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2012'06.28 (Thu)

駄・ランプ  第八章

 剛森と伊丹へ簡単に挨拶を済ませ、僕たちは先を急いだ。
地下一階へ続く階段があり、そこを昇ると、やや広めの廊下が続いている。
「ここ、まっすぐ行くと地上に着くの?」
 訊ねられたジンは眼鏡をクイッと指で直す。
「わからん。基本的にここまでは一本道だったからな」
「進むしかないね。何が待ち受けているかわからないから、慎重に進みましょう」
 全員、声は出さずにコクリと頷いてから、縦一列になって歩き出す。
 ジンを先頭にして足音を殺しながら進む。廊下は裸の蛍光灯が照らすだけで、装飾はおろか打ちっぱなしのコンクリートが続くだけだった。
 そんな殺風景さが緊張感をさらに高める。
 廊下の曲がり角に差し掛かかる。ジンが忍びながら顔を突き出し、誰もいないのを確認しながら忍び足で先を急ぐ。
 この階には警備員がいないのだろうか。そんなことを思っていた矢先に、次の曲がり角から人の気配を感じた。
 みんなの表情が一気に強張る。角のすぐそばにいるわけではないが、明らかに通路を塞いでいるようなざわめきが耳に届いてきた。
 三人でこっそり角から覗いてみる。
 いた。警備員が、十人以上の槍を携えた警備員が陣形を整えて待ち受けていた。
 そこまでならば今までの警備線と変わらないが、違いが二つ。
 一つは槍隊の後ろに、木の根っこをへし折ってきたような歪な造形の杖を握った警備員が数人。
 二つ目はその中心に、高貴な法衣を身にまとった人物が颯爽と立っていた。
 済んだ瞳に整った顔立ち。薄く微笑みを浮かべて周りの警備員に何やら声を掛けている。
 一体、誰だろうか。明らかに身にまとったオーラが違う。
「あの真ん中にいる人、普通の警備員じゃないですよね」
 二人の魔人に訊いてみるが返事は返ってこない。その代わり、二人の反応でどれだけまずい相手なのか容易に察することが出来た。
 ジンは額に冷や汗を浮かべて、リイナは困ったように頬を掻きながら微笑んでいる。どちらとも目がマジだ。
「……ヤバい、ですか?」
「ヤバいなんてもんじゃないわ。コーラのお茶請けにフリスク出すぐらいにヤバいわ。大司教、御自らが登場よ」
「大司教?」
 角から距離をとり、互いに額を寄せる。リイナとジンの声が若干震えていた。
「奈良橋スフィア大司教。この魔人裁判所の最高権力者にして、最高裁判官でもある。彼の御仁がこの世界の主たる事件の判決を下すのだ」
「ある意味、歩く司法制度って感じね。しかもあの人の魔力メッチャ高いし、メッチャ強い」
 ゴクリと唾を飲み込む音が聞こえた。この禍々しい名前を持つ魔人達が恐れるほどなのだから、よっぽどなのだろう。
「確か、高杉のお父さんと一度闘っているよね。小学生の頃に新聞の一面に載っていたのを覚えているわ」
「あぁ。その結果、我が父は三十六代目高杉ジンの名を私に譲ったのだ」
 苦虫を噛み潰したような顔をするジン。リイナは腕を組んで頬を膨らませる。
「ここまでは一方通行だったから戻っても意味なし。エレベーターも高杉が壊しちゃったし」
 階段のあった方向を見つめるリイナ。次に顔を逆に向ける。
「かと言って、この角を曲がれば閻魔様が待っているし。こりゃ、進退窮まったわね」
 お手上げと肩をすくめるリイナだったが、ここまできて諦めるわけにもいかない。しかしリイナの言うように、進退は窮まってしまった。
 四面楚歌が八面楚歌くらいになった感覚である。
「あの、ジンさん。大司教ってどんな系統の魔法を使っ……」
 焼石に水になるかもしれないが、系統によっては対抗策があるかもしれない。と思って訊ねた相手が、僕の言葉を無視してスクッと立ち上がった。
 そして胸元に両手を構えると、短い気合いを発した。
「……!」
 周囲の水分が一気に蒸発をする。
 ジンの右手と左手の間にある僅かな隙間に、ピンポン玉ほどの黒い塊が発生する。その直径三センチほどの球体は、不気味な黒いプロミネンスを帯びながら、宙に浮かんでいる。そこだけこの次元とは思えない濃い密度を抱いていた。
 さながら小型サイズの太陽みたいだ。
「あの、ジンさん。それを一体どうする……」
「倒せるとは思えん。が、一瞬の隙はこじ開けられるやも知れない。少年よ、克田を連れて走り抜けるのだ。今のお前ならばそれも可能であろう」
 えっ、と言う間もなくリイナが手を掴み立ち上がる。ジンの顔は青ざめているが、緋色の瞳は決意に満ちていた。
「ジンさんもしかして、それをあそこに投げるつもりですか」
「ふっ。なぁに、死人までは出んさ。ただしここの通路は木っ端微塵に吹き飛ぶだろうがな」
 大きく深呼吸をするジン。リイナの手に力がこもる。
「ここは私に任せて行くが良い。大司教相手では誰かが殿を務めないと……」
 ジンが右手を振りかぶって通路に躍り出たのと同時に、僕らは体を竦めた。
「突破は出来ん!」
 警備線に向けて黒炎の太陽を投げつけた、その時。有り得ない光景が目に映った。

「私の魔法はゲートです」
 今までそこにいなかったのに、薄笑いを浮かべた大司教が、ジンの背中に手をふれて立っていた。
「ゲートはすなわち、時空間の壁」
 そしてパッとジンごと姿を消す。男性にしては澄んだ声もブツリと途切れる。
 だがまた一瞬で大司教は目の前に現れた。ジンだけが消えた。
「を魔力でねじ曲げ、どこにでも繋」
 大爆発が通路を埋め尽くす。目の前を炎の壁が塞いだ。
 背筋がゾクッする。あと数メートル前に出ていたら……。
「げることが可能です。さらには私が手を触れさえすれば、その相手でさえ移動は容」
 後ろから言葉が続いてきたので驚く。さらに振り向いて二段構えの驚愕を味わった。
 さっきまで通路を塞いでいた警備員達がそのまま、背後に陣取っていたのである。
「易です。こんな風に、ね」
 僅か数秒の出来事だった。
 それなのに一気に形勢は逆転。そればかりか敵の立ち位置の目まぐるしく変化に、目と頭がついていけてない。
「つまり、瞬間移動ですか」
「ご明察。魔力の調整次第では、この施設に配備されている警備員全員を、一瞬でこの場に集結させることも可能です。もっとも、その必要は無さそうですが」
 廊下の爆発が収まる。無機質が焼け溶けた匂いが鼻をついた。
「あぁ、炎の魔人くんは私が連れて来」
 煙に包まり横たわったジンが、パッと目の前に現れた。
「て差し上げましょう」
 自慢のスーツはぼろ切れと化し、息すらしていないように動かなかった。キレイなままのメガネが痛々しさを倍増させる。
「ジンさん! ジンさん、大丈夫で、熱っ!」
 ジンの体は火にかけたフライパンのように熱い。これで肉体が維持出来ているのだろうか?
「ご安心下さい。魔人は人間と違い滅多に死にはしません。たとえ心臓が停止しようとも、魔力さえ残ってさえいれば生き延びられますから」
 いやに落ち着いた、それでいて半ば楽しんでさえいるような言い方の大司教を、僕はキッと睨む。
「リイナ、下がっていて」
焼け炭となったジンを通路の端へ避難させ、僕はリイナを背に大司教と対峙した。
眉を潜めながら大司教は言った。
「主として魔人を庇いたい気持ちは分かります。ですが人間の方に危害を加える気は一切ありません。おとなしくそちらの罪人を差し出して下さい」
やっぱり! と勝機が見えたのを確信した。大司教は僕が魔人だと気付いていない。
気持ちを静めてゆっくりと足を開く。
「イヤです。リイナの魔力が剥奪されるなんて、僕が許しません」
たとえリイナを連れて逃げようとも、大司教の瞬間移動で容易く捕まってしまうだろう。
ならばここで大司教を討ち取ることこそが、一番退路の確保になる。
魔人の血が闘争心を掻き立てる。
「克田リイナの魔力は完全に抑えています。ただの人間でしかないあなたが、魔人相手に逃げ切れるとでも?」
穏やかな嘲笑を浮かべる大司教。周りを囲む警備員も、槍の穂先を下げて見守っている。
「逃げ切るつもりはありません」
「では、投降して下さいますね」
一発目だ。
大司教が瞬間移動を使う間も無く、一発目で奇襲を掛ける。
僕は魔力が表に洩れないように、深呼吸をして右手に拳を握る。
そして囁くように、口の中で気合いを発した。
「エイシャラ……!」
大司教との間にあった五メートルという距離を瞬時に詰める。右拳が大司教の脇腹を打った感触を覚えた。
苦悶に顔を歪めた大司教は後方に下がる。
僕は逃がさないように跳躍し、体をひねって回し蹴りを放った。
「デュクシ!」
蹴りが大司教の顔面を捕らえたと思った瞬間、今までそこにいた大司教の姿がパッと消えた。
だが、僕は脚をそのまま旋回させる。背面まで蹴りが届いた時、確かな手応えを得た。
着地と同時に、壁際まで宙返りをして跳ぶ。
壁を背に構えを取ると、対峙した先に腕で蹴りをガードしたままである体勢の大司教が、口元を歪めて笑っていた。
「これは驚きました。人間かと思いきや、あなたも魔人だったとは。しかもこの魔法は、かの有名な闘魂……!」
口調は愉快そうだが、瞳はまったく笑っていない。大司教はリイナを見る。
「主人かと見せかけて、あなたの親類でしたか。しかし妙です。克田家の血筋は代々、空色の髪と瞳を持つはずでしたが?」
大司教から視線を逸らして、リイナは素っ気なく答えた。
「私の甥っ子だわ。お姉ちゃん……克田ルイーゼと人間のハーフよ」
一度だけ大きく目を見開いた大司教は、興味深げに僕をまじまじ見つめた。
「まさかの亜種でしたか。しかしそれにしても……」
憐れみと軽蔑の眼差しに、怒気が溢れた。
「随分と、残念な運命に翻弄された魔人なようですね」
魔力が一気にたぎった。
自分ばかりでなく、母さんや父さんまで侮辱されたのは我慢ならなかった。
全身を膨大な魔力が駆け巡る。
フロア全体がビリビリと震え、警備員達は慄きながら槍を構えた。
しかし大司教は手で制止を掛ける。
「手出しは無用です。ここは私が一人でお相手しましょう」
「しかしながら、大司教」
「構いません。これもまた一興です」
高貴な笑みを浮かべ、前に歩み出る。両手を横に広げた大司教は「では、参りましょうか」と宣戦を告げた。

僕は構えを取ったまま、ジッと大司教を見据えていた。
今すぐにでも攻めたいところだが、まずは大司教が動くのを待った。
こうして壁を背にしていれば、瞬間移動をされようとも死角は突かれないはずだ。正面と両サイドに来たのを叩けば良いだけのこと。
後の先の攻めで大司教を討ち取る。逸る気持ちを抑えながら、僕は大司教の一挙動に注目した。
「やれやれ。闘魂の魔人にしては随分と大人しい少年だ。こんな膠着状態では、せっかくの闘いも楽しめ」
肩をすくめて見せた大司教が、前振りもなく姿を消した。
来た! 僕は条件反射的に両腕を真横に突き出す。
「ないと思いません、かっ!」
視覚では捉えられなかったが、右手に手応えがあった。
僕はすかさず左側に蹴りを放った。そう、右ではなく左である。
だが予想通り、大司教の脇腹に蹴りが入った。
すかさずローキックを放つが、大司教は瞬間移動で逃げる。しかし僕は真っ直ぐ前に跳んで、何もいない空間に拳を振るう。
その拳が、狙ったかのように突如として現れた大司教を吹き飛ばした。
僕は深追いせず、また壁を背にして構えた。
周りで見守っていた警備員達は、信じられないように口をあんぐり開けていた。
大司教も苦虫を噛み潰した顔で、血の滲んだ口元を拭った。

瞬間移動を繰り返す大司教に打撃を与えるには、死角を潰すことと、逆に死角を作ることが重要である。
大司教に手を触れられれば、どこに瞬間移動をされるか分かったものではない。
ならば触れられないよう気を付けるのが大事だが、逆を言えば、待っていればあちらから間合いに飛び込んで来るということだ。
ならば死角を作り、誘ってやればいいだけのこと。
そして攻撃が当たったら、逃げようとする空間に攻めていけばいいのだ。
「頭脳を使った攻撃なら得意中の得意です。これでもずっと学年主席をキープしていたんですから」
挑発的に指をクイクイさせて大司教を煽る。品の良い端正な顔立ちが、屈辱に歪んだ。
「力任せの闘魂の魔法が、頭脳プレーですか。これだから亜種は闘い難くて嫌ですね」
「褒め言葉として受け取らせてもらいます。今度はこっちからいきますよ!」
両足に力を込めて一気に跳躍する。
飛び蹴りで大司教の顔面を狙ったが、予想通りに瞬間移動で逃げられた。
しかしさっきと同じ要領でやればいい。
背中が空いたのが好機だと大司教には見えただろう。飛び蹴りの態勢でグッと体を捻り、旋風脚が背後にいた大司教にヒットした。
着地と同時に四方八方へパンチを無数に繰り出す。
シャドウボクシングのようでもあるが、闘魂の魔法で身体能力が飛躍的に上昇しているのだ。
ジャブの防壁が大司教の接近を阻むと同時に、ダメージを与えていく。
無理な状態からの攻撃なので腰が入った有効打は少ない。当てるだけが精一杯だが、それでも確実に大司教へのダメージは与えている。
その証拠に先ほどまで攻めてきた大司教が、今では防戦一方だ。
それでも僕は攻撃の手を緩めない。僅かでも間を空ければ、大司教へ反撃のチャンスを与えてしまう。
魔人というものはやっぱり闘いが大好きらしい。
最初は不安げに見守っていた警備員達だが、いつの間にか瞳を爛々と輝かせて歓声を上げている。
リイナも手を握りしめながら、声を張り上げて応援してくれていた。
大司教への攻撃が当たる回数が増えてきた。瞬間移動のタイミングが徐々にズレてきている。
向こうの魔力が減退している証拠だ。
「デュクシ!」
やや大振りになった回し蹴りが大司教へクリーンヒットした。
腕でガードはしていたが、派手に吹っ飛ぶ大司教。
湧き上がる歓声。
僕は右手にありったけの魔力を溜めて、地面を蹴った。
立ち上がろうとした大司教の膝がガクリと崩れる。
確信した。討ち取れる!
「うぉおおおっ!」
気合いを発して最後の一撃を振りかぶった。
フラリと鈍く顔を上げる大司教。
その顔面に、全ての力を叩き込んでやろう! と思った瞬間だった。
無表情の大司教が素早く指で円を描く。
え? と思うと同時に、もの凄い衝撃が僕の顎を打ち抜いていった。
「がはっ!」
体がゴム鞠のように吹き飛んでいく。壁に激突して、ぐしゃりと地べたに落ちた。
痛みというよりも驚愕と衝撃で意識が途切れ途切れになる。鼻から下の感覚がなくなっていた。
視界がかすむ中、口元を震える手でさぐってみる。
幸いにも手触りはあったが、手のひらは血まみれになっていた。
真っ赤に染まった自分の手を見て、また意識が飛びそうになる。
そんな僕の頭上から、朗らかな大司教の声が降ってきた。
「思った通りです。闘魂の魔法はより強い攻撃を繰り出す瞬間、反比例して防御力が弱まるのですね。きっと、体を覆ったシールド用の魔力も攻撃に変換するからでしょう。これは良いデータ収集が出来ました」
頭を上げようとするが、全身に力が入らない。脳みそがグワングワンと回る。
大司教の声だけが、いやにうるさく耳に入ってきた。
「いかがでしたか? 自分の拳の重さは。己の身を持って実感したでしょう。闘魂の魔法の威力を」
僕はさっきの状況を思い出した。
大司教の体制が崩れて、チャンスとばかりに全力でパンチを振るった。
その時、大司教は目の前に指で円を描いた。そこへパンチを叩き込んだ僕。
ぼんやりとだが、記憶が蘇る。
その宙を切り取ったような円の中に映っていたのは、僕の姿だった。
「私の魔法はゲートです。ありとあらゆる空間を、一瞬で繋ぐことも可能です。例えば、私の目の前とあなたの横っ面、とか」
愕然とした。
完全に手玉にとられてしまったことに、悔しさを通り越して情けなくなってしまった。
結局は僕もジンと同じく、自分の魔力をそっくりそのまま利用されてしまったのである。
完敗だった。

もうすっかり高貴な微笑みに戻った大司教は、銀色に輝く輪っかをスッと取り出した。
それば手のひらから消えたと思うと、一瞬で僕の首にかけられていた。
体が急激に重くなる。次いであれだけ漲っていた闘争心も、フッとどこかにいってしまった。
「魔法拘束具です。もう立ち上がる気力もないでしょうが、念には念を入れさせて頂きます」
誰かがパタパタと駆け寄ってくる足音が聞こえる。それが耳元で聞こえたと思っていると、仰向けの僕に覆い被さってきた。
「改人くん! 大丈夫? ねぇ、目を覚まして!」
ぼやけた視界に映ったのは、空色の瞳を涙でクシャクシャにしたリイナだった。
抱きついてきたリイナの柔らかい感触が、全身の痛みを緩和してくれる。
僕はリイナの背中に腕を回そうとしたが、腕に力が入らずダラリと垂れ下がった。
「ごめんね、私のせいで。ごめんね、こんなところに来なければ……」
リイナの声が震えていた。
僕はそんなことないよ、と伝えたかったが、顎がカクカクして上手く口が動かせない。
リイナの涙すら拭ってやれない非力な自分が、たまらなく悔しかった。
「皆さん、観戦に熱が入ってしまうことを咎めるつもりはありませんが、職務意識はしっかりと持って頂かないと困ります。逃走中の罪人の確保を」
大司教の穏やかな叱咤に、警備員達は我に返る。そして慌てて僕達を取り囲んだ。
「捕縛員、克田リイナを捕らえよ」
大司教の命令に合わせて、歪な形の杖を持った警備員が前に出る。そして杖を掲げると、リイナはそのまま万歳の格好で宙吊りになった。
「救護員、この少年に軽くヒーリングを。半分は人間となれば、ある程度は慈悲を与えなくてはなりません」
 白衣の警備員が、僕に手をかざして何か呪文を唱えた。
すると体中の痛みが嘘のように消え、朦朧としていた意識も回復した。
「それではこのまま、判決の間に移動します」
 まだ終わったわけじゃない、そう自分に言い聞かせながら、歩き出そうとした時だった。
 大司教がカッと目を見開いて振り向いた。そして次の瞬間には目の前の景色が一変したのである。
 瞬間移動させられた、と思うと同時に離れた場所で火柱が立ち昇った。次いで耳をつく咆哮。
「がぁあああっ!」
 十メートル先に見えたのは、ふらりと立ち上がったジンだった。
 両腕を広げ手の平から火炎を放出させる。鎮火したはずの焼け炭が、内側に赤々とした焔を潜ませていた。
「素晴らしい。まさに炎のような執念と申しましょうか。あんな状態でここまで高い魔力を放てるとは瞠目に値します。三十七代目高杉ジン、これは父親以上に有望です」
 言葉とは裏腹に乾いた拍手を送る大司教。その瞳は半ば憐れむようにすら感じられた。
 頭も上げずにただ闇雲に炎を繰り出すジンの姿は、さながら深手を追って、もがく獣のようだった。
 最初はおののき逃げ惑っていた警備員だが、狙いの定まらないジンの攻撃に統制を立て直す。
 そして隙を窺っていた警備員が、短い掛け声と共に槍を突き出した。
「危ない! 高杉!」
 リイナの悲痛な叫びが響き渡る。槍はジンの脇腹に深々と突き刺さった。
 ニヤリと口元を歪める警備員。だがすぐにその顔は驚愕に染まった。
 ジンは自分に刺さった槍を掴むと、体ごと握っていた警備員を灼熱の炎で爆発させた。
 黒焦げになって崩れ落ちる警備員。だがジンも同様にガクリと膝を突いた。
 脇腹からはガスが漏れたように、残った炎がメラッメラッと吹き出す。
 それでもジンは執拗に捕らえようとする警備員を追い払うように、雄叫びを上げながら炎を止めない。
 安全な場所から見守っていた大司教は、やがて興味を失ったように踵を返した。
「大司教、放っておいてよろしいのですか?」
「問題ありません。あの様子では長くは持たないでしょう」
 炎の獣を取り巻く十人近くの警備員。ジンの太ももに槍が突き刺さる。鮮血を吹き出す替わりに、紅蓮の炎が槍を握った警備員を焼き焦がす。
 大司教の言葉を疑う余地はなかった。
「では各々方。判決の間に参ります」

 ここからが正念場だ。まだ、終わったわけじゃない。
 僕は未だに少し痛む顎を撫でながら、そう心を奮い立たせた。
 確かに大司教との戦いには敗れたが、それで今回ここにきた目的が潰えたわけではないのだ。
 チャンスを窺い、何としてでも目的を果たさないといけない。
 命を張ってまで、道を切り開いてくれたジンのためにも。

 ……元はと言えば、あの人が勝手にやらかして招いた事態だということは、あまり深くは考えないでおこう。

☆ ☆ ☆

 判決の間を一言で表せば、外国で見かける大きい聖堂のようだった。
 床は幾何学模様の石畳、頭上にあるステンドグラスからは煌々と鮮やかな光が降り注いでいる。
 壁面にも大小のステンドグラスがはめ込まれているが、大体は壁も白く塗り固められていた。
 今まで地下にいたからか、この空間が随分と明るく感じる。
 いや、罪を裁く神聖な場所に相応しい間ということか。
 その判決の間の中央には、腕を広げて宙吊りにされたリイナ。見えない十字架に張り付けでもされているかのようにすら見える。
 僕は少し離れたところで、まだ後ろ手を縛られたまま座らされている。
 リイナの四方を囲むのは、杖や槍を携えた二十人ほどの警備員。
 そして正面におわす大司教が、ゆっくりと口を開いた。
「罪状の確認をします。克田リイナ、あなたは今から四年と四カ月前の十一月三日。人間界の住人である井上重信という男性の精神に、願い事を用いて魔力を介入させた。間違いありませんね?」
「はい。その通りです」
 リイナは苦しげな表情で身をよじろうとするが、捕縛の魔法が強固なのか体を揺すった程度だった。
 大司教は淡々と話を進める。
「どんな願い事を叶えたのですか?」
「シゲノブが、私の言うことをなんでも聞いてくれるように、です」
「そしてその結果、井上重信の精神を折れない構造に改変した。そしてその直後に、自分の記憶を消すように井上重信に願い事をさせた」
「そうです」
 相違なかった。父さんに聞いた通りの内容だ。
「あなたはそれを、魔人の禁忌だと知っていたのですか?」
「知っていました」
「知っていてなお、魔力を使ってしまったのですね?」
「……」
 口を閉ざすリイナ。大司教は執行人として表情を崩さない。
「では、甘んじて処罰を受けますね?」
「はい」
 大司教は鷹揚に頷き、リイナを注視する。リイナはといえば、落ち着かなく体をよじろうとしていた。
「克田リイナ、なぜあなたはそのような禁忌を犯そうと思ったのですか?」
 目をパチクリさせるリイナ。罪状の確認というよりも、興味本位に近い質問だ。
「なんで、って言われても……」
 困ったように眉を下げる。
「もしも今あなたが、当時に戻ったとします。それでも禁忌を犯すと思いますか」
「すると思います」
 あまりの即答に、大司教のポーカーフェイスが始めて崩れる。
「そうですか。
もう一つ質問です。あなたは井上重信を自分の意の思うままにさせようとしましたが、本当は二つ目の願い事で何をさせようとしたのですか?」
「これ以上、願い事をさせないようにする、です」
 その場にいた全員が顔を曇らせた。僕も意味が分からずに首を傾げたが、次の一言でハッと息を飲んだ。
「もしもあのまま、シゲノブとお姉ちゃんが仲良くしていたら、いつかきっと二人は私の目の前からいなくなってしまう。私がシゲノブの傍にいれたのは、私がシゲノブのランプの魔人だったから。三つめの願い事をした瞬間に、私とシゲノブの契約は切れてしまう。だから、ずっと二人の傍にいれるように、お姉ちゃんの傍にいれるように、って」
 そしてリイナはにっこりとほほ笑んだ。その笑顔が、三年前に亡くなった母さんにそっくりだった。
「私は確かにシゲノブが好きでした。でもそれ以上に、お姉ちゃんのことも大好きだったんです」
 リイナの頬に涙がつたう。判決の間が水を打ったように静まり返った。
「お姉ちゃんがいずれ、シゲノブについていく事になるだろうと思っていました。だからそうなったときに私がまだランプの魔人でいれば、私はお姉ちゃんともシゲノブとも繋がっていられる。でも結局、私は二人とも手放してしまった事になったもんね。やっぱり我がままだったんだわ」
 保育園の頃、僕には仲が良い女の子がいた。
 その子は一つ年下の妹がいて、いつも何をするときにも、その妹はくっついてきた。
 もちろん僕の家に遊びにくる時もあったが、決まって母さんはその子ではなく、妹の方を可愛がっていたのである。
 母さんを取られて面白くない気分だったが、その姉妹が帰る時に母さんは必ず憂いを帯びた表情で見送っていた。
 だから僕はなんとなく、その姉妹が遊びにきた時は何も言わずに、母さんの好きなようにさせていたのである。
 住む世界は別々になってしまったけど、きっとリイナと母さんはお互いに、心の底で繋がっていたのだろう。
 溜め息混じりに首を横に振る大司教。
「あまりにも身勝手で浅はかな願いです。さて、それでは……」
 大司教は右手を真っ直ぐ横に伸ばす。すると瞬きをする間に、その手には人の背丈ほどの杖が握られていた。
「罪状確認は以上です。これより、克田リイナには禁忌を犯した罪を償うべく、罰を受けてもらいます」
 銀細工が施された杖の先端には、小型の刃物のような形が幾重にも螺旋を描いていた。さながら裁きの杖とでも呼ばれていそうな代物である。
 大司教はその杖をリイナ目掛けて差し出す。
 僕は唾をゴクリと飲み込んだ。
「魔力拘束具を解除します。捕縛の担い手を増やして下さい。なにせ相手は闘魂の魔人、並みの力では抑えきれないかもしれません」
 大司教の指示に併せて、歪な杖を持った警備員が六人ほど、リイナに囲んだ。
 僕は舌で唇を湿らす。一番短いセリフを頭の中で何度も復唱した。
「それでは、解除します」
 大司教の持った杖が光ったと思った瞬間、判決の間に突如として振動が襲った。
 壁面のステンドグラスがビリビリと揺れる。強烈な波動の発信源は言わずもがな、首輪が外れたリイナだった。
 捕縛員の一人がグッと歯を食いしばる。
「な、なんというな魔力だ! 十人掛かりで、やっと抑えきれているというのか!」
 この場にいる全員がリイナを注目している。そんな宙吊り状態のリイナが、目だけで僕に合図を送る。
 チャンスなら今しかない!
 僕は大きく息を吸う。
「ランプの魔人! 願いを叶えて!」
 突然に声を発した僕に、全員の視線が一気に僕へ集結する。
 そして、やっと気付いたとばかりに目をカッと見開いた。
 僕の口からは、既に次のセリフが飛び出していた。
「君の魔力を全解ほ……!」
 言い切った! と思った。
 ここ一番のタイミングで、自分の役割を完全に果たしたと思った。
 あとはリイナの反則並みの魔力に任せて、魔人界からはおさらばだと思っていた。
 だが、しかし。
 僕の声帯は最後の一言を言う直前で、途端に停止した。
 異変を感じた時には既に遅かった。どれだけ叫ぼうとしても声は出ず、まるで喋り方を忘れたように、喉からはヒーヒーと息が漏れるだけだった。
 周りを見渡すと、一人の警備員が杖を僕に向けていた。その先端が、リイナに向けられた杖と同じように光っている。
 不敵な笑みを浮かべる警備員。
「人間相手に魔力を行使する無礼をお許し願いたい、大司教」
 息を飲んでいた大司教は、ホッと胸をなで下ろし言った。
「いえ、迂闊でした。この少年が克田リイナの主であることを、よくぞ覚えて下さいました。願い事次第ではどんな状況も一変してしまいますからね」
 僕は喉を押さえて声を振り絞ろうとする。
 あと、もうちょっとなんだ。その一言さえリイナに伝えられれば、僕達の勝利なのに。
 リイナを見上げると、浅く瞳を閉じて首を振っていた。絶望感が胸に広がっていく。
 あと、本当にもうちょっとなのに。ほんの少しでリイナを救えるのに……。
 額を地面にこすりつけ、声にならない嗚咽を漏らす。
 ごめんなさい、父さん。リイナを助けることが出来なかった……。
 ごめんなさい、リイナ。僕は、君の主人失格だ……。
頭上から、大司教の声が聞こえる。見れば大司教も宙に浮き、苦悶に顔を歪めたリイナと対峙していた。
「それでは各々方、改めまして克田リイナの処罰を執行します」
 捕縛員以外の槍を構えた警備員達は、一斉に跪き頭を垂れる。大司教の持つ裁きの杖が、鈍く点滅を開始した。
「悔い改めよ、禁忌に手を染めし魔人の子よ。汝はこれより与えられし罪を償うべく、大空を駆け巡る翼を失う。地を這い、か細い両脚で奈落を進め。そしてその身が朽ち果てるまで、神の身元に汝の翼を預け賜え」
 ゆっくりと弧を描く杖に合わせて、点滅する光も強まっていく。
 リイナの全身から、ぼんやりと青白い光が、ボトボトとこぼれ始めた。
「翼を、汝の生命の源泉たる魔力を神に……」

 その時だった。
 閉鎖されていた判決の間の扉が、爆発で吹き飛んだ。

更新日 7月5日

反射的に立ち上がって槍を構える警備員。大司教も険しい顔で杖を収め、地面に着地する。
「この期に及んで、まだ邪魔立てする輩がいるとは」
 もくもくと煙が舞い上がり、その奥から人影が見えた。やや背丈の低いその闖入者は、恐れるでもなく判決の間に足を踏み入れた。
 困惑の表情を浮かべる警備員達と大司教。
 僕はあまりの驚愕に言葉を失った。いや、元々は捕縛員の魔法で声帯を封じられていたのだが、もしも普通の状態でも必ず絶句していたであろう。
 だって、その人物はやんわりと腕を組んで胸を反らし、その場にいる全員を見下すような視線を浴びせて言ったのだ。
「気に入らないわね。おもしろ半分で観に来てみれば、随分とピンチな状況じゃない。そんなんじゃ私の目の前で跪くのに相応しい男になれないわよ、井上くん?」

 佐々木茉莉だった。

 何故、佐々木がここにいる? と頭が混乱するよりも先に、氷の女王様の背後から炎の従者が現れた。
「危ないので下がられよ、我が主」
「黙りなさい。なぜ私が他人の後ろに隠れてコソコソしなくてはいけないの。私は常に誰よりも先頭に立つのが相応しい女よ」
「御意」
 低頭するとジンは佐々木の後ろに控える。全身はボロボロのままだが、双眸は理性的な緋色の炎が戻っていた。
「……!」
 味方の登場のはずだが、敵以上に慌ててしまう。色々と問いただしたいが、声が出ない。
 ただ手足をばたつかせるのが関の山だった。
「なによ、私に会えて声も出ないくらい嬉しいってこと? そんなので喜ぶのは一山いくらの市井娘くらいよ。この世にある万の単語と千の文法を用いて、私を誉めちぎり崇め奉りなさい。さぁ、早く」
 小首を傾げてまったく的外れなことをのたまう佐々木。その後ろでジンが助言を促す。
「あれを見よ。あの杖を持った魔人の魔力で、少年の口が塞がれているのだ。おおかた、なぜ我が主がここにいるのかと問いたいのであろう」
「なんだ、そんなこと。つまらないわね。クズ、役目よ。解説しなさい」
 顎でしゃくられたジンは、メガネをクイッとたくし上げて口を開いた。
「我が主は聡明なお方ゆえに、魔人界における我々の危難を見抜いておられた。少年らがここに移動した矢先、私は人間界に召喚されて九死に一生を得たのだよ」
「あっちの世界では既に夜の十二時を回ったわ。このボロクズの召喚が可能だったのよ。どうせこいつの事だから、勝手に勘違いして勝手に暴走して勝手に野垂れ死ぬ寸前だと思っていたし、用事もあったからね」
 ジンは悔しそうに唇を噛み締めているが、残念ながらビンゴです。
 なるほど。僕がこっちに来て確かまだ二時間近くしか経っていないが、人間界では四倍の時間が経っていたのか。
 さらにジンが召喚されて戻ってくるには、人間界で三十分なのでこっちでは僅か数分の出来事。ランプを利用した時間差マジックである。
 しかし。
「それで、炎の魔人くん。これから一体どうしようというのでしょうか? そこにいる君のご主人様の願い事を使って、この場を切り抜けるつもりですか」
 そう言った瞬間、入り口にいた佐々木が大司教の横に移動していた。
「そんなに上手くはいかないようですね、残念ながら」
 周りで見守っていた警備員が、一斉に大司教ごと佐々木を取り囲む。
 もしも佐々木が願い事をする素振りでも見せようものなら、手荒な手段をも辞さない様子だ。さらに多人数の槍持ち警備員も、ジンに刃先を向けて陣形を整える。
 この場を覆せる材料なんてどこにもない、佐々木とジンが駆けつけたところで事態が好転するわけもない、そう思っていた。
 佐々木は敵意を剥き出しにする魔人達を一睨みする。危機的状況だが臆することなく、声高に大司教へ告げた。
「見くびらないでもらいたいわ。私の主はあくまで私だけ。私に命令をできるのは、この世で私だけなの。なぜ私が他人のために、ましてや頭と尻が緩いバカ魔人のために願い事を使わないといけないの? 私はこの場にいる誰にも用事はないわ」
 佐々木の孤高な演説にその場にいた全員がポカンと口を開ける。大司教ですら、理解できずに表情を曇らせていた。
「用事があるのは、ほら。あの人よ」
 佐々木が指差した先は、瓦解した判決の間の入り口。シーンとした空気の中、コツコツと革靴の音に次いで、落ち着いた低い声が響いた。
「最後の願いを叶えてもらおう、ランプの魔人よ」
 心臓がビクッと竦んだ。手がわなわなと震える。
 その声を毎日耳にしているはずなのに、ひどく懐かしい気がしたのは何故だろう。
 皺一つないジャケットに身を包み、髪はビシッとオールバックで固めたその人は、鼻の下に蓄えたヒゲを指でいじりながら、判決の間に堂々と現れた。

「君の全魔力を解放したまえ、リイナ」

 心に分厚い鋼鉄を持つ男、僕の父さんがそこにいた。
 突然に現れた男性と口にしたセリフに、魔人達は混乱を露わにした。克田リイナの主は僕だけのはず、そういう先入観が一瞬の判断を狂わせた。
 だが、その一瞬が魔人達にとって命取りだったのである。
 この中では最も頭の回転が速いのは、やはり大司教だった。彼はカッと目を見開くと、声を荒げて命令を下した。
「その男こそ井上重信、前の主人だ! 克田リイナの口を塞げ! 詠唱をさせるな!」
「遅いっ!」
 ジンの放った高速の炎の矢が、的確に捕縛員の杖だけを弾いていく。
 宙吊りのリイナは目を爛々と輝かせる。そしてニンマリと口元を歪ませると笑い声を上げるように叫んだ。

「契約コード詠唱! ズット・オシリ・カユカッタ・ノヨー!」

 リイナの体が眩く青白い光を放ったと思った瞬間、判決の間にいた魔人達だけが、弾かれるように壁面へ叩きつけられた。
 頭上に輝くのは『0』の文字。
 お尻を両手でバリバリと掻きむしりながら、リイナは嬉しそうに宣言した。
「悪いけどこの場にいる全員、瞬殺しちゃうね。めんどくさいから」

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2012'06.20 (Wed)

駄・ランプ  第七章

地下二階までやってきた。
階段はそこで終わっていて、細長い廊下が続いている。
どうやらそこからは一本道なようで、建物の構造がわかりやすくて助かるが、罠に誘い込まれている気もしなくはない。
ジンを先頭に僕達は進む。周囲に注意を払いながら、やや小走り気味に。
「ようやく半分以上まで来たようですね。このまま逃げ切れればいいんですけど」
前を行くジンは振り向かずに答えた。
「あの程度の雑兵ばかりなら容易いがな。しかし、そうもいくまい。魔人裁判所の警備がこれほどヤワだとは考えられん」
「もっと強い人達がいっぱいいるんですか?」
廊下の行く先が大きく開けているのが見えた。
そこには地下だというのに燦々と光が降り注いでいた。特殊な照明でも使っているのだろうか。
そして地面には石畳が敷き詰められており、中心には豪華な噴水が設置してある。さながら中庭といった空間が全容を露わにした。
光に誘われるように歩調が早まる。
「魔人は好戦的な種族でな。困ったことに何事も力で解決しようとするきらいがあるのだよ。それが悪事を犯してここに連行されるような輩なら尚更。故に魔人裁判所には手練れな者達が常駐していると聞く。力を押さえつけるには、より強大な力に頼るのが手っ取り早いのだよ」
先に中庭へ足を踏み入れたジン。だがピタリと立ち止まると、右手で僕を突き飛ばした。
「こ奴らのようにな!」
リイナと一緒に後ろへ転ぶ。何をするのだと顔を上げたそこに、重量を持った何かがズドンという派手な音と共に降ってきた。
その衝撃で僕とリイナは、さらにこんがらがりながら来た道を押し戻された。
「一体、何が……」
舞い上がった土煙の向こう側では、ジンと誰かが交戦しているのがわかった。
建物を揺るがす衝撃と破壊音。赤々と立ち昇る火柱の光。
唖然とする僕の横をすり抜け、リイナは未知の修羅場に躊躇なく舞い込んでいった。僕も竦んだ足を無理矢理に起こして中庭に入っていった。
「ふはは! さすがにやるではないか、炎の魔人よ! まさかこんな所で、お前とやり合えるとは思わなかったぞ!」
豪快に高笑いを響かせるガタイの良いその魔人は、体以上もある大型のハンマーを軽々と振り回した。
一度でも掠れば体が粉々になりそうな攻撃を、ジンは軽快なフットワークでかわしていた。
「ふん! 貴様のような筋肉ダルマの相手は好まん! もっとインテリジェントな魔人を相手にしたかったものだ!」
バスケットボール級の火の玉を立て続けに三つ放つジン。ムチムチと肉をしならせた魔人は、それを順番にハンマーで叩き落としていった。
しかし最後の一つを横殴りにした瞬間、火の玉がかき消えるのと同時にハンマーも蝋のようにグニャリと溶けて地面に落ちた。
「力馬鹿を相手にするのは、克田だけで充分!」
大柄な魔人が火の玉を処理している僅かな時間で、ジンは頭上に巨大な火で出来た槍を構えていた。
そしてそれを魔人目掛けて、思いっきり投げつけた。
グッと歯を食いしばって身を堅くする魔人。しかし彼の前に突如として現れた氷の壁が、火の槍を阻んだ。
炎との激突で、氷は炸裂と共に一瞬で個体から気体に変化し、蒸発する。
そして続いて、鈴を転がしたような声がどこからともなく聞こえる。
「インテリジェントって、こんな感じでいいかしら~ん? ジンジ~ン」
声の主を探してあたりを見渡す。するといつの間にいたのか、噴水のてっぺんに小柄な女性が薄笑いを浮かべて座っていた。
「私が思うにね、ジンくんはインテリジェントの意味を勘違いしていると思うの~ん。接近戦はおバカ、遠距離攻撃はスマートっていう思考の方が一番、頭悪~い。でも、そんなところがまた魅力的~♪」
顔から髪まで粉雪のように真っ白なその女性は、カラカラと笑った。
ウェーブのかかった髪を流すように一つで束ねている。頭にアクセントで飾った大輪の青いバラが、子供と見間違えてしまう容姿から幼さを消している。
「黙れ、氷結の魔人よ。力任せな魔人は馬鹿だと相場で決まっているのだ。誰かさんみたいにな」
ぶ然と腰に手を当てたリイナが反論する。
「誰が馬鹿よ。少なくともあんたよか頭いいわよ。あんた、私が通っている大学を二次募集までことごとく落ちたくせに」
「う、うるさい! それ言ったら絶交だって約束したじゃん! りっちゃんのブス!」
「絶交して。お願いだから今すぐ絶交して」
低レベルなやり取りをしていると、大柄な魔人は腹の底から声を上げて笑いながら、噴水のそばで仁王立ちした。
「相変わらずな奴らだな、お前らは! 克田も久しいな! こんなところで会うとは、夢にも思わんかった!」
どうやらこれまた顔見知りらしく、リイナは軽く手を挙げて答えた。
「修羅の魔人、剛森バイオンくんね。中学校の時のわんぱく相撲大会以来だわ。元気してた?」
「がはは! 元気も元気よ! わんぱく相撲の時に、お前からへし折られた左腕と鎖骨が未だに痛むくらいだ!」
全然わんぱくじゃねー!
「ふ~ん、そうなんだ。ところで一つ相談なんだけど、昔のよしみってことで黙って通してくれない? あとで一杯おごるからさ」
「相変わらずやる気と実力が釣り合わない女だな! この任務を果たせたら、パートから正社員に上げてもらう約束をされているのだ! お前らの首には俺の将来も掛かっているのだよ! 何があっても通すわけにはいかん! のぅ、氷結の!」
氷結と呼ばれた真っ白な女性は口元を綻ばせて笑ったが、視線は対峙しているジンを捉えたままだ。
「そういうこと~ん。なんせ就活氷河期時代だから~、職種なんて気にしてられないのよ~ん。どうせ同じ警備員なら、自宅より裁判所の方が格好いいと思わな~い? それとも私をジンくんのおうちに永久就職させてくれる~?」
「あいにく私は実家の乾物屋を継ぐ予定だから、ニートにはならないのだよ。残念だったな、氷結の魔人、伊丹スノウ」
語尾を甘ったるく伸ばす氷結の魔人。ジンは挑発には乗らずにメガネをクイッと上げた。
肩をすくめる伊丹。そして「さっさと片付けちゃいましょ、剛森」と言いながら、噴水に手を突っ込んだ。
手のひらで水を上空にパシャっと払った瞬間、剛森の前に氷で出来た武器が次々と宙から落ちてきた。
先ほど振り回していたハンマーに鋭利な両刃剣。三つ叉の槍に斧、モーニングスターやヌンチャク。バールのようなもの、といったありとあらゆる武器が一斉に揃った。
「がはは! さすがは氷結! どれもこれも我が魔力、千の武器を駆使する修羅の魔力に耐えうる業物ばかりよ! しかし、俺はどうも刃物は好まん」
そう言って剛森は地面に刃先が刺さった剣を握ると、握力だけで粉々に砕いてしまった。
「やはり振るうは鈍器に限る! 何故かわかるか! 相手の肉体が、我が力でグシャリと押しつぶされる感触が堪らんからだよ! がはは! 痛っ、指切っちゃった」
トゲの付いた金棒を両手に持つと、剛森は強度を確かめるように地面にガンガンと金棒を打ちつける。
その度に建物全体が揺れるので、僕とリイナはたたらを踏んだ。
「安心して~ん。私の生み出した氷結製の武器はダイヤモンド並みの強度よ~ん。もっともジンくんの炎には弱いけどね~ん。私はジンくんの甘い言葉に弱いけどね~ん」
「がはは! 知っておるわ! では参るぞ、炎の魔人よ! 氷結の! 後方支援は任せた!」
一度どっしり腰を落とした剛森は、両脚に溜めた力をバネにしてジンに襲いかかった。
「笑止! 貴様ら如きが、この三十七代目高杉ジンを止められると思っているのか! 全てを灰に帰してやろうぞ!」
剛森の金棒を後ろに飛んでかわすジン。そしてすかさず炎の弾丸を立て続けに繰り出す。
豪快なスイングで炎を叩き落とすが、何発かしないうちに氷で出来た金棒は、熱で水へと溶けてしまった。
「氷結の! 次っ!」
そう叫んで手をかざした剛森の頭上に、氷製のハンマーが現れる。それを両手でしっかり握ると、一気に距離を詰めてジン目掛けて振り抜いた。
「危ない!」
しかしジンは素早く跳躍をして上空へと逃げる。そして驚いたことに何もない空間を蹴ると、自由自在に宙を移動し始めた。
「な、なんだあれ」
呆気に取られる僕に、リイナはジンを指差して言った。
「足の裏で爆発性の高い炎を小刻みに発しているの。それで空中移動が可能になるわけ」
よく観察してみると、確かに足の裏から緋色の炎が線を引いている。
「もう、ジンく~ん。小バエみたいにチョロチョロ逃げないでよ~ん」
煩わしげに噴水の水を手で払う伊丹。すると宙に舞った水滴は無数の氷の矢となり襲いかかるが、ジンはスイスイと避けた。
「おぉ、ジンさんすごい!」
基本的な火力もさることながら、こういう用途でも器用に炎を操ることを出来るとは。
すっかりジンのことを見直したが、リイナは口に手を当てて「鉄腕アトムみたい。ぷくく」と笑っていた。
「逃げ回ってばかりでは埒があかんぞ! 降りてこい! 卑怯ものめ!」
地上では剛森がハンマーを振り回して叫んでいる。ジンは足元に一瞥をくれながら、その間に伊丹の氷の矢をかわして上空を駆け巡っていた。
「あの状態だと降りるに降りられませんね。でも修羅の魔人を相手にしなくていいんなら、ジンさんにも勝機があるんじゃないですか。氷結の伊丹さんよりジンさんの方が強いでしょ?」
二人掛かりなら分が悪くても、一対一に持ち込めれば話は別だ。
「まぁ、実力だけみれば高杉の方が強いわね」
腕を組んで戦闘を見守るリイナ。その表情がいつになく真剣だ。
「じゃあ先に伊丹さんを倒せば、武器を調達できない剛森さんは相手にならないでしょう」
「いや、そんな簡単にはいかないだろうし。それよりも……。やっぱり高杉はバカだわ。気付かれちゃっている」
えっ、と息を飲んでリイナの視線の先を辿る。噴水に腰掛けた伊丹が、不敵に笑った。
「な~んだ。そういうこと~ん」
そう言うやいなや、伊丹は噴水に両手を突っ込むと、水遊びをしている子供のようにパシャパシャと水しぶきを上げた。
「バイオ~ン。下の方は任せたわ~ん」
水しぶきは次々に氷の矢となり、上空のジンへと襲いかかる。だがジンは蝶のようにヒラリヒラリと上手くかわしていく。
それにも構わず、伊丹は氷の矢を繰り出すのを止めようとしない。
ジンの空中移動の方が、氷の矢よりも段違いに速い。ツバメを水鉄砲で撃ち落とそうとするのと同じだ。
実力差が違いすぎて、ジンがおちょくっているようにすら見える。しかし、伊丹が浮かべている不敵な笑みはますます大きくなっていた。
そして目の前にある光景に、違和感を抱く。
「ジンさん、なんで反撃をしない?」
あれだけの火力ならば、上空から伊丹目掛けて炎を放てば一瞬で済む話なのに。ジンはただ空中を逃げ惑うばかりだった。
もしかして、これは……。
「反撃しないんじゃなくて、反撃出来ないのか?」
「そういうこと。高杉はあの力を使っている最中、他の魔法を二重で使用出来ないの。一旦、鉄腕アトムを解除して伊丹ちゃんに攻撃を仕掛けても、空中落下で地上にいる剛森くんに叩かれちゃう」
伊丹は氷の矢の連射を止めない。あれでは攻撃に転じる隙もないだろう。
しかも伊丹の攻撃がやみくもではなく、隠された意図があった。
「……あ」
ジンばかりを眼で追っていたせいか、それに気付いたときには既に遅かったのである。
「ジンさん、逃げて!」
思わず声を張り上げた僕に、ジンは何事かと目を見張る。隣のリイナもようやく気付いたようで、頭上を指差した。
「高杉、上! 天井が落ちてくる!」
中庭風に拵えられたこのスペースは、ご丁寧に天井まで薄い石畳みで造られていたようだ。
だがさすがに一枚板というわけにはいかず、一メートル四方の石板が繋ぎ合わされていたのである。
そのためか、つなぎ目に衝撃を与えれば石板はもろく崩れ落ちる。
一メートル四方ごと。
ジンは落下してきた石板でふいに頭を打たれたせいか、大きくバランスを崩して石板ごと地上に落ちていく。
伊丹は無造作に矢を放っていたわけではなく、初めからこれを狙っていたのだ。
「バイオ~ン。いったわよ~ん」
「高杉! シールドを張って!」
ハッと気付いたジンは、手を真横に大きく広げる。
ジンの体を球体の炎が覆ったのと、剛森のハンマーが豪快なスイングで横殴りしたのがほぼ同時だった。
反対側の壁に烈しく叩きつけられたジン。
一緒に落下した石板の破片が、紅葉のような炎の断片と共に舞い散る。
「や、やられた?」
ゴクリと唾を飲み込む僕に、リイナは顎に手を当てながら答えた。
「うぅん。打撃を喰らう直前にシールドは張ったから、多少はダメージを緩和できたはずよ」
だが目の前の光景に何一つ安堵出来る要素がない。
体が砕けていないのが不思議なほど陥没した壁に、ジンは力無くめり込んでいた。
「まぁ、あくまで緩和したってだけで、確実にダメージは喰らったわね」
自分の見解がやや楽観だったと感じたのだろうか。リイナは言葉を付け足した。
「がはは! 口ほどにもないのう、炎の! 貴様がこの程度の使い手ならば、伊丹の助力などいらんかったわい!」
大きくハンマーを振り回しながら、剛森は高らかに笑い声を上げた。
後ろでは伊丹がこっちに冷笑を投げ掛けてきた。
「もともと二対一ってのが無茶だったのよ~ん。それに後方支援系の私とパワー系のバイオンがペアなら、ジンくんにとって相性悪すぎ。まぁ、リイナちゃんが参戦出来るなら話は別だけど~ん?」
嘲笑うような一瞥をくれてから、伊丹は懐から金属製の輪っかを取り出す。それを僕達にヒラヒラと挑発的に見せつけてから、剛森に投げ渡した。
リイナが首にはめているものと同じ。魔力拘束具だ。
「バイオ~ン。暴れん坊のジンくんに首輪をお願~い。傷だらけのジンくんを私が冷た~く介抱して、あ・げ・る☆」
伊丹がウィンクしたと同時に、カッと目を見開いたジンは炎の矢を放つ。それが剛森の持つ魔力拘束具を弾き飛ばした。
「貴様の冷酷な介抱など御免こうむる。我が主の冷徹な罵倒の方が、よほど心地良いわ!」
勢い良く立ち上がったジンだったが、ダメージを喰らった直後だったからか、ガクリと膝をつく。
「がはは! まだ威勢がよい戯れ言をのたまわれる気迫を残しておる! 最早、お前に勝機などない! 大人しく我が修羅の前に跪け!」
腕をかざした剛森の手に、先端が尖った巨大なハンマーが収まる。
ゆっくりと歩み寄る剛森を前に、ジンは歯ぎしりをして自分の足をガシガシと叩いた。

やはりジン一人に相手をさせるのは無理があった。
魔人同士の力量に差があるのは当然だろうが、ジンがこの二人を前にして好機を掴める可能性はゼロに等しいはずだ。
剛森と伊丹の連携を崩すには、もっと味方が必要だ。
僕は辺りを見渡す。
この場にいる他の魔人といえば、リイナ唯一人。
しかし首にはめられた魔力拘束具のせいで、今のリイナは人間並みの力しか持たない。
剛森か伊丹か、どちらかを説得できないか? 仲間に引きずり込める余地はないのか?
考えろ。学年首席の頭をこんなときに活かさないでどうする。
彼らのメリットは? 弱点は? 付け入る隙は?
駄目だ。いくら考えても妙案なんてさっぱり浮かばない。
そもそも対戦中の魔人が、話に耳を傾けるなんて無理なはずだ。
闘いこそ神聖なもの……拳で語り合う……。彼らはそういう種族なのだ。
魔人が、せめてもう一人くらいは味方になる魔人さえいれば。

「……んん?」
額に当てていた人差し指を離す。
僕はまるで呆けたように、もう一度辺りを見渡した。
「どうしたの、改人くん?」
リイナが不思議そうに顔をのぞき込むくらい、僕は素っ頓狂な声を上げたのだろう。
あまりに当たり前なことで気付かなかった。灯台もと暗しとはこのことだ。
僕は再び熟考をしてから、リイナに確認をした。
「ねえ、リイナ。僕の母さんはあなたの姉なんだよね?」
「うん、そうよ」
今更なにを聞く? と訝しむリイナに僕は質問を続ける。
「魔人と人間のあいだに産まれた子供も、当然ながら魔人の血を引くんだよね?」
リイナがハッと息を飲む。

魔人はもう一人、いた。

「僕も魔人ならば、闘魂の魔法が使えるんだよね」
額に手を当てながら顔を赤くするリイナ。何故もっと早くそこに気付かなかったのかと狼狽えている。
「あぁ、そっかぁ。そうだよね。考えてみれば当然だよね。お姉ちゃんの子供だもん。いや、そんな事例は今まで……あー聞いたことあるわ。うん、有りっちゃ有りだわ」
ブツブツ独りごちるリイナ。
盲点なのはこっちも同じだが、とにかく今は時間がない。僕はリイナの細い肩を掴むと、こちらを向かせた。
「単刀直入に訊くよ。どうすれば闘魂の魔法を使える?」
現状を打破するにはそれした方法がない。
人生で一度もケンカをしたことがない自分が闘えるとは思えないが、あの反則級のパワーが手に入るならば、多少はジンの援護が出来るかもしれない。
困惑しながらリイナはおずおずと訊ね返してくる。
「えっと、こっちに来てから魔力を感じる?」
「魔力……いや、さっぱりわかりません。それってどんな感じなんですか?」
「そりゃあ、こう。ムラムラっていうか、バゴーンっていうか。全身からダラシャーって気合いが溢れ出すみたいな」
駄目だ、抽象的すぎる。
「普通の魔人は、生まれながら魔力をホイホイ使えるの?」
「いやいや。成長と同時に使い方に目覚めるのよ。ふとした瞬間に、あーこういうものか的な。ケンカしてるときにダラシャーってしたら、いつも以上に高杉が吹っ飛んでいく、みたいな。軽く蹴ったつもりなのにバコーンって力入れたら、高杉の腕からポキッて音がした、みたいな。第二次性徴の精通みたいなものね」
「変な例え出すなや。でも、一気に目覚めさせる方法は? そんな悠長に魔力を開花している暇なんてないですよ」
するとリイナは顎に手を当てて低く唸った。
「あるっちゃ、あるわ。よく何歳になっても魔力が目覚めない魔人がいるんだけど、そんな時に強制的に目覚めさせる方法として使われるの」
僕はホッとする。それならば安心だが、何故だかリイナの頬が赤く染まっていく。
「それってどんな方法なんですか?」
「えとね、同系統の魔法を持つ感応者との濃ゆ~い接触……」
濃い接触? 訳が分からず首を捻る。
同系統の魔法を持つ感応者ということは、この場合はリイナだろう。
濃密な接触とはなんだろうか。がっちり握手でも交わしてみれば良いのか。
頭を掻きむしりながらリイナは悶えるが、意を決したかのように真っ直ぐ僕を見据えた。
空色の瞳がいつも以上に輝いて見える。心臓がトクンと鼓動を増した。
「緊急事態だからね。仕方ないわ」
え? と聞き返す間もなく、リイナは両手で僕の頬を包む。
その手のひらが柔らかいな、と思った瞬間に、さらに柔らかくて温かいものが唇に触れた。
パッチリと開いた視界はリイナの顔で塞がれた。嗅ぎ慣れたリイナの甘い香りが、至近距離で僕の鼻孔を襲う。
あまりの驚愕に一度停止していた心臓が、激しく乱暴に動き始めた。
「ん……にゅ、んぅん……」
艶めかしい吐息と共に、リイナの唇が、僕の唇の輪郭をなぞるように這う。
そのたびに全身の筋肉がガクガクと弛緩し、心拍数は臨界点を容易に超越していった。
アドレナリン貯蔵タンクは弁が壊れたようにダクダクと体中に放出されていく。もう全身が麻痺状態に侵されたみたいで、地に足が着いていない心地だが、それでもリイナの唇の感触だけは恐ろしいくらい鮮明に感じられた。
「……! ……!」
抗おうにも口は塞がれているし、顔はガッチリと両手で挟まれて動けない。というか、全身に力が入らず立っていられるのが不思議なくらいだ。
それでもなお、リイナの柔らかい唇は離れようとしない。もう気を失いそうだと思ったその時だった。
少し開いた僕の唇の隙間から、ニュルっとした何かが入り込んできた。
あれ? と思った時には既に、僕の舌にそれがニュルニュルと絡みついてきたのだ。
本能が一気に爆発した。
その瞬間、僕は劣情の塊となった。リイナが僕にとってどんな存在だとか、そんなことは考える余裕もない。
「……ぉん、むぐ! ぅふ……、んはぁ、んん……!」
ただ、お互い貪るように舌と舌を絡め合う。
本能の赴くままに、唾液と唾液を絡め合った。

しばらくして、リイナの舌がサッと潮が引くように僕の口内から去っていった。
どのくらいの時間、その行為をしていたのだろうか。
たぶん僅か数秒だったのかもしれないが、永遠にも近い時間に感じられた。
つと後ろに下がるリイナ。空色の瞳はとろんと潤んで、頬はポゥっと上気していた。
僕はクラクラする頭を抱え、支えを失った体をガクンと下ろす。
「……き、近親相姦だ」
「ちょっとちょっと、イヤな言い方しないでよ。私だって仕方なくやったんだから。まぁ、キス程度で済んで良かったわね。もっと鈍い魔人だと、それ以上の感応をさせないと魔力が目覚めないって言うし。そこまでいくと感応っていうよりも官能だわ」
充分に官能でした。
「それで、闘魂の魔法は目覚めたんですか?」
そう言って顔を上げると、向こうで剛森と伊丹があんぐりと口を開いて、こっちを見ていた。
「お前ら、こんなときに一体何をしておるのじゃ」
「リイナちゃ~ん、そんな年下の坊やと公然猥褻? ブレーカーの落ちすぎで、ついに頭の回路がショートしちゃったのかしら~ん」
散々な言われようだが当然だろう。リイナはニャハニャハ笑いながら手を振って見せた。
興を削がれたと呆れる二人。だが、壁際でうずくまるジンのメガネがキラッと光った。
アイコンタクトで合図する。奇をてらい、仕掛けるなら今しかない。
僕は立ち上がり、グッと構えた。

……で、どうすればいいんだ?

「ねぇ、リイナ。どうやって魔法を使えばいいの?」
身体的にはさっきと全く変化がない。体が軽くなったわけでもなく、沸々と湧き上がる何かがあるわけでもない。
自分の袖をまくって見ても、いかにも運動が苦手そうな肉の少ない腕があるだけだ。
本当に僕、闘魂の魔人なの?
するとリイナは僕の目をマジマジ見つめながら、自信たっぷりに頷いた。
「大丈夫。しっかりと魔力は充填されているわ。お姉ちゃんに似た、鮮やかな蒼い魔力が宿っている」
言っている意味がよく分からない。分からないけど、リイナがそう言うのならば間違いないのだろう。
僕はもう一度、腕を前に突き出してそれらしく構えてみる。
「どうすれば魔力を使えますか?」
「んとね、デュクシ! って気合いを入れれば勝手に体がガチコン! ってなるから。あとはフィーリングでよろしく~」
なんだそりゃ。かえって力が抜けそうだ。
とりあえず、僕は細く息を吐いてお腹のあたりに力を込めた。
ガチコンってなるようにデュクシね。
全身にグッと力を入れる。そしてそのフレーズを声に出してみた。
「デュクシ!」

その瞬間、血が動いた。

いや、思考よりも先に体が勝手に動いたのだ。
え、と思ったその時には既に、僕の握り拳は十メートル先にいた剛森の脇腹に深々とめり込んでいた。
ハンマーを持ったまま、見開いた目を僕に向ける剛森。そこでやっと僕の思考も事態に追い付いた。
それと同時に、全身を駆け巡った何かとてつもない力が、ガチコン! と腕や足にはまる。
僕はめり込んだままの拳を、勢いに任せて振り抜いた。
「うおおおおおっ!」
分厚い筋肉で覆われた剛森の体が、くの字に折れ曲がったまま吹っ飛んだ。
耳をつんざく爆発音と共に、剛森は壁に激突した。
「な、なに今の?」
自分でやったことなのに、もの凄く他人事に思えて仕方なかった。
自分の手のひらに眼を落とす。
歓喜か恐怖かわからないがプルプルと震えている。その手がぼんやりと、蒼く光を放っていた。
よく見るとその光は全身から放たれている。これがガチコンの正体……。
これが、闘魂の魔人の力……。
「改人くん! 前、前!」
リイナの声でハッと顔を上げると、棍棒を振りかざした剛森が突進してきた。
「何者だ、お前は! 何故、只の人間が魔力を宿している!」
剛森の攻撃を体が勝手に避けていく。棍棒の動きがゆっくりなわけではない。だが頭で考えるより先に、視覚で捉えた瞬間に体が反応しているのだ。
「ちょっとややこしい関係だけど、その子は私の甥っ子よ。つまりは克田家の血筋で~す」
その一言で剛森の表情が変わった。
「どうりで体が懐かしんでいるはずだ! 闘魂の! お前につけられた傷痕がうずくわ!」
両手で握っていた棍棒を右手に持ち、左手を掲げて「もう一本!」と叫ぶ。同じサイズの氷で出来た棍棒が左手に収まった。
「ならば遠慮はいらんだろう! ゆくぞ! 闘魂の血を引く小僧よ!」
剛森の握る棍棒がモヤッと黄色く光る。そこに確かな魔力を感じた。
「改人くん、修羅の魔法がくるわよ。気を付けてね」
リイナの忠告が聞き終わるやいなや、棍棒を構えた剛森が襲い掛かってきた。
「我が修羅を存分に味わうがよいわ!」
プラスチック製のバットでも振り回しているのかと思うほど、剛森は軽々と二本の棍棒を振り回してくる。
紙一重で避けた時に聴こえる空気を引き裂く音が、棍棒の重力がどれだけ殺傷能力を秘めているのかを容易に物語っていた。
しかも剛森は左と右で絶妙にタイミングをズラしてくるので、反撃はおろかカウンターを当てる隙もない。
僕は体が反応するままに、せめて壁際に追い詰められないよう逃げ回るのが精一杯だった。
「がはは! ただ逃げるのが関の山ではないか! 我が修羅の魔法は数多の武器に魔力を通わせ、もっとも的確に相手を仕留める斬撃を繰り出すことに長けている! お前が餌食になるのも時間の問題よ!」
さも得意げに自分の魔法を誇る剛森が癪だが、事実さっきから避けきっているはずの棍棒が何度か掠っていた。
僕の反応が鈍くなっているのか、はたまた剛森の速度が増しているのか。
どのみち一撃でもまともに喰らえば、一気にたたみかけられることは必至だろう。
だが、僕はせわしなく足をさばきながらも冷静に周囲を見渡す。
伊丹は相変わらず噴水のてっぺんに腰掛けたままだが、いつでも剛森に武器を準備出来るよう、水の中に手を入れている。
そして……。
「リイナ! 凄いパンチを出したいんだけど、オススメな掛け声はない?」
突然の問い掛けに困惑するリイナだったが、顎に手を掛けながら答えた。
「エイシャラー! がいいわよ。よく高杉にトドメを刺すときに使っているわ」
またもや気合いが抜けそうな掛け声だな。
まぁ、別にいい。剛森の攻撃を一度だけ止められれば、それでいいのだ。
反撃の準備は整った。
僕は軽快なフットワークをやめ、距離を取るために後方へ大きく跳んだ。
そして腰を落として両足をガッシリと地面に噛ませる。
「がはは! ついに観念しおったか! 闘魂の小僧よ!」
棍棒を大きく振りかぶる剛森。只でさえ巨大な体が、一回り膨らんで見えた。
僕は怯みそうな気持ちを奮い立たせ、お腹にグッと力を入れた。
「木っ端微塵に砕けろ!」
二本の棍棒が頭上から襲いかかる。

更新日 6月27日

その棍棒目掛けて、僕は両拳を突き上げた。
「エイシャラー!」
蒼く輝く拳が衝突した瞬間、氷で出来た棍棒はクリスタルのように粉々に砕け散った。
「んなっ! 馬鹿な!」
柄だけが残った棍棒を地面に投げ捨てながら、剛森は驚愕に目を見開く。
だがすぐに表情を戻すと、両手を頭上に掲げた。
「やはり侮れんな! しかしたった二つ武器を破壊しただけでどうなる! 得物などいくらでも調達出来るぞ!」
僕はニヤリと頬を緩めた。そして視線を噴水の方に向けると、突如として爆発が起きた。
「伊丹!」
爆炎で吹き飛ばされた相方の姿を見て、剛森は初めて気付いたらしい。
「すみません。こっちも二人体制でやらせてもらいました」
これまで噴水の上に君臨していた氷の女王に替わって、いま湧き上がる水の中に手を入れているのは、炎の戦士だった。
「貴様が水を個体にするのが得手ならば、水を気体に化すのが我の得手! 干上がれ!」
短い気合いを発した瞬間、噴水の水は灼熱と共にあっと間に蒸発していった。
そう、僕が剛森の相手をしている間に、ジンには伊丹の背後に回って奇襲をついてもらったのである。
「伊丹! 大事ないか!」
倒れた伊丹に駆け寄る剛森。しかし伊丹はケロッとした顔で立ち上がった。
「大丈夫よ~ん。爆風で弾き飛ばされただけだから、ケガはしていないの~ん。本当なら極熱の炎を喰らわせることも出来たのに、ジンジンってばフェミニ~ン。ますます惚れちゃったわ~ん。お嫁にして~ん」
頬に手を当ててクネクネする伊丹。ジンはつまらなそうに鼻を鳴らした。
「御免こうむる。貴様の冷たい霜でうちの乾物が腐るわ」
「しかし、何故じゃ! 何故に炎のは、容易に伊丹の背後へ回り込めた!」
悔しげに地団駄を踏む剛森に、リイナは得意げに言った。
「うちの幼なじみを舐めないでくれる? 高杉はね、ずっと学生時代にボッチで過ごしたから、存在感を消すスキルを完全にマスターしているのよ。誰かの後ろに気付かれず立つことなんて、朝飯前よ」
「おい! そういう傷を抉るようなことは言うな! りっちゃんのアホ! あばずれ!」
ゲラゲラとお腹を抱えて笑うリイナはほっといて、僕は剛森と伊丹に言った。
「もう伊丹さんが氷の武器を造れないのなら、剛森さんの魔法も使えないはずです。勝敗はつきました。ここは黙って通してもらえませんか」
噴水の方では、ジンが手のひらに炎の槍を携えている。そっちがやる気ならやる、といったアピールだ。
伊丹は僕とジンを交互に見つめ、ため息を吐いた。
「そうね、闘魂の坊やの言うとおりだわ~ん。私達の負けよ~ん。あ~あ、これでまた正社員の道が遠退いちゃったわ~ん。バイオ~ン、また一緒に職安に行きましょ~ん」
肩をすくめて降伏宣言をした伊丹は剛森の腕にソッと触れた。しかし剛森はその手を荒々しく払いのけた。
「ふざけるな! まだ両膝が地に着いておらんのに、負けを認めてたまるか!」
「で、でもバイオ~ン。もう私、武器を出せないわよ~ん? 諦めましょうよ~ん」
「武器なら、どこにでもあるわ!」
剛森はドスドス歩いていくと、壁際に飾られた人間の背丈はある石像の彫刻を、力任せに引っこ抜いた。
「俺が武器だと思えば、何だって武器よ!」
丸太のように振りかぶった石像が、ぼんやりと黄色く光を放つ。
「腕に抱えられれば、何でも得物か。節操のない魔法よ」
呆れたように首を振るジン。それでも剛森は目をつり上げて、僕に向かってきた。
「我が最高の武器は不屈の魂よ! 闘魂の小僧! お前に俺の魔力を挫くことが出来るか!」
石像を振りかぶったまま、突進の勢いを乗せて攻撃をするつもりだ。
僕は腰を落として迎え撃つ。
「くるならば相手をします。だけど不屈の魂と言いましたが、案外いいものじゃないらしいですよ。僕の肉親が言うには」
デュクシ! と軽く叫ぶと、体がポゥと蒼く光り、腕や足にムチッと力がこもる。
「ほざけ! 小僧が!」
渾身の攻撃を、身を翻してかわす。爆発音と共に地面がぼっこりと抉れた。
僕はそのまま体を軸にして右足にローキックを打ちつける。
「デュクシ! デュクシ!」
勢いに任せたまま体を旋回させて、もう一発ローキックをお見舞いする。
剛森の膝がガクリと折れた。二メートルは余裕にある巨大が、蹴り込みやすい高さになる。
コマのように回転する勢いは止まらない。
脇腹に回し蹴りを叩き込み、右肩にも同じ回し蹴り。
すると苦悶の表情を浮かべた剛森の体が、グラリと傾く。ちょうどいい高さとタイミングだ。
「デュクシ!」
顔面に渾身の力でハイキックを食らわせる。グキッという音と共に、剛森の巨大は壁際まで弾け飛んでいった。
「や、やり過ぎちゃった?」
瓦礫が崩れ、土煙が舞う。それがだいぶ収まって見えてきたのは、首から上が壁にずっぽりめり込んだ剛森だった。
「まぁ、魔力のコントロールが出来ないうちはそんなものよ。いい蹴りだったわ、改人くん」
リイナがパチパチと拍手を送る。それに反応するように、壁に頭を突っ込んだまま剛森が豪快に笑った。
「がはは! ほんまにいい蹴りだったぞ! 闘魂の! この小僧はお前より強くなるかもしれんな! よっこいせ!」
グッと壁を押して頭を引っこ抜く剛森。そのままこっちを振り返ったが、そんな剛森を見て一同ギョッとした。
「闘魂の小僧よ! 悔しいが俺の負けだ! ここを通るが良い!」
「剛森さん! 首! 首が曲がっています!」
キョトンとする剛森だったが、その顔が九十度曲がっていた。
最後の蹴りを放った時に聞こえたグキッはこれだったのか。
「バ、バイオ~ン。痛くないの、それ~」
「なんじゃい? それよりもお前ら、何で横になっているんだ? あれ、地面も横になっておる。お~い、どうなっているんじゃ~」
その不気味な姿勢のまま歩いてくる剛森から、みんな逃げ惑う。体が頑丈なのはわかるけど、魔人こわいよ魔人。


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2012'06.13 (Wed)

駄・ランプ  第六章

「不愉快だわ」
僕が話し終えるのを待っていたかのように、佐々木は間髪入れずに言った。
「非常に不愉快だわ。この上なく不愉快だわ。そこはかとなく不愉快だわ。御し難く不愉快だわ。あまつさえ不愉快だわ」
「茉莉お嬢様、そこはかとなく枕詞の用い方が間違ってございます」
「黙りなさい、珠江」
 珠江さんは一歩下がり低頭した。
「この私が思わず使用人風情からたしなめられるくらい、そのくらい不愉快というのを分かってもらえるかしら」
「茉莉お嬢様、使用人ではなく私はメイドでございます」
「口を慎みなさい、珠江」
 訓練の行き届いた丁寧な一礼で詫びる珠江さん。
 僕は床に正座をした状態で、メデューサのように睨み付ける佐々木に怯えていた。
 何故、僕が佐々木の前にいるかというと、理由はこうだ。
 リイナを助けるためには魔人界に行かなければいけない。それには他の魔人の協力が不可欠。
 僕が知っているリイナ以外の魔人といえば、炎の魔人であるジンのみ。それには主人である佐々木に助力を乞わなければならない。
 ということで、僕はクラス名簿から住所を調べ、佐々木家に向かったのだ。
 しかし、佐々木家の門前に立って腰を抜かした。まるで文化財のような佇まいの日本家屋。端が見えないほど広大な庭園。出迎えた数十人はいるであろう使用人達。
 通学路で一際目に付いた建築物。てっきり大きい寺か神社かと思っていたけど、まさか人家だったとは。
 今更ながら、佐々木がとんでもない大富豪のご令嬢だと知った。
 さて、入り口で佐々木に会いたい旨を伝えると、思いのほかアッサリと部屋に通してもらえた。
 そして外装とはチグハグな、バチカン美術館のような佐々木の自室で、本人が待っていたのである。

「ねえ、井上くん。あなた、何で私がここまで不愉快なのか分かっていない様子ね。それがまた私の不愉快さに拍車を掛けるわ」
「茉莉お嬢様、ローリングサンダーでございますね」
「口を挟まないで、珠江」
 頭を下げる珠江さんに倣って僕もそうする。
「理解もしていないのに反省した振りをしないで、井上くん。どこまで私を不愉快のズンドコに叩き落とすつもりなの?」
「茉莉お嬢様。お恐れながら、ズンドコではなく、どん底でございます」
「口と鼻穴を閉じなさい、珠江」
 お辞儀をして鼻を摘む珠江さん。何なのだ、この二人は。
「井上くん、覚えているわよね。前に私は伝えたはずよ。あなたが好きだって。当然ながら記憶しているわよね、学年主席さん?」
「あ、はい……」
「そうよね、覚えているわよね。それなのにあなたはなんて言った? この私になんて言った? あの頭と尻が緩い魔人を助けるために力を貸せ? こんな屈辱は初めてよ。万死に値するわ」
「ぼ、ぶふょ……ぶほぶぶ……」
「口を開けなさい、珠江」
 顔を真っ赤にした珠江は胸元を押さえて激しく呼吸をする。高校生くらいの子供がいてもおかしくない歳の女性が、一体何をやっているのだ。
「あの、佐々木の言うことはごもっともだけど。たった一度、ジンを喚び出してくれるだけでいいんだ。それだけで」
「イヤよ」
 完全な否定だった。百パーセント混じりっけなしの拒絶に閉口してしまう。
 佐々木のことだから絶対に協力してくれないだろうとは思っていたけど、ここまで頑固だとは。父さんの鋼鉄な心に匹敵する。
「話はもう終わりね。私も井上くんに言うことは何もないわ。珠江、客人はお帰りよ」
「かしこまりました、茉莉お嬢様」
 ホラ貝を構える珠江さん。ブオーという間の抜けた音が響いた直後に、数十人のメイドが部屋へ入ってきた。
 ギョッと身構えると、メイド達は入り口に向けてズラリと整列をした。
「「お帰り下さいませ! お客様!」」
 丁寧にして強制的に帰れと告げられた。これではどんな神経の太いセールスマンも、裸足で逃げ出すだろう。
 帰るまで絶対に頭を上げないであろうメイド達。親の仇のごとく不機嫌に睨み付ける佐々木。何故かホラ貝を構えている珠江さん。
 僕もいち早くこの場から去ってしまいたい。だけど、時間がない。なんとしてでも、僕は魔人界に行かなければならないのだ。
「取引をしよう」
 ゴクリと唾を嚥下してから佐々木に提案する。
「取引、ですって?」
 眉間に寄せたシワを倍に増やして佐々木は答えた。
 今すぐにでも噛みつきそうな勢いだが、もはやこれしかない。
 というよりも、超絶リアリストな佐々木相手なら、始めからこうすれば良かったのだ。
「そう、取引だ。もしも佐々木がこの場にジンを喚びだしてくれたら、リイナの願い事を一つだけ君に譲ろう」
「……」
 破格な条件だ。僕はずいと佐々木に詰め寄る。
「君はランプを擦るだけで魔人の力を一回増やせるんだ。どうだい、魅力的な取引だと思うけど」
 どのみちリイナを助けられなければ、百近い願い事は効力を失う。佐々木に一つ貸しを作るくらい、惜しくもない。
 鬼の形相はそのままに沈黙する佐々木。そんな僕らの間に、ホラ貝を振りかぶった珠江さんが割って入った。
「痴れ者が! 茉莉お嬢様に対して取引などとは、なんたる無礼でございましょう! お嬢様が直接、手を下す必要などありません! 私が葬ってさし上げま」
「控えなさい、珠江!」
 佐々木の叱咤に珠江さんばかりか、整列していたメイド達もビクーンと身をすくめた。
「いいわよ、井上くん。取引に応じましょう」
 邪悪にニンマリとほくそ笑む佐々木に、背筋がゾクッとした。
 なんだか罠にでも嵌められたような、嫌な感覚だぞ。
「下がりなさい、メイド達。珠江、あのランプをここに」
 佐々木が命令を下すと、メイド達は速やかに部屋から出て行った。珠江さんはランプと一枚の紙を持参する。
「茉莉お嬢様、取引ならば血判を捺させましょうか」
 ランプだけを受け取ると、ご満悦な表情の佐々木は紙を手で払う。
「必要ないわ。だって私と井上くんの間には、目に見えない絆があるから」
 ええ?
「御意。かしこまりました。さすがは茉莉お嬢様、佐々木家の次期当主になられるお方との愛は、着々と育んでらっしゃるようで。お羨ましい」
 ええええ?
「く、下らないおべんちゃらは止しなさい、珠江」
 ええええええええええ?
「では私も退席させて頂きます。またあとでロイヤルミルクティーでもお持ち致します、茉莉お嬢様。いえ、我が愛しい娘」
 えええええええええええええええ?
「はい。またあとで、ママ」
 ええええええええええええええええ!
 ほんのりと頬を染める佐々木を残して、珠江さんは控えめに微笑みながら部屋を出て行った。
 今のは冗談なのか? 訳が分からず脳みそが疲れた。

「さて、じゃあ望みを叶えてあげるわ。出て来なさい、クズ」
 埃でも払うように、ぞんざいな手つきでランプを擦る。伝説の炎の魔人が、最早クズ扱い……。
 ランプから溢れた煙が晴れると、以前と同じダークのスーツを身にまとったジンが、腕を組んで立っていた。
「お呼びかな、我が主よ」
「私はあんたなんかに用はないわ。要件があるのは井上くんよ」
 眼鏡の奥にある緋色の瞳がゆっくり僕を捉える。
「……ほう。久しいな、少年。そして罪人の主よ」
 そう言ってジンは興味を失ったように眼を閉じた。
 罪人、という言葉が胸に刺さる。
「リイナのことを、知って……」
「うむ。いまや知らぬ者などいないほどの話題よ。奴とは幼なじみ故に此度の件は責めたくないが、擁護しようとも思わん」
 エスカマリさんが話したとおり、あちらでは大事件になっているようだ。ジンのあからさまな態度が事実を物語っている。
「それで、私に用とは何事である。少年よ」
 グッと握った手に力を込めて頷く。
「僕を、魔人界に連れて行って下さい」
 ジンの赤い髪がフワッと浮き上がる。眼鏡を指で直してから訊ねてきた。
「何故、訊いておこうか」
「リイナを、救うためです」
 カッと開いた眼が宙を泳ぐ。
「何を馬鹿げたことを……」
「リイナを助けたいから、どうしても魔人界に行かないといけないんです。お願いします!」
「断る。それに私は主以外の願いは一切受け付けん」
「受け付けなさいよ、クズ」
「わかった、聞こう。……いやいやいやいや、待ちたまえ。我が主に少年よ」
 一人ノリ突っ込みをかましたジンは腕組みを解いた。あからさまに困惑した態度をしている。
「それよりも、人間である井上くんが、魔人界に行くことは可能なのかしら?」
 ソファーにふんぞり返った佐々木が訊ねる。それにはジンではなく僕が答えよう。
「魔人は召喚した瞬間、手に触れていたものも、一緒にゲートをくぐって来てしまうんだ。前にリイナが、パソコンごと召喚されたのもそのせいさ。そして逆も然り。召喚が解かれた瞬間に手に触れていたものは、魔人界に連れて行かれちゃうんだ」
 実際にそれで、何度かリイナに枕を持って行かれたことがある。
「その通りだ。それに人間界からは物だけでなく、科学技術といった英知も魔人界に持ち込んでいる」
「なんで? 魔人はみんな、あんたみたいに馬鹿なのかしら」
「ぐぬぬ……。魔人は得てして魔力に頼るせいか、人間のように科学技術を発展させようと考えもしない。なので我々が人間の願い事を叶えてやるのは、立派なギブアンドテイクなのだ」
 そしてジンは咳払いをして、僕を真っ直ぐに見据えた。
「故に知力の恩恵たる人間の心に魔力を使うなど、言語道断なのである。我が主の命令により魔人界までの手引きはするが、それ以上は手助けせんぞ、少年よ」
「しなさいよ、クズ」
「わかった、しよう。いやいやいやいや、我が主よ。それはさすがに致しかねるぞ」
 若干慌て気味にジンは首を横に振る。
「なによ、クズ。私の命令が聞けないというの。有り得ないほど使えない魔人ね」
「きちんと願い事という形にして頂けるなら、いくらでも叶えるが」
「そのくらいサービスしなさい、クズ」
 図々しい要望をさも当然にのたまう佐々木。主人運の悪いジンに同情せざるを得ない。
「いや、さすがにそこまでお願い出来ないよ。それにリイナに加担すれば、ジンさんも只では済まないでしょうから。でもせめて、リイナが留置されている魔人裁判所っていうところまでは、連れて行ってもらえないでしょうか?」
 浅く瞳を閉じ思案してから、ジンはコクリと頷いた。
「了解した。案内をしよう」
 ホッと胸をなで下ろす。
「ジンさん、ありがとう。そして佐々木も、ありがとう」
 頭を下げると佐々木はニヤリと笑って言った。
「井上くんが帰ってくるまで願い事を考えておくわ。楽しみに待っていることね」
 背筋がゾクッとする。頼むから一般常識の範囲内にしてもらいたい。
 スッと手を差し出すジン。
「では少年、参ろうか」
「はい。よろしくお願いします」
 僕はその手を握り返す。炎のように熱い手だ。
 さぁ、魔人界に行ってみようか。僕の魔人、リイナを救うために!
 
 ……まだかな。あと何分くらいだろうか。
 さっきからジンと手を繋いだまま、ぼんやりと突っ立っている。確かにいつ召喚が切れるか分からないけど、もう少しあとに手を繋いでもよかった気がする。
 しかも何故かジンは、若干嬉しそうな顔をしているし。佐々木は腐った生ゴミでも眺めるような眼をしているし。
 それにこれ、言っちゃ悪いことだと思うけど。ジンの手、汗でヌチャヌチャして気持ち悪い……。

☆ ☆ ☆

 魔人界の街並みは人間界と何一つ変わりなく、高層ビル群の間を自家用車の列が縫うように走っていた。違いといえば髪と皮膚の色が異なる魔人が闊歩していることと、夜空に浮かぶ月が二つあることくらいだろうか。
 僕とジンは地下鉄に乗って、魔人裁判所へ向かった。
「するとなにか。少年があのルイーゼ様の息子だというのか?」
 眼鏡を何度もたくし上げるジン。道すがら今回の事を説明していたのだが、ここまでジンが驚愕するとは思わなかった。
「ルイーゼ様、って大げさな」
「何を言うか。ルイーゼ様といえば美人な上に強大な魔力。才色兼備、容姿端麗、良妻賢母、十人十色とそれはそれは評判な魔人だったのだぞ」
 後半の四字熟語は明らかに使い方が間違っているが、母さんはよっぽど凄い魔人だったらしい。ジンは眼鏡の下から指を入れ、目尻をグッと押さえる。
「あの女傑と名高かったルイーゼ様が、よもや人間界で命を落としていたとは。生きているうちにもう一度、お会いしたかったものだ」
 目頭が熱くなった。
こっちの世界では母さんの事を知っている人がいる。亡くなった事を悲しんでくれる人がいる。
やはり母さんは、魔人界の住人だったのだ。
「そしてもう一度、バトルしてみたかったものだ」
 結局はそこかい。まずはリイナに勝ってから言いなさい。
「ところで少年よ。こっちの世界はどうだ? 人間界と違って魔力に満ち溢れているであろう」
 ジンに言われて僕は大きく息を吸ってみる。確かにこっちに来てから、空気の質が違って感じた。
 酸素の量が多いというか、濃厚だというか。でも決して不快ではなく、むしろ気分が高揚しているほどだ。そしてどことなく、懐かしさすら感じてしまう。
「ええ。よく分かりませんが、違和感があるのに違和感がないというか。言葉では言い表せませんが、これが魔力なのかな、っていうのが、なんとなく伝わります」
 するとジンは顔は正面を向いたまま、指先をこちらに突き付けた。
「? なんですか、エッ!」
 指先から途端に小ぶりな炎の玉が放たれた。とっさに手で防ぐ。
「なにするんですか! 火傷しちゃうでしょ……あれ?」
 確かに皮膚を焦がすような熱い感触があったはずなのに、手の平には黒いススが付いているだけだった。
「それが魔力だ、少年よ。闘魂の魔法ほどではないが、すべからく魔人は体全体に魔力を帯びることになる。それがシールドの役割を果たし、人間よりも数倍、体が頑丈になるのだ」
「べ、便利ですね」
 だからと言って、突然に炎をぶつけてくることもないだろうに。
 すると電車の中に車内アナウンスが鳴った。
『ご乗車中のお客様にお願いです。車内での魔法の使用はどうぞお控え下さい。繰り返します。車内での魔法の使用は……』
 周りの乗客もこっちを指差しながら、ヒソヒソと声を潜めている。
 顔が真っ赤になるジン。ああ、魔人界にはそういうルールがあるのね。

「克田とは面会が可能なのか?」
 車内を巡回していた鉄道員から一通り怒られた後、電車の手すりに掴まりながらジンが訊ねてきた。
「はい、そうらしいです。ただしリイナは独房に捕らえられているので、鉄格子越しであると。そこまで行けさえすれば、あとはリイナを脱走させられるかと思います」
「ふむ。ところで少年に入れ知恵をしたのはどこの誰だ? 只の魔人ではないな、きっと」
「エスカマリさんっていう、ネットゲーム内で知り合った魔人です」
 緋色の目を見開いてジンは「ほほう……」と唸った。
「魔人界でもかなり人気が高いらしいですね。ジンさんもやっています? マホロバ」
「うむ、もちろんだ」
「あ、本当に。エスカマリさんはリイナが所属するギルドのマスターなんですよ。僕と同じ弓使いなんですけど、パーティーサポートがメッチャ上手い魔人さんです」
「マホロバはキャラクタースキルよりも、連携攻撃といったパーティープレーが重要だからな」
「そうそう。でもそこのギルドに『紅蓮の翼』っていう斧使いの人がいるんですけど。その人、派手な攻撃ばかり使いたがって、一緒に戦闘すると邪魔で仕方ないんですよ。周りが見えてないっていうか。迷惑な人っていますよね」
「少年よ。その、紅蓮の翼とやらは……」
「はい?」
「……私だ」
 この上なく気まずい空気が流れる。眼鏡の奥の瞳にうっすら涙が溜まっていた。
「……」
「……」
「邪魔で悪かったな」
「……」
「……」
「あらじん、死ね」
「……」
「……」

☆ ☆ ☆

 さて、ダークモードのジンと地下鉄に揺られること四十分。目指す魔人裁判所に到着した。
 いかにもお役所的な外観の建物に足を踏み入れる。受付の役人に面会の要望を告げると、地下へと続くエレベーターに案内された。
 リイナがいる独房は地下五階。古い型のエレベーターなのか、降りていく時間が長く感じた。
「当然ながら独房のある階では、魔力の使用は一切認められていない。もしも使用した場合は処罰の対象になるので、変な気は起こさんことだ」
 中年の役人はジットリとした視線を交互に向ける。
「赤髪の青年。罪人との関係は?」
「幼なじみである。闘魂の魔人の家系である克田家。そして炎の魔人の、伝説の炎の魔人の家系である我が高杉家は、古くからの仲である。故に兄弟のように育ってきたといっても過言ではない」
 そこまで誰も聞いてない、とばかりに面倒くさそうな顔をしながら、中年役人は僕を見た。
「君は、どんな関係かね?」
「この少年は、我が友人である!」
 鼻息を荒げて意気揚々と答えるジン。
「いや、君には訊いていな」
「友人である! 彼は私の友達である! 友達!」
 友達という響きに悦っているジンがかなり気持ち悪い。というか、イヤだな。
「本当に友達なのか? 君、いかにも友達が少なそうだぞ」
「おい! それはどういう意味だ!」
 喧嘩に発展しそうになる直前、エレベーターが到着した。
 中年役人は独房監視員に引き継ぐと、そのままエレベーターで戻っていった。
 独房階は全体が薄暗くカビ臭い。それに監視員は二人とも鎧を身にまとい、先端に刃が付いた槍を携えている。重苦しい雰囲気が、リイナの罪状の程を物語っていた。
「面会時間は五分。何を話していけないとは言わないが、相手は罪人である旨を含むがよかろう。ちなみに伺っておくが、君達は何系統の魔法だ?」
 監視員は事務的に訊ねる。魔法の系統によっては、面会遮絶になるとエスカマリさんは言っていた。
「私は代々誉れ高き炎の魔人、高杉家のジンである。貴様、私を知らないとはモグリか?」
「知らんわ。君は?」
「……治癒系の魔法です」
「了解した。では、これより面会を許可する」
 魔人のマスターだということも、隠しておいた方が良いらしい。願い事という形で魔法を使えば、系統を無視して莫大な魔力を駆使出来るからだ。
 監視員の後に続いて進む。二人いるうちもう一人は僕らの後ろに。
 当然ながら警備体制に抜かりはない。リイナに伝えたいことが伝えきれるか不安になった。
 片廊下に面して三畳ほどの独房が十部屋ほど連なる。ちょうど真ん中へ来たときに、監視員は足を止めた。
「克田リイナ、面会者だ。起きろ」
 簡素な洗面台と便座、それに粗末なベッドしかない独房。そのベッドの上に、リイナは横たわっていた。
 こちらに背中を向けているので顔は見えない。でも、その久しぶりに見る姿に涙が出そうになる。
 今やこんな薄暗い独房で裁きを待つだけのリイナ。あの馬鹿なことばかり言い合った日々が、いやに眩しく思い出された。
 あと少しの辛抱だ。リイナは僕が絶対に、救ってみせる。
「リイナ! 僕だよ!」
「えっ! 風早くん?」
 ……あぁ?
 満面の笑みを浮かべて起き上がったリイナだが、僕達の顔を見ると露骨な溜め息を吐いた。
「なんだ。改人くんに高杉か」
「なんだとはなんだ! 人がせっかく会いに来てくれたのに! しかも何で風早くんが出てくるんだよ!」
「え~。だって私いま、結構有名人になっているらしいから。無能力者になる前に、一度くらい風早くんが来てくれるかな、って。『魔力は失っても君への愛は変わらないよ。そうだ、この気持ちが消えないように、水の精霊の誓約を二人で受けよう』みたいな」
「ねーよ! なに都合のいい夢見てんだよ!」
「叶わないから夢なんだと思います」
「望みねーのかよ! もっと頑張れよ!」
 ケタケタ笑いながらお尻をバリバリと掻くリイナは、心底がっかりするくらいに普段通りだった。
 僕はちょっと離れて深呼吸をする。
「あなた、本当に魔力を剥奪されるんですか?」
 リイナは監視員をチラッと見てから言った。
「そうよ。こればっかりは言い訳出来ないし、自分でやっちゃったことだもん。後悔はしていないわ」
 ベッドにダラリとだらしない格好で寝そべり笑っているが、リイナの空色の瞳は真剣だった。ズキッと胸が痛む。
「記憶が戻ってすぐに言ってくれれば、また封印することが出来たのに。あなたならそのくらい容易に頭が回ったでしょう」
「うん。でもね、それはやっぱりダメかなって。だって私、一度は逃げたんだもん。それなのにどうして、また逃げられるっていうの」
「逃げる、って。父さんはそんな風にあなたを思っていない。それに父さんだけではなく、母さんだってきっと……」
 リイナの顔が嬉しそうに崩れた。
「あは、やっぱりシゲノブはシゲノブだわ。いつも人の心配ばっかりで、温かくて優しい。馬鹿だね、私。そんなシゲノブのことを忘れちゃおうだなんて、もったいない。それに、お姉ちゃんのことまで」
 目じりにうっすら涙を浮かべて満足そうにリイナは微笑んだ。そしてベッドから降りると、鉄格子に近付く。
 リイナの首には銀色のリングがはめられていた。僕は自分の首を指差しながら訊ねる。
「それ、魔力拘束具?」
「そうよ。これのせいで魔力は全部、封印中。もし解放出来たら、ここなんて二秒で突破可能よ」
 リングをグイグイ引っ張りながら、リイナは諦観の笑みを浮かべた。
「そんなわけで最後に力も使えずに、私は無能力者になるしかないわけ。でも、さっき後悔はしていないって言ったけど、一つだけ後悔があるかな。ここまで私を心配してくれるご主人様に、何もお返し出来ないまま魔力を失っちゃうなんて」
 リイナがスッと手を伸ばす。その手を掴むと、僕は鉄格子越しにリイナを引き寄せた。
 監視員が引き離そうと詰め寄ったが、それをジンが体を割って阻んだ。
「案ずるな。不粋である」
 冷たい鉄格子を挟んで伝わってくるリイナの体温。僕はリイナの耳元に口を寄せ、短く言葉を伝えた。
 体を離すとリイナの頬に涙が零れ落ちる。
「ありがとう。本当に、ありがとう。最後にお姉ちゃんの子供、私の甥っ子の顔が見れて幸せだったわ。そして願い事を全部果たせなくて、ごめんなさい。いっぱい心配かけて、ごめんなさい。」
 頭を下げるリイナ。
「それと、高杉もありがとう。改人くんをここまで連れてきてくれて。結局、勝負は私の勝ち逃げになっちゃったけど、他の魔人に負けないように、もっと強くなりなさいね」
 神妙な顔つきのジン。
 その時、監視員が互いに目配せをしたのを視界の隅で捉えた。
 これはマズいことになったと焦る。
 リイナの言葉の端々を拾っていけば、充分に気付くだろう。僕がリイナと契約した人間だということを。今更ながら、もう少し言葉を選んでおけばと後悔した。
 片方の監視員が槍を構えると、もう一人はエレベーターの方へ向かった。
 ここで騒がれて放り出されてしまえば、計画が台無しになってしまう。万事休す! と思った直後だった。
 ジンが、監視員の腕を掴んで制止させた。
 思い掛けない行動に、その場にいた全員が目を丸くする。腕を掴まれた監視員も、唐突のことに呆然としていた。
「あの、ジンさん?」
「……気が変わった」
 ムッスリとした態度で呟いた瞬間だった。ジンが触れていた監視員が、ガス爆発でもしたかのように炎のかたまりとなった。
 消し炭になった相方を、口をパクパクしながら見る監視員に、ジンが軽く手を触れる。
「劫火の抱擁」
 同じように一瞬で丸焦げにされた監視員。その瞬間、廊下にけたましい警報音が響いた。
「ジンさん、これは一体……」
「我が魔法をこやつらの体内で直接爆発させた。内臓から血液に至るまで、一瞬で炎が駆け巡ったであろう」
 黒こげになった監視員の衣服をあさりながら、解説をするジン。
 ポケットから鎖のついた鍵の束を取り出すと、その鎖を炎で焼き切った。
 そしてリイナの鉄格子の鍵を開ける。
「高杉あんた、なんてことをやっちゃったのよ……」
「うっさい! りっちゃんのアホ! スカンク!」
 メガネをクイッと託しあげながら、ジンは言葉を続ける。
「私は我が主の命により、この少年を助力したまで。そして克田よ、本当に勝ち逃げをするなど許さん。共に脱走しようぞ。我が旧友よ!」
 やや興奮した様子のジンには申し訳ないが、僕とリイナは同時に深い溜め息を吐いた。
「いや、あのですね。そういう意味じゃなくて」

更新日 6月19日

 リイナくんのドキドキプリズンブレイク大作戦!
 監修:エスカマリ

 一、まずはリイナくんに作戦を伝えよう。面会に行くフリを装えば誰でも会えるぞ!
⇒今ここ。
 二、裁判の時間になったら判決の間で待機しよう。魔力剥奪の儀式はその場で行われるぞ! その際に身内だとか役人に伝えれば、より近くで観覧できるぞ!
 三、 そして裁きの瞬間! 魔力剥奪の儀式に入るときに、一瞬だけ魔力拘束具が外されるのだ! ここがチャンス! すかさずリイナくんへ願い事をしよう! どんな願い事でもいいさ! リイナくんは素早く契約コードを詠唱すればいい! 力ずくでその場を脱出だ! 闘魂の魔人相手なんて誰も適わないって!
 四、あとはリイナくんと手と手を取り合って、南の島にでも逃避行。新たな二人の未来が始まる……!

「……という予定だったんですけど」
 真顔で話を聞いていたジンの額から、冷や汗がダラダラと垂れ落ちてくる。
「それ、先に言えよー」
「だってジンさん、手伝わないって言ったじゃないですか。だから余計なことを伝えても、意味ないかなって」
「高杉ってこういう奴なのよ。目立ちたがり屋っていうか、一時のテンションに流されやすいっていうか。たいていは良くない結果を引き起こすけどね」
 顔を真っ赤にして吠えるジン。
「う、うるさい! それを言ったら克田はどうなのだ! なぜ当の本人がそこまで落ち着いていられる!」
「だって改人くんがここに来た時点で、助けにきたなって気付いたし。それにさっき、その旨を耳打ちされたし。全く高杉はいつもながら空気が読めない奴ね」
「てか、あなたも普通にご主人様って言っていたでしょうが。全然気付いていなかったでしょ。嘘言うな」
 イタズラっぽくペロッと舌を出して見せるリイナ。
 顔を赤らめたり青ざめたり、彩り豊かに染め替えるジンは頭を抱えて激しく唸った。
唸りたいのはこっちの方だ。計画を最初からメチャクチャにされたのだから。
警報音が未だに鳴り響く。奥を見るとエレベーターが動いていた。警備員がまもなく駆け付けるだろう。
「困ったわね~。まぁ、私は元々罪人だけど、高杉も間違いなく捕まるわ。あんた馬鹿ね~。お父さんにメッチャ怒られるわよ~。眼鏡、叩き割られるわよ~」
 欠伸をしながらバリバリ尻を掻く姿は、緊張感の欠片もない。
 頭を抱えてブツブツ呟いていたジンは、変な雄叫びを上げながら立ち上がった。
 そして後方に巨大な炎の玉をぶっ放した。
「何をやっているんですか、あなた……」
 エレベーターの扉がひしゃげて炎に包まれる。次いで反対側の通路から、槍を構えた警備員がワサワサと現れた。
「魔力の使用を許可する! 脱獄犯と荷担した者達を捕らえよ!」
 先頭に立った警備員のリーダーが手をかざす。すると後に携えた警備員達の槍が鋭い造形に変化し、一斉に投擲してきた。
「ほう、魔力を使用してよいのならば、決闘と受け取っても構わんのだな。ならば遠慮はせん。我が灼熱の業火を存分に味わうがよい!」
 雨のように降ってくる槍に向かって、ジンはスッと手を払う。すると槍は次々に爆ぜ消滅した。
 その爆煙に紛れてジンは敵の懐に突進する。また派手な爆発が立て続けに舞い上がった。
 一瞬だけ現れた修羅場はすぐに静まり返り、あとに立っているのはジンだけだった。
「ここまで来たら、やれるところまでやらせてもらおうか! 高杉家は三十七代目を継ぐジンを侮るな! 行くぞ、克田! 少年!」
「は、はい!」
 勇ましく走り出すジンのあとに次ぐ。警報音がけたましく鳴る中、僕はリイナの手をしっかりと掴んだ。

 最早開き直ったジンに恐いものはないようだ。
「止まれ、炎の魔人よ! これ以上騒げば、貴様も魔力剥奪の刑に処され、ぐはぁ!」
「うるさい! 退け!」
 自由自在に炎を操り、次々と警備線を突破していく。リイナとの対決では、小さい炎をポイポイ投げてきただけだったが、やはり人間界では力の一割も出せないらしい。
 爆炎に火柱の乱舞。僕は前方から吹き込んでくる熱風から身を守るだけで精一杯だった。
「ジンさんって、本当は強いんですね」
 感嘆しながら呟く僕にリイナが相槌を打つ。
「まぁね。一応、自然四大元素のひとつ、火を担う高杉家の長男だもん。そこそこの相手には負けないわよ。頭は弱いけど」
 階段を駆け上がりながら階層を頭の中で計算する。これで二つ目の踊場までやって来た。
 独房のあったのが五階だから、単純に考えれば今は三階。
 階を上がっていくごとに、警備員の数も増えていっている。いくらジンの魔法が強力とはいえ、最後まで突破出来るのだろうか。
 それにこの建物から抜け出られたとしても、その後はどうする? リイナの魔力は未だに拘具で抑えられているままだ。
「リイナ、やっぱり願い事って出来ない?」
 駆け足なため、上がった息を収めつつ、リイナは答える。
「無理だと思うよ。願い事を叶えるといっても、着火させるだけの微量な魔力は必要だから。試しに何か言ってみて」
「じゃあ、その首輪を外して下さい」
「了解。契約コード詠唱! シメサバ!」
 人差し指を突きつけて唱えるが、何一つ反応がない。やっぱり無理なようだ。
 これでは屋外でも逃げ切れないだろう。
 結局はどん詰まりとわかっていても、先に進まなければと気が急いてしまう。とにかく今は最大の戦力であるジンについて行くしかなかった。

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2012'06.09 (Sat)

駄・ランプ  第五章

 あれから一週間が経った。
 帰宅してすぐにパソコンの電源を入れると、早々にマホロバを立ち上げログインする。
 そして決まったようにフレンド登録されてあるページを開き、お目当てのプレーヤーがインしているか確認する。
 確認して、いつものように重い溜め息を吐いた。
 リイナはあれからずっと、マホロバにも繋げていない。
 にも……というのは、召喚にも応じなくなったのだ。

 僕はマウスから手を離すと卓上ランプを引き寄せ、念を入れて擦った。
「出でよ、ランプの魔人」
 しかし反応はなく、僕の声だけが無駄に広い部屋へこだました。
 やるせない気持ちだけが胸に溜まっていった。
 あの時、リイナの消え方は明らかに普通ではなかった。その理由を僕は次の日、夕飯の時に父さんから聞いて知った。
 父さんとリイナが隠していた真実と、犯してしまった禁忌を。

「リイナに初めて出会ったのは、私がまだ二十歳の頃だった」
リイナの記憶を戻した夜、父さんは夕飯を食べながら静かに語り出した。
「当時の私はやりたいこともなく意志も弱く、ただ惰性で大学に通うだけの人間だった。本当に友人と呼べる友人もいなく、意地悪なゼミの先輩の小間使いとしての日常が、情けなくも唯一孤独にならない手段だったよ」
父さんの顔をマジマジと見つめる。
この人が昔のことを話すなんて初めてだし、何より鋼の心を持つ父さんが、今とは全く別物な青年だったとは。
「そんなある日、私はふと立ち寄った近所の雑貨屋であのランプを手に入れた。改人はあれをどこで?」
「商店街の電気屋さんで」
「ふむ。どこをどう巡ってお前の手元にやってきたかはわからないが、これもやはり運命のようなものだろう」
箸を使うのが下手な父さんは、焼き魚を不器用にほじりながら口に運ぶ。
「初めて会った時には本当に驚いた。ランプを擦ったら煙と共に女の子が現れたのだからな。しかもその時、リイナはな。その、あれだ。着替え中だったのでな。暴れるわ喚くわで、最初の三十分はドタバタしたまま終わったよ」
驚いたというわりには無表情で懐古する父さん。
というか、佐々木といい父さんといい、ランプを見ると結構みんな擦ってしまうものなんだな。
「それから私の生活は一変した。初めはお互いギクシャクしていたが、日が経つにつれて慣れていった。当時まだ十八歳だったリイナと色々な話をしたものだ。学校でのことや友達のこと、お互いに悩み事を相談し合ううちに、私達は魔人と人間という垣根を越えて親交を深めた。毎日のたった三十分間が、自分が自分らしくいられる時間だったし、リイナを自分の妹みたいに可愛がっていた」
父さんの気持ちがとても理解できた。
僕も毎日、用もなくリイナを喚び出しては下らないお喋りを楽しんでいる。
リイナも元来、大らかな性格なのだろう。ほぼ習慣となった召喚を疎ましく思わず、僕に付き合ってくれる。
リイナとの三十分間は、いつの間にか僕にとっても掛け替えのないものになっていた。
「そんなある日、私にとって一つの転機が訪れた。普段通りに召喚したリイナの隣にもう一人、空色の髪と瞳を持つ魔人がいたのだ。それがリイナの姉、ルイーゼだった」
おや、と首を捻る。以前にリイナへ家族のことを訊ねたことがあったが、本人は一人っ子だと確かに言っていた。
「リイナが日向で朗らかに咲く蒲公英ならば、ルイーゼは控え目だが可憐に咲く紫陽花のような女性だった。私はそう、一目でルイーゼに惹かれてしまったよ」
飲み込もうとしていたご飯がグッと詰まる。父さんの瞳が何かを悟って欲しいようにジッと僕を見た。
「それからは時々、リイナはルイーゼを連れてくるようになった。私もルイーゼに会えることを心の中で望んでいたし、彼女もきっとそう思っていると仕草で感じ取れた。意気地がなかった私は自分からはそれ以上、ルイーゼに歩み寄れずにいた。そんなもどかしさを軽々と踏み越えたのは、彼女の方だった」
そこで父さんは一旦、箸を置くと湯呑みを啜る。淡々とした父さんの語り口に、僕はいつの間にか箸を止めて聞き入っていた。
「その日も三人で他愛のない会話をしていると、そろそろ三十分間が経つところだった。終了時間に備えて手を繋ぐ姉妹。名残惜しく見送る私。その時だった。ルイーゼは妹の手を離すと、私の胸に飛び込んできたのだ。驚く私に、悪戯っぽく舌を出すルイーゼ。そして呆気に取られた顔を残して、リイナだけが煙と共に消えていったよ。その日を境に、私達の関係は一変した。それまであやふやだったお互いの立ち位置が、くっきりと色を付けた」
僕は自分のことを、そこまで鈍い性格だとは思っていない。
ある予感が、着実に正解に向けて進んでいた。
父さんは、父さんだけの昔話をしていたのではなかった。

「それからルイーゼは、召喚の度に魔人界と人間界を行き来するようになった。私とルイーゼは、薄暗いアパートの一室で奇妙な半同棲生活を始めたのだ。妹であるランプの魔人リイナは、従順に姉と私を繋ぐゲートの役割を果たしていたよ。リイナがあってこそ成り立つ生活だったし、もちろんいつも感謝していた。だが私は感謝ばかりで、彼女の気持ちに気付かずにいたのだよ。今にして思えば、なぜもっとリイナにも目を向けられなかったのかと後悔している」
だが鋼の心は、悔いる溜め息を吐く優しさすら奪った。背筋を正してムシャムシャとご飯を掻き入れながら、父さんは話を続けた。
「それから一年後、私が最後にリイナを召喚した前の日の話をしよう。いつものようにランプを擦ったのだが、その日はルイーゼがそばにいなくリイナだけだった。まぁ、タイミングが合わなければルイーゼを連れてこられないなんて珍しくなかったのでな、私は大して気にもしなかった。たまにはリイナとゆっくり話でもしようかとお茶を淹れようとした時、リイナは躊躇いがちに言ったのだ。ルイーゼと種族の隔たりなくいつまでも一緒にいられる方法がある、と。私は目を丸くした。それは常々、私が悩んでいたことでもあった。当然ながらルイーゼも向こうで生活があるし、結局はリイナの召喚を通さなければ私達は会えない関係なのだ。方法を訊ねてもリイナは教えてくれなかった。ただ一つだけ、自分の言うことをなんでも聞くように願い事をしてくれ、と」
味噌汁で口の中を流すと父さんは手を合わせて、ご馳走様と言った。僕は自分の食事がまったく進んでいないことに気付いたが、今は箸を動かす余裕などなかった。
「リイナのことは絶対的に信用していたので、私には断る選択肢はなかった。私達の間を繋いでくれたリイナだからこそ、喜んで承諾した。戸惑いながらも無理矢理に笑ったリイナの顔を忘れられない。私は正式にランプの魔人に願い事をした。『君の言うことになんでも従うようにしてくれ』と。今にしてみれば、なんという軽薄な願い事だったのだろうと思う。リイナの指先が光った後、私は目の前の女の子を見て、立場が逆転してしまったなと感じた。これでリイナが私の願い事を叶えるのではなく、私がリイナの願い事を叶えるようになってしまったのだと」  重ねた食器を流しに持って行くと、父さんは新しいお茶を淹れながら「リイナはそれ以上なにも言わず、その日はそれで終わった」と呟いた。
「何かをグッと呑み込んで語ろうとしないリイナが消えた後に、結局彼女は私に何を叶えて欲しかったのだろうと訝しんだ。そして次の日、その答えを聞くためにランプを擦った。するとそこには、ベッドに横たわるルイーゼと青冷めた顔で姉の手を握るリイナがいたのだ。私は驚愕してリイナに訊ねた。命に別状はない、貧血で倒れただけだというリイナの言葉にホッと胸を撫で下ろした。だがリイナは依然としてワナワナ震えるばかりで、何かとんでもないことをしでかしたとばかりに縮まっていた。私はリイナの肩を掴んで問い質した。そしてどうにか聞き出せたことが二つ。ルイーゼが身ごもっていることと、もしそれを知っていたら自分は昨日、そんな願い事をしなかったと」
予感は確信へと繋がった。
「身ごもった魔人は問答無用で家を出て、嫁がなければいけないというのが魔人界のルールらしい。リイナの本当の願い事は他にあった。しかしたった一晩でそれをしてはならない状況になった。譫言のように呟くリイナの言葉に、私は自分の顔が赤くなっていくのが分かったよ。この一年間、私はルイーゼに会いたいがために、リイナに対してどれだけ残酷なことを頼んでいたのかと。この子の気持ちに気付けなかった愚鈍な自分を、心の底から悔いたよ」
そこで父さんは一端、口を噤む。リイナへの懺悔だろうか、はたまた過去の自分を呪っているのか。
わからないけど、表情一つ変えないいつもの冷淡な態度は、ただ喋り疲れた中年男にしか見えなかった。
「愕然とする私に、リイナはスンスンと鼻を鳴らしながら向き合った。二つ目の願い事を私に叶えさせるために。ルイーゼはこのまま人間界においていかなければいけない、そして二度と自分を召喚しないで欲しい、だから……自分の記憶を消すように願い事をしてくれ、と。前日に叶えてもらった願い事はきちんと発動した。私は自分の意思とは裏腹に、二つ返事でリイナの言葉を復唱していたよ。そしてリイナの指先が光る直前、彼女は私にもう一つの願い事をしていった」

――シゲノブ、これからは誰にも負けない絶対に折れない心で、お姉ちゃんと産まれてくる子供を守ってね。

「リイナの魔力は強力過ぎた。呟く程度のささやかな祈りにまで、私への願い事は発動されていた。それが魔人界の禁忌に触れたとは、本人ですら気付かなかっただろう」
あまりの驚愕に開いた口が塞がらなかった。
父さんの鋼の心が、まさかリイナの魔力によるものだったなんて。
いつも歯がゆさや虚しさといったもの感じていた。その堅固さや孤高さに、息子ながら劣等感を抱いたこともあった。
魔人達が人間の性格をいじる行為を禁忌と定めた理由を、僕はひしひしと実感した。
「それから私は約束通りにリイナの記憶を封印させて、二度と喚び出さないようにランプを海へ投げ捨てた。そして目覚めたルイーゼに全ての事情を説明し、改めて求婚をしたのだ。当然ながら人間界に戸籍も親類も持たないルイーゼと一緒になるには、絶大な苦労があったよ。時には非合法に近い手段を使ったこともある。さらにはルイーゼの空色の瞳と髪もカラーコンタクトやヘアマニキュアで隠し、名前も与えた」
心臓が乱暴に跳ね上がった。
「ルイーゼの髪は五月の晴れた青空に似ていた。それに因んで、ルイーゼの名前は」
「……さつき、だね」
僕の母さんの名前だ。
「うむ。ルイーゼは髪も瞳も黒に染め、井上さつきとして人間になった」
気付けば、両眼からは止め処ない涙が溢れ出していた。
様々な感情が折り重なって、自分でもどうすればいいのか分からない。
一人もいない母さんの親類や、父さんの早すぎる結婚や鋼の心。
これまでずっと不思議に思いながらも聞けなかった謎が、氷解した。
しかしそこにあった事実は、受け入れるにはあまりにも大きすぎる。
「本当ならば、お前に母さんのことやリイナのことは打ち明けないまま、墓場まで持って行くつもりだった。仕方ないだろう。自分の母親が魔人などと、一体誰が信じるというのか」
僕は涙を乱暴に拭う。
確かにそうだ。もしもリイナに出会う前の僕なら、母さんの真実を聞かされても絶対に信じなかっただろう。
母さんのことを思い出して、また涙が溢れてきた。
おっとりしていてちょっと抜けているけど、優しくて温かくて、料理が上手な母さん。
いつも僕の味方をしてくれて、テストで一番を取ると僕以上に喜んでくれた母さん。
人間とか魔人とかなんて関係ない。
母さんは僕の中で、誰よりも大切な母さんだったんだ。
鼻水を啜りながら、父さんに訊ねる。
「母さんが魔人ってことはさ、僕も魔人ということになるの」
ヒゲをいじりながら答える。
「一応そういうことになる。しかし、お前も知っているかもしれないが、克田家特有の闘魂の魔法は人間界では魔力が弱すぎて全く発動しないのだ。だからお前は普通の人間と何一つ変わらない。
母さんの足が不自由になったのもそのせいだ。買い物の帰りに横断歩道を渡ろうとしていた時に、信号無視をしたトラックが突っ込んできた。咄嗟のことで自分が人間並みになってしまったのを忘れたらしい。避けもせず、反射的に回し蹴りでトラックを跳ね返そうとしたそうだ」
ガクリと力が抜けた。
「母さん、バカだったんだね」
「バカだな。しかしながら、本能的にはやはり魔人なのだと改めて気付かされたよ。十年以上も人間としてやっていたのにな」
トラックと正面衝突をしたのに、半身不随で済んだのは奇跡だと医師が言っていた。体の頑丈さだけが魔人の名残として、母さんの命を救ってくれたのだろう。
母さんとリイナが姉妹というのを、初めて納得した。
 お茶のおかわりを汲んで再び席に着き、話は以上だと言って父さんは静かに眼を閉じた。
 僕はまだ済んでいない夕飯を前に、ただただ頭を垂れていた。
 父さんにとってもリイナにとっても、思い出すには辛すぎる過去なのだろう。それを私欲で、半ば興味本位で掘り起こしてしまった。
 スンスンと鼻を啜る。味噌汁が落ちた涙で塩気を増した。
 父さんのことも心のない人だとか、冷たい人間だと責めた時もある。その裏に隠された理由に気付きもせず。
 一番の禁忌は、僕だ。
「ねぇ、父さん。リイナはどこに行ってしまったのかな。昨日から召喚に応じないし。やっぱり禁忌を犯したから?」
「たぶん、そうかもしれないな」
「禁忌を犯した魔人はどうなるの? そして、それは一体誰が裁くんだろうね」
 鼻の下に生やしたヒゲをいじりながら答える。
「そこまでは知らない。リイナも教えてくれなかった。私もふいに消えるとは思わず、驚いた」
 と、まったく驚いている顔を見せずに父さんは言った。
「そうなんだ。でもさ、父さんにまで罰が与えられるのかと思ったけど、それだけは幸いだったかな」
 しかし、父さんは頷かない。
「父さん?」
「罰、か。それなら今も受け続けている」
 息を飲む。父さんは僕の目をジッと見つめながらそう答えた。
「な、なんで? だって絶対に折れない心なんでしょ。すごいじゃないか。挫折もせず傷付くこともなく生きていれるなら、どれだけか楽だろうに」
 つまらないことでいじけたり気持ちが鈍る僕にとっては、父さんの性格が羨ましくさえ思えた。
「お前は私をそんな風に見ていたとはな。不思議なものだ。確かにこの折れない心は役立つことも多い。特に大人になって社会に出れば、嫌みな得意先からネチネチ文句を言われても、笑顔で商談を進めなくちゃいけない。意見がまったく合わない傲慢な上司からの不当な圧力にも、屈しなければならない。だが、折れない心というものは虚しいだけだ」
 そう言って父さんは席を立つと、この家に唯一ある和室の襖を開けた。僕も倣って足を踏み入れる。
 四畳のスペースに床の間代わりの仏壇が一つ。父さんはろうそくに火を灯し、線香の煙をくゆらせた。
「時には落ちこみたいこともある。思いっきり泣きたいこともある。だが、この心はそれすらもさせてくれないのだ。母さんを亡くした時も、私は涙一つこぼしてやれなかった」
 母さんの遺影の前で正座をする。お鈴を二度鳴らし、手を合わせる。何かに謝るように、父さんは必要以上に背中を丸めて拝んでいた。
「私の心に落ちた悲しみは消えることも癒されることもなく、底のない空間を永久にさ迷う。そこに残されるのは虚しさだけ。途方もない空虚感が広がるだけなのだ。それでもこの心は折れることなく、私の背骨を真っ直ぐに正して、責めるように足を前に進ませるのだ」
 そう言って父さんはもう一度、合掌をして頭を垂れる。その姿はまるで、何かに許しを乞うようにも見えた。

 この日はそれで話を終えた。
 あれから父さんとはリイナについての会話はない。
 話すこともなかったし、話したところで何かが好転する兆しもなかった。

 僕はぼんやりとディスプレイを眺める。画面の中を自分のキャラクターが意味もなく、クルクルと仄暗い洞窟を駆け回っていた。
 リイナと初めて行ったダンジョン。魔法攻撃が大幅にアップするアイテムを落とすモンスターがいるとかで、五周くらいは付き合わされた。
 結局は途中でリイナが寝落ちをして終わったが。
 無意味なのはわかっているけど、こうしてリイナと一緒に回った軌跡を辿れば、彼女の行方がつかめそうで。
 僕は頬杖を突きながら欠伸を漏らす。そして吐いた息がそのまま溜め息になって消えた。
 ランプでの召喚に応じなくなった今、リイナと繋がる可能性はこのネットゲームだけになった。
 ログインし続ければ、いつかリイナが気付いて、メッセを投げてくれるかもしれない。
 今頃になって僕は、リイナと自分の世界を隔てる大きな壁をヒシヒシと実感していた。
 たとえばリイナが人間なら、歳や住む国が違うとしても無茶をすれば会うことも出来るだろう。
 でも、リイナは魔人界の住人。
 この世にあるどんな交通手段でも、会えない場所にいる。
 住む世界が違うとは、こういうことなのだ。
 それでも淡い期待は尽きることなく、溢れて止まらなかった。
 諦めきれずに、こうして毎日ログインをしては、リイナの影を求め、探し彷徨うのだ。

 僕はマウスから手を離し、腕を伸ばす。そして時計をチラッと見て、ダラリと腕を垂らした。
 いつの間にか時刻は、夕方の六時になろうとしていた。窓に目をやると、既に陽は落ちようとしている。
 黄昏時が早い。季節が秋に向かっている証拠だった。
 僕は凝った首を回してマウスを握る。そろそろ父さんが帰ってくる時間だ。夕飯の準備に入らないといけない。
 続きはまた夜にやろうとログアウトしかけた、その時だった。

 エスカマリ:こんにちは。あらじんくん。

 ポロロンという軽快な音に合わせてメッセが届いた。僕は目を丸くしてキーボードを叩く。


更新日 6月12日

 ーあらじんー:お久しぶりです、エスさん。

 ちなみに、あらじんとは僕のキャラクターである。このエスカマリさんは、リイナが所属するギルド『カオスの天秤』のギルドマスターだ。何度か一緒に狩りへ行ったこともある。
 それでも頻繁な付き合いがあったわけではないので、意外な人からのメッセに驚いた。

 エスカマリ:突然にすみません。今、お時間は大丈夫ですか?
 ーあらじんー:はい、大丈夫です。どうしたんですか?

 マホロバでは、フレンド登録している人からたまにメッセが来る。一緒に遊ぼうとか、メインクエストを手伝ってくれとか。
 それでもこの人から直接メッセが来るとは思いもしなかった。だっていつもは、リイナを介しての付き合いだったから。
 その瞬間、心臓が乱暴に跳ね上がった。
 以前にリイナから聞いたことがある。『カオスの天秤』は三十人所属している中規模なギルドだが、大半は魔人だと。
 そして、このギルドマスターも魔人界の住人である、と。

 エスカマリ:実は、リイナくんの件で。
 エスカマリ:これは内密ということを前提に聞いて頂きたいのですが……。
 エスカマリ:リイナくんが、とある罪状で裁判にかけられることになりました。
 エスカマリ:その罰として彼女は
 エスカマリ:おそらく魔力を剥奪されるかと……。

 頭の中が、真っ白になった。

 エスカマリ:詳しい詮索は控えて頂きたいのですが、リイナくんはとある禁忌を犯してしまったのです。
 ーあらじんー:それって、人間の性格をいじったからですか?
 エスカマリ:お
 エスカマリ:これはこれは
 エスカマリ:まさかご存知だったとは。

 手を揉みほぐしながら懸命にキーボードを叩く。震えが止まらない。
 
 ーあらじんー:相手はうちの父、でしたから。
 エスカマリ:なんと
 エスカマリ:これはまた
 エスカマリ:数奇な運命でしょうか!

 罪状や剥奪という文字が、もの凄い圧迫感を突き付ける。僕は次々に表れるエスカマリさんからのメッセに、釘付けになった。

 エスカマリ:これは極秘ルートから仕入れた情報ですが
 エスカマリ:リイナくんは数年前に
 エスカマリ:人間の性格を魔力で操作し、改変してしまったのです。
 エスカマリ:その段階で逮捕をしてしまえば良かったのですが
 エスカマリ:直後にリイナくんは自らの記憶を封じてしまった
 エスカマリ:記憶を失ったリイナくんを問い詰めても
 エスカマリ:責任能力は皆無であろう、と。
 エスカマリ:よって
 エスカマリ:記憶が蘇るまで
 エスカマリ:リイナくんはずっと魔人界の裁判機関から
 エスカマリ:マークされていたらしいのです。

 髪をグシャっと握る。やっぱり、思ったとおりだった。
 リイナの記憶が戻った直後に、魔人界でいう警察のような機関が捕らえていったのだろう。
 ここにきて禁忌という言葉の重みを感じた。

 ーあらじんー:もしも魔力を剥奪されたら
 ーあらじんー:リイナはどうなるんです?
 エスカマリ:魔人が魔力を強制的に剥奪されるのは
 エスカマリ:人間にしてみれば、手足をもがれるのと同等かと。
 エスカマリ:当然ながら
 エスカマリ:召喚にも応じられなくなるので
 エスカマリ:リイナくんとは、二度と会えなくなってしまうでしょう。

 二度と会えなく……。
 両手でグッと口を塞ぐ。そうしないと、ボロボロと脆い本音を叫んでしまいかねなかった。
 エスカマリさんからメッセをもらった瞬間、リイナへの細い希望がやっと繋がったと思った。
 でもそれが、辛辣な事実を告げる最後の手紙になるなんて。

 ーあらじんー:いやです
 エスカマリ:……
 ーあらじんー:リイナと会えなくなるなんていやです
 エスカマリ:そうでしょう
 ーあらじんー:絶対にいやです
 エスカマリ:そうでしょう
 ーあらじんー:僕はもう一度、リイナに会いたいです

 ディスプレイが涙でぼやけた。
 僕は目から零れ落ちるままに、キーボードを叩き続けた。

 エスカマリ:それは私たちも同じです
 エスカマリ:同じギルメンが魔力を剥奪されるなど
 エスカマリ:己の身を裂くように辛い
 ーあらじんー:エスさん
 エスカマリ:はい?
 ーあらじんー:どうすればいいですか?
 エスカマリ:……
 ーあらじんー:ただ、そんなことを伝えるために、メッセを送ったわけじゃないですよね
 ーあらじんー:なにか、あるんですよね?

 鼻を啜りながらエスカマリさんの返事を待つ。

 エスカマリ:……
 エスカマリ:リイナくんは、本当に良いマスターに巡り会えたようです。
 エスカマリ:その通り
 エスカマリ:リイナくんを救える手段はあります

 心臓が急に鼓動を速めた。絹糸のような細い希望が、繋がった。

 ーあらじんー:どうすればいいですか!
 ーあらじんー:なんでもしまうs!
 ーあらじんー:リイナに会えるためなっrら!
 ーあらじんー:教えtうぇ、くださっい!

 タイプミスも気にせずに答えを迫る。直接聞けないのが、もどかしいくらいだ。

 エスカマリ:落ち着いて下さい
 エスカマリ:これはマスターである
 エスカマリ:あらじんくんにしか出来ない方法です。
 エスカマリ:あなたには
 エスカマリ:魔人界に来てもらいましょう。

 思わず目を見開いた。
 僕がリイナのいる、魔人界に行く……。
 高鳴る胸がうるさい。

 エスカマリ:それでは、リイナくんを救う手立てを伝えます。
 エスカマリ:まず、これが一番重要なのですが
 エスカマリ:あらじんくんは他の魔人と接触することが出来ますか?
 エスカマリ:リイナくん以外の

 顎に手を当てて思案する。リイナ以外の魔人……。あては、ある。

 ーあらじんー:います。一人だけ
 エスカマリ:それは
 エスカマリ:助かりました

 通学鞄をひっくり返して、ペンケースとノートを開く。
 僕はエスカマリさんが記す方法を逐一メモに取った。文字が踊って自分の字とは思えないほどに汚い。
 でもこれは、武者震いなのだ。
 リイナは僕が助けるんだ!

 エスカマリ:以上です。
 エスカマリ:情報によるとリイナさんの処罰は明日
 エスカマリ:一刻の猶予もありません
 エスカマリ:リアルでの都合上、私本人が何も手助けできないことを
 エスカマリ:非常に心苦しく思いますが
 エスカマリ:どうぞ、御武運を!
 ーあらじんー:はい!
 ーあらじんー:エスさん、ありがとうございました!

 そこでエスカマリさんとのメッセは終わった。 
 僕はパソコンをシャットダウンしながら、メモも読み返す。
 まずやるべきことは……。
 僕は腕を組んで唸る。最初からして難関だが、致し方ない。リイナを救うために、どうしても説得しなければいけない相手がいる。
 僕は顔を叩いて気合いを注入する。そして駆け出した。
 とにかくやるしかない。
 数年前のあの火事の夜、僕は一番大事な人を救えなかった。
 だから今度こそは絶対に救ってみせる。大切な僕の魔人を救うのは、僕自身なんだ!

 玄関を勢い良く開けると、ちょうど帰宅した父さんにバッタリ出くわした。
「どうした、改人。夕飯の時間だぞ。どこかに行くのか」
 淡々と訊ねる父さんに、僕は意気揚々と答えた。
「うん。ちょっとリイナを助けてくる!」
 一瞬だけ間を挟み、父さんは軽く頷いて「そうか」と言った。
「夕飯までに帰って来られるのか?」
「え、いや。わからない」
「そうか。では先に食べている」
 そして父さんは家に入ると、玄関の戸を閉めた。僕はクスッと笑って走り出した。

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2012'06.01 (Fri)

駄・ランプ  第四章

 あれは三年前の冬だった。
 当時、僕は父さんと母さんと駅前にあるアパートに暮らしていた。
 父さんは銀行勤めで毎晩遅く、僕は母さんと二人でいつも夕飯を食べながら帰りを待っていた。
 時には僕が眠りについてから帰ってくることもあり、家での時間はほとんど母さんと二人っきりだった。
 でも母さんは気さくで明るい人だったから、寂しい思ったこともなかったし、退屈な時には習慣のようにアラジンの映画を観ていた。
 平凡ながらも過不足なく、充実した毎日だった。
 しかしそんな幸せは、一瞬で灰へと変わってしまった。

 その日も父さんは帰りが遅く、僕と母さんは待たずに床へ就いた。月末は忙しいと言っていたし、朝も早く出掛けるだろうから当分は顔を合わせないだろうな、と考えてながら眠り落ちた。
 しかし次に目を覚ました時、瞼の奥が異様に眩しいと感じた。最初はもう朝なのかと思ったが、冬だというのに妙に熱い。
 眠い目をこすって辺りを見渡し、その光景に驚愕した。
 部屋一面が炎に包まれていたのである。
 寝起きの頭は冷静な判断など出来るわけがなく、これは本当に現実なのか、きっと夢なんだろうなと呑気なことを考えるばかり。逃げようという選択は欠如してしまい、僕は布団に入ったままぼんやりと炎を眺めていた。
 しかし、それが取り返しのつかない時間に足を踏み入れてしまったことを後で知る。火は瞬く間に勢いを増し、既に天井まで上がっていた。
 そこでやっと僕は正気に戻る。そして布団から飛び跳ねると、すぐさま母さんのいる部屋に向かった。
 煙と炎に巻かれないよう体を低くしながら、隣の部屋の扉を開ける。
「母さん! 大丈夫?」
 勢いのあまり、ドアを開けた拍子に部屋の中へなだれ込む。そして顔を上げると、苦悶に表情を歪ませた母さんと目があった。
 普通の人ならば、そのまま部屋から歩いて出ていけばいい。しかし母さんは、か細い腕でどうにかドアの近くまで這うのが精いっぱいだった。
 母さんは、数ヶ月前に事故で両足の自由を失ってしまったのだった。
「母さん! 大丈夫! 今、助けるから!」
 僕は悲鳴のような声を上げながら、母さんをおぶろうとした。だが、予想以上に重い母さんの体に、自分の腕力が望むように応えない。勉強ばかりで非力だった自分を恨んだ。
 仕方なく引きずっていくしかないと母さんの両腕を引いた時、ガチャガチャと別のものまで動いているのを見て、初めて気付いた。普段使っている車椅子のタイヤが、母さんの寝巻に絡まっていたのである。
 きっと母さんが逃げようとした時に、パニックでもつれてしまったのだろう。力任せに引っ張ろうとしても車椅子が邪魔でますます動かない。
 タイヤに絡まった寝巻の裾をほどこうとするが、頭が混乱しているせいか、手元が震えてますます絡まるばかりだった。
 そうこうしているうちに火の手は着実に部屋中を覆っていく。炎に包まれたカーテンが、黒い煙を撒き散らして床に落ちた。
 煙を吸い込んでしまったからか、僕と母さんは同時にむせる。焦りは募るばかりで、このまま二人とも炎に巻かれてしまうのかと、恐怖がドッと込み上げてきた。
 その時、なおも絡まった裾をほどこうとする僕の手を、母さんが振り払った。驚いて顔を上げると、こわばった表情の母さんが言った。
「改人、母さんのことはもういいから、あなただけでも逃げなさい」
 一瞬、何を言っているのか分からず放心したが、すぐに涙が溢れ出た。
「いやだ! 母さんも一緒に逃げなきゃダメだ!」
「母さんはもう無理よ! あなただけでも逃げて!」
 この状況で、二人一緒に助かるのは難しいと薄々感じていた。それでも諦められるわけがない。
 しかし助け起こそうにも、まだ体が大きくなかった僕にはとても母さんを運びだせるものではない。辺りは火の回りが早まっている。
 どうすればいいのか分からず、混乱のあまり気を失いかけたその時だった。誰かが僕の肩を掴んだ。
 驚いて振り向くと、そこにいたのは父さんだった。
 安堵感が噴水のように湧き上がる。助けにきてくれた! そう直感的に思った矢先、父さんはこう言った。

「母さんはもう駄目だ。逃げるぞ」

 耳を疑った。
 考える暇もなく、父さんは僕を連れて炎と煙の中を駆け抜けた。
 後ろの今までいた部屋を振り返る。
 うつ伏せになったままの母さんが、祈るように両手を合わせて俯いていた。

 後になって知ったのだが、出火の原因は一階の隣に住む人による煙草の不始末だった。
 アパートは全焼、死者は母さんを入れて三人も出た。
 父さんが帰宅した時には既に火が回っており、消防士の制止を振り切って僕を救出したらしい。
 結局は散々怒られたらしいが、僕だけを助けたことに関しては、的確で冷静な判断だったと消防士達も舌を巻いていた。
 しかし、父さんが本当に周囲から驚かれたのはその後だった。

 火事が起きた次の日、落ち着く暇もなく母さんの葬儀が行われた。
 僕は殆ど放心状態で、親戚のおばさんが可哀想にと付き添っていてくれたが、父さんは涙一つ見せず淡々と準備を進めた。
 急に母さんを亡くして、悲しみを実感出来ないのだろうと周りは同情していたが、それにしてはあまりにも正気過ぎると訝しまれていた。
 そして納骨式も済ませた翌日、父さんは早速出勤し、大手融資先と契約を取りまとめてきた。銀行始まって依頼の最大手だったらしく、それを足掛かりに父さんは異例の出世を遂げた。
 母さんを亡くした悲しみに暮れもせず仕事に尽くす父さんを、同じ銀行で働いていた人がこう言い表したのを忘れられない。

 ――重信の心臓は鋼鉄で出来ている、と。

 それが揶揄だというのはハッキリとわかったが、僕もその通りだと思った。
 父さんの心は鋼のように折れることも曲がることもない。そして揺れも動きもせず、誰からも流されない。
 重信という一枚の分厚い鋼鉄の塊が、そこにあるだけだった。
 一緒に生活をしていると息苦しく感じる時がある。父さんが怒りも喜びもしないのは、何に対しても関心がないからではないだろうか。
 僕を育てていることすら、単なる親の義務と割り切っているだけで、人並みの愛情なんて一欠片もないんじゃないか。
 以前から薄々感じていたけど、火事の夜を経てそれが確信に変わった。
 確かに母さんを助けていれば、全員あのまま助からなかっただろう。今にしてみればそれが最善だったと思うが、心の中では全然割り切れなかった。
 僕もいつかあんな風に、父さんから容易く手放される時があるのかもしれない。
 無慈悲に、あっさりと。
 それがとても恐くて、父さんから関心を持ってもらいたくて、僕は中学も高校も血を吐くような努力をして学年首位をキープしていたのだ。

 僕は父さんみたいに鋼の心を持っていない。たから簡単に割り切れないことだらけだ。
 そしてもう一つ、僕の中で割り切れないことがある……。

 ☆ ☆ ☆

 長かった夏休みも終わり、明日から二学期が始まる。
 一年生の時には短く感じた夏休みだったが、今回はいやに長く思えた。冗長、とでも呼ぼうか。
 去年は夏期講習や宿題に追われて、遊ぶ暇もなく机にかじり付いていた。
 けれど今年は宿題だけを早々に済ませて、あとはダラダラとネットゲームにはまっていた。
 というのは、リイナの魔法で僕の学年一位は卒業まで保証されている。そう考えると勉強に身が入らないのも必然的なわけで。
 高校に入学してから味わったことのない怠慢な生活に、心のどこかが軽く警戒していた。
 魔人の力に頼るのも、案外考えものである。
 しかしながら、僕はまた魔人の力に頼らざるを得ない状況に置かれていた。

 ピピッという電子音で脇に挟んだ体温計を取り出す。朦朧としながらそこにある数字を見て、溜め息を吐いた。
「熱、下がらないなぁ……」
 氷のうの位置を直し、布団をかきながら呟く。昨晩から全く熱が下がらない。
 明日から新学期だというのに、あろうことか夏風邪を引いてしまった。
 これまで無遅刻無欠席で来たのに。しかも明日は学期始めの実力テストがある。さすがの魔法も、受けてないテストで一位にはしてくれないだろう。
 僕は枕元に置いた携帯電話を開いて時刻を確認する。時刻は既に夜の七時を回っていた。
 明日の朝まで回復している見込みは少ない。貧弱な体ということは自分が一番知っている。
 僕は気だるい体を起こして勉強机に向かう。関節のふしぶしが痛み、立っているのもやっとだ。
 こんなことでリイナの魔法を使うのは勿体無いけど仕方ない。それにどうせなら、と名案も思い付いていた。
「出でよ、ランプの魔人」
 アンティークな卓上ランプを擦る。するといつものように煙が吹き出し、部屋の中央でひとかたまりになった。
 さて、今日は何をしている最中なのかな。

 煙が晴れて現れたリイナは、リクルートスーツを着てパイプ椅子に座り、愛想笑いを浮かべていた。
 姿勢良く腰掛け、手は上品に重ねている。普段はボサボサな空色の髪もきちんと後ろで結っていた。
 そして召喚されたことに気付き僕を見ると、愛想笑いを崩して、替わりに渇いた笑みを浮かべた。
「あの、何をしているところでしたか?」
「ん~、就活中」
 伸ばしていた背筋をダラリとしながらリイナは言った。
「もしかして面接中でしたか? これは悪いことをしました」
「え~、いいよ。どうせここ、本気で受けていたわけじゃないし。大学の就職課の人から勧められただけだし。むしろパクってくれて助かったわ」
 心底ホッとしたようにリイナは欠伸をした。
「超圧迫面接の超セクハラ面接よ。『今日の下着の色とそれを選んだ理由を簡潔に述べなさい』ってなによ? いくらこっちが本気じゃないのが分かったからって舐めすぎ」
「それは、確かにヒドいですね」
「でもそれなりに答えたわよ。今日の下着はベージュです、って」
「ババくさっ!」
「ベージュだとパンチラした時に『あれ? こいつノーパンじゃね?』というほのかな期待感を一瞬だけ相手に与える効果があります」
「ねーよ!」
「そういったサービス精神を、御社の社風に反映させたいと考えております」
「意味わかんねーよ! 御社の社風を馬鹿にしすぎ!」
「でもさ、一緒に受けていた米倉なんて、馬鹿正直に『上下バラバラなんですけど、どっちで答えた方がいいですか?』って言っていた」
「馬鹿正直っていうか、単なる馬鹿だろ!」
「だよね。面接で質問返しをするなんて、愚の骨頂だわ」
「違ーう!」
 大きな声を出したせいか目眩がして膝を突いた。キョトンとしてしゃがむリイナ。
「おろ? 具合でも悪いの、リュウトくん」
「改人です。……風邪を引いてしまって」
「それは大変だ~。どれどれ」
 そう言うとリイナは前髪を上げ、自分のおでこを僕の額にくっつけた。
 心臓が大きく乱暴に跳ね上がる。
 リイナの空色の瞳と桜色の唇が僅か数センチ先にあった。
 甘い香りと吐息が頬にかかり、自分の顔が一気に紅潮していくのが分かった。
「本当だ。こりゃ四十度近くあるわね」
 おでこを離して心配そうな表情を浮かべるリイナ。今の一瞬で確実に体温が二度は上がってしまった。
「今日はもう寝た方がいいわよ、サイトくん」
「惜しい! 改人です! それよりもあなたに、お願いがありまして。前に人間の性格を変えるのは、禁忌だって言いましたけど。体の構造を変えるっていうのは、ダメなんですか?」
 熱で茹だった頭を動かしつつ、どうにか言葉を繋げる。最初は首を捻っていたリイナだったが、すぐ真意に気付いたようで深く頷いた。
「程度にもよるわね。例えば死なない体とか歳を取らない体、っていうのは無理だけど。そう、風邪を引かない体くらいだったら大丈夫よ」
 可愛らしくウィンクをする魔人様。怠け者の割にはなかなか賢いじゃないか。
 ホッとして溜め息を吐く。
「じゃあ、それでお願いします。もう体が辛くて」
 それだけど伝えると、リイナは浅く瞳を閉じて人差し指を突き出した。

「契約コード詠唱! ブッチャケ・シャフー・ッテナニー・フンイキミタイナ・モノ・カシラー!」

 リイナの指先から放つ青白い光が強くなるごとに、僕の体を覆っていた熱と気だるさがスゥっと引いていく。
 今までの体調が嘘だったように体が軽い。僕は立ち上がり屈伸をした。
「うん、大丈夫です。風邪の症状が消えています」
「そりゃ良かった。風邪ってやっぱり辛いからね。特に熱とか出ると動く気力もなくなるし」
 自分のことみたいに喜ぶリイナ。その頭には「99」の文字が浮かんでいた。
「やったー! ようやく二桁まできたわー! 目指せ、一桁!」
 百から一つ減っただけなのに小躍りをしている。やっぱり魔人って単純だなと思いながらも、今度からは簡単な願い事でも、ケチケチせずに叶えてもらおうかという気になった。

「あ、そうだカイロくん。ちょっとマホロバやりたいからパソコン貸して」
「惜しいけど人名から遠くなった! いいですよ、別に」
 僕が答えるより先にパソコン用の椅子に腰掛けるリイナ。デスクトップの電源を入れてやる。
 パソコンが立ち上がるとマウスを操作し、マホロバのログイン画面を表示する。
 そこまで一通りしてやると、あとは馴れた手つきでゲームを起動した。
「やっぱり新しいパソコンだと動作がスムーズだわ。私も買おうかな~。次はデスクトップ型がいいな~」
 画面には、ピンクのフリルがたくさんある帽子を被った女の子が表示されている。
 服もピンクを基調としたゴスロリファッションだが、片手にはドラゴンの爪のような厳つい杖を握っている。
 これがリイナのキャラクターだ。名前はそのまま『リイナ』。
「パソコンは日進月歩でスペックが向上しますからね。僕のだってもう一年半前の型だから新しくはないですよ。それよりどこかのダンジョンに行くんですか?」
「ううん。裁縫スキルの修練だけしちゃう。今日は生産系スキルの成功率が高い曜日だから」
 リイナのキャラクターはアイテム屋さんの店舗内にある台に向かうと、チクチクと裁縫をする動作を始めた。
 マホロバは狩りや冒険も楽しめるが、裁縫や鍛冶といった生産系も本格的にやりこめるゲームである。
 裁縫スキルは上がれば上がるほど素敵な衣装が作れ、それをブティックで販売も出来る。
 リイナのキャラクターが着ている衣装も自分で作ったものだ。
「そうだ。こないだはダラースダンジョンに付き合ってくれてありがとね」
 画面から目を離さずにリイナは言った。
「いえいえ。こっちこそ良い経験値稼ぎになりましたし」
 僕とリイナはちょくちょくマホロバの世界で会っていた。特に夏休み中はイン率が頻繁だったので、時には半日近くも一緒にゲームの中で過ごしたこともある(だから学校は行っているのか、リイナ)。
 しかし不思議なものである。
「こうしてネット回線を挟めば、人間も魔人もコミュニケーションを取れるんだもんね。みんな、知らず知らず異世界の魔人と冒険しているってことに、気付かないんだろうな」
「魔人だって、気付かずにやっている人もいるわ」
「あなたの所属しているギルドも全員魔人なの?」
 リイナのキャラクターの頭の上に『カオスの天秤』という文字が浮かんでいる。リイナの所属しているギルド名で、何人かは一緒に冒険をしたことがある。
「ギルドマスターは魔人らしいけど他の人はどうだろ? 半分くらいは魔人だろうけど」
 僕は腕を組んで頷く。
 まぁ、ネットの中なんて自分の年齢や性別も容易く偽れる世界だ。俺は魔人だー! なんて声高に宣言したところで、そういう自分設定ねと、軽くあしらわれてしまうのが落ちだろう。
「こうやってリアルで顔を突き合わせているよりは、ゲームの中で会う方がよっぽど現実的なのかもしれませんね」
「そうかもね。私達なんて異空間の壁を超えたオフ会をやっているようなものよ」
 リイナの言い方がおかしくて思わず吹き出した。
 そうなのだ。こうして魔人のリイナを召喚して会うこと自体、稀有だし特別なのだ。

 僕の中ではいつしか、リイナを喚び出すことに優越感を覚える瞬間が芽生えていた。
 怠け者だし面倒くさがりだけど、年上で可愛くて何でも願いを叶えてくれるリイナ。
 最近では用もないのにランプを擦りたくなるし、マホロバの中でもリイナがインしていないと残念に思ってしまう。
 そして決まって胸がソワソワしてしまうのだ。
 なんだろう、この気持ちは。

「ねぇ、裁縫スキルを極めると何のステータスが上がるんだっけ? おーい、カイバく~ん」
 リイナの声でハッと我に返る。いつの間にか物思いに耽っていたようだ。
「どうしたの、顔が真っ赤よ。まだ風邪が治ってなかったかしら。私の魔法、使い間違えた?」
「な、なんでもないです! 気にしないでください!」
 僕は大袈裟に頭を振って答える。不思議そうに首を傾げるリイナだったが、追及するのも面倒なのかパソコンに向き直った。
 僕はホッと息を吐いてリイナの澄んだ空色の髪を眺める。
 願わくば、このままの関係がずっと続きますように。一日に三十分間だけの、こそばゆい喜びがいつまでも……。

 しばらくマウスを握っていたリイナだったが、大きく伸びをするとイスから降りた。ダラリと肢体を投げ出すと欠伸を漏らす。
「よし、飽きちゃった♪」
 もはや呆れもしない。僕はベッドの枕を投げてよこすと、リイナは嬉しそうにキャッチした。
「相変わらず飽きるのが早いですね」
「だって修練が退屈なんだも~ん」
「そんなんじゃ、いつまで経っても極められませんよ。それに飽きるのも一人の時だけにして下さい。一緒にダンジョン回っているときにブレーカー落ちられると、こっちが困るんですけど」
 ついこないだ二人で行った時の話だ。
「しかも最初から高位魔法をぶっ放していくのもやめましょう」
「え~。だってちまちま倒していくのダルいじゃん。派手に蹴散らすのが、私は好きなの」
「でもそのせいで後半はMP切れになっていたじゃないですか。戦闘中にダンジョンの片隅で座っていたのはどこの誰でしたっけ」
 手を叩いてケラケラと笑うリイナ。弾みで尻からプゥっと漏れた。
「いや、だからなんであなたのお尻はそんなに締まりがないんですか、うわっ! くさっ! とうとう打楽器から違う音が出た!」
 鼻をつまんでのたうち回る僕が可笑しいのか、リイナはさらに声を上げて笑った。

 その時、僕は相当油断していたと思う。
 さっきまで熱にうなされていたからか、はたまた夏休みのせいで頭が弛緩からか。
 とにかく僕はすっかり忘れていた。
 今が夜だということを。
 そして……。

「改人、笑い声が聞こえるが、誰か来ているのか」

 父さんが家に居るということを。
 ノックもせずに扉を開けた父さんは部屋を見渡す。僕は全身の血の気がサァーと引いていく音を聞いた。
 父さんが家に居る時は、努めて召喚しないようにしていたのに。
 ポカンと口を開くリイナ。厳格な父さんなことだ。こんな夜中に女の子が部屋にいたら、相当怒られるだろう。
 僕は慌ててリイナを隠そうと、ベッドの布団をバサッと投げた。
しかし、髪も瞳も空色の異世界人を見た父さんは、意外な顔をした。
 何があっても動じないはずの父さんが、鋼の心を持つ父さんの鉄面皮が崩れた。
 そしてわなわな唇を震わせながら言葉をこぼした。

「リ、リイナ……」

 自分の耳を疑った。
 今、なんと言った。何故、父さんがリイナの名前を知っている。
 頭の中が一瞬でパニックになった。僕は父さんとリイナを交互に見る。何がどうなっているのか、サッパリと分からない。
 布団から顔を出したリイナは、キョトンと首を傾げている。そして僕に言った。
「この人、君のお父さん? 言われてみれば顔が似ているわね」
 その一言でハッとした父さんは咳払いをし、急いでいつもの無表情に戻す。
「君こそ誰だ。改人の友人か?」
「改人って誰?」
「僕の名前だ!」
 わざとらしく納得した態度を見せるリイナに、父さんが叱責する。
「いい娘さんが夜分遅くに、男の部屋に二人きりとは感心しないな。まず今日のところは帰りなさい。というよりもどこから入ってきたのだ」
 ひどく冷めた口調だった。でもそれが随分とわざとらしく聞こえたのは、気のせいだろうか。
「私だって好きで二人きりってわけじゃないわよ。あなたの息子さんからパクられたの」
「そうか。うちの息子にも非があるようだが、今すぐ帰りなさい。無断で我が家に入ってくるんじゃない」
 ムッとした表情で睨み返したリイナの体から、もくもくと煙が立ち上る。
「言われなくても帰りますよーだ! じゃあね、バイバイ!」
 どうやら丁度時間だったらしい。リイナは霧となってその場から消えてしまった。
 目の前で人が霧散したのに驚きもしない父さん。替わりにその両肩が、傷付いたように暗い影を落としていた。
 深い溜め息を吐き、僕を見つめる。
「改人、風邪はもう治ったのか」
 躊躇いながら「うん」と答えると、父さんは一拍置いてから「……そうか」と答えた。
 そして初めて気付いたように勉強机の卓上ランプを見ると、また大きな溜め息を吐いた。
「な、なんで父さんがリイナの名前を知っているの?」
 だってリイナは、この世界の住人じゃなくて、ランプの魔人だ。
 それなのに知っているということは、つまり……。
「昔の、ちょっとした知り合いだ」
「そう、なんだ。父さんは、リイナを魔人だと知って……」
「無論だ」
 そこで父さんはまた貝のように口を閉ざした。
 無表情のまま腕を組んで、ジッと視線を落とす。僕もつられて無口になるしかなかった。
 父さんの無表情は、本当は苦しい顔をしたいのに、鋼の心がつっかえて邪魔をしているようにも見えた。すごく変だけど、それが初めてこの父親に親近感を抱いた瞬間だった。
「リイナは、どうして……」
 貝の口に手を触れる。
「どうして父さんに会ったのに、知らない振りをしたの?」
 動物と違って貝は、その閉じた殻に手を伸ばしても、さらに固く身を隠すだけだ。
 でも伸ばさずにはいられなかったのは、そういう気分だったからだろう。
 その答えを父さんは余計な感情を交えず、きっぱりと告げた。

「私のことは一切記憶から消去すること。それがリイナに叶えてもらった願い事だ」

 えっ、という声が喉元でかき消えた。
「何故そんなことをしなければならなかったか? と訊ねないでくれ。そうしなければいけなかった、とだけ答えよう」
 そのまま口をへの字に結んだ父さんは、一つの大きな鋼鉄になった。そして無言のまま、僕の部屋から出ていってしまった。

 父さんが去った後、しばらくしてから僕はガックリと膝をついた。
 信じられなかった。父さんがリイナを知っていたこと。そして、父さんが昔はリイナのご主人様だったこと。
 頭が混乱して、何をどう整理すればいいのか分からない。僕の知らないところで、僕の身近な人達が不思議に交わっていたことが、とてつもなく気分が悪かった。
 僕は泣きそうになりながら頭を掻き毟る。
 リイナの記憶を消したって何? 父さんとリイナの過去に一体なにがあった? なぜ父さんは何一つ大事な事を語ってくれなかった?
 その時だった。
 リーンという住んだ鐘の音が、どこからか聴こえてきた。
 僕はハッとして耳をすます。この音は確かに一階から聴こえてきた。
 僕の家は構造が単純で部屋数が少ない。一階には三部屋しかなく、ダイニングキッチンとバスルームと、もう一部屋があるだけだ。
 鐘の音はその部屋から聴こえてきたので間違えない。
 わずか四畳半しかない部屋。僕の母さんの仏壇がある部屋だ。
 ゴチャゴチャしていた頭の中が鎮まる。その小さい鐘の音を捉えるのに、全神経が集中していた。
 その音が、僕に何かを示していたような気がした。
 繋がっている。これは憶測でしかないかもしれないけど、絶対に何かが繋がっている。
 リイナの話になった直後、母さんの仏壇を拝む父さん。僕の知らない何かが、確実に繋がりを持っている事を示していた。
 僕は立ち上がり、勉強机に飾られたランプを手に取った。
 さっきリイナを召喚してしまったので、尋ねるとすれば明日以降。
 もしかすると、本当は知らない方がいいことなのかもしれない。
 それでも僕は、知りたい欲望を抑えることが出来なかった。

更新日 6月6日

 ☆ ☆ ☆

「へぇ~。そんなことがあったんだ~」
 ビーフジャーキー片手にワンカップの日本酒を啜りながら、リイナは他人ごとみたいに感嘆した。
 翌日、二学期の始業日を終えて帰宅した僕は、時間を見計らってリイナを喚び出した。
 パジャマ姿で既に宵の口なところから察するに、寝酒を煽っていたところだろう。まるでオッサンだ。
「いや、あったんだ~じゃなくて。自分のことですよ。記憶の一部がないんですよ」
「え~大して珍しくないよ。魔人の中には幻術使いもいてさ。バトルになると記憶をいじったり、幻を見せたりするのもいるのよ。たまに後遺症でそのままって魔人もいるから、驚くほどのことじゃないわ」
 魔人のアバウトさ加減に驚くわ。
「それにしても、まさか私が知らず知らずのうちに誰かと契約していたなんてね。しかもそれがライトくんのお父さんだったとは」
「改人です。あの、本当に記憶がないんですか?」
 念のために訊いておくが、リイナはゲップ混じりに「さっぱりないわ」とだけ答えた。
「でもさ、何で私は記憶を消そうとなんて思ったのかしらね? 君のお父さんも、何でそれを望んだのかしら」
パンツの中に手を突っ込んで直接に尻を掻きむしるリイナ。あの堅い性格の父さんのことだから、こんな頭の軽い魔人と相手をしていた事実を抹消したかったとか?
「分かりません」
 それは敢えて言わず、顎に手をかけて答えた。
「過去のあなたが望んだのかもしれませんし。父さんは何も語ってくれませんでした」
 そう、だから直接本人から記憶を引き出すのだ。
「そんなわけで、いいですか?」
「ふぁ~い。いいよ~」
 だらしなく大口を開けて欠伸を漏らす。
「魔力を使えば、失った自分の記憶を取り戻すことは可能なんですね?」
「うん。自分で使った魔力なら自分で解除することも大丈夫よ。ただし、ハルトくんの願い事というかたちで契約コードを唱えれば」
「改人です」
 ワンカップを机に置いて体を起こす。首をコキコキと鳴らしながら指を回した。準備万端なようだ。
 そんなリイナを前にして、若干躊躇する。
 本当にこれは正しいことなのだろうか。
 もしも封印した過去が二人にとって辛い事実だとしたら? それをあばいて誰かが傷付くことになったら?
 でも、母さんの事もある。何故、昨日父さんはリイナと会った直後、母さんの仏壇を拝むなんてことをしたのだ?
 自分自身が曖昧なまま、結果を求めるのは間違いかもしれない。
 お酒が入ってほんのり瞼が下がっているリイナ。僕だけの、たった一人の魔人。
 今回は見送ろうか、と思い口を開きかけた矢先だった。
「大丈夫だよ。きっと大した話じゃないと思うわ。君のしたいようにしたらいいよ」
 空色の瞳がふんわりと微笑んだ。
「私は君の願いを叶えるのが役目だから。どんな小さな願いでもね、ご主人様」
 胸のモヤモヤが晴れた。その時、玄関の方で戸が開く音が聞こえた。
 僕は唾を飲み込んでリイナを真っ直ぐに見つめる。
「お願いです、ランプの魔人。あなたが失った父さんとの記憶を蘇らせてください」
 リイナが人差し指を僕に突き付ける。

「契約コード詠唱。ヒヤザケト・オヤジノ・コゴトハ・アトカラキクー!」
 青白い光がリイナを包み込む。

 光はかき消え、頭上に「98」という文字が浮かんでいる。リイナはゆっくりと目を開いた。
 空色の瞳がどことなく虚ろげに見える。胸が曇った。
「ど、どう? 思い出した」
 恐る恐る訊ねると、リイナは曖昧にハニかみながら頷いた。
「うん、全部思い出したよ。改人くん」
 魔法は成功だったようだけど、ホッと出来ない。僕は部屋の扉を開けて父さんを呼んだ。
 昨日から口をきいていないのに、普段通りの返事をして入ってくる。
 そしてリイナを目にすると、ハッと息を飲んだ。
「シゲ、ノブ……?」
 明らかに驚愕の色が浮かんだ。自分の名前を呼ばれた父さんは、睨むように僕を見た。
「久しぶりだね、シゲノブ。あはは、大きくなったっていうよりオジサンになっちゃって」
 控えめに笑うリイナに父さんは「あぁ」と返すと眼を閉じた。
 懐かしむように父さんを見つめるリイナは、優しく微笑んだまま言った。
「改人くんがね、記憶を蘇らせてくれたの。怒らないであげてね。私達のことを思ってやってくれたんだから」
「だから、僕の名前は改人ですって……え?」
 思えばさっきもそうだった。リイナがきちんと僕の名前を言えた?
「あはは。また会えて嬉しいわ、シゲノブ。……そして」
 胸を槍で貫かれたような衝撃が走った。

「ごめんね。本当に、ごめんなさい」
 リイナの双眸から止め処ない涙が溢れた。

「リイナ、謝らないでくれ。君は何も悪くないんだ」
 グッと下唇を噛み締める父さん。
 父さんの言葉を聞くやいなや、リイナはワンワンと声を張り上げて泣きじゃくった。そして、そのまま煙と共に消え去ってしまった。
 慌てて時計に目をやる。リイナを召喚してからまだ十分も経っていないはずだし、魔人は自分の意志で魔人界に戻れないはず。
 呆然とする僕を尻目に、父さんは感情のない人形のように部屋から出て行った。
 リイナも父さんもいなくなり、一人取り残された部屋で立ち尽くす。秒針の音だけがうるさかった。
 意味が分からず真っ白になった頭の中で、たった一つだけ悟ったことがある。
 それは、自分が取り返しのつかないことをやってしまった、ということだった。



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22:58  |  駄・ランプ  |  CM(2)  |  EDIT   このページの上へ
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