも牛が食用として流通し始めたのは俺のいた時代から二百年前だがな」
明くる日、朝食もそこそこに俺はマエストロにせき立てられ執務室にやってきた。そして自身の著書『ル・ヴィアンディエ』を製本協力させられているのである。
協力というよりも俺が知っている現代の調理知識を書き記すというズル行為をしているだけ。俺が今までため込んできたレシピ本がまさか歴史のオーパーツになろうとは、つい三日前まで想像もつかなかった。
人類の未来に対する多大な背徳心を抱きつつ、俺はマエストロと交わした取引を成立させるために、こうして頭の中にあるレシピ本を、余すことなく開示しなくてはならないのだ。
「ちなみに出汁の種類を変えただけでもソースの種類は無限大に広がる。フォンド・ボーに限らず野禽の出汁ならフィメ・ド・ジビエ、甲殻類の出汁ならクリュスタッセ……このブイヨンで有名なソースならアメリケーヌソースか」
「待て待て。出汁の種類とソースのレシピを始めから詳しく教えろ」
「おい、まさか全て書き記すつもりじゃないだろうな。一体何十種類あると思っているのだ」
「まさか。全て書き記すに決まっているだろう。当然ながら全ての種類のレシピは頭に入っているのだろ? ならば残さず全て吐き出せ、錬金術師殿」
したり顔で俺の頭部を指差すマエストロに、どこまで傲慢なのかとただただ呆れるばかりだった。俺はマエストロの指示通り膨大に詰まったレシピ本の綴りをぶちまけるべく、不味い果汁のジュースを口に含んで喉を潤した。

それから約二時間、俺はレシピの材料から分量までこと細かに話し、マエストロは乱暴にペンを走らせながら書き記すだけ書き記す作業に没頭した。
さすがにぶっ通しとなればお互い疲弊もするわけで、俺達はどちらとなく吐息をはいて休憩に入る事にした。
ベースがブイヨン系のソースは粗方説明し尽くしたせいで、喉がカラカラに乾く。ジュースを流し込むとマエストロが気を利かせて新しいものを注いでくれた。
結局、五十ほどのレシピを解説したが、自分でも驚くくらいソースの種類はあるものだと感心し、さらによくそれだけのレシピを暗記していたものだと自分の記憶力に脱帽した。
しかし、これだけの調理法を覚えていても、使いこなせるだけの腕がないのが相変わらず歯痒くて仕方ない。
あの頭は悪いが曲芸じみた真似が出来るサリーが羨ましく感じる。あそこまではいかずとも、せめて人並みに包丁くらいは握りたい。
「なぁマエストロ、あの馬鹿女は一体何者なのだ?」
「馬鹿女、とは?」
「サリーだよ、サリー」
あぁ、と合点が入ると途端にマエストロは助平臭く破顔する。
「どうだった、一緒の部屋で。ワタルが期待するようなアクシデントは起きなかっただろう?」
「あぁ。あんなのに寝顔でも向けようものなら、ナイフの刀身で目の前を塞がれそうだ。本気で死ぬと思ったぞ」
暗闇で鈍い光を放つ刃先を思い出して背筋が凍る。当分の間は、あんな抜き身の刃物みたいな女と隣り合わせで寝起きを共にしなくてはならないと思うと、心底ゾッとする。
「そもそも何で俺があの馬鹿女と同じ部屋なんだよ。多少はむさ苦しくても男共の方が数倍マシだ」
「命の恩人へささやかな甘酸っぱいプレゼントのつもりだったんだが。お気に召さなかったか?」
「その命の恩人を命の危険に晒してどうする。有り難迷惑とはこの事だ。サリーの場合、あれだけ腕っぷしが強く刃物の扱いに長けているなら、曲芸師か戦場に送り込んだ方が良いんじゃないか。なんだ、あいつは。元傭兵とかじゃないだろうな?」
きっと頭が悪く間違えて味方を斬りつけて暇を出された女傭兵とかいうオチだろう。だがマエストロはニヤニヤと薄笑いを浮かべて顎を撫でる。
「いやいや、あの人はそんな素性知れない輩とは違うさ」
「あの、人?」
「ん、何でもない。では参謀長殿、一刻も惜しいので続きを始めようか。次は煮汁を下地に使わないソースだったかな」
マエストロがサリーに対して丁寧な言い回しをしたのが妙に気になった。
それからレシピ説明の合間にサリーの事を尋ねたが、マエストロはのらりくらりと言葉を濁して詳しく語ろうとしない。あの馬鹿女が何者であろうと二十一世紀から来た俺にとって関係ないはずだった。それなのに俺の中でサリーの存在が徐々に膨らんでいく。
あの女がうちに秘めた謎が気になって仕方なかった。

それからしばらく俺とマエストロが額をつき合わせていると、廊下を誰かがパタパタと走る音が聞こえた。
足音は確実にこちらに向かって来る。マエストロは顔色を険しくしながら腰に携えたナイフに手を添えると同時に、ドアがけたましく開いた。
「大変です、タイユヴァン!」
勢い良く飛び込んできたのは馬の世話係のコウラキだった。息せき切った様子にマエストロは眉にシワを寄せる。
「どうしたというのだ、コウラキ。そんなに慌てて」
「ドライゼが……ドライゼが、何者かに襲われて腕に怪我を負いました!」
飛び跳ねるように立ち上がると、途端に駆け出すマエストロ。額に汗を浮かべたコウラキと俺も急いで後を追う。
「何かに襲われたとはどういうことだ! まさか西棟の奴らではあるまいな!」
「厨房にくる前、一人になった時に急に後ろから殴られて、腕を挫かれたそうです! 誰がやったか顔は見ていなかったらしいです!」
「くそっ! 寄りによってドライゼが狙われるとは! 今日の正餐のデザートはどうすればいいのだ!」
それを聞いて思い出した。ドライゼといえば確かデザート担当の調理人だ。
「他の調理人に任せられないのか?」
「それは少し難しい! 今日の正餐には、デザートに目がないパバローネ伯爵がいらっしゃるのだ! ドライゼじゃないと、伯爵が満足されるデザートを作れんのだよ!」
もう一度悪態を吐いて、マエストロは腹に詰まった脂肪をゆさゆさ揺らしながら厨房へ駆ける。俺の前を走るコウラキが、神に祈るように胸の前でクロスを切った。
厨房のドアを開けると、人垣に囲まれたドライゼが椅子に座っていた。頭と右腕に巻かれた包帯が痛々しい。
「大丈夫か、ドライゼ! 腕は、腕は痛くないか?」
すがるようにドライゼの肩を抱くマエストロへ、本人は弱々しく包帯の陰から笑顔を覗かせた。
「面目ない、タイユヴァン。骨折はしていませんが、当分は動かせないようです」
「なに、そんな悲しい顔は見せてくれるな。お前の命が助かっただけで私は救われたよ。一体誰にやられたのだ? 顔は本当に見ていないのか?」
詰め寄るマエストロに、ドライゼは視線を落として首を振るだけだった。ガクリと肩を落とすマエストロとは対照的に、取り巻きの調理人達は鼻息を荒げる。
「問い質すまでもないだろう、タイユヴァン。『月光の胃袋』の連中がやったに決まっている。他にドライゼを襲う奴がいるのか」
「そうだ。奴ら、寄りによって今日にドライゼを狙うとは卑劣極まりない。我々の泣き所を知ってのことよ」
「このまま泣き寝入りで良いのか、タイユヴァン。俺は絶対に反撃すべきだと思うぜ」
「そうだそうだ! こっちが大きく構えているからって奴ら調子に乗ってやがるんだ!」
「絶対に許さないぞ! こうなったら討ち入りだ!」
怒りを露わにする調理人達は、今すぐにでも西棟の厨房へ乗り込みかねない勢いだ。全員が手に鍋や棒を掴み取ろうとしたその時、マエストロの怒号が厨房内を駆け巡った。
「馬鹿者共がっ! 落ち着けっ!」
空気がビリッと震える。あまりの声の大きさに全員が竦んだ。
「それこそが奴らの策だということに何故気付かない? あの汚い連中のことだ。挑発して頭が熱くなっている我々を、一網打尽に嵌める次の手を弄していたとしても不思議はない。みすみす墓穴を掘りに行くだけだ。それに調理人達が互いをつぶし合いなどしたら、ドフィネ公へどう顔向けするつもりだ。この屋敷に雇われている以上、あの御方の朗らかな顔を曇らせるような事は絶対にあってはならん。まずは当面の問題に頭を悩ませる方が先だ。今晩の正餐のデザートをどうするべきか、みんなで考えようじゃないか」
そこに座っているのも辛いのか、ドライゼは二人の調理人に付き添われ厨房を後にする。
あの男、怪我をしたのは気の毒だが、デザート作りの指示だけでも出してからいなくなれば良いではないか。

「何を悩んでいるのだ、マエストロ。デザートくらい、お前が作ればいいじゃないか」
だがマエストロはバツが悪そうに頭を掻きむしり、ボソボソと呟いた。
「実のところ、私はデザートに関して門外漢なのだ。だから今まで特別余所から引っ張ってきたドライゼに全て一任していたのだが、まさか今回の件で仇になるとは思いも寄らなんだ」
偉そうに構えているくせに何という体たらくか。
副料理長を名乗るくらいなら全ての料理に精通していなくてどうする、と小言の一つも言ってやりたかったが、俺の時代でもデザート作りにはパティシエという職業が確立しているのを思い出した。この時代においても製菓担当は調理人の中でも特殊な扱いなのだろう。
そんなことを思っているうちにマエストロは困り果ててきたのか、さらに白いフケを振り撒いて頭をバリバリと掻きむしる。
「しかも困ったことに、二週間後にはジャン二世国王の御子息であらせられる、シャルル王子が当屋敷へ御来館なされるというのに。これは『陽日の胃袋』始まって以来の一大事だぞ」
「なんだ、そんなに偉い奴が来るのか?」
「偉いなどという騒ぎではない。シャルル王子は王位継承者であり、次期王座の最有力候補とも言われている御方だ。だからシャルル王子を招いて行われる正餐が、料理長を決定する試験とも噂されている」
それは随分と大ごとだ。デザートといえばコースの締めであり最後の砦だ。それまでの料理が絶品でもデザートが粗末ならば画竜点睛に欠けるというもの。マエストロが頭を抱えるのも頷ける。
しかしこの男、絶望とばかりに大袈裟に嘆いて見せているが、時々俺にチラチラと視線を送ってくる。
その視線が何を意味しているかすぐに分かったが、何だか釈然としない。俺の反応が芳しくないからか、マエストロは露骨にこっちを向いて「どうすれバインダー」と困ってみせる。セリフが棒読みだぞ、豚野郎。
俺は小さく舌打ちをして腕組みを解く。
「そのパバローネ伯爵の好みはあるのか?」
俺の返事に対してわざとらしく目を大きく見開くマエストロ。
「好み? どうしたのだ、参謀長殿。もしや名案でも思い付いたのかな?」
「デザートのレシピについても多少の知識はある。そのパバローネの口に合うか合わないかは保証出来んが、可能な限りやってみるさ」
天を仰いで胸でクロスを切るマエストロ。清々しいくらいの三文芝居にいい加減イライラしてきた。
どうせこいつの事だ。初めからドライゼの腕が使えないと分かった途端、俺が知っている未来のレシピを引っ張り出させようと思い付いたのだろう。
しかも直接懇願しては自身の沽券に関わるし、怪しまれるのでわざと参った振りをするという悪知恵を働かせたのだ。
「なんということだ。絶体絶命の窮地に天使が舞い降りたとは! 神は我々を見放しはしなかった! 皆のもの、迷える仔羊である我々は常に神の御加護で守られている! 蛮敵、裏参謀のイエールなど恐れるに足りんぞ!」
今度は神様のおかげか。ご苦労なこった。
他の調理人も昨日のお好み焼きを忘れていないのだろう。また目にした事のない料理が拝めるのかと、期待の眼差しを俺に向ける。
爛々と輝かせた瞳がこそばゆく、俺は考え込む真似をしてにやけた口元を手で隠す。
「それで、パバローネの好みは? 何が好きで何が嫌いとか」
「うむ。伯爵は甘いものを好むのに果物は苦手なのだ。野性味の甘味が苦手らしいが、フルーツを砂糖や酒で煮込んだものをお出ししても一向に手を伸ばそうとはしない。そのくせケチはつけたがる御仁なので人一倍気を遣うのだよ。なにせ一番心苦しく思われるのは我らが当主、ドフィネ公だからな」
死んだ親父によく似たこの屋敷の主の顔を思い出し、微かな感傷を覚えた。あのドフィネ公の顔が曇るのは確かに心苦しい。
「ふむ、それはなかなか厄介だな。逆に好きな食材はないのか?」
するとウェハー担当のアクラムが挙手をする。皆の視線が集中したので気恥ずかしげにおずおずと発言した。
「ババローネ伯爵は卵を特に好むと給仕達から聞いたことがある。それとワインの合間に、牛や羊の乳を所望するとか」
「ほほう、アクラム。随分と情報が精密ではないか。よほど給仕の誰かと懇意にしていると見受けられる。おい、白状しろ。給仕係の誰と仲良くしているのだ」
食器担当のカークスが耳敏くアクラムに追及する。当のアクラムが頬を赤らめ否定したので、他の調理人達もやいのやいのと詮索し始めた。
一大事というのにのんきなものだと騒然とする調理人たちを眺めながら、俺は頭の中にある分厚いレシピ本のページをめくっていく。卵と牛乳……あまりに単純すぎる食材に検索範囲が広大になるが、さしあたって真っ先に思い当たるのはアレしかない。
「するとパバローネは、プリンが好きなのか?」
俺の言葉に全員が不思議そうに小首を傾げる。
「プリンだよ、プッディング。あぁ、フランスだからフランと言った方が通じるか。あんまり簡単過ぎるレシピはセレブ達に敬遠されるのか?」
だがこの調理人達はさらに首をひねる。もしかして……
「プリンはまだこの時代に発明されていないのか」
これにはさすがに面食らった。あんな一般的でデザートの基本の基本と言われるプリンがまだこの時代にないなんて。プリンなんて小学生、下手すれば幼稚園児だって作れるぞ。
「ワタル、そのプリンとは一体どんな料理だ。本当に卵と牛乳がデザートになるのか? あり得ん」
「卵と牛乳に砂糖を入れて蒸せば完成だ。恐ろしいほどに簡単だぞ」
しかし調理人達は信じられないらしく、半信半疑な口振りで卵が、牛乳がまさかと呟いている。
「ならばワタル、もし良ければ実際に我々へその、プリンとやらを作ってはくれまいか?」
するとマエストロの取り巻き共も、名案とばかりに同調する。
「は? 俺が作るのか?」
「うむ。是非とも我々に参謀長殿の御腕前を披露しては頂けないだろうか。その膨大にして深い知識は既に拝見した。ならば今度は卓越した技量のほども実際に披露してもらい、御教示願えないだろうか」
「我々にも是非。ワタルのことだ。さぞかし素晴らしい調理技法を修めているのだろう」
「東邦の神秘とやらをこの身で感じてみたいのだ」
「ケチケチすんなって。頼むよ」
口々におだてられ、俺はだんだんと気分が乗ってきたのか、調理をしてみてもいい気持ちに揺り動いていた。
思えばクレセントでコックを志してこの方、誰かに調理をせがまれるのは初めてだった。週に一度賄い係が回ってくるが、俺がストーブ前に立っているとみんな、あからさまに怪訝な顔をしたものだ。俺はその度に悔しさと悲しみで鍋を爆発させていた……(故意で爆発させるわけではなく、何故か勝手に爆発する)。
「う、うむ。じゃあ仕方がない、ちょっとだけだぞ」
渋々ながら了承すると、調理人達は目を輝かせて調理台を片付け始めた。真新しい料理への期待か、異国の人間が作り出す味への興味か知らないが、さっきまではこの世の終わりとばかりに落ち込んでいたのに今ではすっかり表情が晴れやかだ。中世ヨーロッパの人間は呆れるほどに単純なものだと鼻で笑ったが、そんな連中にかつがれて料理を始める俺もほとほと同レベルだということか。
まぁいい。人生はとやかく悩むからこんがらがるのだ。シンプルなくらいが丁度良い。

しかし二十分後、イギリスの天気みたいにコロコロと変化する調理人達の顔色が、今は戦慄に震えていた。
めちゃくちゃになった材料や調理器具が竃や調理台に散乱する。頭を抱える俺の後ろで、生唾を飲み込んだマエストロが唇をぷるぷると震わせて呟いた。
「あ、悪魔の仕業だ……」
まず鍋が二つほど爆発した。次に材料をかき混ぜるために使った棒が三本ほどへし折れ、火柱を上げた竃は黒煙を撒き散らし崩れ去った。
なんでいつもこうなる? 俺は別に火薬や鋼鉄を調理したわけではないのだぞ。普通に卵と牛乳と砂糖しか使っていないのだぞ。それなのに何故、俺がひとたび調理器具を触ると全てが壊れていくのだ。絶対なにかの呪いがかかっているとしか思えない。
調理人達は口々に東邦の神秘は危険極まりないだの、ワタルは破壊神だのと囁き合っている。すると人垣の中から誰かが歩み寄り、がっくりと落とした俺の肩に手を置いた。
「もしも良ければ私が作ろうか? ワタルは昨日みたく指示を出してくれればいい」
それは脳みそが呪われた馬鹿女、人間フードプロセッサーのサリーだった。
「少なくとも私はワタルより道具との相性が良いと思うぞ。なんせ私はフードプロ『シャッセー!』だからな。さぁ、試しに何をして欲しいか言ってみてくれ」
眩しいものから目を反らすように、満面な笑みを浮かべるサリーから顔を背ける。そして口元の緩みを手で隠しながら言葉を返す。
「ではまず余計な減らず口を慎め。なんだ、プロシャッセーとは。どこの元気が良い居酒屋だ。卵二つ、牛乳と砂糖をすぐに用意しろ」
「アイアイサー、喜んでー」
材料を探しに駆け出したサリーを避けるように人垣に道が出来る。周りで不安げな顔をして見守っていた調理人達も何か楽しいことが始まる予感にソワソワした。
「ワタル、我々にも何か手伝えることはないかな」
顎を撫でながら尋ねるマエストロへ、俺は指示を言い渡す。
「出来るだけ表面がツルツルした金属製の一人前の器を一つ。円柱形のものが好ましい。それと蒸し器はあるか?」
「蒸す? なんだかよく分からんが、ここにある道具で代用は利かないか。何でも好きに使っていいぞ」
「参謀長殿、俺にも何か出来ることはないか?」
「俺にも俺にも。物を焼くのはお手のものだぜ」
「……豚を潰すのは任せろ。言ってくれればなんでも屠殺する」
「右に受け流す作業なら任せてくれたまえ」
ここぞとばかりにアピールしてくる調理人達。その瞳は役職の人間に取り入ろうとしている色よりは、一緒に愉快なことでもしようと遊びに誘う子供に近い。俺は煩わしそうに手を振って断ったが、胸の奥には居心地の良い温かみがポツリと芽生えていた。土地も時代も全く違う国なのに、ゆっくり腰を据えた安堵感を覚えるなど……不思議なことだ。

「卵と牛乳と砂糖を加えてよくかき混ぜる。おい誰か、マルコ爺にいってバニラをもらってきてくれ」
小さな容器で材料を攪拌するサリーを見守りながら、俺はその辺にいた男へお遣いを頼んだ。だがその男は首を傾げるだけで困った顔をする。
「参謀長、バニラって何だ? 野菜? 果物?」
他の人間も知らないらしく肩をすくめている。
「あぁ、そうか。この時代にはまだバニラが……」
「ワ、ワタル殿! フランスにバニラはないぞ! そなたの国にはあるんだろうがな、そなたがいた国では!」
やたらと国を強調して不細工にウィンクで合図を送るマエストロ。そうか、他の調理人に俺が未来からきたと勘付かれてはまずいのか。
「仕方ない、参謀長殿! ここにあるだけの材料でどうにかプリンとやらを作ってもらうしかあるまい! そなたがいた、く! に! のデザート、プリンをな!」
さっき隠蔽するのを忘れたからか、今頃慌てて辻褄を合わせようとするマエストロ。俺が未来人という事実がマエストロにとって余程極秘らしい。自己保身、ご苦労なこった。

更新日 9月2日

まずはカラメルを作って容器へ流し込む。
「おい、マエストロ。蒸し器の準備はいいか?」
「うむ。お湯は丁度良く沸いたぞ」
親指を立ててみせるマエストロの脇には、蓋付きの深い鍋が湯気を上げていた。この鍋には若干のお湯と、そのお湯に触れないよう木で簡素な間仕切りを拵えてある。これで上手く蒸し料理が出来るはずだ。
「オーブンで蒸し焼きにするシェフもいるが、俺は純粋にスチームで調理したい。その方がプリンのプルプル感が断然良いのだ。あのスプーンを入れるだけで弾けるように崩れる、儚げな喜悦すら覚える感触こそ、プリンの正統派だと思う」
カラメルがだいぶ冷え固まってきたのを見計らってプリンの生地を注ぐ。そして十分ほど蒸し上げて、完成だ。
「本来なら充分に冷やしてから食すのが基本だが、温かいうちに食べるプリンも茶碗蒸しみたいでまた格別だぞ。マエストロ、味を確かめてみろ」
計量用のスプーンを手渡すと、マエストロは恐る恐るプリンの滑らかな柔肌をすくい上げる。まだほんのりと湯気を立ち昇らせたプリンをしげしげと眺めてから、マエストロはパクッと口に入れた。すると弾かれるよう瞬時に目をカッと見開く。
「美味い! 卵と牛乳が程良く絡み合っている! それよりもこの舌の上を滑り落ちていく食感! 堪らん!」
いい歳こいたオヤジが身悶えさせながらプリンを突っつく。老若男女問わず虜にしてしまうのがプリンの魅力なのだ。
「器の底までスプーンを突っ込んでみろ。溶けたカラメルソースと絡めたプリンもまた絶品だぞ」
グッと底まで入れたスプーンから逃れるように溢れ出したカラメルソースにピクリと身を反らし、マエストロは卵色のプリンに褐色のカラメルを混ぜて口に運ぶ。すると感激のあまりに声が出ないのか、その場で足をダンダンと踏みしめ小躍りを始めた。
「マエストロ、独り占めなどズルいぞ。我々にも是非勉強をさせてくれ」
「そうだそうだ。そんなに美味いなら一口くらい食べさせてくれよ」
あまりに絶賛するマエストロの態度に業を煮やしたのか、取り巻いていた調理人達がマエストロに詰め寄る。マエストロは子供のようにプリンを死守しようと抗ったが、ソース担当のディックが人波の間から上手くプリンを掠め取った。そして一口食べるやいなや、悶絶して放心状態になってしまった。
そこからはまさに修羅場、争奪戦だった。たった一つの小さな容器をめぐって、調理人達は押し合いへし合いの大混乱となった。
騒動が収まる頃には既にプリンは空っぽで、最後に肉下処理担当のバシットが指で器の隅に僅か残ったプリンの欠片をほじくっていた。
騒ぎの間、黙って考え込んでいたマエストロがカッと頭を上げる。そして主だった調理人の名前を呼ぶと命令を告げた。
「出来るだけ清潔で傷んでいないバケツを持って来い! 今日のメインディッシュは巨大なプリンだ! 参謀長殿、多少大きくても調理には問題ないだろ?」
「あぁ。酔狂の極みだが、時々本当にバケツでプリンを作る馬鹿者がいるくらいだ。蒸す温度と時間にさえ気を付ければ中までしっかり火が通る」
俺の返事で確信を得ると、マエストロは細かい分量や盛り付けの指示を出し始めた。
ここからは副料理長とやらの仕事だ。仕切りたがり屋の横で余計な口出しをして、興を削いでは申し訳ない。俺はその場を離れると、厨房の邪魔にならなそうな隅っこでのんびりさせてもらう事にした。
そんな俺の肩を誰かがポンと叩く。振り返るとサリーが親指をグッと立てていた。そしてとびっきりの笑顔を添えて愛らしくウィンクを飛ばし、小さく囁いた。
「フットブ……!」
俺はフンと鼻を鳴らしそっぽ向いて歩き出した。もしかしてグッジョブと言いたかったつもりか? 間違える方が難しいだろ。何で吹っ飛ぶ? 布団か、俺は。
下っ端の人間に褒められても嬉しくも何ともないが、何故だろう。俺の頬は徐々に熱くなり、真っ赤に染まっていた。



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2012'08.19 (Sun)

傲慢に書き綴ったル・ヴィアンディエ 第六章

汚れた木の器を持った調理人が列を作り、サリーが次々とお好み焼きを木の器へ盛っていく。そして俺がフルーツソースとマヨネーズをその上に掛けて、賄いに群がる列を捌いていた。
最初は勝手にソースを預けていたが、奴らは馬鹿のようにソースを山盛り掛けていくので足りなくなっては困る。他の調理人に任せても心配だったので、仕方なく俺がソースの番人になるしかなかったが、客分の立場で作業に加わるのはかなり不服だった。
「なぁ、東邦人。そっちの白いソースをもっと掛けてくれよ。頼むよ」
「ふざけるな。このくらいで丁度良いんだよ」
「ケチケチするなよ。東邦人はみんなお前みたく細かくて懐が狭いのか」
「うるさい、黙れ。それにソースをベタベタに掛けまくったら、お好み焼きの味も何もあったものじゃない。適量なんだよ、適量」
ブツブツ文句をのたまう調理人共の相手を煩わしいと感じながら、俺はソース掛けを続けた。
全員へ賄いが行き渡った。ここには使用人専用の食堂などなく、みんな厨房の空いた場所で突っ立ったままだ。そしてマエストロが簡潔に号令をかけると、一斉に食事を始める。
だが俺はその光景に唖然として、次に怒りのあまり握り拳がワナワナと震えた。
「皆、一旦食事を止めろっ!」
俺の怒号に驚いて、調理人達はピタリと手を止める。マエストロも目を点にして俺を見た。
「ワタル? 一体どうしたというのだ?」
「どうしたもこうしたもあるか! なんだ、貴様らの食事の仕方は? 行儀が悪いなんてレベルじゃないぞ!」
テーブルマナーも何もあったものじゃない。立ったまま手掴みでお好み焼きを口に運んではクチャクチャと汚らしく咀嚼し、食べかすはそのまま床にボトボトこぼしっ放し。ソースで汚れた指のまま鼻をほじるわ、他人の服を触るわ、下劣極まりない。
これではファミレスで暴れる躾のなっていないガキの方がまだ幾分マシだ。野生動物と大差ないじゃないか。
そんな憤慨する俺に一同キョトンとしたが、すぐに真意に気付きせせら笑いを洩らした。
「おい、何が可笑しいのだ、貴様ら。俺はいたって真っ当な事を言ったまでだぞ」
だが調理人共は下らないことに食事を邪魔されたとばかりに、再び大口にお好み焼きを突っ込んだ。
怒りと呆れに打ちひしがれる俺の肩を、マエストロがポンと叩く。そして宥めるような声色で言った。
「いいか、ワタル? お前のいた国ではどうか知らんが、我々は貴族ではない。だから食事の作法など気にしなくてもいい身分なのだよ。少々下品に見えるが、使用人の立場の我々にはこういう食べ方がお似合いなのさ」
しかし俺はマエストロの手を振り払うと、厨房全体に響く声で叫んだ。
「テーブルマナーに貴賤無しっ!」
俺の気迫に押されて、調理人達は再び手を止めた。どこかの甕から水が漏れているのか、滴の落ちる音が聞こえる。
「いいか? テーブルマナーというものは決して身分が高い人間だけの躾ではない。人として生き、食物を摂取する全ての人間に与えられた義務なのだ。お前達が本当に調理人としてプライドを持ち合わせているのならば尚更のこと。
食事に感謝をするということは作り手に感謝をするということに等しい。作り手に感謝をするということは食材に感謝をするということに等しい。食材に感謝をするということは大地に感謝をするということに等しい。
テーブルマナーとはそうした食に繋がる感謝を示す最高の礼儀なのだ。食事に関して最も近しい場所にいるはずの貴様等が下品に振る舞ってどうする? 他のことは自堕落で結構。だがテーブルマナーだけは最低限、きちんと従事しろ。それが出来ない奴は調理人を名乗るな」
厨房が水を打ったように静まり返ったので、俺はつい出過ぎたとハッとし、すごすごと俯いた。
いつもの癖というか、またもや身の程も知らず偉そうなことを言ってしまった。十四世紀の使用人相手に礼儀だの躾だのと懇々と語ってどうなる、と反省する。
だが、決して嘘や見栄を言ったわけではない。少々傲慢な口調だったが、俺の言葉は全て紛れもない本心だったから。
それでもここの連中は、東邦人が青臭いことをのたまった程度しか感じないだろう。そんなこと分かっていたのに本気になってしまった自分自身を恥ずかしく思い、俺は自分の賄いを持って退室しようとしたその時だった。
俺の隣にいたサリーが、その辺りにあった木箱を二つ持ってくると一つは自分に、もう一つは俺の足元に差し出した。
「みんな、椅子とまではいかないが樽でも木箱でもいいから腰を落ち着けよう。椅子の代わりなんて探せばいくらでもあるものだぞ」
そう言ってサリーは木箱に腰を掛けると、姿勢良く背筋を伸ばし両手を膝にちょこんと置いた。
すると驚いたことに、調理人達はお互いに顔を見合わせると、ばつ悪そうにはにかみながら腰掛けになりそうなものを探し始めた。そして一同が腰を下ろしたのを見計らってサリーが口を開く。
「食事中は出来るだけ姿勢を正し、首から上は指で触らない。食べられる量だけ指でちぎり口に入れる。落ちたものは拾って食べない。口にモノが入ったまま喋ってはいけないし、ワインで流し込んではいけない。パンは指でちぎってから食べる。鼻をほじってはいけないし、ゲップやおならもしてはいけない。……ざっとこんな感じでいいかな、ワタル?」
流暢にテーブルマナーを講義するサリーに、俺は気圧されながらも頷く。この中では一番ガサツに見えたのに、随分とまとも過ぎることを言ってくれるので、返す言葉もなかった。
サリーは俺の返答に対して満足げに微笑み、小さく耳打ちをした。
「悪く思わないでくれ。ここの連中は、一度もそういった教育を受けたことがないのだ」
サリーの吐息がこそばゆく耳に触れる。女性に対する免疫が薄い俺は、頬を紅潮させながらカクカクと首を振るばかりだった。
マエストロの号令で仕切り直され、食事がスタートした。調理人達はギクシャクと馴れない様子だが、素行を正して料理を口に運ぶ。さっきとは違い、これでだいぶ見栄え良くなったと俺は感心しながらも、横目でサリーを観察した。
他人に指摘するくらいなので、サリーは何一つ問題なく上品に食事をした。手掴みで料理を食べる姿に違和感を覚えなくはないが、どうやらこの時代にフォークやスプーンという食器類は未だに誕生していないらしい。スプーンはあっても調理用のお玉を小さくしたようなものだけだ。
キレイな顔をしているが頭が悪く、手先は驚くほど器用だが頭が悪く、テーブルマナーはきちんと身に付いていて品が良いが頭が悪い。
一体この女、何者なのだ?
中世ヨーロッパの身分階級に詳しいわけではないが、確実にここの調理人達が高い地位の人間ではないことは直ぐに気付いた。マエストロの口振りから察するに奴隷と呼ばれる身分に近いだろう。
それなのにこの馬鹿女は、身にまとった雰囲気や言葉の端々から滲み出る気位が、他の調理人達と一線を画している。見た目や性別の問題もあるが、それを差し引いても違和感の塊だった。
この時代の人間に深入りする気はないし、興味を抱く気も毛頭なかった。ただ俺は、元の時代にさえ戻れればそれで良い。人種や土地はおろか、時代が異なる人間と交流を深めたところでどうなるというのか。
だが、俺は確かにこの異色の馬鹿女であるサリーに、ほのかな興味を持ち始めていた。知って何がしたいわけでもどうなるわけでもない。ただ純粋に好奇心が湧いただけだった。
俺は周りの調理人達と同じく手掴みで食事をするのに抵抗を感じ、小振りな串焼き用の串を二本使って箸の代わりにした。そして料理を味わいながら、周りの反応を確かめるべく注意を払う。
いくら調理をしたのはサリーといえども、指示をしたのは全て自分。この賄いは俺が作ったと言っても過言ではない。毎度クレセントで賄い料理を作った時の試されている感触に、食事を通る喉は自然に細くなる。
それはどうやらサリーも一緒で、ちぎったお好み焼きを口に運んではいるものの、気持ちは別の場所にあるみたく上の空だ。
だが、食事を始めて数秒も経たないうちに、料理に対する評価はありありと見えてきた。最初はサリーに言われた通り姿勢良く座っていた調理人達が、段々と皿に吸い込まれるように前屈みになって料理を貪り出した。
「おい、なんだよコレ。手が止まんねえよ」
「お、俺も。口が一つじゃ足りないみたいだ」
隣同士囁き合っている奴らもいるが、だいたいの人間は言葉を発する暇がないほど夢中になって手と口を動かしている。あのマエストロまで瞳を爛々と輝かせて、せわしなく料理を咀嚼していた。
俺はサリーと目を合わせる。努めて平静を装おうとするが、俺も今のサリーみたく口元が弛緩しているのだろう。ついに堪えきれなくなったのか、食器担当のカークスはガバッと頭を上げると声を荒げた。
「最高に美味いぞ! 今までにこんな美味いものを食ったことがない!」
その一言を皮切りにあちらこちらでも叫ぶような賛辞が上がる。
「ソースが最高だ! どうやったらこんなソースを作ることが出来たのだ?」
「有り得ねえ! これ、本当にここにある材料だけで作ったのか? マジで有り得ねえ!」
「東邦の神秘に感謝を! おぉ、この感激だけは右に受け流すことは不可能だ……!」
「この白いプルプルのソース、マジで美味すぎる~。誰か俺に少し分け与えてくれ~」
「やなこった! 勿体なくてあげられるものか! 俺は皿の底まで舐め尽くすぞ!」
皆が声高に料理を褒め称えられるだけ褒め称えられる。そして口々に感想を述べては再び料理を食べ絶賛するのだ。
その様子を眺めているうちに、サリーは感激したのか頬を上気させる。きっとこの女も自分が作った料理がこれほどまで賞賛を浴びたのは初めてなのだろう。若干潤ませた瞳を俺に向け、喜びのあまり声にならないのか口を小さくパクパクとさせた。
サリーの胸の内は聞かずとも充分理解している。もちろん俺だって同じ気持ちなのだから。しかし元来の意地っ張りな俺はそんな素振りをわざと隠すように、ムッツリとしながらお好み焼きをつつく。
「やはり生地に和風の出汁を入れないとこんなものか。干しエビで食感と風味を補えたのはもっけの幸い。キャベツも程良く火が通っている。豚肉の替わりにベーコンを敷いたので塩味が強いかと懸念したが、薄味でさほど気にならずに助かった」
料理を食べると必ず批評したがる俺の癖を、サリーはニヤニヤと笑いながら聞いていた。
「なにゴチャゴチャと講釈を食べているのだ? 偉そうにしているが鼻が踊っているぞ、ペダル」
鼻を突っつくサリーの腕を振り払いながら、俺は真っ赤になった顔を隠すようにそっぽ向いた。
「講釈は垂れるもの! 鼻は笑うもの! それと俺はワタルだ! 人を自転車の部品みたく言うな!」
当然ながら、その日の賄いは全てキレイに完食だった。みんな行儀悪くも本当に皿の底まで舐めたのか、ピカピカに完食だった。

食事後、俺はマエストロから引っ張られるように執務室へ連れてこられた。食事中は終始無言で気難しい表情を変えずにいたマエストロ。きっと今食べた料理の作り方やソースの事などを問い質したいのだろう。
調理人はいつの時代もそんなものだ。真新しい料理や変わった調理法を目の当たりにすると、追究せずにはいられなくなる。それだけこの豚も貪欲な真理の探求者という証拠だろうが、執務室に入ってすぐに口にしたマエストロの言葉は、少々異なものだった。
「ワタルよ。さっきお前確か、未来からやってきたと言ったな?」
真面目な顔で尋ねるマエストロが可笑しくて俺は鼻で笑い飛ばそうとしたが、相対したその表情があまりにも真剣過ぎて、俺は咳払いを一つすると椅子に腰掛けながら言った。
「あぁ、確かにそう言った。俺は今から約七百年後の日本という国からやってきた。まぁ信じられないと思うが」
「いや、信じよう」
キッパリと言い切ったマエストロに俺は唖然とする。
「え、信じるのか? 未来から来たのだぞ。タイムスリップなんて非現実的なんだぞ?」
「いや、信じよう」
またもや言い切ったマエストロに、俺は額を押さえて溜め息を吐いてみせた。
正直に言ってしまえば、俺自身が現状を完全に信じているわけではない。俺は非科学的なものを好まないし、SF小説など手に取った事すらない。何かの拍子に夢から現実に戻ってくれることを、心のどこかで期待していた。
それなのにこの豚は、あろうことか非現実的な事態に直面している俺よりも先に、この狂った状況を飲み込みやがった。
「本当に得体が知れなくて謎だらけだな、十四世紀……」
「こう見えても俺はな、肩書きを利用してありとあらゆる土地の料理を研究している。それこそローマ帝国の範囲のみならず、何ヶ月も馬に乗らなければ辿り着けない遠方まで。だがな、それでもさっき食べた料理は見たことも聞いたこともない。中でもあのソースはなんだ? あんな煮汁の寄せ合わせを適当に混ぜただけで、あれほど美味いソースが完成するなど有り得ない」
「おい、適当とは何たる言いぐさだ。あれはきちんとした分量を配合して完成するのだ。まぐれで出来たような代物ではない」
「その言葉でますます合点が入った! ワタルのいた国では文明が今の何倍も進んでいて、調理技術も信じられないくらいに多様化しているのだろう?」
これには素直に驚いた。このマエストロは、たった一度の食事でそこまで想像の翼を広げたというのか。しかもあながち間違っていないことに、ますます度肝を抜かれる。
静かに興奮しているマエストロを真っ直ぐ見据え、俺は深呼吸を一つ置いてから尋ねた。
「それで、もしもお前の妄想が事実ならば、俺をどうしようというのだ?」
「率直に言おう。協力を請いたい」
やはり、当然ながらそう来るか。
俺の返事も待たずに、マエストロは執務室のテーブルの山から分厚い紙の綴りを取り出すと、投げるように俺へ手渡した。
お世辞にも綺麗とは呼べない筆記体で記されたフランス語が並ぶその冊子に目を通す。単語だけ拾いながら読んでみるからに、何かの料理に関するレシピなようだ。
「ワタルよ俺はな、只今料理本の執筆を手掛けているのだ。単なる料理本ではない。料理界の後世にまで読み継がれるような、大料理本を作り上げたいのだよ。そのためドフィネ公よりお許しを賜って諸国を漫遊しているが、それでは物足りないのだ。それでは単なる風俗を書き記した歴史本にしかならないのだよ。もっと強烈な、圧倒的なインパクトが欲しいのだよ!」
勢いのあまりマエストロは身を乗り出し、テーブルを分厚い手でバンッと叩いた。埃っぽかったせいか小麦粉のような薄い白煙が舞い上がり、俺は口元を手で押さえながら空いている方の手でパタパタと扇ぐ。
「いいじゃないか、それで。事実を捏造し有りもしない空想を描かれるよりは、よっぽど後世の人間のためになる」
「何を言う! ここに歴然とした事実を語る人間が存在しているではないか! 時代など関係ない! 誰も知り得ない知識をより多く書き記した者を、歴史は偉人と讃えるのだよ!」
狂ってやがる。マエストロの言いたい事は分からんでもないが、栄光に目がくらんだ盲人の戯れ言というものは実に耳障りなものだ。
「ワタルよ、再び請う。俺に力を、いや知識を貸してくれ。お前のいた時代の料理をこの大料理本『ル・ヴィアンディエ』に書き記させてくれ」
改めて懇願するマエストロの言葉に、俺は言い知れない悪寒がゾクリと背中を走った。そしてこの時代に来てから度々感じていた、不安感の正体をやっと突き止めたのである。
膨大な歯車の間に小石が挟まる感触……それは絶え間なく流れる歴史に、あってはならない干渉を与えた感触だった。
未来から来た人間が過去を弄り未来そのものを変えてしまうなんて、漫画の世界では最早使い古された話だぞ?
「馬鹿馬鹿しい。さっきから随分クレイジーなことを、よくもまぁ恥ずかしげもなくペラペラと。そもそも俺が未来からきたなんて信じるとは、お前はどれだけ夢見る夢子ちゃんなのだ」
「お前が拒む、それが一番の確信だ」
俺は大きく目を見開き、次に力の限りマエストロを睨み付けた。この豚、当事者である俺よりもよっぽど冷静で、よっぽどしたたかな思考をしている。
「お前、分かっているだろうな? 仮に俺が本当に未来からきたとして、お前らこの時代の人間に知恵を託す、それがどれだけ危険な行為かを」
「さぁ、未来のことまでは保証出来ない。なぁに、もし変わったとしてもワタルの時代がさらに美食で溢れるだけのこと。文字通り美味しい話じゃないか。それに高々、料理の知識など些末な問題じゃないかね」
「ふざけるな。今は小さな波紋だろうがな、七百年後にはどんな波に化けるか分かったものじゃない。人類の歴史を根底から揺るがす津波に発展したらどうする気だ」
「知ったことか。未来のことは未来の人間に任せよう。俺が欲しいのは、今だ。そしてゆくゆくは数百年先にある栄誉だ」
俺はこれ以上話しても無駄だと悟り、いすを蹴り上げる勢いで立ち上がる。そしてドアノブに手をかけた時、マエストロが妙に落ち着いた低い声で言った。
「確かワタル、あの白い箱を置いてきた山道に行きたいと言っていたな?」
全身がビクンと派手に竦んだ。振り向くとマエストロは勝ち誇ったように腕を組み、澄まし顔を浮かべている。この豚、俺が思っているよりも遥か数倍したたかだったようだ。
「……恐喝のつもりか?」
「いいや、取り引きだよ錬金術師殿。もしもワタルが俺に協力してくれるというならば、配下の人間を使って、あの白い箱をこの屋敷まで引っ張ってこさせよう」
俺はゴクリと喉を鳴らす。あの冷凍庫のある場所まで何とか辿り着ければ、と願っていたが、まさかここまで運んできてくれるというのか。
「お前、さっき勝手に人は使えないと言ってなかったか?」
「ドフィネ公への要請の仕方次第だよ。なぁに、俺が直々に話をすれば容易に通る。あの渓谷まで往復なら馬と荷台で三日もあれば到着するだろう。さぁ、どうする?」
何が取り引きだ。天秤に掛ける素材が違いすぎる。
片や一般人でしかない青年が未来に戻る切符一枚、片や人類の歴史に投じる不穏な一石。
例えば、マエストロが書き記した大料理本が何かの拍子に紛失するか、はたまた世間に受け入れられず、さほど知れ渡らないまま淘汰されれば問題ない。
だが、もしも逆ならばどうする? 急激な文明の発展は、破壊と滅亡をもたらすと何かの本で読んだことがある。
たかが料理、されど料理。人間は食文化を通して文明を築き上げてきた。猿は火を恐れず手を伸ばして言葉を身に付けた。
理屈では分かっている。マエストロから差し出された手を払いのけ、屋敷を出て別の誰かを頼り、どうにか冷凍庫まで辿り着けばいいのだ。それが最善なのは分かっているのに……。
「この時代、土地に存在していない食材を用いた調理法までは教えることが出来ない。いいな?」
俺は倒した椅子を直し、再び腰掛ける。マエストロは交渉の成立に気分良く面相を崩した。
「心得た。それとワタルの名前や東邦よりの使者から伝えられた英知ということも伏せておこう。なに、俺一人で名誉を独占したいのかと邪推はするな。不審な歴史の歪みの元は隠しておく方がいい」
「勝手にしろ、豚野郎」
俺は何より一刻も早く元の世界に戻りたかった。それが利己的だとも傲慢だと言われても構わない。俺が二十年間、生を育んでいた世界から存在が薄れる感触が、ゾッとするほど恐かった。
さほど素晴らしい人生を送っていたとはとてもじゃないが思えない。それでも俺にとって二十一世紀は、何物にも代え難い存在の証明なのだから。あのプラスチックと電子機器に囲まれた殺伐とした世界が、俺の居場所なのだから。
同じ立場になってみな? 誰だってそう思うはずだから。

それから二言三言やり取りを終えた後、俺はマエストロに連れられ再び厨房を訪れた。そしてマエストロは全員に召集をかけ、声高に宣言をした。
「本日より東邦よりの使者、カメオカワタルはこのタイユヴァン直属の料理指南参謀長となった! 皆のもの、これよりはカメオカ殿の意見を真摯に受け止め、研鑽を積み職務に励まれたい!」
調理人達は突然のお触れに不信感を露わにしている。隣同士ヒソヒソと耳打ちし合っては眉をひそめていた。
「ちなみにタイユヴァン、もしかしてそのカメオカ殿にも星を賜せるつもりか?」
やや怒気を含んだ口調でそう言ったのはジーンだった。他にも同様の懸念を抱いていた調理人がいたようで、数人はあからさまにムスッと力強く頷いた。
「なぁ、マエストロ。星とはどういうことだ?」
「この厨房内における等級のことだ。ちなみに評価は五段階で、年齢や民族に関係なく有能な人間には星を与える。ここの調理人達は星の数によって、お互いの立ち位置や身のわきまえ方を知るのだ。もちろんワタルも当厨房の仲間入りになるので星を授ける。星は、五つ!」
最高級の評価に調理人達は不満を爆発させた。
「なんで今日来たばかりの人間が星を五つももらえるのだ!」
「数年間、共に働いた我々の立場はどうなるのですか、タイユヴァン?」
「納得いく説明を是非ともお願いしたい! いくら珍しい料理を知っているからといって急に五つ星など、贔屓ではないですか!」
「そうだ! ヒジキだ、ヒジキ!」
「サリー! ヒジキじゃなくて贔屓だ、ひいき!」
「とにかくきちんと理由を述べて頂きたい! そうでなくてはタイユヴァン、ここ『陽日の胃袋』全体の統制が危ぶまれますぞ!」
詰め寄らんばかりの勢いでまくし立てる調理人達を相手に、マエストロは涼しい顔で構えるばかりだった。非難の矛先は自ずとこちらにも向けられてくる。俺は悪意と嫉妬に満ちた瞳を突き刺してくる調理人達から、冷や汗を掻きながら目を反らした。
もう少しで暴徒化する直前、タイユヴァンは静かに口を開いた。
「では皆に問おう。先ほど食べた賄い料理よりも美味いものを食べたことがある人間は、一歩前に進め」
その一言で途端に全員が口を閉ざした。誰も足を踏み出そうとしない事を確認し、マエストロはさらに言葉を続けた。
「では次に問おう。先ほど食べた賄い料理よりも美味い料理を作れると自負しているものは、一歩前に。出来ないものは一歩後ろに下がれ」
皆お互いに顔を見合わせ、頭を垂れるとおずおず後ろに下がり始めた。
「では最後に問おう。ここ『陽日の胃袋』は実力主義だ。美味い料理を作れる人間が何人であろうと正しい。この掟を忘れていないもの、そして異論がないものは一歩後ろに下がれ」
またもや調理人達はすごすごと後退り、マエストロと隣に立つ俺の前にはポッカリと空間が空いてしまった。
この豚、厨房を一つ束ねるだけあって言葉の選び方が随分と卓越ではないか。
時代、土地に関係なく調理に関わる人間ならば信念は変わらない。マエストロも言ったが、ようは美味いものを作れる人間が正義なのだ。そんな調理人の泣き所を巧みに突いて、さっきまで鼻息を荒げていた若衆を上手く宥めてしまった。
マエストロは満足げに頷くと口を開く。
「不平不満はごもっとも。諸君等の胸の内は、兄であり父であるこのタイユヴァンが重々承知している。だが、我々を覆う現状を踏まえて今一度考慮して頂きたい。諸君等の懸命な働きにより、差は歴然たるものとなっているが、それでも『月光の胃袋』率いるデラーズ以下の連中は、未だに起死回生せんとばかりに虎視眈々と我々の弱みを狙っている。さらには知っての通り、あちらにはイエールという強大な裏参謀まで加わった。非常に疎ましいことこの上ないが、では我々がすべき事はなにか? それはさらに強大な力を得て、この厨房の権威を盤石たるものに固める事である。そのためには、東邦の英知を秘めたカメオカ殿の助勢が是非とも必要だ。そうは思わないか、諸君? 調理人ならば美食という真理の探求に邁進すべきではないのかね?」
俯いていた連中がマエストロの話が進むにつれ、徐々に頭を上げる。いつしか全員の瞳には輝きすら灯っていた。
この豚野郎、詭弁だけで部下共の不満を払拭するどころかやる気を鼓舞しやがった。
全員が納得したのを見計らうと、マエストロは午後の業務内容を簡単におさらいし、仕事に着くよう促した。各々自分の持ち場へ戻るとき、何人かは俺を横目で一瞥していったが、そこにはさっきのような憎しみを込めた色はすっかりと消え失せ、ただ単にこちらを見ただけだった。
俺は幾分ホッとしつつも、マエストロの脂肪で厚みがかった横腹を肘で小突いた。
「おい、なにも部下を煽り立ててまで俺に要職を与える必要ないじゃないか。単なる客分扱いでも貴様の執筆を手伝うことは出来る」
だがマエストロは不敵に笑みをこぼすと、俺に顔を近づけ声を潜めた。
「なぁに、ワタルが気にすることはない。ただ撒き餌をしただけさ」
「撒き、餌?」
「あぁ。俺は欲張りだからな。何事も一石二鳥を狙わないと気が済まない質なのだ。実はこの中に、西棟の内通者がいるやも知れん」
「内通者?」
「あぁ、信じたくないがな。だからこちらに強力な助っ人が付いたと知れば、西棟の連中、特にイエールが放っておきはしないだろう」
 軽く身震いを起こす。この男、ただ執筆を手伝わせるだけでなく、俺を危険な矢面へ立たせようというのか。
「そんなことならやってられるか! やっぱり俺はこの話から降りる!」
「安心しろ。だからこちらは予防線を張ればいいだけよ。おーい、サリー! こちらへ来い!」
厨房内にマエストロの大声が響き渡る。するとすげなくジャガイモを手に二つ持ったサリーが人をかき分け現れた。
「何かご用かな、タイユヴァン?」
「うむ、折り入って頼みがある。用事というのはだな、お前の部屋にワタルを泊めて欲しいのだ」
マエストロのとんでもない提案を聞かされて、俺はつい鼻水を噴き出した。
「はぁ? なんで俺がこの馬鹿女の部屋に泊まるんだよ! どうなっているんだ、十四世紀の常識は!」
「なぁに、泊まると言ってもサリーの部屋にお前の寝床を用意して、朝晩共に寝起きするだけだ」
「オーケー! 二十一世紀でも同じ意味で『泊まる』という言葉を使う!」
「安心しろ。サリーの部屋は元々二人部屋だからな。さほど狭くはない」
「違う意味で安心じゃないんですけど!」
顔を真っ赤にしながらマエストロに抗議する。だがマエストロはニヤニヤいやらしい笑みを浮かべるだけで、提案を取り下げる気はないようだ。
いくら急とはいえ、なぜ俺が女と同室で寝起きを共にしなければならないのだ。あまりに常軌を逸している。
マエストロの下世話な思いつきのもう一人の被害者であるサリーに目を向ける。サリーはいつもと変わらぬ表情のまま、俺達のやり取りを傍観しているだけだった。
これからこの女と一つ屋根の下、枕を並べる……そんな場面を想像すると俺は異様なほどに緊張が込み上げてしまい、サリーの顔が見られなかった。
おかしいぞ、メイと同棲していた時にはこんなドキドキしなかったのに。何を焦っているのだ、俺は。
「そ、そもそもお前はどう思うのだ?」
「どう、とは?」
「見知らぬ男と一緒の部屋で、抵抗はないのか?」
「タイユヴァンの命令だから仕方あるまいな。もちろん不安だってあるぞ。もしもワタルの歯軋りがウルサかったらどうしよう……」
「その程度の心配かよ! 俺はお前の貞操観念の方が不安だよ!」
俺を真っ直ぐ見つめるサリーの瞳が眩しすぎて、目を反らすだけでは足りずに体ごと背けた。
「マエストロも一体何のつもりでそんなことを言うのだ。ただ俺をからかって楽しんでいるのか?」
愉快とばかりに満面の笑みを浮かべるマエストロ。頼むから本気で勘弁して欲しい。
「それにお前、いくら手下とはいえ馬鹿女はまだうら若き女性だ。な、何かの間違いが起きないとも、言い切れないじゃないか?」
しかしマエストロは軽快に頷くとあっさり否定した。
「うむ。それだけは絶対にあり得ん」
「な、何故だ。俺を信用してくれるのは嬉しいが、俺だって血気盛んな若い男の子だぞ」
「ワタルを信用しているわけではないが、まずそれだけはあり得んだろう」
するとサリーもコクリと頷いた。「だな。あり得ん」とバッサリ否定した。
俺はドギマギしながらも首を傾げた。十四世紀の人間の言うことは本当に理解不能過ぎる。
だが俺の儚くピュアな恥じらいは全くの杞憂であったことを、その日の夜にまざまざと思い知らされるのであった。

更新日 8月27日

☆ ☆ ☆

「……ん……ん」
四つ脚の木が軋む音と古びた床がこする音に合わせて、サリーの呼吸もリズムを刻む。さほど広いとは言えない部屋は、藁を積み上げただけの寝床とみすぼらしいベッドだけで占拠されている。だからだろうか、サリーの艶めかしい声がいやに響いて聞こえる。
「……ふっ……あ、ん……」
サリーの吐息に合わせて四つ脚が軋む音もテンポを速める。徐々に喜悦が含んだ表情に変わっていくサリーを見て、俺はゴクリと生唾を飲み込んだ。
「あっ……は、んっ……ん!」
テンポはさらに速度を刻む。部屋にこだまするサリーの声や軋む音が、今まさに絶頂を迎えようとしていた。サリーの荒い吐息や汗ばんだ背中が密着するように感じ、俺も胸の内から突き上げる衝動がほとばしる。
駄目だ、俺も限界だ! サリーが長いポニーテールを振り乱し、頭をガバッと上げた。
「よし、出来た」
「包丁くらい普通に研げ!」
キラリと煌めく刀身を灯りに掲げ、ご満悦に浸るサリー。包丁研ぎ用のテーブルは造りが粗末だからか、未だにギシギシと悲鳴を上げている。

お情け程度の夕飯を済ませると調理人達は会話もそこそこに三々五々、自分の寝床へ帰っていった。この時代は照明も油や蝋燭だけで娯楽もない。日が落ちればもう寝る以外にやることがないのだろう。
俺は頬を紅潮させながらサリーに案内されて部屋までやってきた。
ここで俺はサリーと寝起きを共にするのかと湿気のこもった匂いのする部屋を見渡す。窓もなくクローゼットらしきものもない、ほぼ密室状態の部屋に俺は情けなくも淫らな妄想を掻き立てずにはいられなかった。
後ろ手に扉を閉めると一気に空気が密閉される。手に持ったランプの灯りを部屋の燭台に移して、サリーは俺を振り向きニコリと微笑んだ。
そしてそのままの笑顔で、腰に差したナイフを取り出したのである。

「何も寝る前に包丁を研ぐ事もなかろう。そういうものは朝にするのが常識じゃないか?」
刃物全般にトラウマを抱えた俺はもちろん包丁研ぎなどしたことがないが、クレセントで働く他の調理人達はみんな就業前にせわしなく砥石を使っていた。
「夜に研いだ方が、野菜へ鉄臭さが移りにくいのだ」
「そういうものなのか?」
「そういうものだ。それに、仕留められるなら切れ味のいい刃物の方が苦しまずに済むだろう?」
背筋が凍りついた。サリーは研ぎかけのナイフをこちらに向けてニンマリと微笑んでいる。だがその瞳の奥には愉快な感情が一切窺えない。
「し、仕留めるとは、一体何を仕留めるのかな? 参考までに、一応参考までに聞いておこうかな」
「うむ、この屋敷は森に囲まれているからな。イタズラ好きな狸やムササビが紛れ込む時があるのだ。もっとも仕留めれば昼食が一品増えて助かるがな。他にはスケベな夜這い野郎とか」
サリーの凍える瞳に射抜かれ、俺は全身から冷や汗が流れ出した。
猛禽類に睨まれた兎よろしく、脚が固まり俺はその場から一歩も動けなくなった。サリーは気にする風もなくナイフ研ぎを再開する。時々、喘ぎ声のような吐息を漏らしながら、懸命に体を動かした。
「ハ、ハハハ。狸ですか、そうですよね。それは仕留めなきゃですね。夜這い……夜這いですか、ハハハ。さ、さすがにそれは無いのでは?」
ゴクリと固唾を飲み込んでようやく口が開いた俺。何でかな、何で俺はこの馬鹿女に敬語を使ってらっしゃるのでしょうか。
「そうだな。残念……幸いなことに未だ一度も夜這いが現れたことはない。私としても愛刀を人間の血で汚したくはないのでな。まぁ、一度くらいは感触を試してみるのも悪くはないと思っているが」
前立腺の辺りがキューンと急激に収縮する。あれ、おかしいな。なんで俺の膝、笑っているんだろう。
二本目の包丁も研ぎ終わったのか、サリーはまたもや満足げに灯りへ鏡のように透き通ったナイフをかざしてみる。そして次に俺へ視線を移すと、ナイフをスーッと横一閃に薙いだ。それがちょうど俺の首くらいの高さだったので戦慄が走る。心臓がビクンと竦んだ。
「い、今の動作は一体どんな意味があるのでしょうか!」
「ん、気にするな。……ダメージトレーニングだ」
俺はベッドへ逃げ込むように毛布をかぶり、身を丸める。
ガクガク震えながら心の中で、ダメージじゃなくてイメージトレーニングだろ! と突っ込んだが、まさか口に出せるわけもない。それにあながち間違ってもいないし。ダメージ与えるどころか即死だろ。
マエストロが大丈夫だと太鼓判を捺した理由がやっと分かった。この馬鹿女が相手だったら艶っぽい情事も命懸けになるだろう。手を出した瞬間、首と胴体が泣き別れになる。
腰にナイフを携えたまま、サリーが隣の藁を積み上げたベッドに入ってきたので、俺は恐ろしさに震えながら急いで寝息を立てて眠った振りを装った。
 もともと、俺が今つかっているベッドはサリーのものなのだろう。女の子独特な花のように可憐で少しすえたような香りが鼻腔をくすぐる。だが今はそんな芳香に酔いしれている心の余裕はなく、胸を締め付ける甘酸っぱい香りは死の香りにすら感じられた。
 サリーは藁を詰めあげ即席に作り上げたベッドで寝返りを打つ。客分でありマエストロから賜った料理指南参謀長の名と五つの星は、どうやらかなり高い地位を意味するもので、サリーはすすんで寝心地の良いベッドを俺に差しだしたのだ。
 それでも俺の脳裏には先ほど見た包丁のきらめく刀身が焼き付いて、ただガクガクと全身が震えた。その時、再びサリーの寝返りの音が聞こえたと思うと、囁くような声も聞こえてきた。
「なぁ、ワタル。寝たか?」
「……」
 なんとなく三枚のお札に出てくる小僧の気分だった。山姥の問い掛けに返事をしたら命が取られそうで、俺は口を噤んでさらにわざとらしく寝息を立てた。
「なんだ、寝てしまったか。まぁ、いい。……実は私はな、自分が作った料理を誰かに食べてもらって美味しいと言われたことが一度もないのだ。でも今日、ワタルの指示に従って作った料理を皆に食べてもらって、あんなに絶賛された。うん、自分の実力でないことは分かっている。私はワタルの言われたとおりに作っていただけだからな。……でもな、それでも私は、嬉しかった」
 そしてサリーはもう一度モゾモゾと寝返りを打つ。下に敷いた藁がガサゴソと音を立てる。その雑音にわざと紛れさせるように、サリーは小さく呟いた。
「……ありがとな、ワタル」
 それだけを言うと、サリーは俺にも負けないくらい大きな寝息を立て始めた。その夜はお互いが照れ隠しの狸寝入り合戦がいつまでも続き、気が付けば俺もサリーも本物の寝息を立てて眠りに落ちていた。




目次
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2012'08.10 (Fri)

傲慢に書き綴ったル・ヴィアンディエ 第五章

「小麦粉が五キロ。卵が五十個。水が七リットル、いやキャベツから出る水分と仕込みの量を想定すると、もう少し減らしていいか」
人で混雑した厨房を縫うように歩きながら、俺は露天商のように陳列された食材へ隈無く目を光らせる。
「やはり昆布や鰹節といった日本のダシなどあるわけないか。ならば洋風で作るしかないが、それはそれで面白い。やりがいがある」
「おい、一体何を作ろうとしているのだ? カメノコ」
「亀岡だ。お前は自分の頭を使う必要ない。ただ俺の指示に従っていればいい」
「そうは言っても何をするかだけ教えてくれもいいだろう、カメアタマ」
「だから亀岡だと言っている。ワタルと呼べ。第一、何を作るか教えたところでお前が理解できるか疑問だからな。馬鹿だし」
「うむむ。癪に来る言い方だが的を得ているので反論できん。それで私は何をすればいいのだ、ワタミ?」
「癪は触るもの。的は射るもの。ついでに俺はワタル。人を居酒屋みたく呼ぶな。さしあたって小麦粉を五キロ、卵を五十個準備しておけ。賄い用で使っていい竈はどこだ?」
「右手に見えますデザート担当の隣にある二つの竈だ」
「ちなみにそっちは左手な。俺が戻ってくるまで食材を集めて、水を鍋一杯に火へ掛けておけ」
「了解した。では後ほど」
早速駆け出そうとするサリーを制す。
「あ、ちょっと待て。小麦粉の分量は食材担当の人間に計ってもらえ。絶対にお前が計るなよ。適当にやられたらたまったもんじゃないからな」
信用されなかったのが気に食わなかったのか、サリーは頬を膨らませながら、了解と駆け出した。
憮然としないのはごもっともだが、俺が関わる料理で目分量などは御法度だ。常にパーフェクトを望むのがポリシーなのでな。
俺の頭の中には一冊の分厚いレシピ本がある。
その本には俺がこれまで読んだ数多の料理本に記された調理手順から食材の分量まで、事細かに全て記憶し収まっている。
それだけではなく、今まで食べたありとあらゆる料理も、自分なりに解析しレシピ本に写真付きで収まっているのだ。それこそ、その辺のグルメコラムニストなど鼻で笑えるくらいに味からブイヨン、姿形すら消えた食材まで鮮明に覚えている。
食に関しては絶対に妥協せず理想を突き詰めていく。それが俺なりの信念であり、頭の中にあるレシピ本の存在意義でもある。
一つだけ問題があるとすれば、そのレシピ本を完全に使いこなすには俺の腕前がお粗末過ぎることか。

それから俺は調味料や干し小エビにベーコンなど、粗方の食材を集め終え賄い専用の竃に行くと、サリーが先に着いていたようで器用に卵をヒョイヒョイお手玉にして遊んでいた。
「おい、馬鹿女。貴重な食材をおもちゃにするな」
「大丈夫。私が落とすなどヘマをするわけがない。ウォールアップだ」
「だからウォームアップだって。壁を上がってどうする」
放っていた卵をかごの中に戻すと、サリーは小麦粉が詰まった袋をポンと叩き言った。
「材料は揃ったぞ、ワタル。きちんと言い付け通りに計量は他人にしてもらった、こんちきしょう。まずは何から始めようか」
「レディーがこんちきしょうなどと言ってはならん。では始めに小麦粉全てと卵をその大きな容器に入れろ」
丁度良く竃の脇に陶器で出来た大きな容器がある。俺はそれを指差すとサリーは躊躇いなく小麦粉を容器にぶち込んだ。そして次に卵をから付きのまま容器に放り込もうとしたので、慌てて制止する。
「おい馬鹿! 殻のまま入れてどうする! 割って中身を容器に入れろ!」
「なんだ。そうならそうと始めから言えばいいのに」
ブツブツ文句を言いながら高速で割った卵の中身を容器に入れていくサリー。
この女、一から十まで細かく指示を出さなければ使えないプログラミングタイプなようだが、手先の器用さはずば抜けている。五十個もあった卵を二十秒も経たないうちに割り終わってしまった。

「終わったぞ、ワタル」
「次に水を入れて掻き混ぜろ。ちゃんと水は煮沸させただろうな」
「うむ。しかし、何故わざわざ水を沸騰させる必要があるのだ?」
「こんな薄汚い厨房の水など、どんなバクテリアが沸いているか分からん。俺は衛生面には人一倍気を遣うのだ」
「そんなに汚いかな。鼻糞をほじった後に手を濯ぐ程度の使い方しかしてないから、キレイなはずだぞ」
「オーケー。しっかり念入りに煮沸しろ。菌が芽胞まで完全に死滅するまで徹底的に、だ」
煮沸して冷ました水を計量しながら容器に入れる。そして調味料担当からもらってきた塩をサッと入れてサリーにかき混ぜさせる。象牙色のトロッとした緩い生地をサリーは目を輝かせてすくい上げた。
「これは、何かの生地か?」
「そうだ。それにさっきお前が刻んだキャベツと干し小エビを入れてざっくり混ぜる。おい、フライパンか鉄板はあるか?」
「鉄板ならあるぞ」
竈の隅に挟まった六十センチ四方はある鉄板を、サリーは軽々と持ち上げて竈にくべた。鉄板の厚さは二センチほどある。俺は試しに手で端を持ち上げてみようとしたが、あまりの重量にビクともしない。そういえばあの冷凍庫を軽々とぶん投げていたが、この女どんだけ馬鹿力なのだ。
「それで、鉄板でコレを焼くのだな?」
「あ、あぁ。適量を鉄板に流し込んで両面をしっかり焼けば完成だ。これを俺らの国では『お好み焼き』と言い、一般庶民が好んで食すポピュラーなB級グルメだ」
高級レストランばかり食べ歩いたセレブな俺様だが、調理人として市井の料理も手広く網羅している。もっとも没落してからは、B級グルメとやらにかなりお世話になったが。
「ほぉ。聴いたこともない料理だ。おのこみ焼きとは、また可愛らしい名前だな」
「お好み焼き、な。さて、そろそろ鉄板が温まってきた頃か。お好み焼きを焼きに……いや、その前にソースに取り掛かろう。サリー、泡立て器と浅く広い容器を持ってこい」
俺の指示に軽快な返事をすると、飛ぶように用具置き場へ向かうサリー。徐々に料理が仕上がっていく様子が楽しいのか、サリーは少女のように目を爛々と輝かせている。
無邪気なものだと鼻で笑うが、内心俺もテンポ良く調理が進んでいくことにワクワクしていた。いつも自分一人で料理を作るときには、あまりの不器用さに食材を滅茶苦茶にして辟易とするばかりだったのに……。
そんなことを考えていると、道具を抱えたサリーが小走りに戻ってきた。
「ワタル、泡立て器というがこれで間に合いそうか?」
俺の前に差し出したのは、幾重にも枝分かれした木を寄せ集めた棒。茶道具の茶筅を大きくしたような物だったが、これがこの時代の泡立て器なのか。まぁ、別段支障はなさそうだ。
「よし。それでは容器に殻を割った卵と酢、それと塩を入れて良いというまでかき混ぜろ。いいか、絶対に余分にかき混ぜるなよ」
こくりと頷いたサリーは材料を浅くて広い容器に合わせると慎重に、だが手早く泡立て器で混ぜ始めた。ツンと鼻を突く酢の香りと滑らかな卵黄が絡まり、次第に濃い乳白色へと変わっていく。
「よし、一旦止め」
容器の中に指を突っ込み、塩加減を確かめる。やや塩味が足りないため三グラムほどパパッと入れた。
「さて、ここからが難しいところだ。この中に少量ずつオリーブオイルを注ぎながら、尚且つ手早くかき混ぜる。するとトロリと半固形状の白いドレッシングが誕生する。いいか、馬鹿女。油を少しずつ、細い糸を垂らすように入れながらよくかき混ぜるんだ」
左手にオリーブオイルが入った壺、右手は泡立て器を握りながらサリーは無言で頷いた。
「よし、油を入れろ」
俺の合図にあわせてサリーは両手に神経を集中させ、指示通りの動作を行う。
左手がオリーブオイルの壺で封じられているからか、泡立て器でかき混ぜる度に容器が揺れる。俺は両手を容器で押さえた。
口だけ出して手は貸さないつもりだったが、真面目な表情のサリーを見ていると、つい自然に手が伸びてしまった。
「よし、そのままそのまま。攪拌の速度をもう少し上げてもいいぞ」
「……角さんって、誰?」
「攪拌。かき混ぜるって意味だ」
油と混ざり合い徐々に乳化していく。糸のようにスゥと落ちていた油が細かい雫となって尽きた。
「よし。最後に角が立つまでかき混ぜろ」
俺の合図でサリーの右手が解き放たれた獣みたく高速回転を始める。するとあっという間にドレッシングはプルンと艶を帯びて完成した。泡立て器についたその絹をプリン状にしたようなドレッシングをサリーは指に絡めると、口に含む。
「う、美味い! ミルクを入れたわけでもないのに、なんて滑らかでクリーミーな味わい! 酸味と塩味も絶妙だ! これは一体、何という名前のドレッシングだ? いや、そもそもドレッシングなのか?」

「まぁ、分類的にはドレッシングだろうな。単なるマヨネーズだよ。そんなに興奮するほどでもあるまい」
顔を上げるとちょうどサリーの眩しい笑顔にぶつかった。マヨネーズを攪拌するのに夢中になっていて気付かなかったが、かなり密着していたみたいだ。
端正な顔立ちに反して無邪気過ぎるサリーの笑顔に、俺はドクンと胸が高鳴った。今までの人生で他人を、ましてや女を意識することなかった。
若い時分、思春期に入る前は親父とグルメ三昧。最近ではメイという同棲相手もいたが、日々の生活に悪戦苦闘で余計な事を考える余裕など有りもしなかった。
だからこんな、こそばゆい感触は初めてだった。
頬を赤らめて顔を背ける俺に気にするでもなく、サリーはマヨネーズをペロペロと舐めている。
「おい。あまり一人でマヨネーズを食べるな」
照れ隠しのため注意を促すが、サリーの摘み食いをする指は止まることを知らない様子だ。
「だってこんなに美味いドレッシングを食べるのは初めてだもの。たったあれだけの材料を技術だけでここまで変えるとは。まさに東邦の便秘だな」
「神秘だろ。勝手に糞詰まりにするな。それにマヨネーズの何が珍しいのだ。こんなもの、ポピュラー過ぎるドレッシングじゃないか」
「いや、ポピュラーどころか初めてお目にかかる代物だが。ワタルのいた国ではポピュラーなのか?」
一つ気掛かりな疑問が浮かんだ。それは分厚い歯車に小さな小石が絡んだような、ささやかだがハッキリとした違和感。
もしかして、この時代にはまだマヨネーズが誕生していなかったのか?
「なぁ、ワタル。次は何をしたらいいのだ? 早く指示をもらえないと私はマヨネーズを食べ尽くしてしまいそうだ」
「あ、あぁ。ではそろそろお好み焼きに取り掛かるとしよう」
自分の指をペロペロ舐めながら尋ねるサリーに、俺の懸念はかき消される。まぁ、気にする程でもないか。マヨネーズなんて、卵と酢と油を攪拌させれば誰でも作れる(でも俺が作ると必ず分離するのは何故?)。どこかの誰かが偶然にでも思いつくような代物だろう。大袈裟に考えるまでもない。
まさか未来からきた俺が伝授した料理が、オーパーツになるなんて考え過ぎだ。

サリーにお好み焼きの焼き方を伝える。すると馬鹿女はすぐさまコツを掴むと、ヒョイヒョイお好み焼きを生産し始めた。
フライ返しも使わず大きなナイフ一本で、鉄板の上のお好み焼きをひっくり返すサリーの器用さを羨ましく感じつつも、その場は任せて俺は再び厨房内の詮索に走った。
お好み焼きにマヨネーズは良いとして、どうしても後一つ足りないものがある。
オタフクソースまでとは言わないが、それに近い味のソースは必要だ。俺のレシピ本に当然ながらオタフクソースの作り方はしっかり載っているが、この時代の材料では不足しているものが多すぎるし、何より似通った物や代替品を用いても製造に時間が掛かりすぎる。
あの脳みそポンコツ最強フードプロセッサーのサリーでも、時間ばかりは短縮できないだろう。
だから俺はお好み焼きに合う、替わりのソースを探しに行く。仕込み中ではあるが、ソース位は余分にストックしてあるだろう。
とは言っても、俺は再び厨房内を隈無く見渡しながら手をこまねいていた。この時代のソースは無駄に香辛料頼みで、現代のようなフォンド・ボーやブイヨンを下地にしたソースが全く見当たらない。厨房内にあるすべての鍋を開けて確かめたわけでないが、確実にない。匂いで分かる。
西洋料理の歴史にまで詳しくないが、もしかすると俺が知っているソースというものは、かなり現代に近付いてから開発されたのかもしれない。
そんなことを考えつつも諦めきれるわけもない俺は、厨房の細部にまで目を走らせながらお好み焼きに少しでも合うソースを探していた。

すると厨房内の一際開けたテーブルを囲んで、マエストロと数人の調理人が額を突き合わせて何か相談をしていた。テーブルの上には様々な大きさの鍋が置いてある。
「おい、マエストロ。仕事もせずに取り巻きの部下とサボリか。結構な御身分だな」
イヤミを飛ばす俺に対して、マエストロは顔を上げ眉間を擦ると、少し苦笑いを洩らした。
「もっとも過ぎるご意見だが、部下を携えてサボるのも俺の仕事でね。まぁ役得という奴だよ」
「何か相談事か?」
見ればマエストロを囲んだ調理人達も、渋い表情で溜め息を吐いている。俺はまさに会議中といったテーブルに歩み寄ると、大小ある鍋の中を覗き込んだ。
「新作料理の開発か?」
見れば鍋の中には野菜を煮たものに魚や果物など、様々な煮込み料理が並べられている。
「ご明察だよ、錬金術師殿。最近のドフィネ公は既存の料理に飽いているきらいがあってな、新たな調理法を開発しているのだよ。それに西棟の裏参謀、イエールの新料理にドフィネ公が注目しているのも気に入らん。料理長選抜の大きな足掛かりにもなるので、おざなりには出来んのだ」
言葉の割にマエストロの表情は明るくない。どうやら新料理の開発が上手く進んでいないようだ。
鍋の中には野菜を姿のままぶち込んで茹でたものや、魚を多種多様なスパイスで炒め煮にしたもの、果物をグチャグチャにして洋酒で煮込んだもの、豚の頭をそのまま丸茹でしたものまであった。
中には確実に異臭を放っている鍋もあり、俺は顔をしかめながらもそれぞれの鍋に指を突っ込んで味を確かめる。そんな俺の行動を咎めるでもなく、マエストロは腕を組んで愚痴をこぼしていた。
「正直言うと私はな、食材をただ丸焼きしてスパイスを絡めるだけの今ある調理法に限界を感じているのだよ。味付けも結局は香辛料頼みで、どれだけ珍しいスパイスを施しているかで料理の価値が決まる現在の風習は、いずれ料理界そのものの衰退に繋がると懸念せずにはいられん。そこで新たに煮込みという境地を開拓せんと一念発起しているのだが、ご覧の有り様よ。ただ煮るだけでは味も見た目も貧相で思うように上手くいかない」
相当参っているのかマエストロは懇々と弱音を吐くが、俺にしてみれば知ったことではない。もとより調理人とは芸術家であり探求家だ。悩みに悩み抜いた結果に究極の一皿が生まれるのである。
俺は適当な相槌を打ちながら、一通り舐めた目の前の鍋達の味を頭の中で組み立てる。これは思いも寄らない収穫があったもんだ。
「なぁ、マエストロ。ここにある鍋の中身は勝手に使ってもいいか?」
話の腰を折られてムッとするマエストロだが、俺の言葉を飲み込むと不思議な顔をした。
「あ、あぁ。どのみちこれらは試作品なので客前に出せないものばかりだ。好きに使って構わんが、一体何をする気だ?」
マエストロの了承を得ると、俺は近くにある空いた鍋に、野菜や豚の頭の煮汁を混ぜる。
「何って、ソースを作るのさ」
俺の言葉にその場にいた一同が目を丸くする。そして次には呆れにも似た嘲笑で俺を指差した。
「いいか、東邦人よ。ソースというのはきちんと法則通りに配合したスパイスから出来上がるんだ。こんな煮汁なんか混ぜ合わせてもスープにしかならないよ」
「それとも東邦ではスープをソースと発音するのかな?」
よく見れば取り巻きの中に、さっきマルコ爺さんからスパイスを挽いた乳鉢を受け取ったソース担当の男もいた。きっとこいつらの中では、ソースとはそういう既成概念の範疇でしかないのだろう。
「そうだろう。ソースとは香辛料から作られるものだろう。お前等の中ではな」
珍しく俺の中に、いつものハッタリではなく確固とした自信がみなぎっていた。
「だったら貴様等のソースという既成概念を、全く新しいものに書き換えてやる。もちろん貴様等が馴染みのソースなんかよりも数倍美味いもので、だ。楽しみにしているんだな」
絶え間なく大きく入り組んだ歯車に、またもや小石が挟まったような感触を覚えた。

更新日 8月17日

賄い用の竈に戻るとサリーの周りには僅かな人垣が出来ていた。その間から香ばしく焼けたお好み焼きがポォンと宙を舞うのが見えた。あの馬鹿女、調子づいてまた曲芸を披露しているのか。
「食べ物で遊ぶな、馬鹿女。調理中の食べ物を投げていいのはピザ職人だけと決まっているのだ」
「ハハハ、すまない。こうもギャラクシーから囲まれては私の血が何かせねばと騒ぐ」
「ギャラリーだろ。何で銀河系に囲まれているんだよ、スケールデカすぎ。おい、竈の火を強めろ。それと鉄板の端を使わせろ」
俺は手に持った鍋を鉄板に置くと、サリーは素直に竈へ薪をくべながら、鍋の中をしげしげと見つめる。
「スープでも作る気か?」
もう一つの鍋を持ってもらったマエストロの部下から受け取り、俺は次に小麦粉とバターを用意する。
「違う。もう一つソースを作るのだ。おい、馬鹿女。空いている鍋にバターと小麦粉を入れて軽く色が付くまで炒めろ」
「ソース? それならさっきのマリナーズがあるじゃないか。何か不服か?」
「マヨネーズだろ。なんで球団が出てくるんだよ、そっちの方が不服だ。何ということはない。お好み焼きをさらに美味しくするためだ。四の五の言わず命令に従え」
気のない顔をしつつも、俊敏に俺の指示を実行に移すサリー。そんな俺らのやり取りをマエストロは目を丸くして眺めていた。
「ワタルよ。東邦の錬金術師という奴は料理も出来るのか?」
「だから錬金術師とは喩えだと言っただろう。俺は元々、調理人だ」
「だとしても、スープをソースに変えようというのか? それこそまるで錬金術ではないか」
なおも信じられないとばかりに首を傾げるマエストロはほっといて、俺は徐々に熱が伝わりバターが緩く溶けてきた鍋に意識を集中させる。そこまで疑うのならば実物を見せてやればいいだけのこと。
「さらにその舌で味わって飛び上がりやがれ」
俺は独り言を呟きながら、サリーへ小麦粉の投入を伝えた。
底面を焦がさないように手早くバターが絡んだ小麦粉を炒めると、鼻をくすぐる香りと共にほんのりと色付く。そこに温まった野菜の煮汁と豚の頭部を煮出した汁を交互に少量ずつ混ぜ入れる。
「本来ならここで水量が半分以上になるまで煮詰めるがな、時間がないので軽く沸かせるまでにする。サリー、小麦粉がダマにならないように気を付けろよ」
「アイアイサー」
小麦粉をツナギにしたスープはやがてとろみを帯び、かき混ぜる度にふんわりと尾を引く。周りで見守っていたマエストロや調理人達は驚いた様子で鍋に見入っていた。
「そして次にこの洋酒で煮詰めた果物を入れる。これのおかげで洋酒を煮詰める手間が省けたし、多種多様な果物が複雑な甘さを引き立ててくれる」
煮詰めた果物を鍋で合わせると、途端に何ともいえない濃厚な香りが辺りに漂った。鼻をひくひくさせて目を閉じながら喜悦に浸っている調理人達。その様子が、俺の調合と料理センスが間違っていなかったことを、如実に物語っている。
俺は嬉しさのあまり舞い上がりそうな体を懸命になだめ、あくまでも冷静に振る舞うべく腕をグッと組んだ。
「最後に少量のスパイスと塩で味を整えれば、完成だ。どうだマエストロ、味を確かめてみろ」
かき混ぜ用に使っていた木の棒を差し出すと、マエストロは恐る恐る指の先にソースを付けて口に運ぶ。
軽く口をクチャクチャさせたマエストロは、途端に目をカッと見開いて自分の指と鍋の中身を交互に見た。
猛禽類を警戒する小鳥のように素早く何度も首をカクカクさせるマエストロは、今度は鍋に直接指を突っ込んでもう一度味を確かめる。そして顔を真っ赤にさせて唇をプルプルと振るわせると、絞り出すような声で叫んだ。
「な、何なんだこのソースは! 今まで味わった事のない美味さだ!」
その一言を、皮切りに生唾を飲み込んでことの次第を見つめていた調理人達も、次々に鍋の中に指を突っ込んではソースを味わう。そして皆一様に瞳を輝かせて絶賛した。
しばらくの間、賄い用の竈の周りは大混乱になり、自分の指が溶けてしまうのではないかというほどに舐めた指を鍋に突っ込んで、味見を繰り返す人だかりでごった返した。俺とサリーは賄いを食べる前にソースが無くなってしまうのではないかと心配して、混雑する人波を必死に押し返した。
「おい! いい加減にしろ! さっさと仕事に戻れ! 後でゆっくりと味わさせてやるから! おい、そこの髭野郎! 鍋に指を突っ込むな! 行儀が悪いぞ!」
「戻るのだ、みんな! まだ竈に火がついているから押したら危ないではないか! おい、やめろ! 大概にせんと我が愛刀の錆になるぞ!」
終いには本当にサリーがナイフを振り回し始めた。阿鼻叫喚状態になりつつも東棟の厨房『陽日の胃袋』は、少々早めの食事休憩に入るべく準備を急いだ。


目次
13:37  |  ル・ヴィアンディエ  |  CM(0)  |  EDIT   このページの上へ

2012'08.04 (Sat)

傲慢に書き綴ったル・ヴィアンディエ 第四章

考えられるとすれば、もっとも怪しいのはあの業務用冷凍庫だ。
だいぶ酒が入っていたが、それでも記憶は定かでハッキリとしている。俺はあの晩に凍死自殺を図ろうとマイナス百度以下もある冷凍庫に入り扉を閉めた。
そして目覚めるといつの間にか中世フランスの崖谷にいた。つまり冷凍庫ごと時間と場所を移動したらしい。
まったく非現実的な話だが、そもそも電源も持たず稼働している冷凍庫自体が非現実的の始まりである。しかもマイナス百度以下というのも異常過ぎる。足を入れた瞬間、皮膚から血液まで凍るような不気味な感覚を味わったのも納得がいく。
そんな非現実的な冷凍庫ならば、多少はタイムスリップ機能がついていても不思議ではない。
……いやいや、有り得ない。多少は、って何だよ。ついでみたいな感覚でタイムスリップをされても困るから。電子マネーのポイント感覚で時間旅行されても困るから。
とりあえず、俺はもう一度あの冷凍庫があった山岳に行かなくてはならない。行って冷凍庫に入ったからといって平成時代の日本に帰れる保証はないが、とにかくどうにかしなくてはと、本能レベルで俺の行動ベクトルは決定した。
馬の駆ける速度はどのくらいか知らないが、あの速さと時間を考えればここからだと相当な距離があるはずだ。とても徒歩で行ける距離ではないし、見知らぬ時代の不案内な土地となれば一人では絶対に危ない。
まったく、自家用車や電車など交通機関が発達していない時代のなんと不便な事かと呆れるが、それがまた自分が本当にタイムスリップをしてしまったという事実を確固たるものにしてしまい落ち込んだ。

「なぁ、マエストロ。一つ頼みがあるのだが、俺とお前が最初に出会ったあの山へ送り届けてくれないか? お前が無理なら馬を貸してくれてもいいし。運転手付きで」
「運転手付きって。あのな、俺だって屋敷に雇われの身。自由にほいほい外出できるわけがない。馬だってドフィネ公より特別な許可を得て拝借しているのだ。簡単に貸し出しは出来ん」
けんもほろろに断ったマエストロに、俺は尚も食い下がる。
「そこをどうにか頼む。俺は何としてでも冷凍庫へ戻らなければいけないのだ。命の恩人の頼みだぞ? ちょっとばかりは譲歩してくれてもいいじゃないか」
「その件ならお前をこの屋敷に置いてやっている時点で等価交換だよ、錬金術師。それにドフィネ公の前であれほどの狼藉を働いて、お咎めなしなだけ有り難く思え。本来なら身元も分からん貴様など、その場で死罪になってもおかしくなかったのだぞ」
身のすくむような話をマエストロは淡々と語る。俺は青ざめた顔のまま、それ以上は何も言えずにマエストロを前に執務室の椅子でふさぎ込んだ。
俺の気分が落ち着いたのを見計らうと、マエストロは厨房に戻る旨を伝えた。お前はどうすると尋ねられたので、ここにいても仕方なく俺も一緒に厨房に行くことにした。
半人前ではあるが、これでも俺だって調理人の端くれ。時代も土地も異なる場所だろうが、厨房という空間に身を寄せていた方が幾分は気が楽になる。それに中世ヨーロッパの調理事情というのにも、僅かながら興味がある。タイムスリップという非現実的な境遇に巻き込まれても、常に研鑽と好奇心を失わない俺。雰囲気イケメン過ぎるぜ。

「ところでマエストロ。さっきこの屋敷にはもう一つ、西棟にも厨房があると言っていたな。何でまた、厨房が二つも必要になる?」
マエストロの分厚い背中を追いながら、厨房に続く薄暗い道を進む。どうやら使用人専用の通用路らしいが、先ほど馬屋から通ってきた真っ暗な道に比べ、小さな小窓から光が入る分いささかマシな廊下である。
「俺が率いる東棟の厨房『陽日の胃袋』に対して、西棟の厨房を『月光の胃袋』と呼ぶ。この屋敷は各地から貴族や要人が連日連夜訪れるのでな、調理場が一つでは間に合わんのだ。例えば、東棟が今晩の正餐会を担当するとなれば明日は西棟が担当する。その間に空いている厨房は翌日の仕込みを行える、という算段さ。ドフィネ公は人望が厚く顔が広い分、急な来客も多い。だからいつ何時、来客があろうとも食事の準備を滞らせず、尚且つ質も落とさずにいられるこのシステムは、王国中を見渡しても当屋敷と王室のみである」
俺はマエストロの話を聞いて思わず感心する。この当時の社会情勢がいかほどか分からないが、これだけ大きな屋敷を維持していられるということは、あのドフィネ公とやらは相当莫大な富を有した貴族なのだろう。現代に置き換えれば、もしかすると全盛期の亀岡家を凌ぐ財を築いているのかも知れない。
そんな屋敷の厨房の片方を束ねあげるマエストロの手腕は言わずもがな、かなりのものだろう。前を歩く贅肉が満ち満ちとついた背中が、さらに一回り大きく見えた。
俺がいた時代のマエストロもなかなかの実力者だと認めていたが、ひょっとしたらこのギョーム・ティレルの子孫か生まれ変わりなのかも知れない。
「では西棟の厨房はまた別の人間が仕切っているのか。もし良ければ後学のために紹介してもらえないか?」
単なる興味本位で言ったのだが、マエストロは一瞬沈黙すると低い声で「お勧めはせんな」と呟いた。
「基本的に調理場の造りは東棟と変わらんし、それに技術やセンスの点では頭一つ分、我が陽日の胃袋が優れている。これは自意識過剰ではなく、実際にドフィネ公から要人や位の高い貴族ほど、我々に任せられる機会が多いので間違いない」
「つまりは副料理長の指導力が頭一つ分、ということか?」
「ふふっ。あまり自分で言うのは好きじゃないがな。だから我々東棟と西棟は常に敵対心をたぎらせているのだ。特に向こうの副料理長、デラーズはな」
相手の名前を目一杯に嫌みを含んで呼ぶマエストロ。それだけでは飽き足らず、語尾に小さく舌打ちをつける。
「でも互いに意識し合う相手がいるのは良いことだぞ。プロフェッショナルは切磋琢磨しなくなったら腕を鈍らせるだけだからな」
「そんな清々しい関係ならば苦労はせんがな。現状はそれほど甘くはないぞ。現在、当屋敷には陽日と月光を統べる料理長の席が不在だが、ドフィネ公が近々、正式な料理長の座を設けようとお考えである。それで昨今、東棟と西棟の敵対心はさらに増し、私より評価の低いデラーズは躍起になっているわけだ。初めはお互いを目の敵に牽制する程度だったが、争いは日に日にエスカレートしていてな。最近では、露骨過ぎるほどの妨害工作を企てる輩まで出没する始末だ。証拠はないので憶測のうちに留めておきたいが、俺が賊に襲われたのもその一端だったりする」
俺はゴクリと喉を鳴らす。
「西棟の連中がやったというのか?」
「だから証拠はない。故に俺も知らないふりをする。だが昨今、そんな状況がさらに熾烈を極める要因が現れたのだ。西棟の厨房がジノ・イエールという裏参謀を雇いだした」
「裏参謀?」
「あぁ。表舞台には全く顔を出さないためにそう言われている。その者、狡猾な策略に長けていて、西棟の調理人から絶大な支持を得ていると聞く。副料理長のデラーズよりも実権を握っているとの噂もあるほどだ。さらに厄介なことに、イエールとやらは調理の知識にも精通しているという」
 苦虫を噛み潰したような顔で、マエストロはそう言った。平然さを装っているが、言葉の端々からはかすかな焦りを感じる。
「しかもイエールが考え出した料理に、最近ではドフィネ公が大層執心しているという。この地方では考え付かないような、斬新で刺激的な料理だったとドフィネ公は仰っていた」
しかしマエストロは肩を竦めると、わざとらしく大袈裟な笑顔を取り繕って厨房に続く扉へ手をかけた。
「だがな、俺だって調理人の端くれ。料理に関することで、そんな新参者のイエールに負けたくはない。それはここの調理人達とて同じこと。我が東棟の連中は腕前が確かで向上心に富んだ奴らばかりだ。ちょうど今は明日の正餐のために仕込みの最中。自由に見て回ってもらって構わない。見聞の参考にしてくれ、東邦の錬金術師殿よ」
マエストロが扉の取っ手を引くと、聞き慣れた喧騒が洩れてきた。
出来ることなら、いち早く冷凍庫のあるあの山道へ赴きたいが、今はマエストロの近くにいながら手立てを考えるしかなさそうだ。

無数の人間が熱したオーブンや小高く積まれた食材の間を行き交う。マエストロの話では五十人以上の調理人がここ『陽日の胃袋』に雇われていると聞いたが、罵声と喧騒がひしめき合う黒い群れを眺めていると、それ以上の人間が居そうに見える。
やはりここが自分の戦場か、マエストロは厨房の空気を吸った瞬間、眼の色を変えると指示を出すため人だかりの中へ紛れていった。
俺はフンと鼻を鳴らし気持ちを切り替えると、厨房内の詮索に取りかかる。幸いに調理人共は皆一様に忙しいらしく、異国の肌と瞳を持つ俺が側に来ても気にしている余裕がないようで、じっくり観察していても邪魔にはならない。
当然ながら調理器具は現代に比べるとかなり原始的で、ガスコンロの代わりに薪をくべた造りのストーブに、鍋は陶器製が一般的で、鉄製の物はごく一部の使用に限られているようだ。
子豚を一頭丸々串刺しにして、スパイスが大量に摺り下ろされたソースを掛けながら側面焼きにしている。
肉に万遍なく火が通るよう汗を流しながら串を回転させる調理人。原始的ながらもダイナミックな調理法は中世独特か。そして滴り落ちる子豚の脂とソースを下に置いた受け皿に溜まり、ある程度溜まるとその旨味とスパイスが凝縮されたソースを再び焼いた子豚へ掛けていき、その繰り返し。これはなかなか美味しそうだ。
俺はあぶり焼きされた子豚へソースをまぶす作業をしている調理人の後ろから手を伸ばすと、ソースに指を絡め口に運ぶ。すると舌と脳天に電流が走ったような感覚に、思わず目を閉じた。
「ちょっと、何を勝手に味見しているんですか」
「うるさい。それよりもなんだ、このスパイスが効き過ぎたソースは。一体何種類のスパイスを配合している?」
「知りませんよ、そんなの。あっちのスパイス担当に聞いて下さい」
初めに自己紹介をされたロースト担当のホーキンズは煩わしげに向こうを指差す。そこには小さな引き出しが沢山ある戸棚を背にしている老人がいた。
俺は白髪交じりの髭が汚らしく伸びた老人に近付く。すると強烈なスパイスの香りが鼻孔をついた。
老人の周りには乾燥された多種多様なスパイスだけでなく、まだ青々としたハーブも山のように積まれていた。老人はそれらを一つ二つ摘むと、目の前にある大きな乳鉢に入れてゴリゴリとすり潰す。
「おい、爺さん。あの子豚に掛けたソースには何のスパイスが入っているのだ?」
「……」
「おい、ジジイ。あれには何が入っているのか聞いているんだよ。答えろ」
「……」
俺の声が耳に届いていないのか、老人はひたすら乳鉢の中にあるスパイスをすり潰していた。
「なんだコイツ、もうろくか。ボケてやがる」
諦めて振り向こうとした矢先に、老人はカッと目を見開くと、狂ったようにその辺にあるハーブやスパイスを千切っては乳鉢へぶち込んだ。
「クミン! シナモン! バジル! オレガノ! ケッパー! 黒胡椒! 生姜! ターメリック! チリペッパー! パセリ! タイム! セージ! コリアンダー! ダー! ダー!」
俺はあまりの恐怖に二、三歩後ずさる。老人はなおも狂乱しながら、凄まじい速さで乳鉢の中身を挽き潰した。ガリガリの両腕が折れるのではないかと思うほど、激しく擦り棒を振り回す。キチガイじみた老人がいるというのに、周りの調理人は気にかける素振りもなく自分の作業に没頭していた。
いい加減止めた方がいいのかと迷っていたその時、老人の動きが急にピタッと止まった。脳みその血管でも切れたかと心配していると、老人は擦り上がった乳鉢の中に指を突っ込み、口に運ぶ。きっと歯が入ってないであろう口をモゴモゴさせ、ゆっくりと、だが力強く頷いた。
「失敗しちゃった」
思わずズッコケた。
何なんだ、この爺さんは。あれだけオーバーリアクションをかまして、いかにも堅物の職人っぽい雰囲気を醸し出しておいて失敗かよ。
材料を無駄にしてしまった反省か、肩を落としてしょぼくれる老人。こっちの方が期待外れでガッカリだよ。
すると、一人の調理人が老人のそばに来るとスパイスの調合について何点か尋ねる。耳が遠いためか顔を近づけて大声を張り上げる調理人に対して、老人はしょんぼり、失敗しちゃったと呟くだけ。
こりゃあ、いよいよ駄目かと思っていると、調理人は納得したように頷き、乳鉢ごと持って行ってしまった。
度肝を抜かれた俺はその男に駆け寄る。
「おい、さっきの爺さんは失敗だと言っていたぞ。持っていっていいのか?」
俺も半人前だが調理人の端くれ。失敗作を客前に出すのは他人の厨房といえども、ぞっとしない。だが乳鉢を抱えた男は楽観的な笑みを浮かべて言った。
「あぁ、マルコ爺さんの調合は常に完璧だけどな。長年スパイスの味見をしてきたせいで味覚がおかしくなっているんだ。だから爺さんが失敗だと言うなら、常人の舌では成功なのさ。逆にマルコ爺さんが成功と言ったら、常人の舌ではとても味わえないらしい」
「はぁ、そういうものなのか?」
「そういうものだ。なぁにマルコ爺さん、舌はぶっ壊れているが腕はピカイチだ。問題ないよ」
そう言うと男は鼻歌交じりに厨房の人垣の中へ消えていった。さすがは十四世紀、得体の知れない人間がいてもおかしくはないか。
俺はガックリとうなだれるマルコ爺さんを横目に通り過ぎると、壁際に何をするでもなくニコニコ微笑みながら突っ立っている男を発見した。
「名前は確かダンディーヌ、だったか。お前、担当はなんだっけ?」
「左から来た何かを右に受け流す仕事さ!」
「ここで何をしているんだ?」
「左から何かが来るのを待っているのさ!」
「……それはどんな時にこの厨房で発揮されるのだ?」
「左から何かが来た時さ!」
「……それって、必要か?」
「結構みんなに重宝されているよ!」
「……左から来る何か、ってなんだよ?」
「何かはサムシングさ!」
「……右に受け流したサムシングはどうなるんだ?」
「そこは僕の管轄外! 予想の範疇を超えるさ!」
「……お前さ、親戚にカツヤマって髭を生やした奴がいないか?」
「いないよ! なんでだい!」
……さすがは十四世紀、得体の知れない人間がいてもおかしくはないか。

厨房の奥に進んでいくにつれ段々と明かりは薄暗くなり、鼻を突く香りも生々しくなる。まだ生肉の状態の豚を加工している調理人もいれば、延々と野菜を刻んでいる調理人もいる。
よく見ればどの人間もまだ十代前半くらいと若い。どうやらここが厨房内に存在するヒエラルキーの最下層なようだ。
その中に器用にも大きなキャベツをお手玉のようにポンポン投げている女がいた。あの美人だが口が悪い女、サリーだ。
正直、女という生き物が苦手な俺は思わず身構えてしまった。するとサリーは俺に気付き、お手玉を止めて軽く微笑む。
「やぁ、東邦人のカメノコ、カメ……。スットコドッコイ、見学か?」
「誰がスットコドッコイだ。俺は亀岡だ」
「あぁ、それそれ。すまない、うら覚えだったのでな」
「うろ覚え、だろ。お前、随分と日本語を知っているな。うろ覚えなんて、フランス人が使うか?」
 ここが中世ヨーロッパだというなら、一つ重要な疑問がある。俺はこの世界に来てからずっと、日本語でしか会話をしていないはずだ。それなのに、さっきから全員と普通に会話が出来るのは何故?
サリーだって、日本語が得意なフランス人女優を連れてきたくらいにしか思わなかった。
「私はな、東邦の言葉に興味があるので、行商人や吟遊詩人に会うと教えてもらうのだ。だから、うる覚えなんていう珍しい言葉だって知っているんだぞ」
「なるほどな。でもせっかく教えてもらった言葉なら、正しく覚えろよ。うろ覚えな」
 想像するに、これもあの冷凍庫でタイムスリップをした特典みたいなものか? その移動した時代の言語を自動的にマスターさせる、みたいな。いかにも日本人が好みそうな過剰親切機能で、ご苦労なこった。
「細かい奴め。う、らりるれろ覚えでも何で良いではないか」
「数打ちゃ当たると思っただろうが、一発当たっても四発外しているから。結局マイナス三点だから。お前はここで何の仕事をしている。キャベツで曲芸の練習か?」
どうにも話が噛み合わないサリーに疲れながら話題を進める。サリーはキャベツを手元に置いた。
「私の仕事は野菜の下処理担当だ。さっきは言わば、ワームアップみたいなものだな」
「ウォームアップだろ。虫が這い上がってきているじゃないか。野菜の下処理が仕事ならば、遊んでないでさっさとやれ」
するとサリーは不敵に笑い、腰に巻いたベルトから小さなペティナイフを抜き取る。曇りが一点もない、よく研がれたナイフだった。
「私が本気を出せば凡人の三倍の速さで仕込みが終わるからな。遊んでいるくらいで丁度良いのだ」
そしてまな板の上にキャベツをセットすると、サリーの顔からは笑みがスゥと消えた。その瞬間、空気が張り詰める。
先ほどお手玉遊びしていたキャベツにペティナイフを差し込むと、器用に芯だけをくり抜いた。そしてペティナイフを宙に投げると、さらに腰から大きな牛刀を取り出した。
ペティナイフが空中落下でまな板に突き刺さるのを合図に、研ぎ澄まされた牛刀の刀身が閃いた。サリーの腕が残像で霞むほどの神速で次々にキャベツを刻んでいく。三玉のキャベツはみるみるうちに千切りへと変貌し、籠にこんもりと積まれた。
俺はあまりの神業に拍手を送る。自身、包丁を全く握れない俺としては羨ましい限りのテクニックだ。
「まだまだこんなものじゃないぞ。私の包丁捌きの真骨頂はこれからだ」
そう言うや否や、サリーは野菜置き場から大柄なカボチャを取り出すと、牛刀で天面を一刀両断して放り投げた。
そしていつの間にか両手にペティナイフと中型のナイフを携えたサリーが、落下してくるカボチャに向けてナイフを振るった。
無数の鋭い風がカボチャに襲い掛かったと思った瞬間、もう一度ポォンとカボチャが宙に舞う。サリーの両手が視界では捕らえきれない速度でカボチャの周りを駆け巡り、コンと柔らかい音と共にカボチャはまな板の上に落ちた。
驚いた事にカボチャは花瓶型に加工され、表面には細かいゴシック調の細工まで施されていた。
サリーの人間離れした芸当に、俺は興奮して惜しみない拍手を送った。サリーはさも自慢げにツンと高い鼻をますます高くする。
「やるじゃないか、女! 単なる馬鹿だと思ったら凄まじいポテンシャルを秘めていたとはな!」
「驚いたか、東邦人よ。そう、私は凄まじいポ、ポテ……ポテトマッシャーを秘めているのだ」
「ポテンシャルだよ、阿呆!」
「フハハ! 私の手にかかればチョチョイのチョイよ! どんな食材でも我が愛刀の錆びにしてくれよう! もっとも毎日研いでいるから錆びないがな! フハハ! 痛っ!」
いつの間にいたのか、高笑いするサリーの後ろからマエストロが頭に拳骨を喰らわせる。ビックリして振り返った俺とサリーに、マエストロは真っ赤な顔で睨み付けた。
「い、痛いじゃないか。タイユヴァン」
「またやらかしたな、サリー! いつになったら食材の見分けがつくのだ!」
急で事態が掴めない俺はサリーとマエストロを交互に見つめる。さっきまで上機嫌だったサリーはイタズラを見つけられた子犬のように肩をすくめていた。

更新日 8月9日

「俺はお前にほうれん草を千切りしろと言ったよな! これは何ですか!」
「……それはほうれん草です」
「いいえ、キャベツです!」
「だって、どっちも緑色だから見分けがつかないじゃないか。それにほうれん草もキャベツも葉っぱだし」
「全然違うわ!」
「わ、若気の極みで」
「至り、だから! ……ったくよ。いつになったら仕事内容を的確に把握してくれるんだ、サリー? 食材は間違える。切り方は間違える。言葉遣いは間違える。そんなんじゃあ、いつまで経っても次の段階の仕事を任せられんよ」
グッと唇を噛みながらも、サリーはマエストロを真っ直ぐ見据えて言い返した。
「そ、それはその都度に覚えればいいじゃないか。私はここにいる誰より調理技術に長けていると自負している。包丁捌きも、魚や肉のおろし方も、オーブンの使い方も。誰よりも上手くやれる自信があるのだ。そんなにイヤか? 女の私に高い地位を与えるのは」
「いくら技術が秀でていても、頭が悪かったら使い物にならないんだよ。いつになっても言い付け通りに仕事が出来ないんじゃ、周りに迷惑だ」
ばっさりと切り捨てると、マエストロは山のように積まれたキャベツを見つめ、食材を無駄にしやがって、と溜め息を吐いた。そしてカボチャだけは使い物になると思ったのか、小脇に抱える。
「今日の賄い係はお前だ。このキャベツを全部きちんと使え。いいか、全部だぞ」
そしてマエストロはがっくりとうなだれるサリーへ、トドメの台詞を残して行ってしまった。
「下手クソじゃ務まらないのが調理人だ。そして、上手いだけでも務まらないのが調理人だ」
まな板を前に悔しげな表情を浮かべるサリー。俺は全く別の境遇だが、この女の気持ちが痛いほどに理解できた。
腕はずば抜けているが、頭はずば抜けて悪いサリー。頭はずば抜けているが、腕はずば抜けて悪い俺。
己の短所と長所をイヤになるほど理解して、それでも止め処なく深い短所の穴を埋める術を知らないのに、長所ばかりが高い塚を築いていく。その塚から仄暗い穴の底を見つめる度に、心は孤独と絶望に苛まれるのだ。チグハグでバランスの悪い自分の力に嫌気が差しても、そこから抜け出せず、他の道を探す手立ても知らない。
俺とサリーは、同じなのだ。
山になったキャベツを見つめ、途方に暮れるサリー。キャベツの山から一摘み口に放り、モソモソと咀嚼する。俺もサリーの隣に立つと、真似してキャベツを摘んだ。
「これらを調理する手段は考えているのか?」
「……酢で、ワインビネガーに絡めて炒めようかな、と」
視点を落とし、自信なさげに呟くサリー。俺は変に酸っぱいだけの野菜炒めの味を口の中で想像して、げんなりする。やはりこの女、テクニックばかりで完成品の味を想像することや調理方法に関する知識が乏しいようだ。
「賄いで使用して良い食材に制限はあるのか?」
「あ、ある程度は。あまり高級なものは使用出来ないが、各々の担当と交渉次第だ」
「小麦粉や卵は?」
「あぁ、その程度なら問題ない」
「賄いは全てで何人前?」
「ざっと五十人前だ。一体、なにをする気だ」
「黙れ、馬鹿女。食材の調達にいくぞ。ついて来い」
ズカズカと勝手に進む俺の後を、白黒させた眼のまま付いて来るサリー。
似た者同士だからだろうか。このままコイツをほっとけない。


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