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2012'07.28 (Sat)

傲慢に書き綴ったル・ヴィアンディエ 第三 章

「おい、どうなのだ。真面目に答えろ、魔法使い。返事次第では容赦せんぞ」
妙にいかめつらしい表情で俺を問い詰めるマエストロ。
こいつもなかなか役者なものだ。まさか亀岡グループのドッキリ作戦に荷担していたとは、こればかりはさすがに一本取られた。料理の腕前はミシュラン級で乗馬もこなせるとは、かなりの逸材だろう。この三文芝居が終わったら是非とも召し抱えたいものだ。
俺は咳払いをして姿勢を正す。
よかろう。試されているなら、それもまた良し。亀岡家の人間に相応しい回答をしようじゃないか。
「魔法使いなどと妄想甚だしい。だが総てにおいて人より二倍も三倍も優れた俺、亀岡渉は言わば亀岡家の錬金術師。この名誉に懸けて亀岡の富を未来永劫、繁栄し続けるよう尽力する次第だ」
決まった。馬蹄の音がパカラパカラとうるさいが、バッチリ決まった。亀岡家の人間に相応しい尊厳と決意に満ち溢れた返答に、マエストロ(試験官)は目を丸くしている。ふむ、相当胸を打たれたらしい。
「……あ、あぁ。よく分からないが、お前は東邦の錬金術師だったのか。ならばこれ以上の詮議は止めよう。だが錬金術師とはいえ、この国では異端者扱いをする人間も少なくない」
「おい。錬金術師とは言葉のあやだぞ。異端だのとそこまで本気にするな。なんかその返し方、俺がすごく残念な人みたく聞こえるからやめて」
「あぁ、分かっている。しかし教会の人間に絡まれては厄介だ。上手く身分と立場は偽ることを勧める。俺としても命の恩人が異端審問に掛けられるのは、寝覚めのいいものではないからな」
俺の回答の評価はさほど良くなかったのか、マエストロはまた謎の設定を引き出して曖昧に誤魔化した。余計な比喩など使わず、もう少しストレートに答えた方が良かったか?
「それとマエストロ。その怪力は一体何者だ? どうやったらあれだけ重量のある物体をヒョイッと投げられるんだ」
 さっきから一言も口を発しない、マエストロの横を馬に乗って並走する覆面を指差す。
「あぁ、気にするな。護衛役のようなものだ」
「気にするだろ。おい、お前。一体どんなトリックを使ったのだ」
 だがそいつは、俺の言葉など聞こえんとばかりに、まっすぐ前を向いている。体型は実にほっそりとしていて、とても力持ちのようには見えない。
「おい、細マッチョの覆面野郎。何かコツでもあるのか、コラ」
 ここは敢えて芝居に引っ掛かった振りをするのも一興だが、それでもあのトリックの種くらいは明かして欲しい。
 すると覆面野郎は急にムッとした様子でこちらを睨んだ。そして顔を覆った布をはぎ取る。
その瞬間、心地良い胸の鼓動と共に視線を奪われた。

「誰が野郎だ! 私は女だ!」

女、それも一際端整な顔立ちをした上等な女だった。
切れ長の涼しげなブルーの瞳にツンと小高い鼻先。桜色の淡い唇。後ろで束ねた長いブロンズの髪が風にたなびいて揺れる。後光というか、何故かその女の周りだけが輝いて見えた。
「俺の部下であるサリーだ。女だてらにかなりの腕っ節なのでな、今回の旅の護衛役として同行している」
呆気に取られる俺を予想通りの反応とばかりに、満面の笑みを浮かべるマエストロ。
サリーと呼ばれたその女は俺の頭から爪先まで目を通す。他人に対して物怖じしない性格なのだろう。巧みに馬を寄せ、顔が触れ合うほどの距離まで自分の顔を近づけた。サリーの力強い輝きを放つ瞳に見つめられ、俺は情けなくもつい顔を赤らめた。
「このスットコドッコイ」
「……あん?」
が、すぐに青筋が浮いた。この女の通り魔的ともいえる暴言に、赤らんだ俺の頬はスゥと熱が引く。
「おい、女。誰がスットコドッコイだ。初対面で舐めた口を利く奴は、殴ってもいいと相場で決まっているんだが?」
ニヤニヤして俺らのやり取りを観察していたマエストロは、顎を軽く撫でながら答える。
「サリーは東邦に興味があってな。行商人や吟遊詩人が訪れると東邦の話をねだるのだ。だから東邦の言葉も少しは知っている。どうだ、使い方が間違っていないか?」
「少しは知っている、どころじゃないだろ。ここまで日本語がペラペラなのに何を言う」
「えっ」
「えっ」
「えっ?」
 一同が呆け顔をする中、馬蹄の音だけが滑稽に響く。
「何かおかしなことを言ったか?」
「うむ。誰がいつニホンゴ? とやらを話したのだろうかと。こちらの立場から言わせてもらえば、ワタルの方が凄いぞ。フランス語が随分と堪能なのだな」
「あぁ。発音がかなりネガティブだ」
「サリー、ネガティブじゃなくてネイティブだ」
 このやり取りは一体何を意味するのだ? どう考えても俺はフランス語なんぞ喋っていないし、マエストロと馬鹿女の言葉が日本語にしか聞こえない。コテコテのフランス人がしっかりとした発音の日本語を喋るものだから、まるで目の前で吹き替え映画を見せられている気分だ。
明らかに不審げな顔のマエストロとサリーを見て、しまったと思った。どうやらここは触れられたくない設定だったようだ。しかし、亀岡家のテストの割にはやや水準が低いな。俺様レベルになれば、フランス語くらいペラペラだというのに。
「あぁ。おかしな事を言って済まなかった。言葉くらい気にしないでおこう」
「そうか。ではワタルはスットコドッコイという事で」
「お前、これが終わったら絶対ケチョンケチョンにしてやるからな」
 睨みつける俺に、サリーはプイっとそっぽを向いた。何故だかこの女、凄く気に入らん。
顔を正面に戻すと、マエストロは手綱を操り馬の速度を上げた。
「ところでワタルは、どこかに向かう途中だったのか?」
「そうだな。強いて言えば、光り輝く未来に向けて……かな」
「? はぁ……。場所の話をしている。何かの目的があって東邦よりこの地へ赴いたのか?」
「いや、そちらの設定に合わせよう。どこへなりとも導いてくれ。場所、場面、状況に左右されない俺の臨機応変さをしかと見届けてくれ」
「そうか。では俺の主、ドフィネ公の屋敷へ行くぞ。東邦には興味がある。異国の愉快な話を聞かせてくれ」
マエストロは馬の脇腹を小突くと速度はさらに増した。また馬上は激しく揺れ、尾てい骨が砕けそうだが、これも亀岡グループの上層部に就く試練の一つと思えば、やせ我慢で背筋を伸ばせる。
俺はなるべく澄まし顔でマエストロへ問い掛ける。吹き荒ぶ風の音が煩わしくて、自然と声が大きくなった。
「さっき俺を命の恩人と言ったが、何か揉め事でもあったのか!」
「賊から挟み撃ちをされたのだ! あんな細い崖道じゃまともに身動きを取れず四面楚歌だった! そこへお前が乗った白い箱が賊を二人跳ね飛ばしてくれたおかげで退路が確保出来た! まさに命の恩人! 神の思し召しよ!」
「なるほどな! 無駄に細かい設定を語ってくれてありがとう!」
「設定って何のことだ!」
「いや! こっちの話だ!」
「そうか! それとさっきから一つ気になっていた事がある!」
「何かな! マエストロ!」
「お前、ゲロ臭いな!」
「ほっとけ!」
あくまで白を切り通そうとするマエストロの興を削ぐのも気が引けて、俺は口を噤む。少々奇抜に飛んでいるが、頭が堅くやたらと家名に固執するだけの亀岡の人間がやることにしては、なかなか愉快な余興だ。どのみち俺の行動は亀岡の監視下にあるはず。見知らぬ土地ではあるが危険な目にあうことはまず無いであろう。
俺はマエストロの腰に巻かれた革製のベルトを手綱替わりに握る。揺れにもだいぶ馴れてきたのか、腰の痛みはだいぶ安らいできた。このドッキリ企画は、いつどのタイミングでネタばらしをするのだろうか。俺はその時に備え、亀岡グループが感銘するような凛々しく立派な口上に思考を巡らす。

馬で駆けること一時間近く。途中で一度休憩を挟んで、マエストロの主というドフィネ公の屋敷に到着した。
どこまでも続く平地には、ところどころになだらかな河が流れ(マエストロの話ではドローム川らしい)、その恩恵を得てか、岸の少し離れた場所に林がいくつか点在していた。
その中でも一際大きな林に寄り添うように居を構えているのが、ドフィネ公の屋敷だった。
山肌から切り崩した岩を幾重にも積んで建てられた骨格は威圧的で、屋敷というより規模は城に近い。西欧の絵葉書に載っているような見事な造りに、俺はマエストロから手を貸してもらい馬から下りる間、あまりに圧巻過ぎて視線を奪われた。
「ドフィネ家は西暦七百年より、それこそこの大地がガリアと呼ばれた時代から続くお歴々であり、このお屋敷はこの地方で最も敷地面積が広い建築物である。所有する領地、年貢額、使用人の数はフランス全土の中でも屈指の名家に挙げられる」
歩いて手綱を引き厩へと向かうマエストロの後を追う。マエストロは自分の主であるドフィネ公の自慢話を、さも得意げに続けた。
「何故に主がこれほど豪奢で莫大な富を有しているかと言うと、ドフィネ家八代目の当主が前国王陛下であらせられるシャルル四世と又従兄弟に当たり皇族の血縁者というのが大きいが、それ以上にみな口を揃えて讃えるのが公の人物にある。位が高い貴族にありがちな傲慢な態度は微塵も表さず、どんな目下の召使いや奴隷にも気さくにお声を掛けて下さる。器の大きい人なのだ。だから我々ドフィネ公に仕えこの屋敷で暮らす人間は全て一様に、主に揺るがない忠誠を誓うのだ」
若干高揚しながら話すところを見ると、マエストロは真にこの城主を尊敬しているのだろう。美味い料理を作るだけが取り柄の男だと思っていたが、なかなかの役者ではないか。設定は随分と細かいし、完全に役へ入り込んでいる。
そんなマエストロを横目に俺はもう一度、屋敷を仰ぎ見る。中規模な学校ほどの大きさを有する建物に、見張り台なのか分からないが、とんがり屋根の塔が併設されている。確かこの建築様式はこんな名前だった。
「ロマネスク建築、だな」
「ロマネスク?」
「あぁ。高校の地理で学んだぞ。中世中期頃のヨーロッパで用いられた建築様式だ。その時代の聖堂は全てロマネスク建築なはずだ。うむ、実際にこの目で見るとなかなか趣深いものだな」
博識な一面をアピールしたつもりだったが、マエストロは怪訝な顔をしただけだった。
「そんな屋敷の建て方に名前なんぞ無いだろ。東邦では我々の屋敷をそのような言い方するのだろうが、ロマネスク……ローマ風ということか。あまり良い気分ではないな。どうせなら我がフランス王国に因んだ呼び方を名付けてもらいたいものだ」
「それは仕方ないだろ。一般常識だろ。あぁ、お前はゴーリストだったな。フランス崇拝主義だったな。その気持ちも分からんでもないが、だったら尚更だがフランスの呼び方くらい正しく覚えろ。フランスは王国ではなく共和国だ」
「馬鹿を言うな。我が国は国王陛下の庇護の元に成り立つ由緒正しき王国だ。共和制などという脆弱で不安定な国家と嘲笑するならば、いくら命の恩人とはいえ只では済まさんぞ」
厳しい一言を投げつけ、マエストロは肩を怒らせて先に進んでいった。
やれやれ、設定が細かいと感心していたが、詰めの甘さがこんな所で露呈しているぞ。いや、もしやここでこちらの反応を試すつもりだったか。これはしたり、もう少し寛大に対処すべきだったか。
そんなことを考えつつ、俺はやや早足でマエストロの後を追った。
屋敷の正面に対して左側には欅が生い茂った林がある。建物の一部が完全に林と同化していて、屋敷をさらに広大に見せていた。

その林に面した屋敷の奥に進む。幾ばくかひんやりとする木陰のトンネルを潜り抜けると、プレハブ二台分ほどの小屋があった。どうやらそこが馬小屋のようだ。マエストロが駆ったのと同じサイズの馬が、十頭は厩に繋がれている。
そんな馬小屋の柱に手綱を繋がれて、茶色い毛並みを持つ馬が一頭、毛繕いをされている途中だった。俺達の足音に気付いたのか、馬の肢体にブラシをかけていた青年がこちらを振り返った。
「あ、タイユヴァン。お帰りなさいませ」
「只今、戻ったぞ。コウラキ」
マエストロはコウラキと呼ばれた青年に馬の手綱を渡すと、コウラキは顔を綻ばせて馬に頬擦りをする。そしてサリーの乗っていた馬にもすかさず頬擦りをした。
「ではタイユヴァン、私は先に厨房に戻る」
 コウラキに馬を預けると、サリーは馬小屋脇の勝手口に進む。
「あぁ。ご苦労だったな、サリー」
 マエストロの労いにサリーは軽く手を挙げて応えると、俺をジッと見据えた。
「な、なんだよ。馬鹿女」
「また後でな、カメオカ……ペダル」
「ワタルだ!」
 朗らかな笑い声をあげてサリーはその場を去っていった。あの馬鹿女、やっぱり気に入らん。
 そんな俺を、コウラキがマジマジと見つめていた。歳は俺よりも若いか、同じくらいか。隣の馬の毛色に似た茶色の髪に、そばかすが目立ついかにも西洋人といった顔立ち。ヨロヨロのシャツに汚いボロのツナギをまとった出で立ちは下働きらしい格好だ。
そんなコウラキはマエストロの後ろへ控えた俺に、物珍しげにジロジロと不躾な視線を送った。
「タイユヴァン、こちらのその……異国の御仁はどなたで?」
言葉を選びに選び抜いたといったニュアンスでマエストロに尋ねるコウラキ。ややムッとする俺をよそにマエストロは簡潔に答える。
「この東邦人はカメオカワタル。俺がフィオレーネ丘で賊に襲われた時に命を救ってくれた恩人だ」
コウラキの顔が途端に青ざめる。大きく目を見開いてワナワナ震える唇を無理矢理こじ開けてコウラキは言った。
「賊に襲われたんですか! よくぞ、ご無事で! お怪我はございませんでしたか?」
「あぁ。奇跡的にも無傷だ。それにサリーもいたからな」
ドッと安堵した様子でコウラキは大袈裟に胸元で十字を切ると、手を組んで額に押し当てた。
「我が偉大なるタイユヴァンと我が友人たる馬の身を御加護頂いた全知全能たる神に、過大なる感謝を申し上げます。……しかし、妙な話です。フィオレーネ丘で賊が現れるなんて、聴いたことがありません。あんな入り組んだ地形なんて、せいぜい狩猟でカモシカを追うときに踏み入れる程度です。どちらかと言えば、シエルベール街道の方が賊に出くわし易いでしょうに」
首を傾げるコウラキに、マエストロも腕を組んで渋い顔を作る。
「俺もそのつもりで帰路はシエルベールを避けたのに、結果はこれだ。それに賊共、挟み撃ちで退路を断ってまで襲ってきた。明らかに端っから俺の命を狙うつもりだったのだろう」
「もしかして、デラーズの奴らが……」
「待て。それ以上は口にしてはならない。確証がないことだ」
いつの間にか二人共、声を潜めている。何だか込み入った事情があるようだが、それを敢えて俺の目の前で演技してみせる意味が分からない。
しばらくはまたヒソヒソと二言三言交わしたが、マエストロは俺が後ろにいる事に気付いてか、ハッと顔を上げる。
「それでコウラキ、帰還の挨拶と東邦人のワタルを紹介したいがため、ドフィネ公へ謁見を賜りたい、と執務長のアイハムラへ伝えてもらえるか?」
「もちろんです。タイユヴァンの頼みとあれば喜んで」
「そうか。助かる」
マエストロは懐から木で出来た札を取り出すと、コウラキへ渡す。青年は手早く馬達を小屋へ誘導すると一度だけ控えめに俺へ目礼をし、マエストロから預かった札を大事そうに抱えて屋敷内へと走っていった。
「コウラキ。ワタルが私の命の恩人だということを、くれぐれも言い含めてくれ!」
「はい! かしこまりました!」
軽快に走り去るコウラキの背中へ声を掛け、マエストロは俺を振り返る。
「さて、公へ謁見の許可が下るまでしばらく時間が掛かりそうだ。それまで俺の城を案内しよう。興味はあるかな、東邦の錬金術師殿?」
「城? なんだ、マエストロ。お前は殿様だったのか」
「違う違う。城というよりも戦場と言った方が適切か」
一人ごちるとマエストロは俺の返事も聞かずにズカズカ屋敷内へ入っていく。俺は慌てて横柄なマエストロの後を追う。
「俺の戦場、つまり厨房だ」

馬小屋脇にあった勝手口を抜けると、薄暗くカビ臭い通路を渡る。屋敷内には照明が設置されていないのか、背後から微かに洩れてくる日光を頼りに進むしかないが、手探りの俺に構わずマエストロはさっさと先へ行く。
「おい、マエストロ。少し待ってくれ。暗くてまともに歩けん」
「どうした、ワタル。まだ目が慣れていないのか。情けないな」
「いくら裏口といっても蛍光灯くらい設置しろ。建築基準法違反じゃないか、これ」
「蛍光灯って、何だ? 東邦にはそういう灯りが存在するのか」
いい加減にマエストロの見え透いた嘘を問答するのは飽き、俺はそれ以上の言及をやめた。そしてさっきコウラキとマエストロの会話を思い出す。
「マエストロはあの青年から、タイユヴァンと呼ばれていたな。確かお前の名前は業務タオルじゃなかったか?」
こんなところでせっかく大規模なドッキリの粗が見えては興が削がれる。モブキャラにもしっかりと設定を叩き込んでおいて欲しい。
「誰が業務タオルだ。ギョーム・ティレルだ。タイユヴァンという名はこの屋敷内での愛称みたいなものよ。東棟の厨房『陽日の胃袋』の副料理長、タイユヴァンと言えば俺のことよ。ここのみんなはその名で呼ぶ。是非ワタルにもタイユヴァンと呼んでもらいたい」
「ヤダね。何がタイユヴァンだ。タイユヴァンって言ったら、バリの第八区にある老舗三ツ星レストランだろ」
サービスのタイユヴァンといえば食通でなくても知る、名店中の名店だ。
最近はミシュランで星を落としてしまったが、俺の中の評価では常に他の三ツ星店とは一線を画した存在感を誇るレストランだと思っている。料理人でゴーリストのマエストロならば、知らないわけがない。そんな名店を役とはいえ、渾名にするとは何事か。
「パリに? そんな名前の店があったか?」
「そりゃ、あるだろ。まさか知らないとは言わせない。どういう設定になっているのだ、お前の中では」
「さっきから設定、設定とどういう意味だ? 東邦人なりの比喩表現の一つか? まぁ、いい。後でじっくり聞かせてくれ」
 それからマエストロは、この屋敷に二つあるという厨房の一つ『陽日の胃袋』の調理人を紹介した。
 総勢で五十人はいるであろう調理場に圧倒されたが、なんと西棟には同じ規模の厨房がもう一つそんざいしているらしい。ちょっとしたリゾートホテル並みの従業員の数だ。
 そしてそれらの紹介が終えると丁度良く、執務係のアイハムラという男が謁見の許可を申し渡しにきた。これから俺は、この屋敷の当主であるドフィネ公と呼ばれる男と会わねばならないらしい。
 もしかしてそれが、このドッキリ企画の最終局面なのかもしれない。俺は亀岡家の人間として、何がこようとも凛然と構えるべく、上着の襟を正した。

先ほど通ってきた勝手口とは違い、俺はマエストロに従い長く広い回廊を歩いていた。
隅々まで清掃が整った回廊の壁には高価そうな骨董美術品が等間隔で並べられている。天井を仰げばルネサンス調の絵画がどこまでも続き、足元の廊下にも細かな石細工が施されており、気軽に歩く事を躊躇ってしまう。四方八方どこを見渡しても、美術館をそのままを切り取ってきたかのような空間だ。
回廊の突き当たりに一際豪奢で大きい扉が見える。扉の前には長槍を携えた警備兵が恭しく構えている。マエストロを見留めた警備兵はすかさず敬礼を送り、扉の両脇へ退いた。
マエストロは気さくに警備兵へ挨拶をして扉の前に立つ。警備兵は敬礼の姿勢のまま、俺をジロジロと観察した。
「ドフィネ公。ギョーム・ティレル、ただいま帰還致しました。お目通しを賜りたく存じ上げます」
『うむ。入ってくれ』
きっと返答したのはドフィネ公だろう。扉の向こうからどっしりとした声が聞こえたと思ったら、警備兵が扉の取っ手を引き、重厚な音を響かせ開けた。
マエストロが俺に目配せをすると中へ足を踏み入れる。俺もマエストロに倣い、引き締まる背筋をさらに伸ばし、ドフィネ公の待つ中へと進んでいった。
中は白地を貴重とした壁と床で囲まれ回廊に比べれば幾分質素だが、天井から吊り下げられたシャンデリアが唯一豪華さを極めている。他のインテリアがシンプルな分、シャンデリアは見た目以上のインパクトを受けた。
そして部屋の真ん中に大きく精巧な細工が施された執政テーブルが構えられており、そこに一人の男性が腰掛けていた。言わずもがな、この屋敷の当主であるドフィネ公だろう。
さらに同様の口上を述べるマエストロを片手で制し、手招きをするドフィネ公。俺はマエストロに従い、恐る恐る執政テーブルに近付き当主の顔を伺った。

その瞬間、落雷を受けたような衝撃が俺の全身を駆け巡り、両脚をその場に釘付けられた。

「ブルゴーニュへの視察はどうだったかな、タイユヴァン? 良き見聞は広がったかな?」
「はい、おかげさまで。あの地域はやはり、葡萄やワインに因んだ古代よりの調理が豊富でございました。逗留のお世話になったフランソワーズ伯爵も、ドフィネ公によろしくお伝えするように、と」
「ほっほっほっ。フランソワーズ伯爵もそなたの料理を堪能でき、さぞかし満足であっただろう。実はつい先日な、伯爵から手紙が届きタイユヴァンの逗留を今少し延ばせないかとあったが、断った。そなたの不在が長引けば長引くほど、我の舌と胃袋は不満の余りに発憤してしまう」
「有り難きお言葉でございます。それと、国王陛下と憎きイングランドの戦の話も耳にしました。あまり明るい情勢ではないようで。やはりフィリップ国王陛下が御逝去なされてから、神の御加護が遠のいてしまわれたのでしょうか」
「それは言うな、タイユヴァン。なに、今は単なる中弛み。プランタジネット朝およびランカスター朝イングランドが卑劣な策を弄した結果に過ぎぬ。いずれ勝利の女神がジャン国王陛下へ微笑むであろう。それと、そなたも道中危難に際したと聞いているが?」
「なに、賊な輩に襲われただけのこと。サリーも一緒でしたし、公のご心配には及びません。ですがそれは窮地を救ってくれた、ここに控えたる東邦よりの旅人、カメオカワタル殿があってのこと。ぜひドフィネ公にもご紹介せねばと同行願いました次第でございます」
「うむうむ、聞いておる。カメオカ殿、私からも多大なる感謝を述べさせ頂こう。タイユヴァンを失うということは、我は己の舌や胃袋のみならず目や鼻、そして後の天命全ての楽しみを失うところであった。それほどまでにタイユヴァンの料理は美味にして官能的で神秘的。我が生涯にして唯一無二の至高である。カメオカ殿、宜しければ当屋敷で手厚く処遇を致したいと考えている。しばらくの間は当屋敷に逗留をし、我に東邦の話など語っていただけないか。のう、カメオカ殿?」
「お、親父……」
俺の第一声に、マエストロとドフィネ公は、異なものを耳にしたとばかりに眉間を歪める。だがそんな事は知ったこっちゃない。俺はここまで人をコケに出来る亀岡家の根性に、沸々と怒りがこみ上げてきた。
執政テーブルの奥に腰掛け赤い高級そうなマントを羽織った、マエストロがドフィネ公と呼ぶ人物は、紛れもなく五年前に病死した俺の親父だった。人が良さそうに目尻が垂れた顔に鼻の下に短く生やした髭。丸みを帯びた撫で肩に短い足。茶色がかった瞳と髪の色を除けば、目の前の人物は間違いなく死んだ親父だった。
「このクソ親父、本当は生きていやがったんだな。よくも五年間も、だまし続けてくれたな」
「カメオカ殿? 何を申しておるのか、分からぬが」
顔を真っ赤にしてにじり寄る俺を前に、親父はひきつり顔で後ずさる。その時に床をこすった椅子の音に反応して、マエストロが俺の左肩を掴み制止を掛けた。
「おい、ワタル。ドフィネ公に対してなんたる無礼な口を利くのだ。たとえ異国の客人とあっても、それなりの礼節はわきまえるべきであろう」
その一言で頭にカッと血が上る。俺はマエストロの手を払うと、そのまま両手で胸倉を掴んだ。
「ふざけるな! 親父も親父だが、貴様も貴様だ! 亀岡家に一体いくら積まれたか知らないがな、ここまで若僧の苦しむ姿を眺めて愉快か! 人間として最低だぞ、マエストロ!」
亀岡家が破産したとニュースで知った途端、掌返しのように捨てられて。片田舎で鬱屈とした毎日を過ごし、東京の大学に行ったはいいが馴染めず結局は中退。一念発起してレストランに勤めるが、ミスばかりでまともな人間扱いをしてもらえない日々。
毎日が惨めで情けなくて、生きていくことすら辛くなり、自ら命を絶つことすら本気で考えるまで追い込まれた日常。
「確かに俺は生まれながらボンボンで、自分一人じゃ何も出来ない能無しさ。亀岡家の財産という庇護がなければ、日常すら送れないダメ人間さ。でもな、そんな俺でもこの五年間は一生懸命這い蹲りながら頑張ってきたんだよ! 過ぎ去った甘い生活にみっともなく指をくわえて懐古しながらも、普通の生活でも構わないと必死に足掻いてきたんだよ! そんな俺を遠くからほくそ笑み観察していて、面白かったか! 満足だったか! 無惨にのたうち回る俺の姿は滑稽だったか! だったらもう充分だろ! もう壮大に仕掛けたドッキリは成功でいいだろ! 引っ掛かりましたよ! 見事に一本取られましたよ! だからもう、さっさとネタ晴らししてくれよ! 頼むから!」
目に涙を溜めながら大声で喚く俺を、困惑しながら見つめるマエストロ。俺はそんな態度のマエストロが許せなくて、掴んだ襟首を振り乱す。後ろでバタンと音がしたので振り返ると、青ざめた親父が椅子から立ち上がり部屋の奥へ身を構えていた。
「タイユヴァン! そこの東邦人は一体何者じゃ! もしや昨今流行りの黒死病で変貌した悪魔憑きではあるまいな!」
明らかに怯えながら非難を浴びせる親父の言葉が、俺の胸で燃え盛るドス黒い炎に油を注ぐ。
「俺がどんな気持ちで親父の葬式に参列していたか分かるか? あんたの棺をどんな気持ちで担いでいたか分かるか? たった一人の家族を、人生の中で一番尊敬し一番大切な存在だったお前を失った気持ちが分かるか? そんな一人息子を騙してどんな気分だ! あんたを信じていた俺を裏切る気分は、さぞかし清々しかっただろうな! このクソ親父! お前なんてもう父親でも何でもない! 二度と俺の前に顔を見せるな!」
気が付くと両目から止め処なく涙が流れていた。この五年間、様々な絶望感を味わってきたが、これほどまでの苦しみはなかった。心の中に直接焼いた鉛を流し込まれたような、質量を持った悲しみが魂そのものの生命力を奪う。俺はその熱に抗うよう、腕を振り回し部屋の中を仰ぐ。
「監視カメラはどこだ! 見ているのだろう、亀岡家の連中! もう本当に勘弁してくれ! 俺の負けでいい! 亀岡家に相応しくない人間と試験は不合格で構わない! だからもう、ドッキリでしたとネタ晴らしをしてくれ! そうしたら以後貴様等には近付かないから! 親族から除名してくれていいから! 頼むから誰か! ドッキリだという証拠を俺にくれ!」
部屋の扉を開けて飛び込んできたのは、ドッキリでしたと書かれたプレートを持つコメディアンではなく、槍を構えた警備兵だった。狂乱する俺に飛びかかると、力づくで俺を地面に押さえつける。後ろの方からマエストロの、命まで取ってはならぬという叫び声が聞こえた。
俺は抵抗する気力もなく、地べたに顔を擦り付けながらむせび泣いた。そして濡れた瞳のまま親父を見上げる。
おぞましいものでも眺めるような、冷酷な目を投げかける。間違いなくそこにいるのは死んだ親父ではなく、煌びやかな衣装をまとった中世の貴族だった。顔は確かに似ているが、親父なわけがない。あの優しかった親父が、俺をあんな顔で見下すわけがなかった。
悟った瞬間に、今度こそ本当に俺はがっくりとうなだれた。一瞬だけ酷く憎みはしたが、もう一度親父と再会出来たと胸が震えた歓喜は、紛れもなく本物だったから。


更新日 8月3日

俺が物心ついた時には既に親父と二人きりだったが、無駄に明るい性格な親父だったので寂しいと思ったことはないし、実家は大企業を経営していたということもあってか、お金にも不自由はしなかった。
欲しいものは何でも親父が与えてくれたし、自分へかしずく人間も周りに溢れていた。自分でも腹が立つほど傲慢な性格に育ったのは、環境のせいとしか言いようがない。
親友と呼べるクラスメートはいなかったし、胸を熱くする青春時代なんぞ、ドラマの世界だと思っていたし、当時の環境ではそんなものに憧れる必要がないほど、満たされていた。
そんな俺にしたのは甘々な親父だったが、一度だって恨んだことはない。それほど親父はいつだって優しく、俺の憧れだった。

気が付くと俺は、土色の壁に囲まれた薄暗い部屋にいた。頭を上げると机の向かい側からマエストロが顔を覗き込んだ。
「どうだ、ワタル。少しは落ち着いたか?」
「ここは……どこだ」
「俺の執務室だ。だいぶ錯乱していたからな、力づくで引っ張ってくるのに苦労したぞ。見ろ、俺の肥えた腕がさぞかし美味しそうだったようだ」
そう言うとマエストロはにんまりと微笑みながら腕をまくる。手首のやや上に、くっきりと歯形が残っていた。覚えてないがどうやら俺がかぶりついたらしい。
「ドフィネ公には長旅の疲れと賊に襲われたショックで、精神が混乱したらしいと言い訳しておいた。本来なら問答無用で外に放り出されてもおかしくないが、恩人となればぞんざいな扱いも出来ん。お咎め無しで当屋敷に逗留しても構わないと御慈悲があった。公の懐の深さに感謝しろよ」
「……すまなかった、マエストロ」
俺の口調が気落ちしていたものの正常になっているからか、マエストロはホッと肩を揺すり椅子に深々と腰を沈めた。
錯乱していたが気を失ったわけではなかった。ただ頭の中に大量の蜜蜂がけたましく暴れていたような、竜巻の中を瞬きせずにいたような、そんな感覚だった。
そして気持ちが落ち着いてきたのと同時に、頭も冷静に動き出す。俺はずっとこの世界を亀岡家の仕組んだ冗談だとばかり思っていたが、それは完全に俺の思い違いで、体のいい希望にも似た妄想だったらしい。もし冗談だとしても、そうだったらどれだけ喜ばしいことかと思わずにはいられなかった。
つまるところ、俺は未だ過去の栄光にすがり付こうとしていた。
「さっきお前さん、ドフィネ公を親父と呼んでいたな。そんなにワタルの父御と似ていたのか?」
「あぁ。死んだ親父にそっくりだったよ」
「死……そうか、それはさぞかし辛かっただろうな」
主の前で暴れた無法者にすら同情を示すマエストロの優しさに、俺は再び涙を堪えられなかった。鼻をすすってボロボロと泣く俺をマエストロは慰めも叱りもせず、ただ黙って放っておいてくれた。そんな寛大さも、この男は俺の知っているマエストロにそっくりだ。
だが、この男とクレセントのオーナーシェフは確実に同一人物ではない。俺は頬を流れる涙を拭うと、一度深呼吸をする。そして腹を決めてマエストロに尋ねた。
「マエストロ、一つ尋ねたい。ここはフランスのドフィネ地区で間違いないのだな」
「あぁ。お前がどういう経路で訪れたかは知らないが、相違ない。ここはプロヴァンスのドフィネ地区だ」
もはや異なことを質す俺に馴れたのか、マエストロは淡々と答える。
そもそも最初に違和感の元となるドフィネ地区という単語に気付くべきだった。ドフィネ地区といえば、現在プロヴァンスにあるドローム県の昔の名称だったからである。
俺は小さく唾を飲み込むと、もう一つの質問をした。
「今は西暦何年だ?」
若干首を捻りながら、それでもマエストロはでっぷり太った腹に腕を組んだまま答える。
「東邦ではどういった数えになるか知らんが、今は西暦一三五一年だ」
俺の中にある何かがガクンと大きく揺れた。
そのおよそ現実味のない馬鹿げた憶測を、この屋敷に来る前にふと考えたが、有り得ないとすぐに払拭した。だが、図らずも鼻で笑ってしまいそうな夢物語はこうして目の前で、現実となってしまった。
俺は乾いた笑いをクツクツと洩らす。また気でも触れたかと、心配げに覗き込むマエストロへ言った。
「俺は二○一一年の日本からやって来た。信じられるか、マエストロ?」
しばらく沈黙が流れた後、マエストロは肩をすくめて首を横に振った。
「ワタルなりにエスプリを利かせたようだが、残念ながらイマイチだな。東邦人と我々では冗談のツボが違うようだ」
「そのようだな。俺はやはり下らん戯れ言は苦手みたいだ」

どうやら俺は過去のフランスへタイムスリップしてしまったらしい。受け入れたくないが、これが真実だ。




目次
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2012'07.23 (Mon)

傲慢に書き綴ったル・ヴィアンディエ 第二章

「おい、おやっさん。冷やをもう一杯」
空になった安物のガラスコップを、頭が禿げ上がった親父に突きつける。親父はじっとりと何か言いたげな瞳を向けながら、コップを受け取った。
「今日は一日中ずっと重い物を引きずっていたから、体中がだるくて適わん。明日は確実に筋肉痛だな」
酒を注いだコップを差し出しながら、親父が尋ねる。
「お兄さん、ガテンかい? あんまりそんなナリには見えんがね」
親父から受け取ったコップを傾けると、安酒独特の醸造アルコール臭さが口一杯に広がる。俺は腹に落ちたムッとする酒気を溜め息と一緒に鼻から吐き出した。すると後には心地良い酔いだけが脳髄に残る。
「元セレブ族な俺が肉体労働などするわけもないだろう。コックだ、コック」
「おや、こいつは同業者でしたかい。どちらにお勤めのシェフさんで?」
「クレセントっていうデブが経営している店さ」
「あの最近ミシュランを取った店かい。お兄さん、良いとこに勤めているね。重い物引きずっていた、ってことはソースかポタージュの仕込み鍋かね。寸胴鍋にたっぷり物が詰まっていると、相当な重量になるわな。若いのにストーブ前を任されているとは大したもんだ」
どこからそうなるのか、親父は勝手に勘違いをしている。俺はまさか訂正も出来ず、曖昧に返事を濁した。
店が閉まって帰路につく頃には当然ながら大概の飲食店は閉店していて、小腹と胸に溜まった鬱屈とした気持ちを満たしてくれる店といえば、ガードレール下の赤提灯くらいである。このままアパートに帰っても、どうせレトルトの麻婆豆腐と口やかましい従姉妹が待っているだけだ。親父が教えてくれなかったやるせない気分を晴らす方法を、俺なりに考えた結果がこれだった。
「それでよ、マエストロは言うんだよ。お前には才能がないって」
大根とガンモと愚痴を肴に、俺は不味い安酒を飲みながら親父に語り掛ける。
「どう思うよ、マスター。たまたま星を取れたポッと出の分際が、この世界中のありとあらゆる美食を食べ尽くした俺に偉そうに意見しやがるんだ。ふざけやがって! 才能どうこう言う前に、一度俺にちゃんとした料理を作らせてから言いやがれ!」
手元の台を拳で叩くと、酒が入ったコップが揺れた。大声で管を巻く俺を軽く諫めながら、親父は腕組みのまま相槌を打つ。
「調理人なら一度は悩む問題でさぁ。自分が精魂込めて作った料理を貶されて才能が無いなんて言われりゃあ、誰だってヘコむさ。あっしだってこんな商売ですからね、しょっちゅうお客さんから味付けがどうのと悪態つかれますよ」
「だろうな。だってこのおでん、大して美味しくないから。醤油の味が強すぎてせっかくの出汁も風味もあったもんじゃない。それに大根もきちんと面取りをしないから味が上手く染み込まないんだぞ。亭主、しょっちゅう言われているなら、少しは改善しようと思ってみてはどうだ?」
親父の顔が笑ったまま凍り付く。俺は気にも留めず、そのさして美味しくないおでんを摘んだ。
「店長、牛スジを使うのは良いが、物が悪すぎて臭みが他の具材にも移ってしまっている。なんでもかんでも、ごった煮すればいいってもんじゃないだろ。別で煮るか、きちんと仕切りをした方がいいぞ。おい、冷やをおかわり」
若干ムッツリとした目つきで親父は俺が差し出したコップを引ったくると、乱暴に渡してきた。俺はその態度に腹を立て親父を睨み返す。
「大将、なんだその態度は。それが客商売をする人間の態度か?」
「……そんなこと、お兄さんに言われたくないね」
酔いで回った頭は乾燥した藁のようなもので、普段以上に着火が早い。俺は明らかに機嫌を悪くした親父に噛みつく。
「思ったことを正直に言っただけだろうが。美味くないものを美味くないといって何が悪い? まだきちんと食べているだけマシだろうが」
「ふざけんな、まだ世間ってものを知っちゃいない若僧が。そんなに美味いものを食いたいんなら、こんな場末の屋台じゃなくてきちんとした店に行きやがれ」
「そうやって客の意見をまともに取り入れようとしない店主の態度が、料理を不味くしているんだよ。潰れてしまえ、こんな屋台」
「作り手を前に、そこまでホイホイ不味い不味いって連呼出来るあんたの性格が一番マズいわ! それと俺の呼び方をいい加減に統一しやがれ!」
売り言葉に買い言葉。頭が茹で蛸のように真っ赤になった親父は、歯をむき出しにして俺を睨む。きっと間に屋台がなかったら掴みかからん勢いだろう。
俺も別に喧嘩を売りたかったわけでもないし、少し言い過ぎたとも反省している。しかしフラストレーションを溜め込んだ今の気分では、そんな冷静な思考などかき消えていた。
「そんなにケチを付けるんなら帰ってくんな。口先だけの若僧に飲ませる酒なんて、もうねえよ。二度と来るな」
「なんだと、ハゲ親父。客を追い返す店員があるか。貴様、それでも商売人か。おい、酒をおかわり!」
「お兄さん、頭が良いんなら民法第百九八条の占有妨害又は第七十九条の不法行為を知っているか? 店は気に入らない客が来たら追い返して良いって法律で決められているんだよ。ほれ、そのコップを空けたらさっさと帰んな」
目つきだけギロリとこっちに向け、親父は手をヒラヒラ振った。俺はその態度にカッときて立ち上がる。こんな最低な店主を見るのは初めてだし、客の立場で来てここまでコケにされたのは初めてだ。
俺は親父にぶつけるセリフを頭の中に用意しながら、コップの中に入った酒を一気にあおった。そしてグッと力を込めて番台にコップをドンと叩きつけて立ち上がる。

「貴様のようなタコやろごぼろげぼばばっ!ぶごぶれぶしょろばっ!おぼろぼぼぼろっ!」

親父の目が点になる。俺の目も点になる。この空間が一瞬にして、静寂に包まれた。
おでんがグツグツと煮える音が妙に大きく聞こえる。
まさに、噴射だった。
自分でもビックリするほどあっという間に、胃袋の中のご馳走が外に飛び出した。
急に酒を大量に飲んで咽てしまったのと、大声を出そうと口を開けて下っ腹に力を込めたのが見事にコンボを決めた。腹筋と横隔膜が条件反射並みに収縮し、胃袋は驚いてパニックを起こし、入ってきた物を入ってきた場所にぶん投げ返した。
最早、留める余裕もなかった。くしゃみをしたら耳から脳みそが出た気分だった。
グツグツと心地良く煮釜に泳ぐおでん達。その上に、場違いな具材が唐突に追加されている。
いくら料理下手な俺でもお好み焼きは煮るものだと思っちゃいない。ましてやお好み焼きを作るのは得意な方じゃない。いや、どちらかといえばお好み焼きを作りたい気分じゃない。というよりも、このお好み焼きはヤバいだろ。
親父が正気に戻るより一瞬早く、俺はここ数年にない反応速度で回れ右をして走り去った。後ろから聞こえてくる親父の怒号に耳を塞ぎながら、とにかく夜の町を全力疾走で駆け抜けた。
たぶん小学生くらいの時だろう。普段はニコニコと料理の話しかしない父親が、珍しく真面目な顔で俺に諭した。どんなことがあっても逃げてはならない、前に進まなくてはならない、前に進むのが辛くても逃げてはならない、立ち止まり歯を食いしばる方がよっぽどマシだ、と。
お父さん! 今はそんな立派なことを言っている場合じゃないよ! 逃げなきゃいけない場面だってあるから、絶対!

無我夢中で走り続けて、息が上がり膝をついた場所はクレセントの近くにある廃品回収置き場だった。
足はガクガクで喉が有り得ないくらいに乾き、もう一歩も動けない。急に走ったせいで酔いが猛烈に回り、俺はゼーゼー荒い息を吐いたまま横向きに倒れた。
最低最悪だ。昨日からずっと最悪なことばかりだ。無駄に長い帽子を被ったおかげで小火騒ぎを起こし、不味い賄いを作ってマエストロから呆れられ、場末の屋台の親父と喧嘩してゲロをぶちまけて逃走。何一つ良いことなどない。他人に迷惑掛けてばかりだ。
しかも全ては自分の傲慢さと不器用さが原因で引き起こした事ばかり。目も当てられない。誰に話しても同情すらしてもらえないだろう。
また、自然と涙が溢れ出してきた。もう何度目になるか分からない悔し涙に呆れ果て、自分自身に嫌気がさしてくる。
拭っても拭っても涙は次々に溢れ出してきて、俺はついに諦めて声を上げ泣いた。
こんなゴミ置き場でボロ切れのように泣き崩れる自分に、一体どれほどの価値があるだろうか。
親父が死ぬ前の頃は、馬鹿みたいにチヤホヤされて、自分がこの世の長か王だと思い込みすらしていた。だが結局のところそんな生活は自分が築き上げたものではなく、他人の財産に胡座をかいていただけで、そんな事すら気付かなかった自分はまさに裸の王様同然。ここに捨てられた粗大ゴミの方がまだ価値あるものだっただろう。
頭上を見上げるとビルの谷間からは、月も見えず星も曇天に隠されている。引きこもり時代に幾度となく味わった孤独の二文字が、空っぽになった俺の胸に寒い風を吹かせた。
迂闊にも屋台で親父に店の名前を言ってしまった。明日か遅くてもその次の日には、あのタコ親父が店に乗り込んでくるかもしれない。
そうなればいくら情に厚いマエストロといえども俺を見捨てるだろう。その場合を想像するだけで、絶望感はさらに胸に広がっていった。
もう一秒も時が進むことすら恐怖になる。出来ることならこの存在すら無かったことにして、消えてしまいたい。
泣き疲れたというのに涙は枯れることはない。このまま泣き続け、体すべての水分を出し尽くしてしまえば朽ち果てられると一瞬思ったが、先に枯れたのは声の方だった。
ビルの狭間に反響していた負け犬の雄叫びも弱々しくなり、そこで俺は傍らで静かにうねりを上げる物に気付いた。
グシャグシャになった目を擦らなくてもそれが何だか分かる。俺が二日間かけて運び出したあの冷凍庫だ。
以前までクレセントで一役買っていた冷凍庫だったが、先日ミシュランで一つ星を取ったのを機に引退を言い渡されたのだ。なんでも、星をもらったレストランが冷凍食品を使うのは相応しくない、という理由らしい。
あまり得意でない力仕事をしたせいで凝った腰をさすりながら体を起こし、俺は冷凍庫に手を当てると微かな振動が伝わってきた。無機質ながらも、こいつが生を成している証だ。
不思議なことにこの冷凍庫は、電源を差し込んでいなくてもキチンと稼働をしているのだ。これはどう考えてもおかしい。どういう構造になっているのだ?
俺はおもむろに冷凍庫の扉を開く。業務用の天面ドアタイプなのでやや重量があるが、不思議なことにドアは途中まで開けると、まるで俺を招いているかのように勝手にスーッと全開になった。俺は庫内に手を差し入れ、指に絡み付く冷気を確かめる。
「随分と冷たい……」
一人ごちながら冷凍庫の内側にマグネットで貼り付いた温度計を確認して唖然とする。
常にマイナス四十度前後をキープしていたのに、今はマイナス八十度まで計測可能な温度計の底を打っていた。もしも温度計が壊れていないならば、今この中はマイナス百度以下の超寒冷ボックスである。
「なんだ、こいつは。本当に壊れてしまったのか? そもそもいくら業務用冷凍庫でも氷点下過ぎるだろ。いや、電源も無しに稼働している時点で……」
コイツについてあれこれ思考を巡らせていたが、はたと溜め息を吐いて打ち切った。この冷凍庫の実態など、俺にとっては最早どうでも良いことなのだ。
ただ、俺の心肺機能を停止させてくれるだけの凍える温度を保っていてくれれば、それでいい。
俺は涙を拭うと躊躇なく冷凍庫を跨ぎ、中に片足を入れる。その瞬間から冷気はズボンの裾から脛へと絡み付く。心臓を鷲掴みするような恐怖がゾッと全身を駆け巡るが、俺はもう片足を冷凍庫の中に入れた。
辛くも絶望感で打ちのめされた魂が、死への恐怖を凌駕してしまったのである。
冷凍庫にスッポリと収まると、俺は扉を閉じてゴロンと仰向けになる。そして胸元で手を組み、静かに瞼を閉じた。耳元に冷凍庫から伝わる振動音が聞こえたが、すぐに意識が遠退くのと同時にかき消えていく。
もう今生に未練はない。誰にも気付かれずにひっそりと息を絶とう。
電源いらずの冷凍庫ならば、このままゆっくりと体温を奪い、今の形を崩さず固めてくれるだろう。そしてそのままこの冷凍庫と共に廃棄処分されれば良いのだ。そうすれば誰にも迷惑を掛けずに済む。それが俺の世の中に出来る最後の気遣いになる。
背中からジワジワと体の表面が凍結していくのを感じる。不思議と痛みはなく、楽に死ねそうだと喜ぶ。体の感覚も最早消え失せ、意識自体も朦朧としてきた。
一瞬だけ、一人アパートで俺を待つメイの寂しげな顔が脳裏をよぎる。
次に頭の中へ現れたのは、無表情にこちらを見つめる親父と写真でしか知らないお袋の姿だった。
ごめんなさい……。親不孝で意気地なしの息子でごめんなさい……。
すぐにそっちへ行くよ。だからあまり怒らないで欲しい。親父から説教をされたことなんてなかったから俺、傷付いちゃうかも。
思考が完全に停止する直前に一度だけ、背後で冷凍庫が大きく唸りを上げた音が聞こえた気がした。


第二章

世界各地のグルメスポットを隈無く網羅することに生涯を捧げた親父だったが、食べ歩きの他に唯一の趣味と呼べるのがドライブだった。
普段は会社から役員支給されているリムジンで移動していたが、オフの時はハマーで颯爽と街を駆け抜けていた。
もっとも颯爽というには贔屓目過ぎるほど運転は下手くそで、急加速急停車急旋回はお手の物と、某ネズミ大国のアトラクションに乗っている気分だった。俺の不器用さは確実に親父からの遺伝だろう。
それでも下手の横好きとは言ったもので、よく俺を誘っては首都高に乗って都外地にある絶品レストランへと向かった。助手席へ乗せられる度に文句を口にする俺へ、親父はバツが悪そうに首を竦めたが、すぐに子供みたく無邪気に笑いハンドルをさばくのだ。
そんなある日、金沢にある料亭に行った帰りのこと。朝早くに出掛けたこともあってか、俺は帰り道に助手席でうたた寝をしていた。そして自分の体が異様なくらいに揺れていることに気付いて目が覚めたのである。
うっすらと目を開けようとした瞬間、何かにぶつかった衝撃を受けて体が座席から浮いた。驚いて顔を上げるとさらに腰が浮き上がる。
局地的な地震か何かと思い視線を外に向けて唖然とした。どこの山かは分からないが、車はアスファルトの上ではなく地肌丸出しの林道の中を猛スピードで走っていたのである。
あんぐりと口を開けようにも、体が跳ね上がって舌を噛みそうになる。寝起きの混乱した俺の耳に聞こえてきたのは、回転数を有り得ないくらいに回したエンジン音と、目を爛々と輝かせた親父の高笑いだった。
どうやらこの親父、山道を走っている間に、オフロードで走ってみたい衝動に駆られたらしい。半ば泣き叫びながら暴走する親父を無理矢理に静止させ、俺は親子の縁を切らんばかりの勢いで親父を怒鳴り散らした。
それからというのも、俺は乗り物の中では絶対に眠れないというトラウマを植え付けられたのである。神経が繊細過ぎると笑われるかもしれないが、そんなものでは済まされないほどの衝撃を味わったのだ。あんな体験をすれば誰だってトラウマになるだろう。
そう、ちょうど今の揺れはあの時の感覚に似ている。

「親父揺れてる、いてっ!」
俺は反射的に身の危険を察して跳ね起きた。しかし勢い良く体を起こした瞬間、額を何かに思いっきりぶつけて、もんどり打つ。
目の前に星が舞い散る。俺は雄叫びを上げながら、両手で額を押さえて目を見開いてみたが、視界は依然として真っ暗闇だった。
頭の中が整理仕切れなくてまごつくが、俺の体は未だにガクンガクン揺れ動いている。何かの中に入っていて、その何かがもの凄い勢いで移動をしているのは分かった。だがパニック状態の脳みそではそこまでが限界で、俺は頭を抱えて漆黒の空間の中、ガタガタと震えていた。
何度目か箱の中で跳ね飛ばされた後、一際強い衝撃をドン! と味わされてから、箱の外は静かになって停止した。俺は仰向け状態で縮こまり、凝り固まった体からゆっくり力を抜く。
そして曲がった脚にグッと力を込めて天面を蹴り上げて立った。
「ふざけるな! シートベルトくらいきちんと締めさせろ! この苦痛、損害賠償程度で済ませられると思うな! 貴様にも深いトラウマが生まれるくらいに毎日ネチネチと俺の作った不味い飯を食わせて尚且つその感想をポートレートにしてブログに一年間記載させ続けてやる!」
気が動転して訳の分からない言葉を口走ってしまった。
そして急に立ち上がったのと暗闇から日光の当たる場所に出たからか、軽く目眩を起こす。眩しい、ということは屋外なのだろうが、何故俺は太陽を拝んでいる? そもそもさっきの震動は? ここはどこだ?
様々な疑問が頭の中で矢継ぎ早に生まれてはしぼんでいく。そして眼もだいぶ慣れてきたので俺は辺りを見渡し、さらに首を傾げた。
俺の目の前には馬に跨った人間が二人。さらにその男の後ろには同じく馬に跨り、棒の先端に尖った刃物を具え付けた人間がずらりと囲んでいた。遠巻きの連中は口元を四角い布で覆い隠している。
馬に乗っているとか、槍を握っているとか、全員の目が点になっているとか、時代錯誤な服装とか。関節がギリギリ唸るほど首をひねりたい光景が俺の周りに溢れていたが、まずは一番に突っ込みやすいところを突っ込んでおきたい。
この中に、俺の知り合いがいた。
「……マエストロ。お前はここで何をしているのだ?」
俺の疑問に正面で目を丸くしていたマエストロは、額にシワを作って唖然とした。
「マエストロ……? お前、誰だ?」
「お前、自分の渾名も忘れてしまったのか。俺が唯一、他人に対して敬意を示した渾名なのだぞ。それともなにか、嫌がらせか? 今日の昼に不味いパスタ食わされた腹いせがそれか?」
「何を言っているのだ? 突然に崖から落ちてきて。俺に東邦人の知人などいない。お前も賊の一味か? いや、だったら何故に仲間を突き落とした」
「誰が族だ。誰が盗んだチャリンコで走り出すだ。そもそも後ろの奴らは何者だ? そっちの方が族っぽいぞ。良い歳こいて山賊ごっこか。なんとも侘びしい趣味だな、マエストロ」
その一言で急にマエストロは顔色を変えると、馬の手綱を引いた。鼻息を荒げた馬が突進してきたのに驚き俺は思わず身をかがめたが、マエストロを乗せた馬は鮮やかに俺を飛び越えた。そしてマエストロは着地と同時に背中に携えた弓矢を構え、放つ。
俺の頭上を掠めて飛んでいった矢は、後ろを阻む馬の胸元に刺さった。その瞬間、眼の色を変えた馬が暴れ出し、乗っていた人間を振り落とし、隣の馬を後ろ脚で蹴り飛ばす。土埃が舞い、馬の悲痛な叫びと大地を踏みしめる音が交差し、辺りは一気に修羅場と化した。
「なんて事をするんだ、マエストロ! お馬さんが可哀想じゃないか! 動物愛護団体から苦情が来ても知らんぞ! お前、向こう一年間は馬肉を食べるの禁止な! 桜肉、超美味しいのに!」
 俺が抗議をしていると、マエストロの傍にいた人間が馬から降りて俺に近付く。顔面を布で覆った怪しい人物にたじろいだが、そいつは俺を冷凍庫から出るように指示をした。
「すまんが、これを借りるぞ」
「は? 冷凍庫を?」
 するとあろうことか、そいつは冷凍庫を発砲スチロールのように軽々と持ち上げると、目の前で道を阻んでいる一団へ向けて放り投げた。冷凍庫をぶつけられた連中が、絶叫と共に馬もろとも崖下へ落ちていく。
 とんでもない馬鹿力に開いた口が塞がらなかった。俺が二日間掛けてやっとのこと動かせたほどの重量だぞ、あの冷凍庫は。
あまりの有り得なさに呆然とした俺を、マエストロは馬上から冷静に俺を見下ろし、馬の鼻先を逆方向へ向ける。
「退路は確保出来た! 逃げるぞ、東邦人! お前がこの賊達の仲間でないのなら、俺と一緒に来い!」
俺はマエストロと後ろで乱舞している一群を交互に見る。
何が起こっているのか、唐突過ぎてさっぱり分からない。
この風景と空気の匂い、マエストロの服装や暴力的な行動に、馬。全てが現実味に欠けていて、自分が夢の中にいるようだ。
頭を抱えて悩む俺に痺れを切らしたのか、マエストロは連れの怪力に声を掛ける。するとそいつは俺の腰を掴み、万力のような力で無理矢理に馬の背中に投げた。そして自分も軽く身をこなし、馬上に跨る。
「走るぞ! しっかり掴まっていろ!」
その言葉で俺は反射的にマエストロへしがみつく。すると何の前触れもなく馬は大地を馬蹄で踏みしめ、駆け出した。覆面の怪力も後方の賊を警戒しながら、あとに続く。
激しく揺れる馬上で俺は振り落とされないよう、必死にマエストロの肥えた腰に両腕を絡める。後ろを振り向くと、矢が刺さった馬が暴れに暴れバランスを崩し、ちょうど崖下へと転落していくところだった。
俺は悲鳴を上げて落ちていく馬を憐れみながら、視線を移す。さっきまで俺が入っていた冷凍庫が、暴れた馬に蹴られて崖下へ落ちていった。
その光景を眼にした瞬間、俺は思わず叫んだ。
「冷凍庫っ! 俺の冷凍庫が落ちちゃった!」
マエストロの体から手を離し、冷凍庫の方に手を伸ばそうとしたが、揺れる馬上では掴んだ物から手を離すのは命を落とすに等しい。離しかけた俺の手を、マエストロが空いている脇で挟み、遮った。
「このまま奴らが追って来られない場所まで突っ走る! それまでは大人しくしていろ!」
風景は飛ぶように変わっていき、あっという間に遠ざかっていった。

どのくらい走っただろうか。いい加減に尻の痛さも限界に達してきた頃、マエストロは手綱を軽く引いて馬の速度を弱めた。
「この辺まで来ればもう安心だ。ゆっくりと道中を進んでも大丈夫だろう」
「あがが、こ、腰が、砕けそうだ。なんだ、乗馬というのはこれほどまでに過酷で殺人的なのか。拷問に近いぞ」
小さく微笑みを浮かべると、マエストロは馬の横腹を足で叩く。すると馬は首を振って軽く嘶いた。
「俺の名前はギョーム・ティレル。お前の名前は?」
「何を今更……。部下の名前を忘れるほどに脳みそにも脂肪が付いてしまったのか? 俺の名前は亀岡渉だ。給与明細に間違った名前を書かないようにキチンと覚えておけ」
こいつ、自分に外人っぽい名前をつけて何様のつもりだ? ミシュランに星をもらったからって、名前までフランス風にするつもりじゃないだろうな。
これだから東北の片田舎から上京してきたお上りさんは品が無くて困る。もっと自分の名前に誇りを持て。お前には日本人らしい不細工な名前があっただろう。……あれ? マエストロの本名って、何だっけ?
「ワタルか、良い名前だな。ところでワタルは、何であんなところにいたのだ? そもそも、さっき入っていたあの白い箱は一体? 東邦人はみんなあの箱を移動手段として用いているのか?」
「そんなわけないだろ。あれはどうみてもお前が捨てた業務用の冷凍庫じゃないか。さっきから白々しいぞ。まともに受け答えをするのが腹立たしくなってきた」
「俺だってワタルの言っている意味が半分も理解出来ん。お前、俺を誰かと勘違いしていないか?」
何かがおかしい。俺の目の前にいるのは確かにマエストロなはずだ。だが瞳の色といい、服装といい、馬に乗っているといい、何かが違う。
もう一度、頭の中を整理する。
俺は昨晩、屋台の親父と喧嘩してゲロをぶちまけて逃げてきた。そして生きている事にほとほと嫌気が差し、冷凍庫に自ら入り凍死自殺を図ったつもりだった。でも次に目覚めると、何故か山奥の崖を冷凍庫で滑り落ち、馬に乗ったマエストロに出会い、冷凍庫を覆面野郎からぶん投げられ……。
目覚めたところから明らかに何かが違う。何故、都会の片隅の廃品置き場にいた俺が、冷凍庫ごと山奥に移動している? 誰がそんな面倒臭いことをしたのだ?
そして、ここはどの辺だ? 山岳地帯ということは、多摩かその辺りなのか?


更新日 7月27日

山岳路は、しばらくすると平原へと続いた。後ろを振り返ると今辿ってきた地形の全容が露わになる。鬱蒼とした木々に囲まれた山だと思っていたものは意外と標高が低く、山というよりも丘が連なったような大地だった。平原に進むと途端に道は開けて、道幅は自家用車が二台は通れるほどに広い。どうやら先ほど通った山道は正規の道ではなく、獣道を切り開いただけのようなものなのだろう。
青々と茂った草原の真ん中に通った道路を悠々と進むのは清々しいほどに気分が良い。頬に当たる風が暖かく、俺は思わず感嘆の吐息をついた。しかし、何かがおかしい。
「なあ、マエストロ」
「だから俺はマエストロじゃない。ギョーム・ティレルだといっただろう」
「なあ、業務タオル。一つ聞いていいか。いや、もっと早くに聞くべきだったが、ここはどこだ?」
まずは疑問の基盤を固めておかなくてはいけない。マエストロは一度、チラリと俺を横目で振り返り、次に目の前に広がる雄大な景色を見渡した。
「ここはプロヴァンスのドフィネ地区だ。お前はそんなことも知らずにフランスへ来たのか」
心が折れそうだ。何を馬鹿げたことをのたまっているのだ、このデブは。
「プロヴァンスといったらフランスの地区だろう! 俺だって親父と何度となく赴いたが、こんな大自然ではなかったぞ。近代的とは言わないが、少なからずとも道路はまともなのが通っていた。それにフランスまで一体どれくらい時差があると思っている。もう少しマシな嘘をついてくれ」
「時差? とは何のことだ」
頭がグルグルと回りおかしくなりそうだ。これ以上、マエストロの下らない冗談に付き合っていられないが、たちが悪いことに俺の本心はマエストロの冗談を冗談だと捉えていない。
「そうだ。ここがプロヴァンスだと言うなら、確かこの辺りにアヴィニョン教皇庁があったはずだ。どの方角だ?」
するとマエストロは急に手綱をひいて馬をとめた。リズムよく歩みを刻んでいたのを邪魔されて、馬は不機嫌に鼻息をフンと荒げる。
「お前、何故この地区に教皇が城を構えることを知っている? 国内でもその機密情報を掴んでいる人間は数人だけのはずだが」
鋭いマエストロの視線が突き刺さり、俺はたじろぎながらも反発する。
「知っているも何も、ガイドブックに載っている程度の知識だろうが。機密情報などと大袈裟に言うものか? いつの間にお前の言うフランスは、観光事業に対して神経質になったのだ」
半ば呆れながら一般常識を語る俺に、マエストロはなおも不審な眼差しを向ける。
「命の恩人だと思って無用な詮索は控えていたが、よくよく考えれば怪しすぎる男だ。東邦人で急に白い箱に乗って現れるわ、妙な服装をしているわ、話は全く噛み合わないわ」
「怪しいのはお前の方だ」
そこでマエストロは値踏みするように俺を頭から爪先までジロジロと眺め、おもむろに口を開いた。
「お前もしかして、魔法使いだな?」
「……駄目だ、こいつ。頭がイッてやがる」
「昔、何かの文献で読んだことがあるぞ。東邦には黄金で出来た神秘的な国が存在し、見たこともない妖術を操る魔法使いが住むと」
「はいはい、そういうことで良いよ、もう。勝手にやっていてくれ、豚野郎」
 隣を並走する覆面野郎も、チクチクした警戒の眼差しをこちらに向けてくる。よく見れば、腰に差したナイフに手まで掛けているのが恐ろしい。
下らない戯言に付き合うのにはウンザリだ。調子が狂うような出来事や話がポンポンと飛び出て、俺は正直に辟易した。一体、誰が何の目的で俺にこんな受難を与えているのだ。
「……もしかして」
その時、俺の頭の中にある憶測が生まれた。
顎に手を当て、更に怪しんだ眼差しで見つめるマエストロを見返しながら脳みそを働かせる。考えを巡らせれば巡らせるほど、予感は実感を得てくる。誰が何の目的で、までは分からないがこんな大それたことが出来る輩に心当たりがあるのは一つしかない。
「なるほど、合点が入った」
親父の実家だった大企業、亀岡グループが仕掛けたドッキリだろう。
奴らほど財産があれば、ここまで大袈裟な芝居の舞台をこしらえるのは容易いはず。
きっとあんな大企業だ。俺が亀岡家トップの仲間入りするに相応しい人物が、試しているのだ。とすると、あの亀岡グループが倒産したというニュース自体も真っ赤な嘘。メイにしても仕掛け人の一人ということか。
しかしながら、数年という長期スパンで随分と手の込んだドッキリを仕掛けたものだ。
そして俺は、もしかしたら親父の葬式も嘘だったのかも知れない、という淡い期待すら抱いた。もしもそうだとしたら、どれだけ嬉しいことか。一瞬だけ胸をよぎった哀愁に苛まれながらも、俺は首だけこっちに向けたマエストロに視線を戻す。


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2012'07.16 (Mon)

傲慢に書き綴ったル・ヴィアンディエ 第一章

レストランの厨房はいつだって真剣勝負の場だ。
『二番テーブル、オーダー! 手長海老のサラダ、サフラン風味! 仔牛胸線肉の筒巻きブレゼ!』
『ウィ! ムッシュ!』

研鑽と絶え間ない好奇心を培った調理人。俺達の屈強な魂は、ある一つの信念に向かってのみ、捧げられる。
そして俺達の行動は純粋に、緻密なまでにその信念だけを追い求め、蠢く。
『三番テーブルのオードブル、上がりました!』
『一番テーブルのビアンドはまだか! ゲストのご婦人は魚よりもビアンドが先だとオーダーしただろ!』
『山根! そろそろ六番テーブルのアントルメに掛かれ! クラシック・ガトーショコラティエ!』
『ウィ! ムッシュ!』

さほど広くない厨房内を計算し尽くされた手捌きで、次々と料理を仕上げていく。
一つの料理を手掛けるシェフの数は少なくとも三人以上。寸分の狂いも無駄な動作もなく、芸術品に近い料理を完成させる姿は、さながら精巧な高級腕時計の歯車のように正確だ。
『三番テーブルのホストが、魚料理のワインをイタリア産からフランスのピノ・ノワールに変更! 可能ならばソースもワインに合わせて頂きたい!』
『ウィ! 了解だ!』
『おい、ダメ岡! ソテーパンはまだか! ラスト一枚しかないぞ!』
『一番テーブルのビアンド、上がりました! 遅れて申し訳ない!』
『安心しろ! 今は先に出したバケットにご執心中だ!』

俺達が胸に宿した信念はただ一つ。お客様が平伏すほどパーフェクトな料理を提供すること。
そのためならば、たとえこの身が熱したフライパンで焼かれようとも厭わない。この世にまだ存在しえない絶品な料理を作るためならば、喜んで全てを捧げよう。
何故なら俺達は、永遠の探求者であり、貪欲な聖職者でもあるからだ。
『山根! アントルメは後回しだ! 先に五番テーブルのガルニを盛り付けろ!』
『三番テーブルのポワソンのソース、やり直せ! 佐々木の言ったワインの話を聞いてなかったのか!』
『ウィ! すみません! ムッシュ!』
『ダメ岡! 何をブツブツ言っている! ソテーパンはまだか! さっさと洗え!』

俺はそんな探求心の奴隷である事を、恥だと思ったことは一度もない。
歯車の一部であることに、反抗心を抱いた事は一度もない。何故ならそれが俺の存在意義。調理場の一部である事が俺を俺たらしめる、唯一の瞬間だからだ。
『ダメ岡! ……おい、ダメ岡! 燃えているぞ!』
あぁ、言われなくても分かっているさ。
俺の魂は熱く、だが冷静さを失わない青い炎でたぎっている。
この燃え盛る思いは誰にも止められない!
「だからダメ岡! 燃えているって! 頭が!」
……頭?

洗い物で溢れかえったシンクから顔を上げると、厨房内にいる奴らが一斉に俺を見ていた。奥の方にいるホールスタッフまで、俺を見ていやがる。
一体なんだ。注目されるのは嫌いじゃないが、理由もなくというのは気分がいいものじゃない。
俺は口をあんぐり開けて固まっている馬鹿共を無視して、辺りをキョロキョロと見渡す。そう言えばマエストロのデブが叫んでいた。頭が燃えている、と。俺が燃やしていたのは、熱い魂だが。
ちょうど横を向いた時、鏡のように磨かれた食器棚に自分の姿が映る。そして、驚愕した。
俺のコック帽の先端が、紙製のマッチのように燃えていた。
「うぉーい! カチカチ山じゃねーか!」
冷静沈着な青い炎を宿した俺の魂が、いっぺんにパニックを引き起こす。もう、アラートアラートだ! 真っ赤なサイレンがウィンウィン鳴りまくっているよ!
頭のてっぺんから炎を発して厨房内を駆け回る俺を避けようと、シェフ共も慌てて右往左往する。
「おい! 誰か消してくれ! 俺の頭がカチカチ山の狸になっている! 違う違う! 狸は俺! カチカチ山はこっち!」
「うわぁ! こっちに来るな、ダメ岡!」
「お前ら! 炎を自由自在に操る調理のスペシャリストだろ! この位の火なんて一発で鎮火出来るだろうが!」
「もう何言っているんだか分からねえよ! お前なんてダメ岡じゃなくて、馬鹿岡だ!」
ギャアギャア喚き散らすシェフ共に驚いた他のホールスタッフも、何事かと全員駆け付ける。
その時、叫び声を上げて狂乱する俺の首根っこを、太く無骨な手が掴まえた。そして俺の頭ごと、水が張ってあったシンクに突っ込む。
炎の勢いのわりに、ジュッとしょぼい音を立てて鎮火した様子を見て、シェフ共はホッと胸をなで下ろす。
俺も一先ず安堵したが、鼻に入った水をダバダバ垂らしながら、シンクに俺の頭を突っ込んだ肥えた腹を持つ男を睨み付けた。男は額に青筋を浮かべながら、ニッと微笑む。
「どうだ。スペシャリストは、鎮火の仕方も一流だろ?」
「鮮やかさに欠けている。三流だ、三流」
鼻から荒い息を噴き出して、デブはもう一度、俺の頭を押さえてシンクに突っ込む。
俺のせっかく有り難い指摘の何が不服だったんだ! これだから頭の中にカニ味噌しか入っていない馬鹿を相手にするのは、苦痛でならない。

「そもそも、シンクで頭を下げたすぐそこに、コンロがあるという設計がおかしいんだ。少し考えればわかるだろ、常識的に」
濡れた髪をタオルで拭きながら、俺は目の前でむっつり腕を組んだマエストロへ、防火管理の指摘を促す。
六本木のギリギリ一等地にあるレストラン、ここ『クレセント』のオーナーシェフがこの男だ。何がクレセントだ。満月みたいな体型をしやがって。自分の願望を店名につけるな。
「防火管理者は自分なのだろ? そんなことも分からないようじゃ、オーナー失格だ。ボロがでないうち、早々にミシュランの星を返上した方が身のためだぞ」
するとマエストロは、シンクに浮いている半分焼け焦げた俺の帽子を掴み上げると、俺に投げつけた。
「俺だってな、新米がこんな長いコック帽を被っているなんて、思いも寄らなかったんだよ! 帽子の長さと立場がミスマッチ過ぎて、建物の構造の問題を超えているわ!」
どうやら引火の原因は、下を向いて洗い物をしていた俺のコック帽の先に、ちょうどコンロがあったからだ。厨房で使用するガスの火力は一般家庭の比ではない。紙や布類などを近付ければ、たちまち炎へと変わる。
「こっちは知らないうちに頭上が大火事だったんだ。カチカチ山の狸の気分を味わされたのだぞ。あの気付かないうちに身辺がメラメラと燃える恐怖感。この歳になってさらにトラウマが増えたじゃないか。損害賠償請求ものだぞ。どうしてくれるのだ、マエストロ?」
「うるせえよ。お前が火傷したらな、傷口にたっぷりと粒入りマスタードを塗りたくってやるよ」
「つまり俺をディアブル風にしようってか? まったく、どこまでも美味しくすることしか考えない奴め」
「黙れ、ダメ岡。ていうか、お前にはちゃんと新米用の新しいコック帽を渡してあるだろ。あれはどうした?」
「都合良く俺のアパートがその日、燃えるゴミの日だったからな。あんな威厳も格式もなさそうなコック帽なんぞ、貰ったその瞬間に捨てた」
「支給品を勝手に捨てる馬鹿があるか。お前も一緒に捨てられろ。じゃあその長いコック帽はどうしたんだ?」
「買った。アマゾンで検索して発注した。イワキユニフォームのが一番被り心地が良かった」
「メーカーなんざ、どこでもいいんだよ。あのな、お前は知らんだろうがな、コック帽の長さはそのレストランでの等級を表しているんだ。シェフの技量や格に比例して長さが決まるっていうヒエラルキーが、この厨房という小さな戦場には存在しているんだ」
「そんなこと、知っているに決まっている」
「だろうな。だからまだまだ下っ端で技量も経験もないお前なんざ、パートのオバチャンが被るようなほっかむりで充分……て、知っていたのかよ!」
顔を真っ赤にしたマエストロは地面に落ちている俺の帽子を拾うと、あろうことかもう一度、俺に投げつけた。
「汚っ! なんで一度地面に落ちたものを触れるんだ! その歳で未だ三秒ルールを適応しているつもりか? 言っとくけど、完全に三秒以上過ぎていたから。エンガチョだから。サルモネラ菌だから」
「うるせえよ! 汚物に汚物をぶつけて何が悪い! お前、知っていて敢えて長いコック帽を被っていたのかよ! 俺より三センチも高い帽子だったのかよ!」
いつの間に長さなんて計ったのだ。体型のわりに細かい事を気にする奴だ。
「お前みたいな小物なんてな、田んぼの跡地に作った低い平屋立て貸家のように短いコック帽で充分なんだよ。下っ端の分際で調子こいて東京タワーなんか被るんじゃねえよ」
「エッフェル塔だ。フレンチレストラン的に」
「どっちでもいいんだよ! いちいち口答えするな! ……はぁ。ったくよ」
そこでマエストロは一端深呼吸をするとコック帽を脱ぐ。そしてでっぷりと太った腹の上に、組んだ腕を乗せた。
「お前よ、前々から言っているが何でそこまで偉そうなんだ? 元・大企業の亀岡グループ御曹司なんて肩書きはとっくに過去のものだぞ。親父さんが死んで、養ってくれた親戚の家から逃げ出して、大学辞めて、他に行くとこがないんだろ。だったらここで歯を食いしばってでも頑張らねえと、また居場所を失うじゃねえのか」
「……」
俺はマエストロに聞こえるように大きく舌打ちをすると、俯いて目をそらした。それでもこの豚は、真っ直ぐに俺を見据えて話を続ける。
「俺も若い時には亀岡グループ直轄のホテルで世話になったから、でかい口は叩けんがな。それも五年前に経営破綻して倒産。最早、大昔の栄光でしかないぞ。ここの連中に気が荒いのはいないから幸いしているがな、他の店だったらとっくにボッコボコにされて外に放り出されてもおかしくねえよ。お前がどんなに鼻につく元ブルジョワでも、みんな我慢していてくれる。でもな、それでもここにはお人好しばかり雇っているわけじゃねえ。お前の方から腰を低くしてみんなに歩み寄らないと、誰もお前を認めてくれないぞ」
「認めろだなんて頭を下げる気は毛頭ない。俺は貴様等から調理技術を残さずに盗み取るだけだ。なぜなら俺は孤高な一匹狼、イテっ!」
「敬語を使えと言っているだろ」
マエストロの拳が俺の脳天に落ちる。手加減くらいしろ、親父にも粛正されたことがないんだから。
俺は憤然とマエストロに言い返した。
「食材や調理法に関する知識も、料理センスだって、俺はここにいる奴らより劣っていると思った時など一度もない。俺がこの店で一番秀でているのは、火を見るよりも明らかなのだ。だがお前等は、いつまで経っても年功序列という悪しき習慣に浸って惰性を貪っている。そんなに恐いか? 若造の俺が貴様等よりも優秀なシェフになるのが」
憮然と反論する俺に対し、マエストロは額に手を当て、顔を渋くしかめただけだった。その表情が呆れの陰に、どことなく哀れみが潜んでいたのを見逃さない。
……くそ、豚から同情されたところで嬉しくも何ともない。
始めは俺達のやり取りを眺めていたシェフ共だったが、徐々にランチタイムの忙しさがピークに達してきたのだろう。厨房内はまた慌ただしさに背中を押され、誰も俺達を見向きしようとはしなくなった。
マエストロも繁忙してきた調理場が気に掛かってきたのだろう。気分を切り換えるように深呼吸のような溜め息を一つ吐くと踵を返した。
「ダメ岡、洗い場はもう良い。お前が厨房にいるとトラブルの元だ」
「おい、マエストロ! じゃあ俺は何をしたらいいんだ?」
「外にこないだ廃棄した冷凍庫がある。アレを裏路地の廃品回収置き場まで運んどけ。あの程度の距離で、業者を呼ぶのは勿体ない」
裏の勝手口を顎でしゃくるマエストロ。正直、力作業は大の苦手だ。俺は思いっきりしかめ面をマエストロに向ける。
「俺一人で運ぶのか? あんな重そうなヤツを」
「当たり前だ。この忙しい時間帯に暇を持て余しているのは、お前くらいだからな」
「……お前が暇にしたんだろうが。豚野郎」
「何か言ったか、ダメ岡。仕事を与えてやるだけでも有り難いと思え。軍手は納屋の棚にあるから使えよ。調理人にとって手指は生命線だ。いくら不器用なお前でも怪我をされたら困るからな。良かったな。優しいオーナーシェフで」
したり顔と労いの言葉を残すと、マエストロは喧騒な戦場の中に紛れて消えた。俺は肥えた背中を一睨みすると、濡れた前掛けを外して勝手口から外へ出る。
何が優しいオーナーシェフだ。単に労災の手続きが厄介なだけだろ。

☆ ☆ ☆

「ただいま……」
夜の九時。帰宅の挨拶もそこそこに万年床の布団に突っ伏す。足腰がだるくてもう一秒も立っていたくない。
「お帰りね、ダメ岡。何よ、だらしない。帰ってくるなりボロ雑巾のようアルよ」
妙な抑揚をつけて憎まれ口を叩く主に、俺は鋭い視線で威圧する。妖艶な瞳が平然と見返した。
「ダメ岡って言うなといつも言っているだろう、メイ」
「だったら早くダメ岡からせめてちょいダメ岡か、そこはダメ♪ 岡くらいに昇格するアルね」
「それ、昇格しているのか?」
減らず口の応酬に飽きた俺は、疲労が溜まった足をさすって体を起こす。
「もういい。飯だ、飯を食わせろ。メイ」
際どいスリットの入ったチャイナ服を身にまとったメイは、ブツブツと文句を言いながら温まったレトルトパックを、そのままの状態でご飯が盛られた丼に乗せて出してきた。
「お前さ、舐めてんの? せめて封を切ってご飯にぶっかけてから出せよ」
「じゃあ平伏して懇願するアルね。大陸が生んだ絶世の美少女、アジアンビューティーの亀岡メイ様と。さぁ、言うアル、島国産の傲慢な猿」
「何が絶世の美少女だ。自分で言うなよ、恥ずかしいから。それにお前、産まれも育ちも日本だろ。母親が中国人ってだけだろ」
「パパも中国人アルよ。広島県出身って言っていた」
「それ、中国地方だから」
あまりのアホらしさに俺はこれ以上無駄な掛け合いはしたくなく、レトルトパックを破ってご飯に掛けた。そして嗅ぎ慣れた豆板醤の香りと小粒な豆腐がご飯を覆ったのを見て、げんなりとする。
「また麻婆豆腐かよ……」
露骨にイヤな顔をする俺をよそに、メイは小さな口を丼に寄せてサラサラと麻婆ご飯を流し込む。
「何か不服か。麻婆豆腐、超美味しいアル。まさに中国三千年の歴史が生んだ至宝の一品ね。西麻布に住むトヨ婆さんが、不治の病の爺さんのために編み出した秘伝の愛の味。感謝しながら有り難く食べれ」
「それじゃあ中国関係ないじゃん。そして麻婆豆腐はそういう意味の料理じゃないから」
「知っているね。ゴチャゴチャ言わんと食べれ。それと麻婆豆腐レトルトパック、近所のスーパーで安売りしていたから大量に買い込んどいたよ。百パックでたったの三万ポッキリだたアル! パピコ並みにポッキリなお値段にビックリ! さぁ、この買い物上手なメイ様に涙を流して拝むね」
絶望感に本気で涙が出そうになる。大して安くない上に何故に百個も買ってくるのか。この金の使い方が下手くそなのが、いかにも亀岡家の血統らしくて親戚ながら情けなくなる。

メイは俺と同い年の従姉妹で、つい一ヶ月前から同居をしている。
親父が代表をしていた大企業の亀岡家一門が倒産してから五年近く、親戚中をたらい回しにされた挙げ句に捨てられたらしい。たまたま繁華街をうろついていたところをバッタリ再会し、行く宛もなさそうだったので仕方なく保護した。
まぁ、落ちぶれたもの同士だったからつい同情心が芽生えた、といったところか。
これから数ヶ月はお世話になるだろうおかずをモソモソと咀嚼していると、メイは早々に食べ終わり丼と箸を投げた。そしてマニキュアを取り出すと、あろうことか目の前で爪に塗り始めたのである。
「おい、馬鹿メイ。見てわからないか? 俺まだ食事中。シンナー臭い、そのマニキュア」
「おや、麻婆豆腐にスパイスが加わったと思えば何てことないよ。それに昔のヤンキーはシンナーをアンパン言てたアル。やた! おかずが一品増えたよ!」
「うわ最悪。育ちの悪さが垣間見えるな。親の顔が見てみたいよ」
「昔から見ているだろが。お前の叔父さんだた人よ。もっとも五年前の倒産騒ぎで私を捨てて逃げてから、全く顔を見てないから忘れちゃたけど」
明け透けと言い放つメイに俺はグッと胸が詰まる。表情一つ変えずにこんな事を言えるようになった従姉妹の様子から、これまでの壮絶な人生が垣間見える。
「ところでお前、今日はこれからバイトじゃなかったか? そんなにゆっくりしていると遅れるぞ」
マニキュアを持った手が一瞬ピクリと止まる。メイは爪に視線を落としたまま呟いた。
「バイトは、休みになたよ。今日も明日もこれからもずっと」
「お前、それって……」
「ハハハ。またクビになってしまたアルよ」
眉間にシワを寄せてカラカラと笑うメイ。俺が丼を置いて溜め息を吐くと、メイも一緒に溜め息を吐いた。
「お前さ、これで何度目だよ。バイトをクビになるの」
「た、確か八回だた気がするアル」
「九回目だよ、馬鹿」
「覚えているなら敢えて聞くな。性格悪いアル。だって有り得ないよ。レジの打ち方一度間違えただけでクビなんて、器量の狭い店よ」
憤然とするメイだったが、俺は冷めた眼差しで見つめる。
「どうせお前のことだ。お釣りを間違えて多く渡したんだろ」
「ほんの少しよ。二桁くらいなんて、ほんの些細なミスね」
「馬鹿ヤロー! そりゃ一発でクビになるわ!」
「何よ! 日本人、よく冗談で言うでしょ? ウン十万円のお返し、とか。私もそんなノリだただけ!」
「ノリ! みんなノリで言っているだけ! 本当に渡してしまう馬鹿はお前くらい!」
丼ではなく頭を抱えてしまう俺。メイはいつもこうだ。一般的に有り得ないミスをやらかし、その度に仕事を変えざるを得ない羽目になる。今回なんてまだ勤めて三日間だぞ。最短記録を更新しちまった。
「やっぱり私、サービス業は向いていないよ。事務職の方が向いている気がするね」
「レジ打ちすら満足に出来ない女が、どうやって事務などやれるのだ。お前、見てくれはいいんだから絶対ホール向きだろう」
するとメイは口をすぼめると、ニヤニヤ笑いながら俺に膝を詰める。俺は丼を持ちながら身構えた。
「へぇ~。お前、私をそんな風に見ていたアルか。でも変ね? その見目麗しい美少女と一ヶ月間も同棲しているのに、手すら出してこないとはどういう了見アルね。男色か、お前?」
潤んだ瞳と濡れた唇で挑発を掛けてくるメイ。襟元が緩いチャイナ服だからか、たわわに実った二つの果実が描く谷間が見えた。
俺はゴクリと喉を鳴らして理性を総動員させる。確かに一般男性からみれば、メイは非常に魅力的な年頃の女だろう。しかし、こいつは従姉妹。昔は共にシーツへ世界地図を描いた仲だ。言ってみれば妹のような存在に、その類の欲情など有り得ない。神に誓って。
……神、誓うほどの神がいないな。八百万の神を信仰する国というのに、どうもその手のことは疎くて困る。まぁいい。身近に居そうな奴にでも誓っておこう。
俺はメイの豊潤な肉体になど、これから先も興味を抱かないことを、貧乏神に誓うのである。
「そんなんだからお前は童貞なのでアル」
爪にフーフーと息を吐きかけながら、メイはつまらなそうに呟いた。
勝手に人の思考を読むな。それになんでこいつ、俺が未だに貞操を大事に温めている事を知ってやがる……。
「そんなにお色気を発揮したいなら相応の場所があるだろうに。甚だしくいかがわしい店でなければ、水商売も選択肢に入れてもいいんじゃないか?」
軽く冗談のつもりだったが、メイは途端に目をカッと見開いた。
「ふざけないで! それだけは絶対にイヤ!」
痛烈な魂の叫びが狭い部屋中に響き渡る。深い憤りに顔を歪め、メイは唇を噛み締めて押し黙った。
亀岡グループが倒産してから、俺は母方の親戚に引き取られて多少は真っ当な生活を送れたと思う。みすぼらしい下級生活だったが、きちんと三食にはあり付けたし、中退はしたが大学の費用も出してもらっていた。
しかしメイは母が中国人で妾腹だったせいか、さぞかし辛い日々を送っていたのだろう。
繁華街で再会した時の、他人への信頼を一切拒む、すえたメイの瞳を俺は未だ忘れることが出来ない。
やるせなさに包まれた部屋で、俺は空気に堪えきれず言った。
「おい。アルを付けるの忘れていたぞ」
「……うるさいアル。心底ダメ岡」
これも血統だろうか。憎まれ口には憎まれ口で応酬してしまうのが、俺達の悪い癖だ。メイは明らかに機嫌を損ねたご様子で、イライラとマニキュアを塗りたくる。
「そもそもお前だて他人にとやかく言えるアルか? いつまでたても皿洗いばっかり。調理人なんて向いてないアルね」
「うるさい。向き不向きでなら適応性バッチリだ。この世の美食を食べ尽くした俺様に死角はない」
「腕前がヘッポコ過ぎて死角だらけが何を言う。まだレジ打ちの方が適応性あると違うか」
売り言葉に買い言葉。お互いにプライドばかりは一人前なせいで、口喧嘩は途絶えることを知らない。
「そんなだから、お前はいつだってダメ岡よ。いつまで経ってもややマシ岡、略してヤマ岡になれないアルね。不味しんぼアルよ」
社会の爪弾き同士が不毛な争いをしているということは、嫌になるくらい分かっている。それでもこれぐらいしか俺達には、鬱憤を晴らす方法がないのだ。段々とムカムカしてきた俺は、さして美味しくない麻婆丼をかき込むと着替えもそこそこに布団をかぶった。
メイにいつまでも付き合っていたら、堪忍袋がすり減って体に良くない。三十六計、逃げるが勝ちだ。
それにオーバーヒートし過ぎると、思わずメイに「出ていけ!」と言いかねない。それだけは絶対に言っては駄目だと、俺は同居を始めた時に貧乏神へ誓ったのだ。
早々に狸寝入りを演じる俺に、メイはもう何も言わず自分も布団を用意すると、明かりを消した。そしてモゾモゾと落ち着きなく寝返りを打ち、か細い声で囁いた。
「……明日、新しいバイトを探してくるね」
重苦しかった心が、ふと緩む。その拍子に疲れた体が眠りの狭間へと誘い込み、あっという間に夢の世界へ落ちていった。

☆ ☆ ☆

物心がつくより前にお袋を亡くし、十六歳の時に親父が死んだ。
もともと肝臓やら大腸やらが病に冒されていたというのに、贅沢な食生活を止めず世界中の美味い物を求めて飛び回っていた。贅沢三昧で命を落としたのだ。
親父の盛大な葬儀が終わって呆然自失としている間もなく、今度は実家の企業が倒産した。その報道をテレビのニュースで知って、目を白黒している暇もなく、着の身着のまま家を追い出された。マンガのようだが本当に投げ捨てられるとは思ってもいなかった。
路頭に迷っていた俺を、死んだ母方の伯父が保護をしてくれた。俺は涙が出るほど嬉しかった。事実、叔父夫婦の前で涙を流し、住む場所を与えてくれたことに感謝した。
だが、喉元過ぎれば熱さ忘れるとはよく言ったもの。
長いことエグゼクティブな暮らしを送っていた俺に、一般庶民の生活は耐えられないものだった。日に三度の粗末な食事に、田舎町の公立高校。全てが下らなく惨めったらしく見えて、俺は叔父夫婦の家での暮らしに馴染めなかった。
叔父夫婦も始めのうちはそんな俺に我慢していたが、とうとう我慢しきれなくなったのか、露骨に疎ましい態度を示した。俺は自分を救ってくれた人達にさえ、まともに接することが出来なかった。
高校三年生に上がり大学受験、俺は少しでも叔父夫婦と離れたく東京の大学を志望した。
ボンボン私立に通っていたが、もともと成績は上位ランクだったので、多少は公立高校という勉強の進みが遅い場所でも挽回は出来た。そして俺は意地とプライドで、早稲田大学へと合格を果たし、叔父夫婦とも田舎暮らしとも決別した。
だが、特になんの理由もなく大学を志望した俺を待っていたのは、無気力な学生生活だった。
興味がない授業に、ただ馬鹿騒ぎしたいだけのサークルやゼミ。昔から自発的に他人と関わるコミュニケーション能力など皆無な俺は、大学内でもすぐに孤立していき、次第に外に出ることすら煩わしくなり、二年生に進級はしたが夏の終わりに中退した。
あの当時は、生きる意義とやらを毎日考えていたような気がする。
親を失い裕福な生活を失い、叔父夫婦や田舎町を捨てて、大学も辞めて残ったのは孤独と莫大な余暇だけだった。
何をすることもないので無駄に頭は哲学を語る。自分の存在意義、生きる目標、今後の人生。考えても考えても結局はネガティブな答えにしか行き着かず、負の感情が積もりに積もるだけだった。
そして生き地獄のような堂々巡りにも疲れ果てた頃、やっと俺はあれほど重く感じたアパートのドアを開けた。
この世に別れを告げるために。
どうせなら最後にうんと美味い料理を食べておきたかった。
死を意識すると必ず親父の顔が思い浮かぶ。世界中の美味いものを食い尽くしたといっても過言ではない親父は、病に体を蝕まれはしたが幸せな人生に見えた。事実、食事をしていた親父は常に至福満面の笑みを浮かべていて、死ぬ間際も悔いが無いかのように穏やかな表情を俺や親族の連中に振りまいていた。
ならば俺も、死ぬ前くらいは心から幸福な気分になりたい。そうすれば天国へ行った時、親父や写真でしか見たことがないお袋と笑って再開出来る気がした。
いざ最後の晩餐を飾る店を捜そうと街へ繰り出したが、なかなか俺の胃袋に見合う店がない。
どうしたものかと街を徘徊していた俺を、ある店から漂ってきた香りが足を止めさせた。それが六本木のギリギリ一等地にあるレストラン『クレセント』だった。
鼻腔に一瞬だけまとわりついた残り香だけで、ここがどういった店か判断出来た。こちとら生まれた頃から美味いものばかりを食わされて育ってきた。匂いだけで名店か残飯製造所か判断がつく。間違いなくこの店は本物のレストランだった。
俺はほんの少し悩んだが、すぐに結論を出した。この店の料理を最後の晩餐にしよう、と。
運ばれてきた料理を目の前に、俺は最後くらいはと礼儀正しく背筋を伸ばし、ナイフとフォークを握る。そして食べやすい大きさに切り分け、口に運んだ。
その瞬間、一陣の柔らかい風が俺の全身を駆け巡っていった。そして次の瞬間には体中から温もりに満ちた感情が溢れ出す。美味いという一言で片付けるには失礼なほど、その料理は一瞬にして俺を虜にした。
決して最高級な食材を使用しているわけでもない。どれも平凡な食材ばかりだ。だがそれらの持ち味を殺さず完全に引き出し、食材と食材の絶妙なまでの相性を一つの皿の上に生み出している。これは確実に料理人の類い希な感覚と、絶え間ない研鑽と努力の結晶だった。
俺は息をする事すら忘れて、貪るように料理を食べた。気付けば両目から涙が止め処なく溢れているが気にならない。最後の一品まで完食した俺は、気がつくとオーナーシェフであるマエストロの足元に土下座して懇願していた。この店で働かせて欲しい、と。
死ぬつもりでいた俺を、たった一度の食事で生きる希望を取り戻させた料理を作ったこの男に、渇望にも似た興味を抱いた。そして、今まではずっと食する側にいた俺だが、初めて誰かに料理を作ってあげたいという純粋な願いがうまれたのである。
親父はいつも美味いものを食べているとき、本当に幸せな顔をしていた。きっと俺も同じような顔をして料理を食べていただろう。他の誰かにも同じ気持ちを味わってもらいたい、俺が初めて自分の意志で自分のやりたい事を見つけた瞬間でもあった。
初めは困った様子を見せていたマエストロだったが、あまり熱心に頼み込む俺にとうとう折れたのか、皿洗いからでいいなら、としぶしぶ店で働くことに了承してくれた。
それがちょうど、二ヶ月前のことである。

調理場の昼飯の時間は遅い。
店のランチタイムのラストオーダーは二時。客足が完全に引ききるのが二時半くらいで、そこから簡単な片付け作業をすれば、食事にありつけるのは三時を越える。
俺達は人が至福の時を味わうことを生業としているのでさもありなんだが、元引きこもりの俺にしてみればこの狂った生活リズムに慣れるまでは、それはそれは血反吐をはくほど過酷でならなかった。
ニートだった頃の方がよっぽど規則正しい生活だったぞ。何度遅刻して何度マエストロに殴られたことか……。
ランチタイムが終わり、厨房でシェフ共が後始末をしている頃、ホールスタッフは客席を店の中央に移動する。これからやっと、戦士達にとって束の間の安らぎを得る時間だ。
シェフ共が椅子に座ると同時に、ホールスタッフが各々の席へ昼食を配る。そして配膳し終えたホールスタッフも自分の賄いを持つと着席する。
それが整ったのを見計らって、マエストロが仰々しく食卓の上座に着くのだ。
本日の賄い料理をしばらく無言で眺めた後、マエストロはおもむろにフォークとスプーンを持ち「いただきます」と唱えた。もったい付けやがって。面倒くさい男だ。マエストロに続いてその場にいた全員も食器を持つと、一斉に食事を開始した。
解き放たれた鷲のように皿の上の料理を貪るシェフ共やホールスタッフ。そんな品行に気遣いもない奴らを横目に、俺はやれやれと鼻で笑いながら目の前の皿に視線を落とす。
「今日の賄いは寒ブリのマリネを使用した冷製カッペリーニか。パスタの素麺とも言われる極細のパスタは冷製に適している。ランチに冷たい主食とは些か時期外れな気もするが、走りの脂が乗った寒ブリを使用することで旬を取り入れている。それに各種のハーブが清涼感を引き立てて、複雑ながらもバランスを崩していない。ふむ、さては年明けで弱った胃袋をケアすることを意識したな」
別に講釈を垂れるのが好きなわけではない。料理を目の前にして思った感想を率直に述べるのが俺なりの礼儀なのだ。これは死んだ親父からの受け売りである。
俺の癖に対して店の連中はいつものことだと見向きもしない。頭も上げずに黙々と飯を食っている。もっとも口を挟まれては迷惑なので放ってくれる方が都合いい。
「寒ブリも只のマリネではないな。さばいた後にバーナーで軽く表面を炙っている。香ばしさが寒ブリ独特の脂臭さを調和して、尚且つ必要な脂だけを内に残している。マリネにしたのも酸味でハーブとカッペリーニに上手く絡むためか。なかなか考えたものだ」
俺は姿勢を正すと、恭しくフォークとスプーンを握る。
「だが肝心なのは味だ。料理は不味ければ一片の価値もない」
フォークで器用にカッペリーニとハーブを絡め巻きつける。そしてそれを口に運び、ゆっくりと咀嚼する。次にスプーンでマリネされた寒ブリをすくうと、口の中でカッペリーニを混ぜる。
眼を閉じてじっくりと料理を噛み締め、飲み込む。次に俺は手に持ったフォークとスプーンを投げ出すようにテーブルへ戻し、嘆息した。
「カッペリーニの茹で時間が長すぎて芯も何もあったもんじゃない。パスタは冷水にさらすと温製よりも格段に固くなるが、そういうレベルじゃない。麺がグチャグチャだ。それよりもグチャグチャなのは……何だ、この寒ブリは? 新鮮さの欠片もない。物自体は悪くないのだろうが、魚の卸し方がお粗末過ぎて身を潰しているぞ。口の中に入れた瞬間に気持ち悪い生臭さがモワッと広がった」
調理をした人間の腕が悪すぎる。正直いって美食家の俺にとっては耐えられないが、それでもシェフ共やホールスタッフはしかめ面のままフォークを動かし、口に詰め込む。こんなクソ不味い料理をよく何も言わずに食えるものだ。こいつらの神経が理解できない。
調理人にとって食事が単なる栄養摂取に成り下がってはおしまいだ。たとえ空腹であろうとも、自らの繊細な舌を不味い料理で汚される事に意地でも甘んじない。
俺はまったく手付かずの皿を押しやると、憮然として腕を組んだ。
「残念ながら豚の餌以下だ、この料理は。一体どこのどいつだ? ここまで最低な料理を作れるおめでたいシェフは」
上座にいたマエストロのフォークがピクリと止まる。そして額に青筋を浮かべながらこちらを睨み付けると、立ち上がり歩み寄ってきた。俺はマエストロに視線を向けず、眉間にシワを寄せて怒鳴り散らす。
「マエストロもマエストロだ! こんな賄いすら満足に作れないシェフを厨房にのさばらせていては、店の品位に傷が付くぞ。再教育し直すか放り出すか、どっちかにした方が良いんじゃないか?」
顔を真っ赤にしたマエストロが腕を振り上げる。
「今日の賄いを作ったのはお前じゃねぇかっ!」
マエストロの拳を受けた俺は椅子ごと吹っ飛ばされ、店の壁に叩きつけられた。それと同時に食事をしていた全員が一斉に苦い顔をして食器を投げ出す。
「散々偉そうにケチ付けているがな! それを作ったのはお前だから! カッペリーニと寒ブリをグチャグチャにしたのはお前だから!」
……言われなくてもわかっている。畜生め。

更新日 7月22日

「俺だって好き好んで不味い料理を作りたかったわけではない! 量が多すぎるんだよ! 二十人前なんて殆ど学校給食じゃないか! そりゃカッペリーニもクタクタになるさ! 茹で上がった後にザルへ上げてもなかなか冷めずクタクタさ!」
「アホか! たかだか二十人前の何が学校給食だ! 毎日ウン百人相手の食事を作っている給食のおばちゃんに謝れ! ついでに食材にも謝っといて!」
「給食のおばちゃん達はあれでも公務員だからいいんだ。俺が納税した瞬間に感謝を示したとカウントされるから問題ない。デュラム小麦さん、いつもごめんなさい」
「パスタには素直に謝りやがった! それより寒ブリの方がもっと可哀想過ぎるぞ! よりによって包丁じゃなくて手でさばかれたからな! そりゃグチャグチャにもなるさ!」
ホールスタッフの一人がウッと唸って口元を押さえる。他の人間も同様に苦々しい表情でこちらを見た。
「なんでお前、包丁も使えないのに調理人を目指すんだよ! そんなの電卓が使えない税理士並みに能無しだよ!」
「それは言うなと何度も言っているだろう。俺は幼い頃に学校の調理実習で指を切り、それ以来包丁はトラウマになったのだ! キラッと光る刀身を見ただけで、身の毛もよだち古傷が疼く。そして思い出す、左薬指にじんわりと滲んだ鮮血を……」
「じんわりレベルでトラウマかよ! どんだけ精神弱いの! せめてどばどばレベルでトラウマになろうよ! そんなんじゃトラウマじゃなくてウマシカだよ!」
「だから今回は手じゃなくてキッチンバサミでチャレンジしてみた。素手よりはやり易かった。身の厚い寒ブリの腹をハサミで裂く感じは、赤ずきんちゃんに出てくる猟師気分だったぞ」
「お前は急に道端で料理チャレンジをさせられる女子大生か! コメンテーターもゲストも画面の隅で苦笑いだよ!」
「随分ボロクソに言うが、なかなかの工夫を凝らしている事も評価されたい。例えば寒ブリの表面を軽くバーナーで焼き目を付けるなんて、小粋じゃないか。真似していいぞ、マエストロ」
「焼き目どころか半分焼き魚になっているよ! 表面焦げすぎ! バーナー当てすぎ! 中だけ生な寒ブリなんて食感の悪さに拍車を掛けているから!」
俺達の会話に食欲が失せたのか、シェフ共やホールスタッフは食事も中途半端に、三々五々解散した。
テーブルの上には、俺の作ったパスタが半分以上手付かずの状態で残っている。料理に対する正当な評価に、悔しさよりも虚しさが湧き上がってきた。
「お前さ、知識やセンスは認めるが調理技術がヘボ過ぎるよ。言いたかないが、小学生以下だ。どうしたらここまで不器用にやれるのか不思議でならん。包丁は握れない。レードルはへし折る。フライパンは焦がす。鍋は爆発させる。オーブンは炎を吹き上げる。お前が来てから食材費よりも備品代の方が出費激しいんだけど」
「……壊した備品はちゃんと給料から天引きしているだろう」
「それでも追い付かねえから。第一お前が生活出来る程度の給料は払ってやらないと困るだろ。あのさ、こんなことを言うのも何だがお前、調理師に向いてないんじゃないか?」
マエストロから突き付けられた言葉がザラリと背中をなぞる。きっと顔が青ざめているだろう俺に、マエストロは決心するような口調で言葉を続けた。
「お前、中退はしたが頭がいい大学に通っていたんだろ。だったら無理して調理師なんか目指さなくても、普通の仕事してりゃ普通の暮らしが出来るだろ。お前だって今の生活が辛いはずだ。朝から晩まで馬車馬のようにこき使われて……まぁ、こき使っているのは俺だが。とにかくこの仕事は頭よりも腕でのし上がっていく世界だ。頭でっかちなだけで野菜一つ刻めない調理人なんて、どこも欲しがらんよ」
そこでマエストロは一度話を区切ると、少し言い過ぎたと反省したのか、渋い顔をして頭を掻く。
「そういうことだ。お前が居たいっていうなら俺から辞めろとは言わん。だがさっきも言ったがここは実力主義な世界だ。たとえお前より後から来た奴でも腕が良かったらガンガン引き上げる。居座っても辛くなるのはお前の方だぞ。それと、午後からはまた厨房に入らなくてもいい。さっさと冷凍庫を廃品回収置き場に持って行け。車や人通りがないから良いが、道の真ん中に中途半端なまま戻って来やがって。置きっ放ししていたら近所迷惑だからな。というか、たったあれだけの仕事に丸二日も掛けやがって」
そしてマエストロは深い溜め息を吐くと、捨て台詞を残して立ち去っていった。
「好きでもなくちゃ、やってけない仕事なんだよ、調理人ってのは。そして、好きってだけでもやってけない仕事なんだよ、調理人ってのは」
遠ざかっていくマエストロの足音を、俺は俯いたまま聞いていた。
遠くからはシェフ共やホールスタッフの笑い声が聞こえてくる。何の話をしているかは分からないが、卑屈にも俺を馬鹿にする声に聞こえてならなかった。
ふと、視界が滲む。俺は力の限りに両拳を握り締め、下唇を食いしばった。そして右手拳で足をダンダンと叩いた。鈍い痛みで少しだけ気が紛れるが、すぐに惨めな気持ちが喉の奥から突き上げて、涙が零れそうになる。
嬉しい時には美味しい料理を食べればいい、悲しい時も美味しい料理を食べればいい、美味しい料理が何もかもを洗い流し浄化し解決してくれる、親父がいつも言っていた。
俺はこれから、誰にも完食してもらえなかった手料理を、自らゴミ箱に捨てなくてはならない。そしてその後に、せわしなく活気づく厨房を背中に聴きながら、孤独に冷凍庫を引きずらなくてはならない。
やるせない気持ちの時にも美味しい料理を食えば笑顔になれるのか。やるせない気持ちになる事など、親父がいた時には体験させてもらえなかったのに。
こんな気分の時にはどうすればいいのか、親父は教えてくれなかった。


目次
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2012'07.16 (Mon)

傲慢に書き綴ったル・ヴィアンディエ 目次

おはようございます。要人です。

夜に訪問してくれた人はこんばんわ。

予告通り、今日からまた新しいお話をスタートします。

このお話は以前にとある賞に応募したもので、最終選考までいった作品です。

お料理をテーマにした作品なので変わった言葉がたくさん出ると思いますが、

そういう呪文なのかな? くらいに留めておいてくれるとありがたいです。

それでは、最後までどうぞお付き合い下さいませ♪


傲慢に書き綴ったル・ヴィアンディエ

第一章

第二章


第三章

第四章

第五章

第六章

第七章

第八章

第九章

第十章

第十一章

エピローグNEW






過去の作品集です。

三題噺カテゴリはこちら♪


駄・ランプ
  だからまさか、高校生になって本当にランプの魔人と出会うことになるとは夢にも思わなかった。
 当時の熱が一気に再発して、鼻血を出してぶっ倒れると懸念したが、幸いにも一回目の願いが「救急車呼んで」にならなくて済んだ。
 いや、残念ながらといった方がいいだろう。
 何故ならそのランプの魔人である女子大生のリイナは、面倒くさげにこう言ったのだ。
「はい、じゃあね。さっさと願い事を三つ……いや二、やっぱり一つだけにして下さい。ダルいんで」
 眠い目をこすり、はだけたパジャマを身にまとったランプの魔人を前に、僕の幼い頃の夢は儚くも音を立てて崩れ落ちていった。

私の星乞譚。~孤独なライオンと小さな王~
 これはまだ、夜の天空に今の半分以上も星がなかった頃のお話。
 そして星を乞い願い、星座を結ぶことを強く望んだ人々のお話。

なんしきっ!
 困惑したように小首を捻って考え込む安西。テニス、まではもちろん知っているが、ソフトテニスという単語に解釈がない。
「なに? テニスってソフトとかハードとかってあるの? なんだかコンタクトレンズみたいね」

儀式人の楽園
 ここ、『フェリスタシオン迎賓館』は幸福と輝きに満ち溢れた、一つの楽園のようなものだ。
結婚式の主役はあくまで新郎新婦だが、
 そんな主役に仕える我々、一人一人のスタッフにとってここは『儀式人の楽園』なのである。

「萌え」と剣
 24年前に生き別れになった父親・邦夫に会うため東京に向かう正宗。彼の胸の中には歓喜と不安が葛藤を繰返していた。
 何故ならば、父が指定した再開の場所は「メイド喫茶」だったから…。
父と息子。萌えと武士道。メイド喫茶と理想のサービス。これはそんなお話です。

「ヨーグルト……。……いいえ、ケフィアです!」

どこまでもひたむきで、真っ直ぐで、目の奥に強さを秘めた瞳を輝かせる彼女。
その瞳に見つめられると、僕は心の底にある淡い気持ちを再認識させられてしまう…。
あぁ、初めて会った時から、彼女のこの瞳に惹かれていたのだ、と。
そして彼女がそうしたように、僕も心の中で決意をあらたにした。それは、何があろうとも、彼女を守るということだった。
華奢な体に不釣り合いなほど、力強く前を向き続ける瞳を、僕は守ってみせる…!
09:48  |  ル・ヴィアンディエ  |  CM(0)  |  EDIT   このページの上へ

2012'07.09 (Mon)

駄・ランプ  第十章

エピローグ

あれから一ヶ月が過ぎた。
毎日は穏やかに流れていき、あの時の騒動がずいぶんと遠い過去に感じられるような平凡な日々である。
季節はすっかり秋を迎え、じきにコートが恋しい気候へと移り変わっていくだろう。
そんな週末の午後。
僕は佐々木と一緒に、駅前のマクドナルドで少し遅めのランチタイムを取っていた。
「んぐ、なにこれ。なかなか美味しいじゃない」
窓際の席を選んだので、小春日和の日差しが心地良い。
佐々木はシェイクを熱心に啜りながら、足をパタパタさせていた。
「それ、飲んだことないの?」
「初めて飲んだわ。もっと粗雑な味かと思っていたけど、なかなかどうして絶妙な味わいじゃない。これが一杯たったの百円? 私が使っているティッシュペーパー一枚分の値段じゃないの」
そう言いながら頬を緩ませてご満悦な表情をする佐々木。短いツインテールがピョコピョコ揺れるのが可笑しくて、僕もついつい笑ってしまう。
今日は佐々木とデートなのである。

リイナを救いに魔人界へ行くため、僕は佐々木と一つの取引を交わした。何でも一つ、いうことを聞くと。
きっと、とんでもないことを言ってくるのだろうと毎日ビクビクしていたが、一ヶ月という時間を掛けた結果がこれである。
「ねぇ、佐々木。本当に願い事がこれで良かったの? 普通に一日デートって」
ポテトを口に頬張りながら訊ねると、佐々木もシェイクのストローから口を離さずに「えぇ、これでいいわ」と答えた。
これならば無理してリイナの願い事を消費する必要がないので、僕にしてみれば嬉しい限りだが。逆にあまりにも穏やかな要望が不気味でもある。
「私がもっと酷いことをお願いすると思ったんでしょ。最初はそうしようと考えていたけど、やめたの」
シェイクをズルズルと飲みながら、佐々木は僕をジッと見つめて言った。
「なんでまた?」
「人の心をねじ曲げたって、それが本当に手には入ったことにならないからよ」
首を傾げる。佐々木の言っている意味が今一つ分からない。
すると佐々木はため息を吐いて「あのユルバカ魔人のことよ」と呟いた。
「あのユルバカ、あなたのお父さんにした一つ目の願いが、自分の思い通りにすることだったじゃない」
「ニュアンスが少し違うけど、まぁそんなところかな」
「あいつ、あなたのお母さん……つまり自分のお姉さんから奪おうとしたのよ」
思わずポテトが喉に詰まり、むせてしまった。
「ゲホゲホ! なんで、そう思っ! ゲホ!」
「汚いわよ。私の目の前にいるときには、スマートに振る舞うよう心掛けなさい。そんなんじゃ、佐々木家の次期当主にはなれなくてよ」
「なりません! ゲホゲホ!」
慌ててコーラを一気飲みする。喉が炭酸でビリビリと痛いが、とりあえずスッキリした。
「佐々木は判決の間にいなかったから知らないだろうけど、リイナはそんなつもりはサラサラなかったから。奪うとかって大胆な表現を使うなよ」
「柔らかい言い方をしようとも、やろうとしたことは事実よ。あなたのお父さんに対する人権のはく奪だわ」
実はつい先日、リイナに思いきって訊ねたのだ。父さんのことがまだ好きなの? と。
するとリイナは寂しそうに笑って首を横に振った。
記憶は戻ったけど、気持ちもあの頃に戻るわけじゃないみたい、と。
「つまり、佐々木も願い事を使って、僕を思い通りにしようとしたの?」
背筋がゾクゾクとする。佐々木の事だから、あっさりとやりかねないのが恐い。
「そうよ。でもね、私が欲しいのはそんな仮初めの愛情なのかって。あのユルバカと同じことをして情けなくないのかって」
僕のトレイに広げたポテトに手を伸ばす佐々木。小さい口で咀嚼しながら「これもなかなかイケるじゃない」と微笑んだ。
「だからやめたの。これでも私、三週間と五日間ずっと悩んだのよ。この私が。光栄に思いなさい、井上くん。私の脳細胞を勉強以外で酷使させたのはあなたが初めてよ」
そう言うと佐々木は、さも嬉しそうに高笑いを上げた。
周りの客の視線が痛い。こいつ、かなり世間ズレしているな。
「そんなわけで井上くん、私はズルなんてせずに最高のレディになってみせるわ。あなたが自分から進んで私の前に平伏したくなる日もそう遠くないわよ」
「永久にこないよ、そんな日は」
「そう言っていられるのも今のうちよ。私、本当はね。あなたをランプの魔人にしてあげようと思ったのよ」
「……は?」
口に運びかけたポテトがピタッと止まる。 佐々木はさも得意げに言った。
「知っていた? 魔人って誰でも必ず、人間界にゲートで繋ぐランプを持っているんだって。つまり井上くんのランプも、人間界のどこかにあるのよ。私はそれを探させようかと思ったの」
佐々木は止まったままの僕の手を掴み、そのまま指に挟んでいたポテトをイタズラっぽく食べた。
「誰か他の人間に召喚されるよりも、私をご主人様として崇め奉る方が数百倍幸福でしょ」
佐々木の小さい手に握られた、自分の手をジッと見つめる。
「魔人……そっか、魔人だもんね」
そして僕は無意識に、佐々木の指に自分の指を絡ませた。
僕の半分くらいしかない細くて白い指。ちょっとひんやりしているけど、柔らかい感触にすぐ熱を帯びる。
頬を染めながらムッとする佐々木。
「なによ、井上くん。私を求めようとする意思はいくらでも受け入れるけど、だからといって軽々しいスキンシップは止めてちょうだい。私に触れて良いのは私が許可した時だけよ」
「あ、そうだね。ごめん、つい」
佐々木の手をパッと離す。子供っぽく口をとがらせながら佐々木は「まったく、すぐ調子に乗るんだから」と文句を言った。
僕は魔人界での出来事を思い出した。
魔力が目覚め、体中の細胞がまったく別物に生まれ変わった感触。
すべてを意のままに破壊出来る強大な力。
それによって沸々と湧き上がる歓喜と自我。
改めて思った。自分は人間ではなく、魔人であるのだと。
窓の外に目を向けると、車道では次々に車が一定の速度ですれ違っていく。
あの中に飛び込めば、普通の人間ならひとたまりもなく命を落とすだろう。
でも魔人状態の僕なら、全てをはねのけて無傷で立っていられる。
そんな想像で魂がざわめく。まるで本能が魔人の力を振るうことを望んでいるように。
「ちょっと井上くん、いい度胸ね」
佐々木の言葉にハッと我に返る。
やや機嫌が悪そうな顔つきで、幼いクラスメートが頬杖をつきながら言った。
「この私とデート中に視線を外すなんて、一体どういう了見かしら? 今日のあなたは私のためにあるの。もっと集中しなさい」
苦笑いをして頷く。
こっちの世界にいれば、人間として今までとおりに過ごせることはわかっている。
だけど、自分が人間でないことを知ってしまった。
正直いって恐かった。
「なぁ、佐々木。僕を見てどう思う?」
「好きよ」
顔がカァッと熱くなる。僕は手をパタパタと振った。
「ち、違う! そういうことじゃなくて! 普通の人間っぽく見えるか、ってこと!」
僕は溜め息を吐いて言った。
「佐々木は見てなかったから分からないけどさ。僕、本当に闘魂の魔人だったんだ。あの時、リイナが警備員達を次々になぎ倒していったの見たでしょ。僕もあのくらい強かったんだ」
つい視線が落ちる。テーブルの上でもじもじと絡まる両手の指が、微かに震えていた。
「僕さ、勉強ばかりやってきたからケンカなんて一度もしたことがなくて。他人を叩いた記憶なんてないくらい、争いごとが嫌いなんだよ。でもそれなのに、魔人の力が目覚めた瞬間、躊躇せずに全力で暴力を振るっていたんだ」
そこで僕は口を閉ざした。
顔を上げられないまま、沈黙が続く。僕は佐々木の言葉を待っていた。
いつもどおり「だったら何?」とか、興味なさげに鼻で笑ってくれるのを期待していた。
佐々木なら、そんなこと関係ないと言ってくれるはずだと思った。
その一言に救われたかった。
だが、しかし。
「そうね。魔人って野蛮よね。なにが好戦的よ。その程度くらい理性で制御できないなんて、お粗末な脳みそを持った種族だわ」
愕然として顔を上げる。
きっと僕があまりに情けない表情だったのだろう。佐々木はハッと息を飲んだ後、とてつもなく機嫌が悪い顔をした。
そして手元にあったシェイクをズズッと飲み干して、コップをテーブルに叩きつけた。
「私は別に、井上くんが人間だから好きになったわけじゃない。あなたの細胞が何で出来ていようと、あなたの血に何が流れていようと、私には一切関係ない!」
 心臓が、いや魂がブルッと震える。
「あなたはただ、この場にいればいいの。あなたがあなたらしく、そのままで私の隣にいてればそれでいいの。あまり下らないことを言わないでちょうだい」
圧倒的だった。
こんな小さな体のどこに秘めているのかと思うほどの迫力が、僕のモヤモヤした気持ちを吹っ飛ばしていった。
凛と背筋を伸ばし、ギッと僕を睨む力強い瞳。
闘魂の魔法など、とんでもない。
それよりもさらに強烈な魔力が、僕の心を鷲掴みにしていった。
「相変わらず、佐々木は佐々木だな。想像をはるかに越えた魔法を使ってくる」
すると佐々木は少し首を傾げたあと、フッと鼻で笑った。
「あんな低レベルな連中と一緒にしないでちょうだい。私は佐々木茉莉。天上天下唯我独尊史上最強の種族よ」
思わず吹き出してしまう。
僕は口元を押さえて笑いをこらえるが、佐々木はやっぱり不服そうに頬を膨らませた。
そして僕のトレイのポテトをパクパクと口に詰め込んだ。
これはまた、随分と変わった女の子に惚れられてしまったものだ。

「魔人といえばそっちのユルバカ、最近どうしているの?」
散々笑ったあとに、コーヒーのおかわりを店員さんに頼んだ。
「どう、って。一ヶ月もすれば慣れるみたいだよ。もっとも始めから馴染んでいたけどね」
「あっそう」
つまらなそうに相づちを打って、ストローに口を付ける佐々木。だが空になってしまったようで、ズズッと乾いた音が鳴るだけだった。
「井上くん、私にもコーヒー」
「はいはい」
「はい、は一度だけにしなさい。それにしてもあのユルバカ、ただぐうたらさせているわけじゃないでしょうね。奴隷のようにこき使わなきゃ割りに合わないわよ」
どうやら佐々木はとことんリイナが嫌いらしい。
まぁ、もともと仲良くなる要素なんてお互いになさそうだし。そもそも佐々木が他人と仲良くしている光景なんて一度も見たことがない。
「奴隷のように、なんて大袈裟な。父さんが働かざるもの食うべからずって最初に言ったしね。かなり渋々だけど、自分でちゃんとアルバイトを探してきたよ」
興味なさげにストローをクネクネと指でいじりながら「ふ~ん。どこで?」と訊ねる佐々木。
その時、コーヒーポットを片手に持った店員がやってきた。
「いらっしゃいませ、こんにちは~。コーヒーのおかわりをこんにちは~」
間の抜けた声に反応して顔を上げる。そして露骨に嫌な顔をする佐々木に、さっきの質問の答えを言った。
「どこでって、ここ」
 僕は自分の足元を指差す。
あくびをしながら空の紙コップを掴み、ダバダバとコーヒーを注ぐ店員こそ、たったいま話題に上がっていたリイナだった。

エスカマリさんこと、大司教がリイナに科した刑罰とは『一年間の魔人界追放及び人間界への流刑』だった。
向こうの時間では僅か一年間だが、リイナの体感では四年の歳月を人間界で過ごすことになる。
刑としては妥当ではないかと判断に、リイナ本人も納得した。

「お待たせしました~。他にご注文はこんにちは~」
バリバリと豪快な音を轟かせながら、営業スマイルというには、些か弛緩し過ぎている笑顔でリイナは言った。
「なんという接客態度かしら。客を舐めているとしか思えないわね。あなた、それでも本当に大学生だったの?」
「他にご注文はこんにちは~」
般若のお面みたいに怒りを露わにしながら、佐々木はテーブルをバンッと叩いた。
「私にもコーヒーを寄越しなさい!」
周りにいた客もその迫力にビクーンと反応する。随分と偉そうな小学生だと、半ば興味本位の視線を向けてくる人もいた。
だがリイナはマジマジと佐々木を見つめた。
「あのね、お嬢ちゃん。これはコーヒーっていって、すごく苦い飲み物なの。夜も眠れなくなっちゃうのよ? お母さんから飲んでいいって言われた?」
佐々木が瞬間湯沸かし器のように顔を真っ赤にして憤怒した。あまりの怒りに声も出ないらしい。ツインテールが威嚇する猫の尻尾みたく、ピーンとおっ立っていた。
それをゲラゲラと指差しながら笑うリイナ。
最低だ、こいつ。
「そういえばさ、リイナ。髪とかそのままで良かったの? 最初は黒に染めていくって言っていたけど、一度も染めていないよね」
ここは話題を変えた方が吉だ。
サービス業をするにはだらしなさ過ぎる立ち姿勢のリイナを、頭から爪先まで目を通す。
服装はマックの店員で問題ないが、首から上が違和感の塊だ。
制服のキャップからこぼれるのは空色の髪。そして清々しい五月晴れのような空色の瞳。
明らかにおかしい。
母さんも結婚して人間界に来たときは、髪も目も真っ黒にして、名前まで偽ったというのに。
しかしリイナはケロッとして答えた。
「え? 生粋のコスプレーヤーですって面接の時に言ったら、すんなり許可してくれたわよ」
「嘘付けや!」
「本当よ。出退勤時のコスプレだけはやめてね、って約束させられたけどね。妙に理解あるな、って思っていたらさ、実は店長さんが本物のレイヤーだったのよ」
リイナはさも得意げに腕を組んで、したり顔をして見せた。
「まぁ、ようやく人間界が私に追い付いたってことかしら」
愕然とすると、他の店員がカウンターの方からこっちに声を掛けた。
「リイナちゃーん、ちょっとこっち手伝って」
「あいよ~。じゃあまたあとで。改人くんにチビ助」
ヒラヒラと手を振って去っていくリイナ。
当然ながら名前もそのままだったのか。昔の母さんと父さんの苦労はなんだったのだろうか。
「なんなのよ、あのユルバカ魔人! 私を誰だと思っているの! 佐々木茉莉よ! 人生の中でここまでコケにされたのは初めてだわ! この屈辱、命に替えても償わせてやる!」
ピンポン玉のような佐々木の手が、テーブルをガンガンと叩く。
きっと周りの人は、キレる小学生! とか思っているんだろうな。
何だか保護者めいた気分を感じながら、僕は佐々木を宥めた。
「まぁまぁ、あの人を相手に本気で怒っても仕方ないよ。気にしないのが一番」
「ふざけないで! 今すぐアレを魔人界に叩き返しなさい! いいわ! 私がクズを召喚して強制送還させてやる!」
「落ち着きなよ。どうせすぐに、大司教から送り返されるのがオチだって」
持っていた鞄から、ランプを取り出そうとする佐々木を無理矢理に止める。
こんなところでジンを喚び出されては人目につきすぎるし、何よりさっきから会話が明らかに電波っぽい!
鼻息を荒くする佐々木の頭を撫でて、気を落ち着かせる。さらさらの金髪が指にしっとりとなじんで気持良い。こうすると何故か、佐々木は大人しくなるのだ。
「なんなのよ、ユルバカ。今度舐めた態度を取ったら、佐々木家の権力をフルに行使して存在ごと抹消してやる」
「ははっ、それは恐いな」
「私は真面目よ。あいつ、自分の立場が分かっているのかしら。服役中なのよ、服役。もっと自覚して、それらしく振る舞われないのかしら。井上くん、手錠でもして家の中に閉じ込めて起きなさい」
いや、それはそれで喜びそうでイヤだ。怠惰の権化たるリイナは、用がなければ一日中でもゴロゴロしていられるのだ。
家から一歩も出るな、なんて罰どころかニート免罪符じゃないか。
「でもさ、リイナもあれで塩らしくなるときもあるんだよ。先週の日曜日、父さんと三人で母さんの墓参りに行ってきたんだ」
墓石を前にしたリイナは跪き、延々と頭を垂れて泣いていた。ときどき、涙声で「ごめんなさい」と呟きながら。
そして家に帰ってから母さんのアルバムを眺めながら、父さんにこっちでの話を聞いていた。
また止め処なく溢れる涙を拭いながら。目を真っ赤にしながら、アルバムをめくっていた。
「きっとリイナはさ、罪を償うためだけじゃなく、亡くなった母さんの軌跡を辿りたくて人間界にきたんじゃないか、って思う時があるよ」
ブラックのままのコーヒーを啜る。ほろ苦さが口の中いっぱいに広がり、スッと喉を通っていった。
「母さん、つまり自分のお姉さんが過ごした空気や場所、一緒に暮らした家族。そういうものに触れたかったんじゃないかな」
それがリイナなりの罪滅ぼしのつもりなんだろう。
ただ姉と一緒にいたかったがために、犯してしまった間違いを。
「ふん、単なる独りよがりだわ。馬鹿馬鹿しい」
そう言って佐々木は、僕の飲みかけたコーヒーに手を伸ばした。その表情にはさっきまでの不愉快な様子はない。
かわりにコーヒーを口に含んで、わざとらしく苦い顔を作っただけだった。
「それはそうと井上くん。あなた家で、ユルバカと変なことになっていないでしょうね」
サラッと流した口調で言う佐々木。だが視線だけはきつく、こちらを伺っている。
「変なことって何さ。僕達、一応親族なんだけど。あの人からしてみれば、僕は甥っ子になるんだよ」
当然ながらの話だが、人間界に知り合いも生活基盤もないリイナは、我が家で面倒を見ることになった。
つまり、まぁ……同棲中である。
僕は腕を組んで真っ直ぐ佐々木を見つめた。多少でも挙動不審な態度を取れば、粗探しのようにネチネチ突っ込まれそうでイヤだ。
「ふ~ん。何もないのね?」
「あるわけがない」

ごめんなさい。本当はあるんです。

更新日 7月12日

我が家にはパソコンが一台しかない。
ネットゲームを生きがいとするリイナは、暇さえあれば僕の部屋に来て、マウス片手にディスプレイと向き合っている。
勉強をしている脇でカチカチカタカタとうるさくて仕方ないが、止めろと言って止めるわけでもないだろう。
そこまでは別に問題ない。
問題は夜中だ。
リイナはとにかく、深夜遅くまでネトゲライフを満喫している。魔人界とは時間の流れが違うせいか、こっちが深夜でも向こうではまだ日中ということも多い。
あちらの知り合いと遊んでいれば、自然と時間も狂ってくる。
時差みたいなものだろう。
ギルド内では『寝落ちの女王』の異名を持つリイナは、突然襲ってくる睡魔に対する抗体が一向に身に付かない。
そして既に睡眠モードに片足を突っ込んだリイナに、一階に用意された自分の部屋まで帰る気力があるわけがない。
すると自然に体は、一番近くにあるベッドを求める。ちょうど良く人肌で温まった、僕のベッドに。
「邪推ってものだよ、佐々木。そんな昼ドラみたいな展開あるわけないじゃないか」
冷や汗が出ないように、目が泳がないように努めて平静を装う。
僕は朝起きた時にリイナの寝顔が鼻の先にあることや、寒い朝は抱き枕状態にされていることなどを思い出さないように、必死で佐々木の無言の圧力に耐えた。
あんな艶めかしい事実がバレたら、高確率で生命の危機に瀕する。

その時、紙コップを持ったリイナが戻ってきた。
「ほい、チビ助。あなたはココアにしておきなさい。同じカカオ豆なんだからいいでしょ」
佐々木の視線が僕から外れ、ほんわり湯気が立つコップに注がれる。
僕は安堵の吐息を、細く鼻から吐き出した。
「私はコーヒーって言ったのに。注文も真っ当にこなせないのかしら、このユルバカ魔人は」
悪態をつきながらも、佐々木はチビチビとココアを飲んだ。
これはナイスタイミングだった。上手く空気も和らいだし、話題を転換させるには都合がいい。
「ところでユルバカ。あなた、井上くんに変なことをしてないでしょうね」
「してないわよ、チビ助。キスしたくらいよ」
……え?
「き、キスゥ……」
「イエスゥ♪ しかもA+」
……ちょ?
「ぷ、プラスゥ……」
「イエスゥ♪ 舌入れたくらいだって」
……ぐはぁ。
「近親相姦です♪」
「バカヤロウ! それは言うなや!」
取り乱して立ち上がった僕に、リイナはニャハニャハと笑ってみせた。
「だってそれ、自分で言ったんじゃない」
「なんでこのタイミングで言うかな! 空気読んでよ! もっと空間把握能力を鍛えようよ!」
最悪なタイミングで爆弾を落としやがった。
あの時のキスは便宜上仕方なかっただけで、こっちも説明を受ける前に奪われてしまっただけで。
舌がウニャウニャと絡みつく感触を思い出すだけで、今でも鼻血が噴き出しそうになるわけで。
てか、僕にしてみれば、ファーストキスだったわけで。
現実逃避したくて頭をブンブン振る。しかし僕が逃げ出したくても、当然ながら現実は逃げてくれなかった。
目の前の佐々木を恐る恐る見て、背筋が凍った。
石像にでもなったのかと思うほど、無表情な女の子がそこにいた。
瞳は艶消し塗料で塗ったように輝きがなく、顔は生気がすっかり失っていた。
ただ、底知れない迫力だけが、静かに漂っている。
もはや怒っているのか悲しんでいるのか分からない不気味なオーラが、僕の指や爪先に絡み付いてきた。
佐々木の口がゆっくりと動いた。
僕はゴクリと唾を飲み込む。
「珠江」
「はい、ここに。茉莉お嬢ひゃま」
背後から突如として聞こえた声に、心臓が乱暴に跳ね上がる。
驚いて振り返ると、そこにはメイド服を身にまとったオバサン、珠江さんがいた。
ハンバーガーを頬張りながら、丁寧な一礼を交わす。
「今の、聴いていたわね」
「当然にてございます、むしゃり」
ハンバーガーを咀嚼しながら主の問い掛けに答える。
そう、と小さく呟いた佐々木は、能面のまま淡々とした口調で言った。
「今すぐ手頃なホテルのスウィートを予約しなさい。既成事実を造るわ」
開いた口が閉まらなかった。この目の前の女の子の思考回路はどうなっているんだろうと、混乱してしまう。
すると珠江さんは毅然とした態度で、恭しく首を横に振った。
僕はホッと胸を撫で下ろす。
「致しかねます。茉莉お嬢様。お嬢様の場合、貞操観念以前に児ポ法に引っかからないか、そっちの方が心配です」
アホー!
「そう。じゃあ子供を作るわ」
「致しかねます、茉莉お嬢様。そもそもお嬢様は初潮がまだですから、無理です」
爆弾発言キター!
もうツッコミを入れるのもイヤになってきた。なにこの親子。
「そう。じゃあ……」
空気がピリッと変わるのを感じた。
頭の中の第六感が騒ぎ立てる。僕は少し腰を浮かせてリイナの手を掴んだ。
正面に対峙した佐々木の顔が、邪悪に豹変した。

「死なない程度に殺しなさい」

恐怖が全身を貫く。反射的に立ち上がると脱兎の勢いで駆け出した。
視界の隅にチラッと、ホラ貝を振りかぶった珠江さんが映った。

「ちょいちょい、改人くん。私まだバイトの途中よ~」
腕を引っ張られながらも懸命に走るリイナが、呑気な文句を垂れる。
駅前通りの休日の午後。人混みを掻き分けて僕はリイナを連れて疾走した。
後ろをチラッと振り返ると、珠江さんがホラ貝片手に追いかけてくる。
息を切らす様子もなく、無言なのがこの上なく怖い。
マックの制服を着た空色の髪と瞳を持つ女性と、それを追うオバサンメイド。
すれ違う人達も、何事かと驚きながらざわめく。
「やばい。追いつかれるわよ」
心なしかリイナの口調が弾んでいるように聴こえる。この魔人、こんな状況を楽しんでやがる。
「臨兵闘者皆陳列前行……」
怪しげな呪文が背後から聞こえてきた。
恐怖が頂点に達する。僕は掴んでいたリイナの腕をグッと引き寄せて、叫んだ。
ここで使わずして、どこで使えというのか。緊急脱出だ。
「お願いです、ランプの魔人! 僕を助けて!」
情けなくも声が裏返ってしまった。リイナは満面の笑みを浮かべて、青白く光を放つ人差し指を僕に突き付けた。

「契約コード詠唱! ブッチャケ・ワタシモ・ファースト・キス・ダッタンダケドネ!」

おわり


私、ダルそうにしている女性が好きなんです。

この度は「駄・ランプ」を最後までお読み頂きありがとうございます。
あとがきなんて久しぶりですね。
アニメとか小説を読んでいると、登場するヒロイン達のなんと活発なこと。
意味なく怒ってツンツンしているわ、かと思えば急にべた惚れになってキスをしだすわ。
現実世界にいたら、単なる極度の癇癪持ち変人娘だよね~、と時々思ってしまいます。
まあ、私が観る作品が偏っている気もしますが。
とにかくね、もっと女の子って普通だよと。そこまで精神メーターが振り切っていないよと。
一ヶ月の約29日を平常心で過ごすよと。
いやいや、私の隣にいる女の子なんて、常にゴロゴロしているよと。
パンダだってそうじゃん、ダルダルしている方が愛着あるじゃんと。

……そんな理由から今回のヒロインであるリイナが誕生しました。
活発ヒロインの全く真逆であり、でも超絶剛腕魔人さんのリイナさんは
私の中ではなかなか愛すべきヒロインに仕上がりました。
皆様の中ではいかがでしたでしょうか?

さてさて、次の作品に出てくるヒロインはどんな個性の持ち主でしょう。
これもこれで私好みのヒロインに仕上がってます。

ん? 次って?

はい。
来週あたりからまた新しい話がスタートしますよ。
次回のは以前に何かで言いました、某新人賞で最終選考までいった作品です。
乞うご期待!

それでは、改めて敬愛なる読者様と
今回のモデル役を担ってくれた我が愛しの妻に多大なる感謝を申し上げまして
どうもありがとうございました!




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21:45  |  駄・ランプ  |  CM(2)  |  EDIT   このページの上へ

2012'07.06 (Fri)

駄・ランプ  第九章

「ほい。これで全員よ」
 最後の警備員を牢の中に放り投げるリイナ。軽く手で払っただけなのに、大のオトナはゴム鞠のように軽々と吹っ飛んでいく。
 魔力全開プラス願い事で上乗せモードの闘魂の魔人は、力の微調整も容易でなくなっているようだ。
 狭い独房にぎゅうぎゅう詰めされた警備員達は、皆一様に満身創痍状態で、中にはまだ気絶している者もいた。

 判決の間での出来事は、リイナの宣言通りに一瞬で片が付いた。
闘魂の魔人になった今なら分かるが、僕なんかとうてい及ばないくらいの魔力だった。
 呆気に取られる暇もなく、警備員達が次々に殴り倒されていく。まぁ、描写するのも憚られるくらい、圧倒的な暴力でした。

「こやつらをまとめたのは良いが、一体どうする気である。良策はあるのか、少年よ」
 顎に手を当ててジンは訊ねる。次いで父さんも現状の懸案事項を口にした。
「そして例の大司教も未だ姿を見せない。リイナ、一カ所に集めたのはかえって危険じゃないのか」
「あ、うん。そうかもね」
 父さんからは目をそらして答えるリイナ。
 さっきから、この調子である。リイナの態度がいつになく、よそよそしい。
 父さんとの思わぬ再開で気まずいのはわかるが、なんだかこっちまでギクシャクしてしまう。
 しかし、敢えて空気を読むのが嫌いなお嬢様もいた。
「どうでもいいけど、さっさと終わらせてくれないかしら? こっちは何時か知らないけど、私の体感時間では既に深夜の一時よ。夜更かしは美容と脳細胞の天敵だわ」
 佐々木は腕組みをしながら欠伸を漏らす。言いたいことはごもっともだが、ここはもう一つの懸案事項を指摘しておきたい。
「佐々木はさ、何でこっちに来ちゃったの?」
「はぁ? 何よ、その言い草は」
 蛇のような鋭い目つきで睨む佐々木に、背筋がゾクッとした。
「井上くんが心配で駆けつけたんじゃない。フィアンセに対して随分と冷たい物言いね。でなきゃ、なぜ私がこのユルバカ魔人のために手助けしなくちゃいけないのよ」
「いや、あんたは何もしてないから。てか、あんた誰?」
 メンチを切り合う佐々木とリイナの間から、父さんはヒゲをいじりながら割って入る。
「ほほう。お嬢さんは改人と将来を誓い合った仲なのか」
「あら、これはご挨拶遅れたわね。あなたにとって未来の娘になる佐々木茉莉よ。今のうちに言っておくけど、井上くんは婿にもらいますから。よろしくお願いしますね」
「あぁ、ご自由にどうぞ。最終的に決めるのは改人ですから、私は余計な口は挟まん」
「そう。じゃあ婿取りは決定ね」
 まったく面白くなさそうな態度で言葉を交わす二人。お互いが仏頂面なままなので、本気なのかジョークなのか分からない。
 てか、僕の意思はまるっきり無視ですか。
「その話は置いといて、佐々木までこっちに来ちゃったら僕達、人間は向こうに帰れないじゃないか」
 憮然とした態度のまま首を傾げる佐々木。リイナが納得したように手を打つ。
「そっか。ご主人様である改人くんと名前のわからないチビ助がこっちに来ちゃったら、私達を誰もパクれないわよね。君達、人間界に戻れないわよ」
「つまりそういうこと。父さんがこっちに来たのは良かったんだけど、佐々木くらいはあっちに残っていなくちゃダメじゃん」
 リイナの指摘に佐々木の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
「う、うるさいわね。愛ゆえの暴走だわ」
 一同、腕を組んで唸る。誰かが僕か佐々木のランプを擦ってくれればいいんだけど、一体いつになることやら。
 チラッとリイナを見る。事態を楽観視しているのか、呑気に欠伸をかみ殺している。
 もしも人間界に戻ることがなければ、このままこっちでリイナと一緒に……。
 ブンブンと頭を振って邪念を払う。一瞬、淡い期待を抱いてしまったが、今は少しだけ不謹慎に感じた。
「さてさて、本当にどうしようかな」
「もし宜しければ、私が送って差し上げましょうか」
 背後から突然に声が聞こえたので、慌てて振り返る。それと同時にリイナとジンは目の色を変えた。
「いやいや、私に闘いの意志はありません。お二人とも、魔力を収めて下さい」
 朗らかに微笑みながら、大司教は両手を挙げて敵意のないことをアピールした。
「大司教! 今までどちらにいらっしゃったのですか!」
 牢の中から警備員達が救いを求めた悲痛な声を上げる。しかし大司教は、さっきまでとは人が違うようにイタズラっぽく肩をすくめた。
「すたこらと避難していました」
 警備員達もそうだが、リイナとジンも困惑の表情を浮かべている。
 いつでも攻撃を繰り出せる姿勢を崩さない二人に、大司教はフレンドリーに語りかけた。
「いやはや、一時はどうなるかとヒヤヒヤしましたが、きちんと思惑通りに事が進んで安堵しました。本当はリイナくんと、あらじんくんだけのつもりでしたが、まさか紅蓮くんまで揃うとは。図らずとも『カオスの天秤』ギルドのオフ会開催となりましたね」
 リイナとジンが驚愕を露わにする。僕の頭の中でも話がカチリと繋がったが、あまりの意外さに信じられずにいた。
「あ、あなた……もしかして?」
「リアルでは初めてお会いしますね。改めてご挨拶を。『カオスの天秤』ギルドマスターのエスカマリです」
 胸に手を当てて礼儀正しくお辞儀をした大司教に、僕達は愕然とした。
「だ、大司教が、エスカマリさんだったんですか?」
「そうですよ。バレはしないかと不安でしたが、杞憂でしたね」
「え、冗談じゃなくて、本当なの?」
「もちろんですよ、リイナくん。マホロバは魔人界で一番人気のネットゲーム。大司教がやっていても不思議ではないでしょう?」
ガックリと膝をつく。一番の強敵だと思っていた相手がまさかのまさか、最初から味方だったなんて。
とんでもなく気合いの入った茶番劇だったとは。
「改人くんには本当の事をお伝えしても良かったんですが、敵を欺くにはまず味方からと言いますし。ですので、あなたに対する失礼な発言の数々をお詫び申し上げたい。決してあれは私の本心ではないとご容赦頂ければ幸いです」
 頭を下げる大司教に、僕の方が逆に恐縮してしまった。
「自分のところのギルメンが魔力を剥奪されるなんて、マスターとしてはあまりに心苦しく耐えきれなかったのです。それに大司教の立場としても、今回の一件は罪に対する罰が相応しくないと感じておりました」
慈愛を込めてゆっくりとリイナと父さんに目を向ける大司教。
「リイナくんのなさったことは確かに禁忌です。しかしながら、リイナくんが本当に重信さんの気持ちを改変したかったのかといえば、どうでしょうか? 過失に近かったのではありませんか?」
判決の間の時みたく、口を閉ざして俯くリイナ。大司教はリイナの答えを待たず、言葉を続けた。
「もしも過失ならば、当然ながら情状酌量の余地ありでしょう。それなのに魔力剥奪という極刑を科すのは、やり過ぎではなかろうかと。しかしながら、禁忌というものはやはり禁忌。一度でも見逃した判例を残しては後々に大議論へ発展するでしょう。ですから、今回は改人くんから過分なご協力を賜った次第です」
大司教の優しい声が独房階の廊下に響く。そして大司教は無邪気にピースサインを見せて「罪を憎んで人を憎まず。名裁きでしょう」と微笑んだ。
牢の中にいる警備員達は、大司教の言うことがまったく信じられないようである。全員が全員、記憶喪失にでもなったかのように目が点になっていた。
なんというか、お気の毒でした。
「それで大司教さんとやら。我々人間が、向こうに戻る手立てがあるのですな?」
大司教の慈悲深い計らいなど歯牙にもかけていないように、父さんは現実的な話だけを聞く。
「はい、もちろんです。私の魔法はゲート。人間界とこちらを繋ぐことなど造作もありません」
そう言って大司教は目の前に大きく円を描く。するとその空間だけ、まるで切り抜いたように景色が変わった。
そこに映っていたのは、僕の部屋だった。
「時空間どころか、異空間の壁すらも超越するとは。いやはや、恐るべき魔力よ」
舌を巻くジンを見て大司教は上品に笑う。
「勝負の申し出ならいつでも受け付けましょう。本日のは私もいろいろとズルをしましたので、イーブンということで。機会をみていつの日か」
「うむ。その際は真剣勝負で参りますぞ、ギルドマスター殿」
ジンとしっかり握手を交わすと。大司教は「さて」と呟いてから僕を見た。
「そろそろこの場を収めるとしましょう。改人さん、なにか良案はありますか?」
全てを見透かしたような大司教の瞳に、僕は苦笑しながら首を縦に振るしかなかった。
「はい。一つ確認してもいいですか? 魔人が魔人の記憶を改ざんすることは……」
「全く問題ありません。ただし私は外して下さい。私まで記憶を失っては後々、面倒なことになりかねませんから」
苦笑に苦笑が増す。
そうだ、僕もそろそろ人間界に帰ってゆっくりと眠りたい。
「リイナ、ちょっと長くなるけどいいかな?」
可愛らしく微笑みながら頷く空色の魔人。
「この中にいる警備員達の記憶を変えてもらいたい。ジンやリイナ、僕と戦ったことは全部忘れて、禁忌の刑だけがきちんと執行されたという内容で」
人差し指を突き出して、青白い光を牢の方へ向けるリイナ。
ギョッと身構えた警備員達の中から、豪快な笑い声が上がる。
「がはは、闘魂の! どうせなら、我らが貴様等を確保したという記憶に変えてもらえんかのう! 手柄が欲しいのじゃ!」
首が曲がったままの剛森の提案に、肩車されている伊丹が言った。
「いいこと思いつくじゃな~い。大司教様~、私達を社員登用して欲しいわ~ん」
涼しい顔で大司教は「契約社員でよければ」と答えた。
嬉しそうにハイタッチをする二人を尻目に、リイナは呪文を唱える。

「契約コード詠唱! ハタライタラ・ソコデ・ゲームセット・デスヨ!」

 牢の中が柔らかい光で満たされる。そして光が消えると、警備員達はぐったりと気を失っていた。
 きっと目が覚めた頃には、この人達の記憶はすっかり入れ替わっていることだろう。

更新日 7月8日

「井上重信さん、一つご提案があります」
「何でしょうか?」
 微笑んだまま父さんに向き合う大司教。
「あなたの改ざんされた、その折れない心ですが、息子さんの願い事を使えば元に戻すことが可能です。いかがでしょう? 幸いに改人さんは願い事をたっぷりお持ちのようです」
 きっと契約コードを詠唱した直後に、リイナの頭に浮かんだ数字を見たのだろう。
 人間の感情や性格を変えるのは禁忌。ただし戻すことは禁則に触れていない、と大司教は暗に示している。
 ヒゲをいじりながら、ふむと独りごちる。そして僕をチラッと見てから口を開いた。
「確かにこの心になってから私は、泣きたい時に泣けず、哀しみたい時に哀しめない男になってしまいました。さらには息子との間にも、見えない隔たりを作ってしまった時期もありました」
 思わず俯いてしまう。父さんは僕の抱えていた鬱屈に、ちゃんと気付いていたのだ。
「ですがその反面、便利なこともあるわけです。一家を支える立場なら、なおさら折れずにいる方が都合良い。私には守るべきものが、一番大事なものがありますから。それが亡くなった妻が唯一残してくれた、私達へのはなむけだと思っています」
 むっすりとしたまま父さんは、僕の頭を優しく撫でた。
 その手のひらは分厚くて固く、でもとても温かい。幼い頃に父さんの膝に乗りながらアラジンの映画を見ていた、あの頃に撫でられた手と何一つ変わっていなかった。
 目頭がジンと熱くなる。僕の心にも凝り固まっていた小さい鋼鉄が、ゆっくりと融解していくのを感じた。
 父さんは僕の頭に置いた手を、そのままスッとスライドさせると、横にいる空色の髪を撫でた。
 そこで初めて、父さんとリイナは視線を交わした。
「それにもしも本当にこの子の罰が償われるのならば、今度からはこの繋がりを罪ではなく、絆に変えていきたいと思います」
 大司教は大きく頷いた。
「ありがとうございます。もしもあなたがその鋼鉄になってしまった心を疎ましく感じていたのならば、やはりリイナくんにはきちんと罰を受けてもらおうと思っていました」
「必要ありませんな。私はこの子に詫びたい気持ちはあっても、謝罪してもらいたいことなど、何一つない」
 リイナは遠慮がちに微笑み、おずおずと自分の頭に置かれた手に、自分の指を絡ませた。
「ありがとう、シゲノブ。ねぇ今度さ、人間界に行ったらお姉ちゃんのお墓参りに連れていってくれる?」
「あぁ、もちろんだ」
 未だにリイナの魔力が生きている父さんは、すぐに答えた。そんな短い会話が、二人のこれまでのわだかまりが氷解したのを如実に物語っていた。
 過去を封印したリイナは、ようやく未来に向き合えたのである。

「さて、それでは人間界の皆さん。元の世界へお送りしましょう」
そう言って大司教が宙にグルッと円を描こうとした時だった。
その手をリイナが遮ったのだ。
「どうしました、リイナさん?」
高貴な微笑みを浮かべたままの大司教に、リイナはモニョモニョと口ごもりながら言った。
「あの、エスさ……大司教。私はやっぱり、罰を受けた方がいいと思うんです」
その申し出に一同が目を見開いた。
大司教だけは表情を変えずに、優しい声で「何故でしょうか」と訊ねた。
「私、今回のことですごく色々な人に迷惑を掛けちゃって。高杉や大司教にもそうだし、ご主人様の改人くんにも、そして一番はシゲノブに。さっきシゲノブはああ言ってくれたけど、やっぱり悪いことしちゃったのは私だし……」
「なに言っているのかしら、このユルバカ魔人。一番迷惑を被ったのは、私なんだけど。まぁ、井上くんの手前もあるし、特別に土下座して詫びるだけで許して上げる」
「黙れ。話の腰を折るな、チビ助」
佐々木とメンチ切りの応酬を交わし、リイナは咳払いをして仕切り直した。
「それなのに、自分だけ無罪放免っていうのも身勝手過ぎるというか。都合良すぎるかなって」
僕や高杉も、リイナを助けたい一心で傷を追ってもここまでやってきた。
もちろん、大司教も。父さんだって。
でもみんな、肝心なところを考えることに欠けていたと思う。
言うまでもなく、リイナの気持ちだった。
「私が禁忌を犯してしまった事実は消えません。もっと言葉を気にかけてさえいれば、シゲノブだって……」
リイナは面倒くさがり屋でぐうたらだけど、本当は真面目で優しさを持った女性なのだ。
自分で自分を責める気持ちを、なかったことには出来ないのだろう。
「ふむ。実に殊勝な心掛けに、感服致しました」
話し終えて頭を垂れるリイナに、大司教はゆっくりと頷いた。
「ここにくる罪人の皆が皆、リイナさんのような心構えならば、私の仕事もだいぶ楽なんでしょうけどね。仕方ないことです。
確かにリイナさんの罪は許し難いものではありますが、本人に反省の意志が充分に感じられますし、先ほども申し上げましたが、禁忌ではあれ細かく見れば過失に近い。情状酌量の余地は申し分なくあるでしょう」
そう言うとエスカマリさんは、全員を見渡した後に、もう一度宙に大きく円を描いた。
「ですので、リイナさんに科す刑罰はこんなのでどうでしょう?」



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