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2012'10.12 (Fri)

「光 思い出 行動」

光 思い出 行動


 私は始めから泥棒なんぞに身をやつす気は、さらさらありませんでした。
 いえ、それは誰だってそうでしょうね。少年時代に将来就きたい職業に泥棒を選ぶ人なんているけないでしょうし、ある日天啓を受けたかのように泥棒になろうと志す人も絶対にいないでしょう。
絶対と断言をしてしまいましたが、もしや万に一つそのような御仁がいたならばごめんなさい。いえ、泥棒さんに謝る必要なんてないでしょうね。あと御仁などと丁寧に言わなくてもいいでしょうし、さん付けもいらないですね。
 まあ、そんな私も泥棒を犯してしまったわけなのですけど、だから謙遜しているわけではないですよ。社会的立場を鑑みての批判であることをお忘れなく。
 ああ、考えてみれば怪盗ルパンや石川五右衛門などは、まさしく天に愛された泥棒だと言っても過言ではないのでは。あの人達になら、呼び方にも敬意を表して構いますまい。いましたね。万に一つが。

 さて前置きが長くて申し訳ございません。私の悪い癖の一つです。はい。自覚しているだけでもう二つ三つはあります。それはおいおい知ることになるでしょう。
 なぜ私が泥棒になったのか、なぜ悪事に手を染めてしまったのか、話さなくてはいけないのでしたね。……そうですね。
 はい? ええ、よくお気づきになられました。これは私が考え事をするときの癖です。鼻の頭を親指と人差し指でコネコネしてしまうのです。冬はまだいいですが、夏は指が脂まみれになって適いません。
 では、振り返って参りましょうか。私の過去を。

 幼い頃から気弱でもやしっ子で、物心ついた時にはクラスの片隅で気配を消しながら、昆虫図鑑を眺めている少年でした。
 え、そこからかよ、ですって? はい、今さっき申し上げた通りです。私が泥棒になった経緯を説明するには、幼少期の背景を知っておいて下さった方が良いと感じまして。経緯というよりは、思い出を語るのに近くなると思います。
 ご快諾ありがとうございます。では話を続けますね。私はとにかく気が弱くて、自分から発言など出来ず他人の言うことなすことに常にビクビクしている少年でした。
 保育園で吃音症を患い、クラスメートのみならず保育士の先生からも笑われたのが原因だったと思います。お気づきかと思いますが、私は他人に語るときに一息で 早口に喋りきろうとする癖があります。吃音を隠すためにはこんな風に話すのが一番でしたので。お聞き苦しいと感じることもあるでしょうが、ご容赦下さいませ。
 そんなわけで学生時代は日陰を好み、なるべく存在をクラスに認識させないことだけに執着していました。友達……いませんでしたね。残念ながら友と呼べるほど他人と会話をしませんでしたし、教師以外との会話は年間を通して数える程度でした。今でも中学二年生の時にクラスメートと唯一交わした会話を覚えていますよ。「昨日、二階渡り廊下にこの緑色の筆箱を落とした人。あ、谷垣さんですか。どうぞ」私、美化委員会でした。
 そんなわけで教室の角でうずくまる自爆霊のような学生時代を終えました。今にして思えばイジメに遭わなかったのが奇跡のようなものです。代償として存在そのものを誰にも覚えられないためか、同窓会の案内が来たことは一度もありませんが。もっとも泥棒などしてしまったこの身では、そっちの方が都合良かったのかもしれません。
 関東の国立大学を経て、私は片田舎にある地方銀行に入行しました。はい、そうです。ちょっと前までは銀行マンだったんですよ。そこまで驚かれると恥ずかしいですね。
 根暗ではありましたが反面、勉強だけはコツコツとやっておりましたので学業の成績だけは良かったのです。……まあ、話を聴いて下さい。何故それなのに泥棒なんかにと訝しむのはごもっともです。それでも私は泥棒です。妄言などとんでも無い。どうぞ最後までご静聴下さい。
 面接試験ではさぞかし挙動不審だったのでしょうね。明らかに顔をしかめる人事部の方や苦笑いを禁じ得ない役員の方。それでも採用通知を頂いたのは、やはり高学歴が功を奏したのだと今ならハッキリと分かります。
 ちなみにどこの大学かと? いやはや、気恥ずかしいですね。口で言うのも何ですので、書いていいですか。ちょっとペンを拝借します。……どうでしょうか。ああ、予想通りの反応ありがとうございます。でも、こそ泥になるには学歴なんて必要ありませんから。
 私は実家から遠く離れた地方の銀行を選びました。何故なら、見知らぬ土地で全く新しい自分に生まれ変わりたかったからです。
 学生時代は他人とのコミュニケーションを敬遠してもそれほど差し障りはありませんでしたが、さすがに社会人になっては死活問題になるだろうと自覚していました。そして私は学生時代の自分をあのままで良いと思うほど、心底ネガティブでもなかったのです。
 とにかく最初が肝心だ、まっさらな別人のつもりで頑張ろうと思いました。入行式を経て研修を終えて配属先の支店に着きました。私は頭の中にフレッシュで活力溢れる新入行員を描き、何度もイメージトレーニングを行いました。そしてお決まりの新入社員挨拶。私はこの瞬間、今までの人生全てを賭ける意気込みで精一杯挨拶をしました。
 成功でした。私は完璧に思い描いたフレッシュマンを演じきりました。拍手喝采です。誰もが私を眺める双眸に期待の二文字を浮かべていました。きっと私の面接時の印象を耳にしていたであろう支店長だけが、目を丸くしていましたが。とにかく私は過去の自分とは決別し、支店の皆様は新しい私を快く向かい入れて下さいました。
 私が初めて自発的におこなった行動がコレでした。そうです。生まれて初めての行動です。名誉あるアイデンティティの昇華です。

 新入行員は通常、個人宅へ赴き新規口座の誘致や金融商品の案内などを行う「個人営業」を数年は担当します。女性ならば窓口応対でした。
 ですが私に任された仕事は、企業や商店などに融資を勧めたり相談されたりする「法人営業」でした。自慢に聞こえたら謝りますが、一般の新入行員にはあまり担当させない業務です。良い意味で。つまり私は他の同期よりも頭一つ抜きん出たスタートを切れたのでした。
 これは私に大きな自信を与えてくれました。さらに先輩から仕事のノウハウを習得して感じたのは、さほど難しくはないということでした。融資といっても自らの差配で額を決定するわけでもなく、上司に逐一報告をすれば良いだけのこと。決定を下すのは上司なので、私は取引企業と上司のパイプ役を果たしているだけで上等なのです。
 責任感さえ持っていれば責任を取らされないポジション。期待してくれる上司や先輩。たまに羨望混じりの愚痴をこぼす同期行員。私の生活は非常に安定しており、全てが満たされていました。日陰で怯えていた過去の自分を忘れてしまうほど、私は日なたで目一杯に人生を謳歌していたのです。
 ですが、転機はやがて訪れてきたのです。それが転機だと気付かないほどの小さな綻びが、私の足元をさらっていきました。
 そういえば転機の「転」は、転落の「転」と同じ漢字ですね。だからどうしたと言われてしまえばそれまでですが。
 私が担当をしていた取引企業の中に、とある損保会社がありました。日本全国に展開する大手といっても差し支えのない規模の損保会社でしたので、私はいつも若干緊張しながら店舗内に出入りしていたのを覚えています。ほら、最近もCMを新しくしたあの損保会社ですよ。コアラが出てくるアレです。
 しかし私は努めてポーカーフェイスを装い、その日も損保会社の正門をくぐりました。いつも応対をしてくれた部長さんと通された個室で雑談混じりの対話をしており、そろそろ話も終わりかといった頃です。外線が入ったということで部長さんは席を外しました。あ、部長にさん付けをしては二重敬語ですね。新米の時に先輩から注意をされました。
 私は出された番茶を啜りながら、所在なく個室内を眺めていたのです。木彫りの熊にどこかの国のタペストリー。誰か役員の方のお土産でしょうか。そして壁には損保会社のロゴが入ったカレンダー。お盆休みには実家に帰ってみようか、そんな事を考えていました。
 するとその時、隣からボソボソと会話が聴こえてきたのです。この個室は主に商談用で使われており、四つくらい同じ部屋が連なっていました。
 始めはあまり気にせず聞き流していましたが、その声が段々と切迫したものに変わっていったので、私はおやっと思ったのです。薄い壁一枚隔てた向こう側の人の表情が容易に想像出来るような、本当に思い詰めた声でした。
 不躾ながらも私は気になって聞き耳を立てていましたが、声は徐々に小さくなっていきます。対話している二人が囁くほどになったので私は諦めて湯呑みに手を伸ばしましたが、途端に大きな声が壁越しに聴こえてきたので私は危うく湯呑みを落としてしまうところでした。
 そして耳に入ってきた言葉を聞いて、心臓が縮まりました。
「じゃあ、来期には大規模なリストラが行われるのですか!」
 大声を咎めるしーっという音に続いて、対面していたもう片方の声も耳に届いてきました。
「それだけで済めば、の話だ」
 私は全身を耳にして、壁の向こう側に神経を集中させました。穏やかでない話だということは分かります。ただ、もしそれが損保会社のことだとしたら? 当然ながらメインバンクである銀行は痛手を被るでしょう。
 私はいつの間にかイスをずらし、壁に頬を寄せて泥棒か忍者の如く息を潜めました。まあ、当時はまだ泥棒ではなかったので如く、です。悪しからず。
 しばらくしてから部長さ……部長が戻ってきたので、私は適当に挨拶を済ませて銀行に直帰しました。
 話の全容を直属の上司である銀行の課長に伝えると、彼はみるみるうちに顔色を変えました。この時の私はかなり焦っていたためか、若干吃音症がぶり返していましたが、課長はそんなことも気にせず私を連れて別室に席を移動しました。
 社会人の基本は報告・連絡・相談です。ほうれん草のお約束です。私が耳にしたことは全て課長へ伝えました。あとは上司が如何様にするか判断してくれます。ですが、事態が事態です。私としても報告しておしまい、となるほど楽観主義ではありませんでした。
 今のうちに保有している損保会社の株を売却すべきでは、と進言しましたが、インサイダー取引に抵触する恐れがあると一蹴されました。今にしてみれば大袈裟な話ですが、当時は真剣そのものだったのです。
 上には自分が報告するからくれぐれも余所には漏らさないように、と課長に言い含めその話は終わりました。私は自分の役目はそこで終わったと、力強く頷くことで上司に忠義を示して通常業務に戻りました。
 私はその時に内心、かなり舞い上がっていたと思います。自分の知り得た情報の極秘性に、優越感すら抱きました。損保会社には気の毒でしたが、銀行としても慈善事業で融資をしているわけではありません。沈むと分かっている船から上手く財産だけを吸い上げる方法などいくらでもあるのです。
 これによって、また自分の株が上がるだろう。もしかして出世するかも、と。数年後に名刺の肩書きには何と記載されているだろうかと、ささやかですが夢見てしまいました。この私に、学生時代は日陰者だった自分に、いやしくも出世欲が芽生えたのです。
 私はそのくらい舞い上がっていました。
 それから数ヶ月後、たぶん二ヶ月経ったくらいだと思います。私は課長と共に支店長から呼び出しを受けました。もう損保会社のことなどすっかり忘れていたので、どんな用件だろうと首を傾げました。
 銀行の事務所の奥には、普段あまり人が出入りしない個室があります。大手の融資先との内密な取引などに使用する個室で、防音のためか扉がやや厚めに作られていました。
その物々しい空気漂う個室へ足を踏み入れた私を待ち受けていたのは、支店長の烈しい叱責でした。
 目をつり上げて顔を真っ赤にした支店長は、かなり厳しい言葉で私を罵倒したのです。私はあまりに唐突なことだったので、口をぽかんと開けているのが関の山でした。
 激した様子の支店長の言葉をどうにか繋ぎあわせて、ようやく事態が飲み込めたのです。損保会社の経営が傾いているのは根も葉もないデマである、しかし銀行はデマを信じて融資を渋った、先方は不審に思い支店長にカマをかけて真相を探る、うっかりした支店長は口を滑らせて私のことを言った、先方は大激怒、銀行の信用は地に落ちた、と。
 はい。おっしゃるとおりです。私の責任というよりも明らかに支店長のミスですね。新入りの情報を鵜呑みにしたばかりか、裏付けも取らず口を滑らすなど愚の骨頂です。
 ですが、当時の私はそんな考えに至らないほどパニック状態でしたし、よしんば身の潔白と支店長の失態を糾弾したところで火に油を注いだだけでしょう。
 支店長に合いの手を入れるように部長や課長も私を叱りました。問題が起きた以上、誰かのせいにしなければなりません。その矛先を私に向けるのが一番簡単な方法なのでしょう。組織なんてそんなものです。
 上司三人から袋叩きにあった私は、一言も反論出来ずただ立ち尽くすばかりでした。自分の両足が異様なほど震えていたのを覚えています。
 私、産まれてからこの方、他人様から怒られたことはただの一度もありませんでした。学校の先生や近隣住民ばかりではなく、両親からもです。他人様から疎まれないよう、迷惑を掛けないよう注意深く生きてきましたから。
 ですが私は、社会人になり初めて自我を手に入れました。日陰からやっと日向へ、歩き出せたのです。
 そんな生まれたての自我を、理不尽という圧力で蹂躙された気持ちはお察しいただけますでしょうか。もしも私と同世代の男性なら、がっくり落ち込んだ後に居酒屋で「部長のバカヤロー!」と、くだを巻けば気が済むのでしょう。あ、訂正します。「支店長と部長と課長のバカヤロー!」でした。
 しかしながら私には、そんな術もありませんでした。先ほど言ったとおり、生まれたて赤ん坊のような自我なんて、何かの庇護がなければ呆気なく崩れ落ちるのです。「お前の居場所はそっちじゃないよ」と、日陰から伸びてきた黒い手が私をさらっていきました。
 ああ、ちなみにあくまで喩えですから。本当にその辺の影から黒い手が出てきたわけでもないですし、そんな幻覚も視えません。あしからず。
 その一件があって以来、私は変わってしまいました。正確に言えば、メッキが剥がれてしまった、でしょうか。まず、数年は収まっていた吃音がぶり返しました。
 学生時代と違い、他人との会話を避けても授業に出てレポートを提出していれば済むわけではありません。社内には同僚や先輩もいますし、社外にも顧客はたくさんいます。決して避けてはいけない相手です。
 私は吃音を気付かれたくない一身で、可能な限り必要最低な会話で済ませるようになりました。ですが当然ながら、相手は不審に感じます。その視線がまた、私を追い詰めていきました。
 さらに私の疑心暗鬼は続きます。その日は自分のデスクで事務仕事をしていましたが、とある視線に気付いて顔を上げると数人の女子行員がなにやら談笑を交わしておりました。そしてその中の一人が右手で鼻を摘んでいるのを見てハッとして、私はすかさず机の下に自分の手を隠しました。その手、正確には指には鼻の脂がギトギトとまとわりついていたのです。先ほど指摘されたように、何か考えごとをするとやってしまう悪癖です。
 私はその事を笑われていると思いました。あら見てあの人また鼻を触っているわいやだ脂でぬめぬめじゃないあの指に触れた書類が私のところにくるのかしらん生理的に気持ち悪いわねえ皆さんもそう思うわよねえ、と。
 私は席を立つとトイレに駆け込みました。そして便器に腰をかけ、ガクガクと震える膝を抱いて固く目を閉じました。消え失せてしまいたい、跡形もなく砕け散ってしまいたい、この銀行内で私を知っている人間の頭の中から私の記憶だけをきれいに消去したい。
 私はもう、駄目でした。次の日に会社へ風邪を引いたと言って休みました。その次の日も病欠を告げました。その次の日も同様に休みました。四日目は無断欠勤しましたが、課長の方から電話がきました。何と返事したかは覚えていません。五日目も六日目も無断欠勤しました。誰からも連絡はきませんでした。七日目に課長がアパートへやってきました。
 お前の気持ちも分からなくはない云々、社会とは組織とは云々、これまでの事は気にせず努力を云々、と上っ面の言葉を並べつつも課長は、ちくりちくりと自主退行を促してきました。大っぴらに「銀行に来る気がないなら辞めちまえ!」と怒鳴れば労働基準法に引っ掛かるらしいですね。だから明らかに面倒くさげな顔を隠そうとしない課長に、私はすべてを諦めました。課長はアパートに来てから一度も私と目を合わせてくれませんでした。
 課長が来たときから、いえ正確には無断欠勤をしたときから私の気持ちは決まっていました。なおも言葉を選びながら話す課長の説教を遮って、私は一言「銀行を辞めます」と伝えました。すると課長は一瞬だけ安堵の表情を漏らし、すぐに口を引き締めて「本当にいいんだな」と念を押してきたので、私は無言で頷きました。
 そこからは途端に事務連絡に切り替わりました。有給の消化、総務課でする退行手続き、身辺整理の日程。私も事務的にメモを取り、最後に他に訊きたいことは、という質問に首を横に振りました。
 結局、一度も目を合わせなかった課長を見送り、私は玄関で一つ溜め息を吐きました。肩の荷が下りたと、僅かながらホッとしたのです。これからの生活を考えれば楽観視していられないのに、そのときばかりは情けなくも安堵しました。
 なにやらかにやらと面倒ではありましたが、正式な退職手続きを終えて、ささやかながら催すと誘われた送別会も断り、私はすっかり銀行とは無関係の人間になりました。それから数ヶ月はアパートに引きこもり続けました。外出といえば深夜にコンビニへ食糧を買いに行く程度。安くてお腹に溜まる食べ物を選ぶのが得意になりました。コツとしてはお弁当類は避け、コンビニ独自のロゴ入り商品の食べ物を選ぶことです。何気にリーズナブルで容量がたくさん入っているのです。味も悪くありませんし。
 しかしそんな生活が出来るのも失業保険が適用されている期間だけでした。三ヶ月もすれば収入がゼロになります。貯金も少しはありますが、月々の生活費を計算しても向こう一年ほどしか保ちません。
 私は嫌々ながらもハローワークへ行きました。生活のためには働かなくてはいけません。糊口を凌ぐには労働あるのみです。
 しかし、そうは分かっていてもいざ再就職先を決めようと思うと、二の足三の足を踏む自分がいました。職種にこだわりはありませんでした。そこまでぎちぎちに肉体を酷使する仕事でなければ。
 ですがその新しい職場に自分が馴染むという姿が、全く想像出来ないのです。また同じミスをするのではないか、吃音がバレないか、イジメの標的にされないか、人前で鼻を弄る癖を治せるか。イメージは悪い方へと流されがちでした。
 それでも私は一念発起して、警備会社を選びました。労働時間が深夜ということで昼夜逆転したニートの身なら適合も早いだろう、と。それにあまり人と接しなくていい職種だろうと高を括っていたからです。
 なんとか面接をパスし、採用通知も頂いて私は警備員となりました。しかしそれも二ヶ月も続きませんでした。
 人と接する機会が少ないと思った私が浅はかでした。私が配属された警備は企業や店舗などの施錠確認と巡回でしたので、待機時間が思いの外、長いのです。一人で仕事をするわけでもないので数人のグループで行動を共にするのですが、これがまた苦痛でした。
 まず話が合いません。同じグループになった彼らが話題にするのは大抵がギャンブルの話ばかり。あとは合コンでつかまえた女性が云々、風俗で胸が大きい女性と云々、口にするのもはばかられる事ばかりでした。
 終始そんな調子なので、話を振られてもまともに受け答え出来るわけがありません。は? 今なんとおっしゃいました? これまでお付き合いした女性? 友達もいなかったのに、どうやって特定の女性だけと親密な間柄になれるのでしょう。何故、それを今きいたのか意味がわかりません。
 ……さて、話が逸れましたね。勤めて一週間もしないうちに、今回の職場は長くないと感じましたが、生活のためにと我慢をして警備員を続けました。ですが結局辞めてしまったのは、彼らが私をからかい始めたからでしょうか。
 待機室と称された休憩所で、黙って空気と化していた私を、ある一人の男性がニヤニヤ笑いながら指差したのです。俺も男だてらにぺらぺら喋るやつだと言われるぜそれは自覚しているさしかしようただ寡黙なら格好いいわけじゃないだろジッとしていてイケメンなのは高倉健か谷口先輩くらいっすなに谷口先輩を知らない俺の高校時代の先輩っす今は地元で大工やってるっすだから男でも口が上手くなけりゃ女が寄ってこないって話ですよ面も十人並みなのに寡黙なんて単なる根暗っす別に誰のことは言ってないっすただそんなやつがいたらキモいぜって話っすよニヤニヤ、と。たぶん年下であろう青年に私は嘲られました。
 その時点で私は退職を決意しました。確かに無視をするか、反発するかモーションを起こしても良かったでしょう。しかし私がそんな勇気ある行動をすると思いますか。出来ません。自慢にもなりませんが、自信をもって出来ないことを宣言します。
 やられる前に逃げる。銀行を辞めたのをきっかけにすっかり逃げ癖がついてしまった私は、今度はきちんと段階を踏んで退職の手続きをしました。思い立ったが吉日とばかりに退職しようと思ってもスムーズに退職させてもらえないのが社会です。
 まずは上司であろう人間に退職の意向を告げ、人事か総務へ話を通してもらいます。そして退職願いの下書きをもらい自筆で清書。その間に身の回りの整理を進め送別会は丁重にお断りしておきます。そして区切りよく月末に挨拶をして晴れて退社です。完璧です。
 これでまた、虚しいほどに清々しく自由の身になった私は、アパートに引きこもりました。そして失業保険が切れるまでの間「何とかしなくては」と「しかしながら」を行ったり来たりする毎日を送っていました。
 ですがそんな私にも転機が訪れます。この転機こそが私にとって一番の理由になるのです。はい、お待たせしました。泥棒になるべくしてなった理由です。
 それは母からの電話でした。
 お久しぶりですね。元気にしていましたか。ママです。
 覚えているかぎり母の言葉をそのまま話します。我が家では親子間でも敬語を用いる慣わしになっています。他人行儀などと申す人もいますが、物心ついた頃からそうなっていますので、私は不思議に思ったことは一度もありません。
 今は忙しくありませんか。お話していて大丈夫かしら。あらそう、じゃあ。……ああ、どこから話しましょう。落ち着いて聞いてちょうだいね。ママもまだ混乱していてどうすれば良いのやら。そうね。まずは私が落ち着いきましょう。少し深呼吸をする時間をちょうだい。……ええ、いいわ。じゃあ、落ち着いて聞いてちょうだい。実は、パパが入院をしたの。
事故じゃなくて病気です。そうなのよ。あの元気なパパが病気で入院ですよ。だから落ち着いて聞いてとあらかじめ前置きしたじゃないですか。だってパパ、今も毎朝ラジオ体操を欠かさないし、最近は晩酌も木曜日は休肝日にしたわ。孫の顔を見るまで死なないって張り切っていたもの。そういえばあなた、彼女は出来たかしら。うふふ。……そうですね。今はそんなこと関係ないわね。
 それがね、一昨日の夜だと思います。夜中に寝ている時、急に頭が痛いと言い出したの。はじめは寝言だと思いました。だってパパ、イビキも掻くし歯軋りもするの。寝ている時の方がうるさいから、てっきりその類かとママは気にせず寝ようとしました。でもパパ、今度は私の肩を掴んで痛い痛いって言うから、もしかして本気で痛いのかしらって不安になったの。すると今度はパパが頭を抱えて唸り始めたものたがら、私もう一気に慌てちゃって。すぐに救急車を呼んだの。本当は一度、間違って110番に電話しちゃったけど、内緒ですよ。うふふ。
 病院に行ってすぐに精密検査をした結果、脳梗塞でした。ママ、目の前が真っ暗になりました。あんなに健康に気を遣うパパが何故、脳梗塞にならなければいけないのか。もしかしてママの目を盗んで余所でお酒を飲んでいたのかしら、そして横には若い女が……。問い質そうにもパパは昏睡状態でしたから答えてくれません。
 そんなわけでね。まだパパは起きていないけど、お医者さんの診察では目が覚めても後遺症は残る可能性が極めて高いそうなのです。足や手が動かせないか、言葉が不明瞭になるか。とにかく仕事を続けるのは難しいかもしれませんけど、問題は当面のことなのです。入院費や手術代でかなり費用が掛かるらしいのよ。ママ、今になって後悔しています。やっぱり医療保険くらいは入っておくべきでした。パパがあまりにも元気で健康だから油断していたのです。ああ、後悔先に立ちませんね。
 そこで親の立場からこんなことを言うのは非常に恥ずかしいですけど、あなたからも手術代を少し負担してもらいたいのよ。医療ローンもあるみたいだけど利子が、ねえ……。パパも仕事に復帰できる保障もありませんから、ローンを組むのも気が引けるのよ。あなた、前に貯蓄はきちんとしているって言っていましたね。息子の貯えを当てにするなんて親として情けない限りなのは重々承知です。でも、頼りになるのはあなただけなのよ。ママも未だにパニック状態でどうすれば良いやら。助けてちょうだい。
 ……ああ、なんて優しい息子でしょう。ママはあなたを誇りに思います。いけない。また涙が出てきました。本当にありがとうございます。
 ではまた詳しいことが分かったら電話しますね。パパが一日でも早く目を覚ますのを二人で祈りましょう。そして目が覚めたら、隠れてお酒を飲んでいなかったか一緒に追及しましょうね。

 ……以上です。もちろん貯えなんて最早、雀の涙でした。そして実は私、銀行を辞めたことを両親には伝えていなかったのです。浅はかな見栄と心配を掛けたくないというのが理由でしたが、まさかそのせいで墓穴を掘るとは思っていませんでした。
 私は頭を抱えてしまいました。きっと一昨日の夜に父もこういう風にしたとは思いますが、うずくまって頭を抱えてしまいました。母に本当のことを伝えてしまおうとも思いました。貯金なんて底が見えており無職であると。しかしそれを伝えれば、母のことです。卒倒するでしょう。看病している側の人間が倒れていては、病院の方々に迷惑をかけてしまいます。
 しかしながら親を見捨てるわけにはいきません。こんな私ですが、子が親に対する正しい愛情を持ち合わせている人間であると自覚はしています。でも先立つものはない。愛情をお金に換金出来たら、どれほどか良かったでしょう。
 そんなどん詰まりの状態の私に突然、悪魔が囁いたのです。本当に頭の中に他人の声が響いたように聞こえました。「振る袖がないなら、余所から千切って持ってくればいいんじゃないか」と。
 心臓が冷たくなった直後、頭がカッと熱くなりました。なんて恐ろしいことを考えてしまったのかと憤りましたが、悪魔の囁きは私の心から離れませんでした。
 一度そうなってしまうと、都合のいい大義名分がボロボロと溢れてきます。育ての親を救うため、これは私利私欲ではない、汚れ役は自分が引き受ける、また父の喜ぶ顔が見たい。
 身勝手な大義名分です。ただ救いたいなら医療ローンを組めば済む、私利私欲のためではなく見栄のため、ヒーロー気取りなんてはた迷惑、そんなことをして喜ぶ親がいたら逆に見てみたい。今になってみれば当たり前なことです。
 ですがこの時の私は真剣に悩んでいました。それはもう、三日三晩悩みました。二日目の夕飯を抜くほど悩みました。鼻の脂がカラカラになるほど悩みました。そして至った結論が、悪事に手を染めることでした。もう、それしかなかったのです。
 それから私はさらに考えました。続けて三日三晩考えました。二日目の昼飯はパスタにしました。鼻の両脇があかぎれのようにヒリヒリするほど考えました。
 手早くお金を得るには強盗か泥棒だろうと決めました。一番有名なのは銀行強盗でしょうが、銀行のセキリティが強固なのは私が一番よく知っています。それに凶器を突きつけ大金を要求するとき吃音が出てしまったら、窓口の女性行員から笑われたら。と考えると恥ずかしさのあまりに悶絶してしまいます。
 ATMをショベルカーで持って行くという斬新な強盗もありますが、残念ながら私は重機を操るどころか普通自動車免許すら持っていません。ここだけの話、自転車も乗れないのですよ。
 コンビニ強盗をしたところで僅か十万円程度。一般店舗にしても同様でしょう。意を決して悪になろうと思って改めて気付きましたが、この世の中では普通に働くより泥棒をすることの方が難しいようです。もっともそうでなくては、治安維持のために警察官の雇用が高まるでしょう。おや、それはそれで就職難に困る昨今の情勢に新たな光が!
 私は全く良案が浮かばず、安いスナック菓子を頬張りながらテレビを眺めていました。こんなヒマがあったなら、ハローワークに行って新しい就職先を見つける努力でもすれば良かった、と舌打ちしながら。
 その時です。何気なく観ていたニュース番組の字幕にとんでもない閃きが生まれたのです。
 私はスナック菓子を放り出してテレビにかじりつきました。そのニュースは「個人情報漏洩」に関する特集でした。
とある企業が顧客情報一万人分を流出、ある役所では住民情報七千人分を紛失。その流出に対する被害と信頼の損失を事細かに説明していました。
 私はそのニュースを見終わるやいなや、ノートパソコンを開き情報収集に勤しみました。それは個人情報の値段について、です。
 泥棒になろうと決意はしたものの、やはり人様の金銭を奪うのは気が引けました。僅かながら残された良心か、はたまた単なる腰抜けか。しかしその奪うものが、ただのデータでしたらどうでしょう。数千人近くの名前と住所を手にすることに罪悪感は抱くでしょうか。そうです。私は少し個人情報を失敬して、それを必要とする場所に安価で売りつけるだけなのです。
 いくらネット上とはいえ、大っぴらに個人情報買いマス! などと謳うサイトはありませんでした。しかし 情報の片鱗はあちらこちらに落ちているもの。名前と電話番号なら一人何円、メールアドレスは何円くらいじゃないか、といった具合にやはり私以外にも興味を持つ人間は少なくないようです。
 そして私はついに裏サイトを発見しました。パッと見は自宅の猫さんの観察ブログですか、どうやらそれはカムフラージュだそうです。スクロールしていった一番下のバナーをクリックすると、そのサイトに行き着きました。余計な装飾が一切なく、黒の背景に明朝体で一言「個人情報取引サイト」と題名があるサイトでした。
 私は唾を飲み込んで表示された値段レートを見ました。名前と住所と電話番号がセットで一人二百円。そこにメールアドレスが入れば百円上乗せ。携帯番号ならいくら上乗せ。家族情報ならいくら上乗せ、でした。
 私は卑しくも得意の暗算を使って計算しました。私の高校時代の卒業生が三百名。ということは卒業アルバム一冊で六万円。同じように中小学校を足せば十八万円。これはなかなか興味深い値段です。さすがに大学の卒業アルバムは名前だけなので価値はありませんが、私が流れるままに過ごした学生時代のお値段は、十八万円という価値が付くのです! 感慨深いものでした。
 例えばこれが、五千人分の個人情報なら百万円。一万人なら……二万人なら……。私はベッドに寝そべって溜め息を吐きました。
 他人に興味を示したことなんて一度もありません。ましてや誰がどこに住んでいるか、教えてあげようと言われても頑なに断ります。ですがそんな興味の欠片もない情報群が、とんでもない金銭に化けるなんて! まことに恐ろしい世の中ではありませんか!
 ですが一万人も二万人もの情報がどこにあるのか、皆目見当もつかないと思いましたが、私はすぐにピンときました。そこに気付いた自分を褒めてあげたかったです。私は泥棒を犯す大義名分に、新たに「復讐」という二文字を足しました。
 全国展開をしているおかげで、個人情報なんて十万も二十万も有している企業を私は知っています。銀行時代に融資担当をしていた損保会社でした。
 あそこならさぞかし値段のお高い個人情報を大量に保有しているはずです。一人分で三百円も四百円にもなるでしょう。それが一万人分……私は興奮を禁じ得ませんでした。
 幸いにも銀行時代に、損保会社の社内をあちこち歩いているので目的経路は明るいです。いつも相手をしてくれた部長より、従業員へお得な情報があったら好きに営業していいとありがたい計らいを頂いていましたので。おかげで建物内の部署へ隈無く顔を出しています。向こうから気さくに声を掛けてくれる人いましたし、顧客の悪口を愚痴る社員もいました。    だから一般的な取引業者よりも内通した情報を私は得ています。
 思い立ったが吉日です。私は身支度を整えると、足取り軽く外出しました。

 午後二十時。最後の社員が最寄り駅に着くまで後を追い、電車に乗るのを確認して、私は踵を返しました。途中にある薄暗いビルとビルの隙間で黒い服装に着替えます。そのまま明るい場所は避けて、損保会社の社員通用口に戻ってきました。
 閉め番の社員が施錠するのを確認したので中には誰もいません。さらには電車に乗るのも確認したので引き返してくることもないでしょう。
 私を大きく伸びをして首をコキコキと鳴らしました。今夜は月もなく、私の姿はすっかり闇に溶け込んでいます。どこからどう見ても立派なこそ泥です。
 忍び足で通用口へ歩み寄り、施錠されているはずのドアノブを捻ると、扉はすんなりと開きました。私はニンマリと微笑みました。
 トリックは簡単です。閉め番の社員が帰る直前に少し細工をしました。扉の近くに誰もいないのを確認し、カギを施錠モードにして扉に引っかかっておきました。 旧式のタイプのカギで、ドアノブのボタンを押してから、ドアノブを回すと施錠するというものです。大手企業の割にはこういうところは手薄だったりします。
 何も知らない社員は扉をくぐり、施錠するつもりでカギをひねります。しかし先に既に施錠をしていたので、彼は実は解除してしまっていたことに気付いていませんでした。
滑り込むように社屋内に侵入し、私は素早く周囲を見渡しあるもの確認しました。警備保障会社のアラームです。
 通常、閉め番の社員が帰った後に警備保障会社の警備員が見回りにくるのですが、それが済むとアラームが赤ランプに切り替わるのです。しかし現在、アラームは緑。警備員はまだ来ていないようです。私の調査では警備員が見回りに来るのは午後二十時半頃。三十分で仕事を終えなくてはいけません。
 仕事、というと何だか格好良いですね。頭の中に例の時代劇のテーマソングが流れるようです。
 最近では施錠と同時に警備保障会社へ連絡がいくような装置が一般的ですが、どこまでも大ざっぱな企業です。管理体制をなんだと思っているのでしょうか。まあ、おかげでまんまと侵入した私が言えた義理ではありませんが。
 私は常備灯の明かりを頼りに暗闇を駆けました。しんと静まり返った建物内に私の足音だけが響きます。その足音が焦っているように聞こえたのは仕方がないことでしょう。
 お目当ての部署に到着し、私は一度だけ受付台に置かれた部署表示プレートに目をやりました。「顧客管理部」。狙って下さいと言わんばかりの部署です。部屋の配置は昔と替わっていないようでした。
 一番近くにあるデスクのパソコンの電源を入れます。カタカタという旧式のハードディスク独特の音と強風のようなファンの音が室内に響き渡りました。昨今の掃除機だってもう少し静かだろうと嘆息してしまいたくなる音です。ビル管理セキュリティーですら旧式なら、顧客情報を管理しているパソコンも旧式で当然なのでしょう。
 私はOSが二つほど前の世代のお爺ちゃんパソコン(お婆ちゃんかもしれません)がのろのろ立ち上がっている間に、何気なくデスクを見渡しました。
 脈略のない揃い方のキャラクターペンが刺さったペン立て。ブックスタンドで立てかけられたファイルの数々。写真立てには家族でバーベキューに行った時のものが。写真に写る顔を見てぼんやりと思い出しました。以前に個人営業をおこなった四十歳くらいの女性です。
 私が定期預金のご案内をしようとしているのに、この女性はまったく聴こうともせずに姑の悪口をひたすら喋っていました。誰でもいいから愚痴りたい性格だった ようです。私はげんなりして粗品の卓上カレンダーをプレゼントすると、その一瞬だけ気前よそうな顔になったのが印象的でした。
 しかしその卓上カレンダーは、今は別の物と入れ替わっていました。銀行のロゴは同じものでしたので、私が辞めたあとの誰かが持ってきたものでしょう。
 私はその卓上カレンダーを払い落としたい気分になりましたが、犯行現場に不必要な形跡を残すのはマズいと思い我慢しました。ただ、情報を盗むのにこの女性のパソコンで良かったとほくそ笑んだのは覚えています。
 程良くカリカリ音もおさまったパソコンを前に、私は椅子に腰を下ろして背負っていたバッグからメモリースティックを取り出しました。そしてそれをUSB端子に差し込むと、フォルダというフォルダをコピーペーストしてメモリースティックへと移し始めました。
 お金や物を盗めば当然ながら、発覚した段階で捜査が入ります。しかしこの方法はどうでしょう。データを移行ではなくコピーペーストならば盗難の痕跡が一切残りません。そして私が売った個人情報にしても、あのサイトが摘発されない限りは公にされることはないのです。なんという完全犯罪ではありませんか! 私、柄にもなく興奮してしまいました。
 データを吸い取っている間に社内ウェブでも閲覧してやろうか、とマウスを操作した時でした。私はディスプレイに小さく表示されたウィンドウを見てギョッとしたのです。データ転送まで残り二十分と表示されていました。
 大量のデータをいっぺんに移行すればそれなりに時間が掛かります。さらにパソコンは年季の入ったヨボヨボマシーン。時間はさらに掛かるはずです。私は慌てました。計算ミスです。
 二十分なら警備員が来るまでデータは吸い取れるはずです。しかしそれはあくまで憶測の話であって、今日担当の警備員が時間前行動派の人間だったらアウトです。インド時間のゆったり派が来る可能性もありますが、可能性は可能性でしかありません。
 途中でメモリースティックを引っこ抜いてしまおうか、しかしここまで来ておいてそれは勿体ない。いっそのことパソコンの本体ごと持ち去っては、いやいやそれではまんま盗難になってしまう。私は葛藤に悩みました。焦らすようにパソコンのファンも大きく唸ります。
 脂と汗でぐちょぐちょになった鼻の頭を指で揉んでいた時でした。私は何気なく、本当にふと首を横に向けたのです。次の瞬間、私は奇声を発して椅子から転げ落ちました。何と言って叫んだかは覚えていません。ただ奇声を上げたのだけは確実です。
 人が立っていました。暗闇の中にぼんやりと人が立っていたのです。
 私は口から心臓が飛び出しそうになるのを必死に堪え、地べたを這いつくばりながら後ずさりました。その人がいつから立っていたのか分かりません。私が目の前に集中していたからかもしれませんが、まったく気付きませんでした。犯行中にまさか隣を取られようとは。泥棒失格です。いいえ、もとから泥棒の才能はないのです。
 私はとにかくパニック状態でした。幽霊かと思いましたが、それならそれで構いません。むしろこの状況なら幽霊の方がマシでしょう。まさか幽霊が義憤に駆られて警察へ通報するわけありませんから。
 人間です。相対しているのは生身の人間であると本能レベルで分かりました。
 私は腰が抜けたのか立ち上がれずいました。もとより脚がガクガクに震えていましたし。しかし右手だけはまともに動きました。椅子から転げ落ちると同時に、素早くポケットに忍ばせておいた折りたたみ式ナイフを握っていたのです。
 いえ、違います。あくまで自己防衛手段のつもりで準備しただけです。万が一に備えてポケットに忍ばせていた程度ですもん。刃渡りだって僅か十センチですもん。
 しかしながら、この時の私はとにかく錯乱していたので、相手の出方次第ではどんな行動を取るか自分でも予測不可能でした。相手が向かってきたのならば、私は鋭利なナイフを力任せに振るっていたかもしれません。
 ですが、その人はむしろ後ろに一歩引いて、両手を挙げたのです。暗かったせいか相手がどんな顔をしていたか見えませんでしたが、明らかにこちらを警戒しているようでした。そして次に口にした一言が、私の精神を混乱の淵から正常へと戻したのです。
「お前も、か」
 はい。確かにそう言いました。
 声は小さくて滑舌も良くありませんでしたが、その人ははっきりとそう言ったのです。私はナイフを握り締めていた手をゆっくりと離し、目の前の人間を改めてまじまじと見つめました。
 その人は上下ともに黒のジャージを身にまとい、頭には深めに黒のニット帽を被っていました。靴もご丁寧に黒です。
 まるで鏡でも見ているようでした。私もその時、ほぼ同じ格好をしていましたから。もっとも私の場合は黒の野球帽でしたが。
 そして私は吟味に吟味を重ね、一言だけ言葉を絞り出しました。
「あなたも、ですか」
 すげなくその人は首を縦に振りました。私は両肩に乗っていた緊張感がドッと降りたのを感じたのです。

 しばらくお互い見つめ合っていましたが、先に動いたのは向こうでした。
「立てるか」
 挙げていた両手を下ろしながら訊ねました。言い方はぶっきらぼうでしたが、声音がまだ緊張しているみたいでした。
「あ、はい」
 私ものそのそと立ち上がります。そしてまた沈黙が流れました。
 まさか予想だにしていなかった状況が起こりました。警備員や損保会社の社員と鉢合わせしたらどうしよう、という懸念はありました。でも、これは考えてもみなかったケースです。私が泥棒として未熟なわけではありません。プロの人でも絶対に予測できないケースだと思います。
 泥棒に入った先で別の泥棒と鉢合わせするなんて。万に一つが見事的中した気分でした。もしも泥棒マニュアルなんていうものがあったとしても「別の泥棒に遭遇した場合の対処法」という項目はまずないでしょう。そのぐらいイレギュラーです。
 お相手さんもそうなのでしょう。私みたいにそわそわと挙動不審な態度は露わにしていませんが、目つきがまだ警戒を怠っていませんでした。お互いがイレギュラーな展開に、動けないまま時間は過ぎていきます。
 このまま硬直状態でいるのも困ります。私は目的があって泥棒をしているので。ですがそれはお相手さんも同じなのでしょう。沈黙を破ったのはまたしても彼の方でした。
「データを?」
 カリカリと音を立てるパソコンを指差して訊ねてきたので、私はコクリと頷きました。
「あなたは?」
「俺も、だ」
 どうやら目的まで一緒なようです。いやはや、参りました。
「あの、もしよければ先にいかがですか。私のはもう少し時間が掛かりそうなので」
 彼は呆気に取られた顔で私を見ました。何を言っているのでしょうか、自分は。譲ってどうするというのでしょう。コピー機の順番待ちでもあるまいし。自分の及び腰にほとほと呆れてしまいます。
「え、いや。でも、あんた」
「いやいや。良いのです、本当に。困ったときはお互い様ですから。ハハハ」
 ああ、こんなにも自分の後頭部を叩いてやりたい気分になったのは初めてです。情けないったらありません。
「それに早くしないと、警備員が来てしまいますから」
 すると彼は一瞬だけ背後に視線を泳がせました。私はおや、と思いましたが彼の続く言葉に気を取られてしまいました。
「警備員はこない」
「えっ。こないんですか」
「ああ」
 これはまた驚かされました。私は彼との間を一歩詰めました。
「何故そんなことが……。はっ、まさか。お仲間さんがいらっしゃるのですね」
「ん。まあ、そんなところだ」
 私は感嘆の声を上げて、その場にしゃがみ込みました。これはやられました。彼は私と同類だと思っていましたが、とんでもない。単独犯ではなく組織犯だったのです。私みたいなペーペーのこそ泥ではなく、チームとして動くベテラン泥棒さんだったのです。
 なんだか急に頼もしく感じ、私は笑みを漏らしました。
「では、焦らずに犯行をおこなっても差し支えないのでしょうか」
「そうだな」
 実に清々しい気分でした。それまでの懸念材料が一気に解消されたのです。私は立ち上がると近くにあった椅子を彼に勧めて、自分もパソコンデスクの椅子に腰を下ろしました。
 彼は椅子に腰掛けても背もたれに寄りかからず、手を膝に置いて常に視線を周囲に配っていました。なるほど、さすがプロの人は違います。どんなときも油断はしないということですね。私も倣って腕を組み何かを考えるふりをしてみました。
 不思議なことに、私は先ほどまでの不安感はまったくありませんでした。何故でしょう。彼に仲間がいるとしても、私の協力者というわけではありません。しかし、赤信号みんなで渡れば恐くない心理、とでも名付けましょうか。私以外に同じ方法で悪事を働こうという人間がいると知るのは、想像以上に心強いものです。
 私はチラッとパソコンに表示された残り時間を確認しました。データ移行まであと十八分です。まだ二分しか経っていなかったのか、はたまたパソコンの処理能力が低く表示よりも時間が掛かっているのか分かりませんでした。
「あんた、なんでこのデータを」
 ふいに彼の方から話しかけてきました。私は思わず腕組みを解いて背筋を伸ばします。
「はい。何でしょうか」
「なんでこのデータを吸い取ろうとしているんだ」
 私はどう答えればいいか、鼻の頭をいじりながら考えました。ああ、やっぱり思案中のときには鼻に触れている方が自然に感じます。
「個人情報を裏サイトで販売するためです」
ふむ、とごちて彼はしばらく視線を落としました。そして顔を下向きのまま改めて訊ねてきたのです。
「なんでまた、泥棒なんかに」
 私、恥ずかしながらこの時に少し嬉しかったのです。これまで他人に興味を抱かれたことがなかったので、どんな質問であろうと私の事を知りたいと思ってくださったのですから。
 もしかすると若干、顔が紅潮していたのかもしれませんが、幸いにも暗闇で助かりました。
「そうですね。まずは生い立ちから話すべきでしょう」
 私は姿勢を正し唇を舌で濡らしてから、つらつらとこれまでの半生を語りました。
 はい。そうです。語った内容は今まさしくあなたにお話している内容とほぼ同じです。まあまあ、げんなりなさらないで下さい。彼は眉一つ動かさず最後まで聴いて下さいましたよ。もうすぐ終わりますので懲りずに聴いて下さい。

 話を終えてパソコンを見ると、いつの間にかデータの移行は済んでいました。思ったよりも長話になっていたようです。
 私はメモリースティックを引き抜くとバッグの中に入れ、念のためにハンカチでマウスの指紋を拭き取りました。その動作を一通り眺めてから、彼はぽつりと呟いたのです。
「あんたなりに辛い事情があったんだな」
 私はハッと彼を見ました。笑うわけでもなく憐れむわけでもなく、ただ無表情のままでしたが、それが彼なりの優しさに思えました。私の半生を知って、さらに理解してくれました。
「しかし、しかしです。結果的には泥棒に身をやつしてしまったのです。誉められたことではありません」
「誉められるだけが人生じゃない。生きてこそ、生きているだけで上々じゃないか」
 ああ、情けないことに私はその時に目頭が熱くなってしまいました。
 もしかしたら私は、ずっとそのセリフを誰かに言ってもらいたかったのかもしれません。生きているだけで上々……そうです。日影に隠れて生きてきましたが、それでも私は生きているのです。ただそこに存在しているだけの生命体ですが、そこにいるという事を認めて欲しかったのでした。
 新しい世界が開けた気分でした。偽ることをしなくても私は私らしく生きていけるだろう。この出会いは神様が与えてくれた素敵な偶然なのかもしれない。
 そして私は少し羨ましく思えました。彼には仲間がいるのに、私は一人です。彼には彼を理解してくれる仲間がいるのでしょう。私も、そちら側へ……。
 うっかり心の声が外に漏れたのかと思いました。そう思わざるを得ないほど、彼の言葉に私は衝撃を受けたのです。
「あんたも俺達の仲間になるか」
 生まれてこの方、誰かに何かを誘われたことなど一度もありませんでした。小学生の時に一緒にトイレへ行こうと声を掛けられたことはありませんでした。中学生の時に一緒に帰ろうと声を掛けられたことはありませんでした。高校生の時に体育でマラソンを一緒に走ろうと誘われたことはありませんでした。大学生の時にコンパへ……ああ、もういいですか。しつこくてごめんなさい。
 とにかく、私はその時に人生で初めて、誘致を受けたのです。しかもそれが泥棒の組織! なんと数奇な運命! 駅前にいる妙な宗教勧誘にすらスルーされる私が!
 初めに私、天に愛された泥棒なんて五右衛門やルパンくらいだと断言しましたが、この時ばかりは自分もそういう選ばれし者だと確信しました。なるべくして泥棒の覇道に招かれたのだと。天啓なるものを信じずにはいられませんでした。
 気付けば私は立ち上がっていました。そして怪訝な表情を見せる彼に深々と頭を下げました。
「ふつつか者ですが、宜しくお願いします」
 ハッキリとどもらずに言えました。引きつり笑いをする彼に、私はニカッと口角を上げてみせました。今さら冗談でしたと言われても駄目ですよ。この世の財宝を全て盗み尽くしましょう。
 すると程なくして、彼が背中にした通路から足音が聴こえてきました。もしも私が猫だったならば、確実に耳がぴんと立ったことでしょう。
「お仲間さんですね」
「ん。まあ、そうだ」
 通路にぼんやりと白色の光が舞います。お仲間さんは懐中電灯を持っているのでしょう。その明かりが徐々に光量を増すごとに足音も近付いてきます。
 私にはその光が、これからの新しい未来を照らす光に見えました。
 私は背筋を伸ばしてお仲間さんが部屋に入ってくるのを待ちます。彼は反応を示さず、ただ椅子に腰掛けていました。
 懐中電灯の明かりが通路から室内に入ってきました。入り口付近をなぞるように光が当たった頃に、懐中電灯の主も室内に足を踏み入れてきました。
 ああ、この人が私のお仲間第二号ですね、と思った時に明かりは私を照らしました。
 眩しくて顔を背けました。そして薄目を開けて正面を向くと、光の奥に見えたものが。腕の輪郭と手に握られた円柱状のもの。その瞬間、両目に激痛が走りました。
「がはっ!」
 何事かと身をよじり叫ぼうとしましたが、私の目に当てられた霧状の飛沫物が気管にも入り込んだようです。途端にむせてしまい声が出せず喉を押さえた矢先、私はあっという間にうつ伏せに地べたへ組みふせられました。
「芝田、大丈夫だったか! 簡易拘束具で両腕を縛れ!」
「それよりも田辺さん! 警察へ連絡は!」
「さっき勝元が電話した! 今にやってくる! こら! 暴れるな!」

 私がある事を思い出したのは、パトカーに乗せられた辺りでしょうかね。
 最近の警備員は泥棒の装いで巡回をおこなう場合があるそうです。もしも万が一に犯人と遭遇しても、泥棒の振りをしていれば刃向かってこられる心配がないとか。
 さらに警備員は防犯上、同じ施設に数分以上留まると本部に連絡がいくようになっています。警備員が巡回施設で盗みを働く場合もありますから。ばったり犯人に出くわした時には、可能ならば話をしてその場に留めておくこと。その間に他の仲間が駆けつけてくれるそうです。
 この話は私が警備保障会社を辞める直前、小耳に挟んだことでした。当時はそんな上手くいくわけないと鼻で笑っていましたが、効果は絶大だったようです。私が身を持って保証します。

 供述は以上です、国選弁護士さん。今まで私が話した事に嘘偽りは一切ございません。全て事実です。
 自白をすれば多少は罪が軽くなると聴きましたけど、実際はどうでしょうね。でも出来れば罪は軽くして頂くとありがたいです。父もまだ昏睡状態で様態は思わしくありませんから、母への負担が心配です。それに父が目覚めた時には傍にいてあげたいのです。私も気になります。父が本当に女性のいるお店で隠れて酒を飲んでいたのか。
 これも何かの縁ですので、弁護の方も何卒宜しくお願い致します。

 おわり

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2011'11.28 (Mon)

「冬・まくら・リンゴ」

 お題「冬・まくら・リンゴ」  

 夜の寝室は静寂に包まれている。
 外はしんしんと雪が降り、窓越しに冷気が部屋の中へと忍び込んでくる。
 先週からシーツも毛布も起毛製のものに取り替えたが、理沙は布団を頭から被り、膝を抱いて横たわっていた。
 一人きりのベッドは温もりが蓄積しない。布団の隙間から熱がいつしか逃げていくような錯覚に陥る。
 早くベッドのもう半分を埋めて欲しいと思ったが、理沙は頭を振って手指を揉んだ。
 静まり返った部屋の中で耳をすます。下の部屋で誰かが息づく音が伝わってきた。
 隣を温める役割を担うはずの、夫の孝太郎である。
 理沙は先ほどのことを思い出し、また怒りがこみ上げてきた。

 いつもより遅く帰宅した夫がテーブルの上に置いたビニール袋。その中から転がり落ちたのは、紅いリンゴだった。
 妻の視線を受けながら、寡黙な夫は一言だけ告げたのである。
「近所のスーパーしか開いていなかった」
 その途端、理沙は立ち上がるとエプロンを外して孝太郎に投げつけた。
 癇癪持ちであることは自分でも承知している。だがこの時ばかりは、口を塞ぐことが出来なかった。
 日頃から抱いていた不満を孝太郎にぶちまけて、理沙は逃げるようにベッドへと潜り込んだ。
 布団を被って目を閉じてすぐに、どうしようもない後悔が胸を締め付ける。言い過ぎたとは思ったが、それでも理沙は孝太郎を許すことが出来なかった。
 今日は二人の結婚記念日だったのである。

 布団にくるまったまま寝返りを打つ。考えるのは夫のことばかり。
 出会った頃から口数が少なく、決して気が利く性格ではなかった。
 容姿もそこそこ、仕事もそこそこ。友人からの評判も悪くもなく良くもなく。
 そんな孝太郎と結婚したのは、突然にプロポーズされたからだ。
 無口な孝太郎が唐突に求婚してきたのに驚き、理沙は唖然として首を縦に振るしかなかった。
 今にしてみれば、もう少し熟考しても良かったと悔いる。そして毎日、理沙の話を聴きながら夕飯を食べるだけの夫を前に、この人のどこを好きになったのだろうかと考える時間が増えた。
 日々の些細な不満も、雪のように積もれば倒壊もするし雪崩にもなる。
 それがたまたま今日だっただけとは思いつつも、こんな日に喧嘩したいわけがなかった。
「仕事が遅れてケーキ屋さんが閉まっていたからって、リンゴはないじゃない。せめて事前からネットで取り寄せときなさいよ」
 そう呟いて理沙は孝太郎の枕を掴み取ると、胸に抱いた。
 今日最後の悪態とイジワルを夫への反抗として、理沙はモヤモヤした気分のまま眠りに就いた。

 夜中、ふと目を覚ます。
 外は相変わらず雪が降っているようで静かだ。しかしその中に、微かな寝息が混じっている。
 どうやら夫の孝太郎も就寝したらしい。
 理沙は目をこすりながら傍を見る。当然ながら夫の頭の下には枕がない。理沙が抱きかかえいるのだから。
 ベッドへ直に頭を置いているからか、寝心地が悪そうだ。
 少し子供っぽかったと省みた理沙は、その時あることに気付いて鼻をひくつかせる。
 どこからか甘い香りが漂ってくるのだ。
 理沙は夫を起こさないように布団から抜けると、カーディガンを羽織って一階に降りる。
 リビングの照明を点けると同時に、優しいバターの香りが鼻をくすぐった。
 次いでシナモンと甘酸っぱさが混ざった香りも伝わってくる。テーブルの上にあったのは、アップルパイだった。
 皿の底に手を当ててみると、まだほんのり温かい。そして不揃いにカットされたリンゴから鑑みるに、これは明らかに孝太郎が手作りした品だった。
 流しを覗くと、何度か失敗したのか可哀相なリンゴやパイ生地が生ゴミとして残っていた。
 何故、わざわざこんな時間に手作りのアップルパイなど……と首を傾げたが、理沙はすぐにあることに気付き、アッと声を洩らした。
 二年前、夫にプロポーズをされたのは当時よく通っていた喫茶店で。
 紅茶と一緒に食べていたのは、アップルパイ。
 理沙は皿に添えられていたフォークでアップルパイを一口食べた。
 シナモンがキツすぎてせっかくのリンゴの風味が薄れてしまっているが、その味は理沙の胸に詰まったわだかまりを溶かすには充分だった。
 アップルパイをラップで包み冷蔵庫へ入れると、理沙は足を忍ばせ寝室に戻る。
 そして布団の中で温まっていた枕を、孝太郎の頭の下に敷いた。
 すると孝太郎は浅くいびきを掻く。いつもの丁度良い高さになった証拠だ。
 理沙は夫の寝顔をまじまじと見つめ、明日になったら謝ろうと思いながら眠りについた。

 窓の外が白んできたのを感じ、理沙は目を覚ます。
 いつもこの時期の朝は鼻の頭が冷たくなり、ジンジンした痛みで起きるはずなのに、今朝は不思議な温もりを感じたのを不思議に思った。
 そして目を開けて合点が入る。夫の顔が目と鼻の先にあった。
 寝息が理沙の睫毛を揺らす。一つの枕に二人で頭を乗せていたのである。
 昨日の夜中に返した枕は結局使わなかったらしい。理沙は空の枕を確認するため顔を上げて、気が付いた。
 孝太郎の手が、自分の手をしっかりと握り締めていたのである。
 理沙は微笑みを浮かべて吐息をつくと、孝太郎のおでこにそっと口付けをした。
 そしてまた、ゆっくりと瞳を閉じる。

 夫のどこが好きになって一緒になったのか、それは今でも分からない。
 でも、そんな問いに明確な答えが出せなくても、構わないと思った。
 確かな答えを出す必要ないくらい、自分はこうして幸せなのだから。
 ただ一緒であることが、全てだから。
 そう思いながら、理沙は二度目の眠りに就いたのである。

 おわり

 お題提供・我が愛しの妻、リンコ姫。 Thanks!
15:28  |  三題噺  |  CM(1)  |  EDIT   このページの上へ

2011'11.24 (Thu)

魔法・パソコン・デザート

お題「魔法・パソコン・デザート」

 イカのような触手が、まどかを襲う。鞭のようにしなった攻撃をまどかは身を翻してかわした。
「もう一撃くるよ! まどか!」
 使い魔であるQBのアドバイス通り、今度は触手が頭上から振り下ろされた。
 対峙するイカ型の悪魔は唸り声を上げながら、触手をくねらせる。
「おっとっと」
 まどかは慌てる様子もなく、次々に繰り出される攻撃を避けていく。ピンクのフリルがあしらわれたコックコートがふわりと舞った。
 まどかは後半に大きく跳んで間合いを空けた。そして両手を宙にかざすと、何もない空間から調理器具が現れた。
 右手に泡立て器、左手にステンレス製のボールが握られていた。
「マスカルポーネチーズ! クリームチーズ! グラニュー糖!」
 ボールの中に言ったとおりの材料が入った。まどかは悪魔の攻撃をかわしながら、それらをシャカシャカかき混ぜる。
「Qちゃん、スポンジはまだ?」
 白い子猫のような使い魔は、ハラハラした様子で後ろのオーブンに目をやる。
「まだ五分はあるよ!」
 ふむ、と額に指を当てながら思案したまどかは、ボールを宙に投げると、右手を天にかざした。
「召喚! 風の精霊!」
 まどかの呼び掛けに応えるように、緑色の風が辺りをおおった。
 泡立て器とボールを二つずつ用意し、それぞれ材料を入れる。
「攪拌をお願いするわ、風の精霊」
 すると緑色の風は電動ホイッパーのように材料をかき混ぜ始めた。まどかの頭上で三つのボールがせわしなく舞う。
「一体何をする気だい?」
 目を白黒させるQBへ、まどかは可愛らしくウィンクを飛ばす。
「時間があるから、もう一品作っちゃうの」
「無茶だ! 魔力が保たないし、時間も間に合わないよ!」
 いつの間にか両手にフライパンを握ったまどかは、自信満々に答えた。
「絶対に大丈夫! 召喚、火の精霊!」
 目の前に現れた炎の固まりにフライパンをかざす。瞬く間にフライパンへ熱が帯びたのを確認して、まどかは頭上に声を掛けた。
「風の精霊さん、よろしく」
 攪拌していたボールの一つから、ミルク色の生地がスゥと垂れた。
 右手のフライパンで受け止めたまどかは、それを円を描くよう均一に敷く。それと同時に生地の表面にブツブツと泡が立ったと思った瞬間、まどかはフライパンをサッと横にスライドさせた。
 くるりと宙を舞った生地は、焼き面を上にして左手のフライパンに着地する。そして着地したと思った矢先に再びポーンとフライパンから飛ばされ、側にあったお皿に乗った。
「スゴいよ、まどか! クレープ生地が一瞬で!」
 QBが驚いて歓声を上げる間に、右手のフライパンには既に次の生地が広がっていた。
 両手に握ったフライパンが真横に烈しく空を切る度に、生地が段々と完成していく。僅か五秒もしない間に、クレープ生地はこんもりと山を作った。
「よし、あとはホイップクリームを層にして完成よ」
 クルッと体を回転させながら、フライパンをイカ悪魔に投げつける。熱々のフライパンに身悶えながら、イカ悪魔は地面を転げ回った。
 その間にまどかはクレープとホイップクリームを層にし、半球型になったそれの表面にメイプルシロップでコーティングした。
 四分の一に切り分けて、皿に盛りミントを飾る。
「よしっ! ミルクレープの完成よ!」
 それと同時にQBの後ろのオーブンからアラームが鳴る。
「まどか! こっちも焼き上がったよ!」
「オッケー。Qちゃん、投げてちょうだい」
 鍋つかみをはめてQBは、ふんわりと甘い香りがするスポンジケーキをまどかに投げた。
 瞳を閉じてダラリと腕を垂らすまどか。その両手にはナイフが握られている。
 スポンジケーキがまどかの顔面に直撃する刹那、ナイフが烈しく閃いた。
 キレイに賽の目型に切られたスポンジケーキを、ガラス容器が受け止める。まどかはそこにビンに入った茶色の液体を振り掛けた。
「アマレットリキュールを煮詰めたシロップを浸して、その上にさっきのチーズクリームを流し込んで……」
 トロリと満たされたクリームをへらで丁寧に均す。
「ココアパウダーでコーティングして、オレンジピールとチョコ細工をあしらえば……ティラミスの完成よ!」
 ピースサインを決めたまどかにQBが発破をかける。
「まどか! 早く対象者を助けるんだ! 悪魔が暴走しようとしている!」
 イカ悪魔が見る見るうちに真っ赤へ変色していく。触手が怒り狂ったように地面を叩いた。
「よしっ。いま、助けてあげるから」
 両手に完成したデザートを持ったまどかは地を蹴ってイカ悪魔に向かった。
 触手の斬撃をひらりとかわし、敵の懐に潜り込む。そして牙がびっしりと生えた口の中にティラミスを放り込んだ。
 その途端、イカ悪魔の動きが急に鈍くなる。地なりのような唸り声を上げながら小刻みに震える。そしてイカ悪魔の腹部に、女性の顔の輪郭が浮かんだ。
「もう一押し!」
 ミルクレープを口に入れるまどか。するとイカ悪魔は断末魔の叫びを上げて霧散していった。
「ふぅ~。終わった終わった」
 イカ悪魔が消えた代わりに、一人の女性が横たわっていた。どうやら気絶しているだけらしい。
「今日も一件落着だね」
 トコトコと歩み寄ってきたQBに満面の笑みを浮かべるまどか。しかしQBは頬を膨らませて苦言を呈した。
「全然落着じゃないよ。まずは精霊の力を使いすぎ。そんなんじゃ長期戦の時に魔力不足になっちゃうよ」
 ペロッと舌を出すまどかにQBは溜め息を吐く。
「それにスポンジケーキなんてわざわざ焼かなくても、材料で召還すればいいじゃないか。あれでまた時間が取られちゃうんだよ」
「ティラミス用のスポンジケーキは手作りしないと味が整わないの。それにミルクレープを作る時間も出来たから万々歳じゃない。ティラミスだけでは悪魔祓いは難しいかったわよ」
 ごもっともな意見だが、QBはやれやれと首を振った。そんな手厳しい使い魔に、まどかは無邪気にピースサインを送る。

 真木まどかは、私立女子高に通うごく普通の女の子だった。
 料理研究部の副部長を務める、明るいだけが取り柄の女の子だった。
 そう、使い魔のQBに出会うその日までは。

 QBに初めて会ったその日、まどかは放課後に一人で家庭科室にいた。
 シュー生地をオーブンの天板に絞っていると、気付けば目の前に一匹の白猫がいたのである。
 どこかの窓から入ってきたのだろうか、と思ったが、まどかはその猫を見つめて不思議に感じた。
 額に大きく赤い宝石が嵌められていたのである。
 近所の子供のイタズラだろうかと訝しんだ矢先、その白猫は口を開いて喋ったのである。
「ねぇキミ、僕と契約して魔法パティシエになってよ」
 驚愕のあまりに尻餅をついたまどか。それからは10分ほど、逃げ惑うまどかを説得しようと追い掛けるQBにと、家庭科室は大混乱になった。
「それで……私が作ったデザートで悪魔祓いが出来るのね」
 ようやく落ち着いたまどかは、冷静にQBを見つめる。乱れた毛並みを整えながらQBは話を進めた。
「そうさ。僕が追っている悪魔は思春期の多感な時期の女の子に取り憑くんだ。そして不安定な心を乗っ取り、夢や希望といった養分を吸い尽くすのさ」
「でも、なんでデザートが利くの?」
「悪魔は甘い物が嫌いだからね。それに美味しいデザートであればあるほど、女の子の心を刺激して悪魔から救いやすくなるのさ」
 ふむ、と腕を組むまどかだったが、その表情にはまだ躊躇いがある。QBはまどかに歩み寄ると、とっておきの情報を教えるように声を潜めた。
「魔法パティシエになればね、いくらでも材料を使ってもよくなるよ」
「え。本当に?」
「うん。君の思うがままにどんな材料でも手元に現れるよ。さらにはキッチングッズだって何でもOK。水道橋の老舗屋さん並みに各種取り揃えているよ。調理器具 だって同様さ。コンロにオーブン、フライヤーにサラマンダー。高級ホテルの厨房で使用しているものだって用意できるよ」
「ス、スチームコンベクションは?」
「お安いご用さ。さらには精霊を召喚すれば、魔法で君のお手伝いをしてくれるよ。あぁ、洗い物や後片付けは全部ボクがやるから、君は気にせず調理に専念してくれ。ジャンジャン汚してくれて構わないよ」
「やります。いえ、やらして下さい」
 QBに土下座して懇願するまどか。
(うわぁ、土下座までしちゃったよ。そこまで魅力的なんだ、魔法パティシエが)
 本来ならお願いする立場のQBから引かれつつも、こうしてまどかは魔法パティシエになったのである。


 まどかが魔法パティシエになってから3ヶ月が過ぎた。
 その日もまどかは一人で放課後の部活動に勤しんでいた。
 元より料理研究部の部員は二人しかいない。もう一人は今日も学校を休んだ。
 まどかは溜め息を吐きながら調理をする。窓から差す夕陽が、孤独に包まれた家庭科室を朱く染めた。
 その窓がスゥと開き、一匹の白猫が入ってきた。
「まどか、新しい悪魔を見つけたよ」
 相棒の言葉にまどかは目の色を変える。そしてエプロンを外すと、短く呪文を唱えた。
 制服姿から瞬時にコックコートに衣装チェンジする。フリフリピンクがあしらわれたコックコートこそ、魔法パティシエまどかの戦闘服である。
 QBが窓からジャンプするのに続いて、まどかも軽やかに窓のサンに足を掛けると跳躍した。
 風の精霊の力を使って家々の屋根を駆けていく二人。
「今度の悪魔はちょっと手強いよ。なんせ呪縛タイプだからね」
「呪縛タイプ?」
「そうさ。まぁ、見てもらった方が早いね」
 QBを先導にして目的地へと向かう。そして目指す場所に着いた時、まどかは息を飲んだ。
「この家の住人だよ」
「ここって、さやかちゃんの……」
 美貴さやか。まどかの大親友でもう一人の料理研究部員、部長のさやかの家だったのである。
 まどかは唇を噛み締める。そして扉を開き、さやかの部屋へ入った。
 カーテンも閉め切った薄暗い部屋に、一つだけ明かりが見える。ノートパソコンの液晶画面だった。
 虚ろな目をしたさやかはパソコンを前にして微動だにしない。
「さやかちゃん! 私だよ、まどかだよ!」
 親友の呼び掛けにもさやかは全く反応しない。魂がこもっていない人形のようだ。
「無理だよ。これが呪縛タイプの悪魔の特徴さ。ごらん、このパソコンを」
 QBが顎でしゃくったパソコンを注意深く観察すると、黒いモヤが覆っていた。そしてそのモヤは、さやかの指や頭にも絡み付いている。
「この呪縛悪魔は元々、パソコンに寄生していたようだね。そしてパソコンに触れた対象者の心の奥底に少しずつ入り込み、黒い根を張り巡らせて養分を吸収するんだ。対象者を悪魔にしてしまう今までの奴らよりタチが悪いよ」
 そしてQBは尻尾をさやかの目の前でヒラヒラと振った。
「この通り、対象者が全然反応してくれないからね。デザートを食べてくれるかどうか」
 スゥと息を吸い込んで深呼吸をする。まどかは両手を開き、風の精霊を召喚した。
「でもきっと、美味しいデザートが目の前にあれば反応するはず」
「そうだね。まどかの強い思いがこの女の子に届けばいい」
「……さやかちゃん、待っていてね。私が絶対に助けてあげるから」
 まどかが両手をスライドさせると、キッチングッズが舞うように現れた。
「Qちゃん! フルスロットルでいくよ! 調理器具を全部出して!」
「うん!」
 まどかに呼応してQBは調理器具をズラリと並べてオーブンを余熱状態に設定する。
「いくよ!」
 キッチングッズに合わせてフルーツや卵、小麦粉や牛乳などの材料が渦を巻く。
 まどかの怒涛の調理が始まった。

 美貴さやかの周りに積まれたデザートの数々。
 ショートケーキ、モンブラン、ガトーショコラ、苺ムース、キャラメルタルト、マカロン、フルーツカクテルジュレ、アップルパイ、フルーツパフェ、バタービスケッツ、チョコクッキー。プリンアラモード、桃のコンポート、ババロア、シュークリーム。
 しかし、そのどれもが闇に巣喰われたさやかの琴線に触れることはなかった。
 がくりと崩れるように膝をつくまどか。
「まどか! 大丈夫かい!」
「……平気よ」
 途切れそうな気力を振り絞って答える。
「平気なものか! 精霊の力を酷使し過ぎて魔力が尽きたんだ! だから言ったはずさ! スポンジとかは作らずに材料で召喚すれば良かったのに!」
 歯を食いしばりながら、まどかは首を横にする。
「ダメ。丁寧に調理しなきゃ、さやかちゃんの心には届かない」
 まどかは思い出していた。最後にさやかと会ったあの時を。
 高校生料理コンテストの決勝トーナメントを。

 まどかとさやかは学校対抗の料理コンテストに参加し、見事決勝トーナメントへ進出した。
 制限時間30分でデザートを一品完成させる。二人は順調に調理していた。
 だがその時、さやかは致命的なミスを犯す。小麦粉とベーキングパウダーを間違って使用したのだ。
 結局、調理は失敗。二人は採点対象外として失格になった。
「それ以来、さやかちゃんは落ち込んで学校にも来なくなっちゃった。私はずっと一人で、さやかちゃんのことを家庭科室で待っていたの」
「なるほどね。そんな気持ちを悪魔に憑け入れられたんだね」
 まどかはムクリと立ち上がる。そして傍らに置かれた電子レンジを持ち上げると、よろよろとさやかへ歩み寄った。
「私、絶対にさやかちゃんを助けたい。どんな方法であろうとも」
「ど、どうしたんだい。何を作る気だ、まどか」
 目を丸くするQBに、まどかは弱々しく微笑んだ。
「違うよ、Qちゃん。作るんじゃなくて、壊すんだよ」
 そう言うとまどかは電子レンジを振り上げた。
「せいやっ!」
 ノートパソコンに電子レンジを叩き落とした。派手な破壊音と共に砕け散るパソコン。
 すると、さやかを覆っていた黒いモヤが霧散していき、さやかの瞳に光が宿った。
「あ、あれ。私は一体……。それに何でこんなにデザートが。うわっ! まどか! いつからそこにいたの?」
 目を白黒させたさやかに抱きつくまどか。
「やった! 正気に戻ったんだね、さやかちゃん! ずっと悪魔に憑かれていたんだよ!」
「そうだったんだ! 助けてくれてありがとう! そして心配かけてごめんね!」
「うぅん! また二人で一緒に部活をしようね!」
 涙を流しながら抱き合う二人。離れ離れになった絆が、今こうして結び直されたのである。

 だが、そんな二人を茫然と眺めながら、これまでの幾多に渡る闘いを全否定された気分のQBは、絶望感に打ちのめされながら呟いたのである。
「こんなの、絶対おかしいよ……」

 おわり


 お題提供・ドラゴンは爆弾要員です、すばるん。Thanks!
22:21  |  三題噺  |  CM(0)  |  EDIT   このページの上へ

2011'11.20 (Sun)

醤油ラーメン・タートルネックセーター・警察

お題「醤油ラーメン・タートルネックセーター・警察」

いつもの席でいつものラーメンを食べていると、誰かが左耳のイヤホンを無遠慮に取った。
だけど私は気にせずにラーメンを啜る。こんなことをする人物はあの人以外にいない。
「飯食いながら音楽聞いだら駄目だんず。行儀悪っぺ」
相変わらず変なイントネーションに思わず頬が弛む。そのひどい訛りの持ち主は、私のイヤホンを自分の耳にはめた。
「どっかで聴いたごどある人だず。誰だっけぇ?」
「アイコ」
「あー、んだんだ。クワガタ歌った人だべ」
「カブトムシだから」
顔を上げるとそこには、少年のような笑顔を見せたシマズーがいた。
私の頬がさらに弛んだ。

東北地方の片田舎。山形県の海沿いに面した町、ここ酒田に来て四ヶ月が経つ。
何もないこの町で、私が初めて出会った心許せる人。それがシマズーだった。

「おっちゃん、俺さもラーメン一杯くれっちゃ」
注文を受けたマスターは威勢のいい声で応える。シマズーは片耳にイヤホンをしたまま私の隣に座った。
「しっかし、お前はいつもいるなっす。女子高生のくせにラーメンが夕飯なんて贅沢だべ」
厚みがあるチャーシューを頬張りながら私は、しれっと答えた。
「女子高生は関係ないじゃん。だってここの醤油ラーメン、美味しいんだもん」
「んだろ、美穂ちゃん。酒田の醤油ラーメンさは、トビウオの出汁が使われていんのよ。アゴ出汁っても言うの」
マスターの奥さんがシマズーに水を出しながら答えた。
シマズーと奥さんの訛りは、微妙にイントネーションが違う。奥さんや酒田の人の訛りは早口で怒るようなイメージだけど、シマズーのは音痴に喋っている感じ。
シマズーは酒田の人ではなく、内陸地方出身らしい。
そんな風に話をしていると、シマズーにもラーメンがきた。彼はそれを実に美味しそうに食べた。
私はわざと食べるペースを落とす。麺を一本一本すくって、モタモタと口に運んだ。
「ごっつぉさん。マスター、今日のも美味かったずー」
「あいよ! もっけだの!」
私も丁寧にご馳走様でしたと手を合わせた。そしてシマズーと同じタイミングでラーメン屋さんを出る。
「よし。そしたら帰るべ」
「うん」
シマズーはいつも、ラーメンを食べ終わると私を家まで送ってくれる。私達は示し合わせることもなく、自然と同じ方向に歩き出した。
これが私の日常。何よりも大切な、日常である。

「うー、寒い」
タートルネックセーターの襟をかきながら、シマズーは白い息を吐いた。
「シマズーで寒いなら、私なんてもっと寒いわよ。私、東北の冬って初めてだし」
「寒いものは寒いんだずー。生まれとか、関係ないべ」
「だったらわざわざ遠回りして、私を送る必要ないでしょ。まっすぐ宿舎へ帰ればいいじゃん」
わざと心ないことを言ってみたけど、シマズーは背筋を正してハキハキと答えた。
「いんや。善良な市民を守るのが、本官の役目だべから」
心がポッと暖かくなる。私はマフラーに口を当てて、ワフッと微笑んだ。
「じゃあ、お願いします。頑張って護送して下さい、島津巡査」
「護送って。お前が犯罪者みたいだずー」
思わず顔を見合わせて笑う。白い息が、タンポポの綿毛のように暗闇へ舞った。

シマズーに初めて会ったのは、今から二ヶ月前のことだった。
私は電車通学で、駅に自転車を置いて学校に行く。その日も放課後にいつも通り、自転車を駐輪場へ置いて帰ろうとしたのだ。
「おい、そごのおめ! ちょっこす待でずな!」
突然のダミ声に呼び止められ、私は驚いて振り返る。肩を怒らせた中年のお巡りさんがズカズカと歩み寄ってきた。
「おめこれ、わーの自転車でねろ! わーんなだば学校がらもらてきたシール貼らったはずだぜや!」
当時、酒田の方言に慣れていなかった私は、お巡りさんの言っていることが聞き取れず、ただただ困惑するばかりだった。
「あ、あの、すみません。もう少しゆっくり喋って……」
「おずまげんな! 知らねふりこいでおちょくったながや! これがわーんなだんば、なんか証拠でも見せでみればいじゃあぜや!」
どうやらお巡りさんは、私の自転車を盗品だと思っているらしい。
転校して一ヶ月は駅から歩いて通学していたけど、学校近くの長い坂に辟易して最近自転車を購入したばかりだった。だからまだ学校から校章の入った登録シールをもらってなかった。
言葉も分からず、お巡りさんの威圧的な態度にオロオロするばかりの私。埒が明かないと思ったのか、お巡りさんは私の腕を掴んだ。
「まんず一回、交番さ来い! いろいろと聞いで学校さも連絡しねばの!」
「い、いや! 放して!」
力づくで連れて行こうとするお巡りさんに抗う私。
何で自分がこんな目にあわなければいけないのだろうか。望んでこんな田舎に来たわけじゃないのに。
悔しくて涙が出そうになった、その時だった。
「あー、松本さん。その子は違いますっぺ」
若い男性の声に頭を上げた。それがシマズーだった。
「なんだや島津。おめ、この子どご知ってるながや?」
「んだっす。その子の自転車は、まだシール貼られてないだけなんだずー。俺が前さ見たから間違いねえずー」
「あ、んだが」
シマズーの言葉にお巡りさんはあっさり承諾し、私の手を放すと交番に戻っていった。
「恐い目に合わせて、ごめんなっす。松本さんは悪い人でないがら、気にしねでくれずー」
若いお巡りさんは朗らかに笑った。あっちのお巡りさんは何を言っているかサッパリ分からなかったけど、シマズーの言葉はすんなりと理解できた。
「あ、はい。でも私、お巡りさんに一度も会ったことないです。それなのになんで、私をかばってくれたんですか?」
もしも私が本当に自転車泥棒だったらどうするのだ。何故、シマズーは分かったのだろうか。
するとシマズーは、自分の目を指差して言ったのだ。
「嘘を付いだ時は目で分がる。お前は嘘付きの目じゃねがったから」
そしてシマズーはもう一度、子供のように笑ったのだ。

その後にラーメン屋でばったり再会し、私達はすっかり仲良しになった。
シマズーというあだ名は、語尾によく「ずー」と訛って付くから。彼は「馬鹿にすんなずー」と言いながらも気に入っているようだ。

「しっかし、今日は本当に寒いずー。来週には雪が降んじゃねえが?」
タートルネックセーターに首をうずめて、シマズーは溜め息を吐いた。
「雪ね。この辺って結構積もるの?」
「いんや。酒田は海から吹きつける地吹雪で飛ばされっから、積もっても五十センチくらいだべ。俺の地元は内陸部だから、二メートルは積もっぞ」
人の背丈以上に積もる雪なんて、まったく想像がつかない。
それよりも、雪が降るという予感に胸がワクワクする。
あと二週間もすればクリスマス。ある誘いを心待ちにしている自分がいる。
電気屋の角を曲がると私の住むマンションが見える。シマズーとはここでお別れだ。
「今日も護送、ありがとう。寒いから風邪引かないようにね」
「だから護送って言うなずー。お前も暖かくして寝れよ」
「今夜、電話してもいい?」
躊躇いがちに訊ねると、一拍置いてからシマズーは首を縦に振った。
「いいずー。あんまり遅い時間は勘弁してな」
胸が弾んだ。
私は浮き立つ足を押さえつつ、シマズーに手を振った。
「うん、わかった。じゃあ後でね」
シマズーも手を振り返してくれた。彼に見送られながら、私はマンションの入り口をくぐった。
エレベーターに乗り、ボタンを押す。ゆっくりと昇っていく間、私は口元を押さえてニヤニヤと笑った。
シマズーといると、心が春の日差しを浴びたようにポカポカする。
シマズーのことを考えると、顔が勝手にニヤけてしまう。
こんな気持ちになったのは初めてだった。世界の色が変わった。
この気持ちを伝えてしまいたい思いと、伝えてしまって今の関係を壊してしまうのが恐い思いが、せめぎ合っている。
エレベーターの扉が開いた。私は家のカギを鞄から取り出す。
クリスマスはシマズーと過ごせたらいいな。雪が降ってくれれば、ホワイトクリスマスになって素敵なのに。
それまでにはシマズーと恋人同士になっていなきゃ。
彼も同じ気持ちでいてくれているのだろうか。
分からないけど、そうだったら嬉しい。
そんなことを考えながら私は家に入り、お風呂を沸かす準備をした。


12月も年の瀬を迎えた。
先日から本格的に雪が降り始めた。シマズーの言うとおり、地吹雪は凄まじい。突風に煽られた雪が地面から降き上げてくるという、不思議な現象を体験させてもらった。
それでも少しずつ街は白く染まっていった。
景観に乏しい田舎町でも、雪に被われれば、それなりに感慨深い風景になるものだった。
その日は終業式で、お昼には学校が終わった。
私は駅の駐輪場に自転車を停め、駅裏にある雑貨屋さんに向かった。
女の子らしく、シマズーに手編みのマフラーでもプレゼントしようと思ったからである。
いつも薄いジャケットとタートルネックセーターのシマズー。いくら雪国出身でも寒いんじゃないか。こないだも大きなくしゃみをしていたし。
クリスマスまであと日にちがないけど、頑張れば何とかなるよね。出来れば長いマフラーを編みたいな。私とシマズーが寄り添って首に巻けるくらいの長さで。
そんな想像でニヤニヤしながら駅裏の道を歩いていると、後ろから誰かに声を掛けられた。
「ちょっと待でっちゃ!」
振り向くとそこには、同じクラスの女子が三人ほどいた。
「えっと、なに?」
明らかに敵意を剥き出しにしている三人に、私は怯える。さほど仲良くしていた子達ではなく、名前も名字くらいしか知らない。
「美穂、あんた。二学期の期末テスト何位だったなや?」
真ん中にいた藤村さんという女子がズイッと詰め寄る。
私はクラスの女子達が苦手だった。まだ若いのにオバサンみたいな方言ばかり使うから。
私は鞄をギュッと握り締めながら答えた。
「……一番だった」
三人が忌々しげに目配せをし合う。やっぱり、といった態度だった。
「あんたそれ、カンニングして取ったんでろ」
開いた口が塞がらなかった。この子達は何を言っているのだろう。
「なんで、そんなこと……」
「とぼけんなや。んでねば、いきなり酒田に来て一番なんか取れるわけねぇろ。藤村ちゃんが二位なんて納得出来ね」
左側にいた佐藤さんという子が口を尖らせて言った。
「んだんだ。絶対カンニングしたに決まんなや。藤村ちゃんなんか、毎日ちゃんと勉強したんよ」
キツネのように目尻が切り上がった藤村さんが口を開く。
「今から学校さ戻って、先生さ言ってくれる? 私、カンニングしました、藤村さんを一番さして下さいって」
頭にカッと来た。
自分の成績が下がったのを他人のせいにして、まったく事実無根な罪を私に着せようというのだ。
「私、カンニングなんてしてないもん! 普通に勉強しただけだもん!」
反論した私に、対する三人も喰ってかかってきた。
「調子こくなや! 何が普通さ勉強しただけや!」
「馬鹿にしったなが? 都会から来たさげって、田舎どご馬鹿にしったなだ!」
「んだんだ! おずまげて標準語なんか喋って!」
藤村さんと佐藤さんが両端から私の腕を掴む。
「え? ちょっと、何をするの?」
抗う私をもと来た道に引きずる二人。
「学校さ行ぐぞ! 先生さカンニングしたって報告する!」
「そんなこと、先生が聞いてくれるわけないじゃない!」
「余所者の言うことより、私達の言うことを信じるに決まんなや! お前なんか、黙って都会さ帰ればいいなや!」
悔しさに目の前が真っ黒になった。
私だって、好きでこんな田舎に来たわけじゃない。
私はこの場所に何も求めていない。このままヒッソリと過ごさせてくれれば、それでいいのだ。
それなのに、ここは私に辛く当たってくる。邪魔者と排除しようとしてくる。
「助けて……」
望んでこんな場所にいるわけじゃない。
「助けて……」
でもそんな中でも、陰っているようにしか見えない町でも、唯一の光に出会った。
「助けて、シマズー……」
彼がいたから、この灰色の町でも色付いて見えたんだ。
「助けて! シマズー!」

「おめえ達! なにやってんだずー!」

突如として聴こえた怒号に、女子達は反射的に逃げ出した。
しゃがみ込んだままの私に、声の主は走り寄る。
「なしたんだずー、美穂。友達とケンカでもしたのけえ?」
顔を見なくても分かる。私がこの町で出会った一番大切な人だ。
「シマズー、シマズー……」
涙が溢れ出す。安堵の涙が頬を濡らした。
「シマズー、シマズー……」
「ここさ居るっぺ。何があったんだず? ほれ、立て」
腕を掴んで立ち上がらせるシマズー。私はそのまま、彼の胸に抱き付いた。
「うわーん! シマズー! シマズー!」
泣きじゃくる私にシマズーはそれ以上訊ねようとせず、ただ頭を撫でてくれた。
彼の大きくて厚い手は、とても温かくて優しさに溢れていた。

「私のパパとママね、離婚したの」
その日の夜、私はシマズーに電話でこれまで話せなかったことを全部打ち明けた。
「結局はママに付いていくことになったんだけど、東京で生活するには大変らしくて、ママの実家の酒田へ引っ越したんだ」
『……んだったのか』
シマズーは余計な口は挟まず、ただ相づちを打ちながら聴いてくれた。その優しさがとても心地良かった。
「なんだか酒田の人って、凄くぶっきらぼうに感じて。最初は全然馴染めなかったんだ。訛りも分からないから、何を言っているかサッパリだったし」
『ハハハ、んだずー』
「シマズーの方言は初めからイヤじゃなかったよ?でもね、シマズーやラーメン屋さんのマスターと知り合って、酒田もそんなに悪くないなって思えるようになった」
『うん。それは良がった』
そう思えるようになったのは、誰でもなくシマズーのおかげだった。彼との出会いは、私を大きく変えた。
『俺もよ、実は美穂と同じだったんだずー』
「え? シマズーが私と?」
『んだ。俺も内陸から来て知り合いが一人もいねえし、警察官は嫌われる仕事だがらな』
「警察官、市民の安全を守っているのに」
『なんかあった時はな。何もねえ時は鬱陶しがられでしまうんだな。つまり俺もお前とおんなじで余所者だったんだずー』
シマズーから余所者と言われても、全然イヤじゃなかった。むしろ彼と同じ境遇であることに、優越感を抱くほどだ。
『だから、俺も美穂さ会えて良かったなって思えることがいっぱいあるんだずー。感謝してっぞ』
胸がトクンと鳴った。
今、シマズーの心に近い場所へいる気がして、私はごく自然に言っていた。
「シマズー、明日ラーメン屋さんに来れる? 大事な話があるの」
告白を前提にした約束。
シマズーはやや間を空けてから『いいずー』と答えた。
『俺も美穂さよ、伝えておきてーことがあっからよ。ちょうど良いべな』
体が火のように熱くなる。もう携帯電話を放り出して、シマズーの元へ飛んでいきたい衝動に駆られた。
口早に待ち合わせの時間を告げて、私は電話を切った。
携帯電話の通話切断中という文字を、放心状態で見つめる。そしてベッドにパタリと横たわり、枕に顔をうずめて唸った。
いよいよ明日だ! 明日、シマズーに自分の気持ちを告げるんだ!
シマズーも私に伝えてたいことがあるって言った! きっと、同じことに決まっている!
もう頭の中が舞い上がってしまって、落ち着こうにも落ち着かない。
机に置いた鏡に自分の顔を映す。十人中、十人が大丈夫か? と心配してしまうような締まりのない顔だった。
「やだ! 私、超ブス! 顔がだらしなさ過ぎ! こんなんじゃシマズーに会えないぞ!」
そしてまた枕に顔をうずめて、変な声を上げて笑った。顔どころか頭までおかしくなってきたみたい。
明日、全てが変わる。
新しい私とシマズーが始まるんだ。
早く明日になって欲しいような、なって欲しくないような。そんなフワフワした気持ちのまま、私は一睡も出来ずに次の日を迎えた。


約束の時間は5時だった。
普段は制服でラーメン屋さんに入るけど、もう冬休みになったので今日は私服だ。
この服だって午前中から吟味に吟味を重ねて選んだのである。慣れないお化粧にもチャレンジして準備は万端だ。
それでも30分早く到着してしまった。
相当浮かれているな、と思いつつ私はラーメン屋さんの向かいにあるコンビニに入った。
道路を一本挟んでいるが、誰が入店したか、よく見える。私はティーンズ雑誌を立ち読みしながら待つことにした。
注文もしないでカウンターで待っているのも気まずいし、先に入っていては、如何にもで格好悪い。
待つといっても僅か数10分。ガラスに映った自分のニヤけ面を叱りつけながら、私は雑誌に目を落とした。

それから二十分が経った頃だった。
私は目標としていた人物を視界の隅に捉えた。間違えるはずもない。シマズーだった。
意気揚々と顔を上げた。しかし、そこにあった光景に私は自分の目を疑った。

いつものタートルネックセーター姿のシマズー。
その隣に、見慣れない女の人。

何かの間違いだと思った。
たまたま横を歩いていただけの人だと。そうであることを願ったが、つぶさに観察をして間違いは自分の方であったことを思い知る。
シマズーの腕に絡んだ手。笑いかける顔と顔の距離。
それらは全て、私が心の底から望んだシマズーの隣だった。
ラーメン屋さんの暖簾をくぐる二人を、私は停止した思考で見送った。
ティーンズ雑誌が床に落ちた音でハッと我に返る。慌てて雑誌を拾おうとしゃがんで気付く。
ジワジワと溢れ出す失望感。
私は立ち上がることが出来ず、コンビニの床を見つめたまま、悲哀を噛みしめていた。

どのくらい、そうしていただろうか。
私は立ち上がり雑誌を棚に戻し、鞄から携帯電話を取り出す。
『シマズー、遅れてごめんね。急で悪いけど、今日はいけなくなっちゃった』
メールの本文を打ち込む。電話だと、きっと泣いてしまう。
『それで大事な話なんだけどね。私、彼氏が出来たの。同じクラスの男子で先週から付き合ってるんだ。シマズーには伝えておいた方がいいと思って。それだけだったの。呼び出してごめんね』
躊躇いなく送信ボタンを押す。
しばらくするとシマズーから返信がきた。
『いつの間に! 若い子は違うな、やっぱり。実は俺、来月から地元に転勤なるんだ。それで今まで言ってなかったけど、前から付き合っていた女性と向こうで結婚するつもり。その報告だったんだけど。美穂にも彼氏が出来たなら安心して地元に帰れるよ』
私はひどく冷めた気持ちでその文章を読み下した。
ふと顔を上げる。ガラスに映った自分の顔が、今まで見たことがないほどに無表情だった。
そのガラスの向こう側でラーメン屋さんのドアが開く。一組のカップルが店を後にした。
その二人が見えなくなるまで遠くへ行ったのを確認してから、私はコンビニを出た。

「へい、らっしゃい! あれ、美穂ちゃんでねが?」
マスターが素っ頓狂な声を出す。
「今の今まで島津がいたんだんども。そこら辺で会わねけが」
「うぅん。醤油ラーメン一つ下さい」
私は愛想笑いを浮かべて注文をする。マスターは威勢よく返事をすると調理を始めた。
「美穂ちゃん、今日はえらく可愛いでねが。何かあったながい?」
長ネギを刻みながら笑顔を向けるマスターに、私は無言で首を横に振る。
「美穂ちゃんは段々と可愛くなるってのに、島津だば格好つける気がねえからの。いっつもタートルネックばかり着ていで。まあ、あいつの場合だば、首を隠さねばならねえ事あっからの」
そう言ってマスターはいやらしい笑いと共に、ラーメンをカウンターに置いた。
「キスマークがしょっちゅう付いてんだ、島津の首さ。あいよ! 醤油ラーメンお待ち!」
「あんた! また馬鹿言って!」
軽口が過ぎたのか、奥さんにたしなめられる。私はイヤホンを耳にはめ、音楽プレーヤーを起動した。
流れてきた曲のイントロを聴いてグッと胸が詰まる。ランダム設定にしていたから、まさかこの曲が来ると思わなかった。
アイコのベストアルバムに入っていた昔の曲。『二時頃』だ。

『新しい 気持ちを見つけた
あなたには 嘘をつけない
恋をすると 声を聞くだけで 幸せなのね』


曲のフレーズと共に思い出がフワッと甦る。
駅前の交番。角の電気屋さん。並んで食べたラーメン。

『真夜中に 始まる電話 足の指 少し冷たい
なにも知らず 嬉しくてただ鼻を啜ってた』


いつも私に付き合ってくれて嬉しかった。
いつも私を守ってくれて嬉しかった。
いつも私の特別だった、大好きだったシマズー。

『右から 秒針の音。左には 低い声
私の この心臓は 鳴り止まぬ
いい加減に うるさいな』


初めてのときめきをくれた、大切な人。

『言ってくれなかったのは 私のこと少しだけでも
好きだって 愛しいなって 思ってくれたから?』


ラーメンに雫がパタパタと落ちる。私はしゃくり上げながら、必死にラーメンを食べた。

『小さくもろい優しさが 耳を通り包み込む
それだけで体全部が いっぱいだったのに』


初めて食べた時、すごく美味しいと感じたラーメン。
あれはきっと、シマズーと一緒に食べたから。
今はこんなにも苦い。苦いけど、飲み干さないといけない。

『嘘を吐いてしまったのは 精一杯の抵抗
あなたを忘れる準備を しなくちゃいけないから』


そうしないと、私は前に進めないと思ったから。


グシャグシャの顔でラーメンを食べ終わり、店を出る。
入った時に吹いていた風はすっかり止んで、代わりに粉雪が舞っていた。
夜空に白い息を吐く。すると奥さんが傘を差し出してくれた。
「美穂ちゃん、雪降ってきたから。傘差していげの」
ニコリと微笑んだが、心配そうな顔は隠せていない。きっと奥さんは全部知っているのだ。
「うぅん、ありがとう。このまま帰るよ」
「えぇ、したって……」
「雪の日に傘を差すなんて無粋だって、シマズーが言っていたから」
そう言って笑ってみせると、奥さんは涙ぐんで深く頷いた。

奥さんに手を振って帰路に就く。
町は真っ白に染まり、夜にも関わらず明るかった。
聴こえてくるのは雪を踏みしめる靴の音だけ。それ以外の音は凍ってしまったかのように静まり返っていた。
行き交う人も車も通らない。この世に一人取り残されたような静寂が続いている。
それでも決して雪は冷たくはなく、温かかった。
シマズーが前に言っていた。雪は温かい、と。その意味がようやく分かった気がする。
きっとそれは、雪が心の中にある温かい気持ちを思い出させてくれるから。
「一つだけ思ったのは……私のこと少しだけでも……好きだって、愛しいなって、思ってくれたから……?」
二時頃の歌詞が、舞い落ちる粉雪にかき消されていく。
私は続きの歌詞を歌いながら、真っ白な道を歩いた。

おわり


お題提供・カレーは飲み物です、コッコちゃん。Thanks!


本人が歌ってませんが、凄く良い曲です。→aiko「二時頃」
21:59  |  三題噺  |  CM(0)  |  EDIT   このページの上へ

2011'11.10 (Thu)

「テレビ・迷路・味噌汁」

お題「テレビ・迷路・味噌汁」

テレビを眺めながら、ぼんやりと朝飯を食っていた。
昨晩は遅くまでゲームをしていたので、気だるくて仕方がない。俺は食欲も湧かず、白米をつついていた。
「昨日も勉強せんと、遅くまで遊んでいたんだろ。早くご飯食べて学校に行きな」
小言と一緒に味噌汁を俺の前に置く母ちゃん。俺は返事をせずに味噌汁を啜りながらテレビを見た。
『さぁ!二人は無事に迷路をくぐり抜け、食材を集めることが出来るでしょうか!』
朝も早くからバラエティー番組である。またしょうもない内容だと思いながら、俺は飯を食った。
アイドルの里中アキとチャラ芸人の速水もこなりが迷路を進み、途中でクイズを答えながら食材を集めるという内容である。
『集めた食材はイケメン料理人の山越シェフに調理して頂きます!山越シェフ、今日も得意のイタリアンで仕上げますか?』
『う~ん、トルコ風で』
『はい、ありがとうございました!山越シェフのドヤ顔も決まったところで、早速スタート!』
トルコ風ってどんなだよ。てか毎週観てるが、一度もイタリアン作ったことないじゃねぇか。
番組の低レベルさに鼻白みながら、俺は漬け物をおかずに白米を掻き込んだ。
『ゲット出来る食材はワカメです!里中さんに問題!五月は何日間?』
『えっと、31日間!』
『正解です!』
『ゲット出来る食材はゴボウです!速水さんに問題!アメリカの首都は?』
『ハワイに決まってるっしょ!』
『不正解です!』
次々と問題にチャレンジしていく二人。里中アキは清純派アイドルの見た目に違わず、スラスラと問題を解いていく。
もこなりは……まぁ、見た目に違わずだな。
『ゲット出来る食材はジャガイモです!里中さんに問題!辞書を英語で言うと?』
『ディクショナリー!』
『正解です!』
『ゲット出来る食材は長ネギです!速水さんに問題!牛を英語で言うと?』
『超ビーフっす!』
『不正解です!ビーフは牛肉です!牛はカウです!』
『げっ!ひっかけっすか!超ありえねぇっす!てか、カウって何すか?』
俺は心の中でアキちゃんを応援しながら、もこなりの馬鹿さ加減に呆れる。アキちゃんの足を引っ張るな、チャラ男。
画面は司会と山越シェフに切り替わる。
『さて、現在の食材はワカメとジャガイモです。季節に合わせて秋の食材も欲しいところですね、山越シェフ』
『トルコはあまり四季がないんで関係ないですね』
『ごもっともです。山越シェフのドヤ顔も冴え渡ってきたところで、迷路で活躍する二人はどんな状況でしょうか』
ちょっとイラついた司会の表情がおかしかったが、俺はふと不思議に感じて箸を止めた。
そして味噌汁の中をマジマジ見つめる。
黄土色の汁に浮かぶ具材が、偶然にもワカメとジャガイモだったのだ。
首を傾げながらも味噌汁を啜りジャガイモを頬ばる。まあ、味噌汁ではスタンダードな具材だから気にするほどでもないか。
『ゲット出来る食材は蒸しエビです!里中さんに問題!唐辛子の辛み成分を何という?』
『たしか、カプサイシン!』
『正解です!』
『ゲット出来る食材は鶏もも肉です!速水さんに問題!数の子は何の魚の卵?』
『カズっす!』
『不正解です!カズなんて魚はいません!』
味噌汁を突っつきながら俺は声を上げて笑った。
「カズってなんだよ。こいつ、本気でバカだ。なぁ母ちゃん、今の聞いた?」
「うるさいねぇ。早く飯食って学校に行きな」
「はいはい。……ん?」
口に運びかけた箸を止める。思わず二度見してしまった。
「なぁ、母ちゃん」
「なんだい。早く飯食って学校に行きな」
「味噌汁の中に蒸しエビを入れた?」
それは味噌汁の中に入っているにはいささか異色を放っていた。赤い蒸しエビが、味噌汁の奥に隠れていたのである。
「知らないよ。早く飯食って学校に行きな」
蒸しエビは身がプリプリしていて美味しかった。そしてテレビをマジマジと見つめる。
なんでさっきから、正解した食材が味噌汁の具材と被っているんだ?
俺はテレビから目が離せなくなった。
『ゲット出来る食材は牡蠣です!里中さんに問題!ローマの休日の主演女優の名前は?』
『オードリー・ヘップバーンさん!私、大ファンなんです!』
『もちろん正解です!』
『ゲット出来る食材はサザエです!速水さんに問題!ロッキーの主演男優は?』
『俺、マジ大ファンっす!シルベスタスタスタローンっしょ!』
『不正解です!スタが一個多い!』
恐る恐る味噌汁の中をすくってみる。そして箸が捉えた具材に、体が震えた。
牡蠣だった。
食べてみると果てしなく美味い。さすがは海のミルクと誉れ高い牡蠣。濃厚なエキスが口いっぱいに広がっていく。
「夏に日本海沿岸で穫れる岩ガキもたまらない味わい深さがあるんだよな……って、違う違う!一体どういうことだよ!この味噌汁、テレビと四次元ポケットで繋がってんのかよ!母ちゃん!なぁ、母ちゃん!」
流し台に向かって洗い物をしていた母ちゃんにしがみつく。
「母ちゃん、こりゃどういうことだ!ドッキリか?素人参加型のドッキリ企画か?」
不機嫌そうに振り返った母ちゃんは、前ぶりもなくビンタをかました。
「早く飯食って学校に行きな」
洗い物の途中だったので、ビチャビチャの手でされたビンタは、濡れたやら痛いやらで実に複雑だった。
俺は袖で頬を拭き、食卓のイスに座った。
母ちゃんは駄目だ。さっきから同じことしか言わない。お前はドラクエの村人Aか。
底の見えない黄土色の液体がとてつもなく不気味だった。この何の変哲もない味噌汁椀が、異次元に続く扉に思えてきた。
とにかく、今はテレビを見るしかない。
『ゲット出来る食材は松茸です!里中さんに問題!徳川初代将軍、家康の幼少期の名前は?』
『竹千代!』
『正解です!よく分かりましたね』
『私、実は歴女なんです』
『なるほど!さて続きまして、ゲット出来る食材は舞茸です!速水さんに問題です!本能寺の変で下剋上された武将は?』
『織田裕二っす!サムバリトゥナイトっす!』
『不正解です!レインボーブリッジは封鎖されません!』
急いで味噌汁の中を探す。
あった!松茸キター!ありがとう、アキちゃん!
早速食べてみる。松茸特有の芳香に脳みそが溶けそうだ。
『山越シェフ、ようやく秋の食材がきましたね』
『ぶっちゃけ舞茸のが良かったかな。松茸の香りってトルコ料理と相性悪いんですよね』
『なるほど。ありがとうございます、当番組の食材監修も務めた山越シェフ』
ピリピリしたムードの司会から、画面は回答者の二人に切り替わる。
迷路をあっちこっち進んでいくアキちゃんに馬鹿なもこなり。やはり、間違いなくこの番組で正解した食材が味噌汁の中に現れるようだ。朝から味噌汁に松茸が入っているほど、我が家のエンゲル係数は狂乱していない。
『ゲット出来る食材はタラバガニです!里中さんに問題!太陽が空を巡る軌道を黄道といいますが、月の軌道をなんという?』
これは難しいがタラバガニは魅力的だ。アキちゃん、是非とも頑張ってほしい。
『月、ですか。えっと分かりません』
『残念!正解は白道でした!』
ガッカリと肩を落とすアキちゃん。ああ、今すぐ慰めて抱きしめてあげたい。
『ゲット出来る食材は大トロです!速水さん、問題です!アンドロメダ座を構成する星の中で一番明るい星をなんという?』
まさかもこなりに分かるはずもない。それに万が一当たったとしても大トロはいいや。
『アルフェラッツっす』
『不正……え?正解です!』
マジでかー!
『俺、天体マニアっす』
変なとこで博識になるな!バカはバカのままでいろ!
味噌汁を覗き込んでガッカリする。ピンク色の切り身が、脂と共にプカッと浮いてきた。
大トロを口に含んで、さらに後悔する。味噌汁で微妙に温まった切り身が生臭さと食感の悪さを引き立てる。さらには味噌汁の表面に浮いた脂が汁全体を侵した。
『俺、トロって魚が大好きなんすよ。何気にマグロに似てますよね』
『似ているというかマグロです。トロという魚はいません』
もう、この摩訶不思議な朝食に付き合っているのも疲れてきた。美味しいのは美味しかったが、胃の中が気持ち悪くなってきた。
俺は味噌汁をジッと見つめる。そして意を決して飲み干した。
味噌汁が原因なら無くしてしまえばいい。訳の分からない食材を食べるのにも、おさらばだ。
空になったお椀を食卓に置いて一息つく。さて、あとは歯を磨いて学校に行くとするか。
しかし、そのお椀を母ちゃんが回収する。そしてまた味噌汁をなみなみと注ぐと、静かに俺の前に置いた。
驚愕に顔を上げる。母ちゃんはグッと親指を立てると、ダンディーな笑顔を見せた。
「早く飯食って学校に行きな」
こんのブスぅぁぁあああぁぁ!
また足したら学校に行けねえじゃないか!ふざけんな!
なんで母ちゃんという生き物は常に矛盾を帯びているのだろうか。怒りよりも悲しくなってきたぞ。
俺の嘆きなどつゆ知らず、番組は進行していく。
『ゲット出来る食材はトンカツです!里中さん、問題です!え、トンカツ?なんで?』
『トンカツ、ですか?』
それ、食材じゃなくね?読み上げていたアナウンサーも素になっていたぞ。
『あ、あの山越シェフ。トンカツは食材には入らないのでは?』
思わず画面の端から司会者が口を挟む。
『は?食材でしょ。カツ丼作るにはトンカツが必要でしょうが』
『まぁ、そういう理屈ならば……』
『だってトルコ風カツ丼作るのに必要でしょ』
は……?
『こちら、しばらく中継を繋げなくするので、里中さんに速水さん頑張って下さい』
そういう言うと司会者は上着を脱いだ。そこで画面が途切れてしまった。
『え、えーと。それでは気を取り直して問題いきましょうか、問題。1+1は?……なんじゃこりゃ』
山越め、確実にトルコ風カツ丼を作るつもりでいやがる。ここまでヤラセだと逆に清々しいぞ。
『……2です』
『はい、正解です』
テンションがガタ落ちながらも、きちんと笑顔で答えるアキちゃん。君はアイドルの鏡だよ。一生応援するよ。
そして目の前の味噌汁にプカーと浮かぶトンカツ。もう、絶対に食わん。
『次の食材は卵です。速水さんに問題。3×7は?』
今までの過程はなんだったのかと言いたくなるような問題だ。最早視聴者の大半はチャンネルを変えただろう展開なのに、もこなりは腕を組んで唸っている。
『やべっ。俺、三の段が苦手なんすよね。さんしち、さんしち……にじゅうしち!27っす!』
『よっしゃ!不正解です!』
山越ざまぁ!貴様のドヤ顔は一人のバカによって遮られたのだ!単なるトンカツに決定!松茸風味のトンカツでも作りやがれ!
そこでチャイムがなった。どうやら今ので最終問題だったらしい。
『パーソナルチョイスの時間になりました!最後の問題は二人同時にフリップへ書いてもらいます!そして正解した方の食材を山越シェフに調理して貰いましょう!』
画面が司会者席に切り替わる。乱れたセットの真ん中にポツンと座る山越。
右目に大きな青あざを付けてドヤ顔で言った。
「山越イリュージョンでなんとかします」
いや、なんとかならんだろ。
アキちゃんが勝てばなんら問題はない。ただし万が一、もこなりが勝ってしまったら、食材は大トロだけだ。
刺身以外にどうにも出来んだろ。
『それでは最後の問題です!有名な赤レンガ倉庫のある地区は何県でしょうか?さあ、一斉にお書きください!』
さらさらとフリップに答えを書く二人。ここはもこなり、ちゃんと空気を読めよ。
『出来たようですね!それでは同時にオープン!』
アキちゃんの答えにカメラが寄る。答えは当然ながら『神奈川県』。
そして次にもこなりの答えが映った。
その瞬間、視聴者も番組スタッフも山越シェフも、みんなの心が一つになったはずだ。
『速水さんの答えは「横浜軒」!色々と違います!よって勝者は里中アキさん!』
ファンファーレが鳴り響き、紙吹雪がアキちゃんに舞う。そして対照的にもこなりは足元の床がパカッと開くと、そのまま落ちていった。
ああ、これで良かったのだ。様々なことがあったが、これでやっと味噌汁から解放される。
そう安堵の溜め息を吐いた瞬間だった。
味噌汁が爆発したように吹き上がる。驚いて椅子から転げ落ちたが、味噌汁から出てきたそれを見て、ますます腰が抜けそうになった。
速水もこなりだった。
味噌汁で顔を濡らし、頭にトンカツを乗せたもこなり。キョロキョロとうちの台所を見渡すと、不思議そうに首を傾げた。
俺はガクガク震えて母ちゃんにしがみついた。
「か、母ちゃん!もこなりだ!もこなりが出てきた!」
しかし母ちゃんはまたもやノーモーションでビチャパンビンタをかます。
「早く飯食って学校に行きな!」
そして何故か、もこなりにもビチャパンをお見舞いする。
「あんたも早く学校に行きな!」
頬に赤い紅葉を咲かせたもこなり。釈然としない顔をしながらも、俺に手を差し出してきた。
「やあキミ、僕のファン?サインあげようか」
「絶対いらね」

おわり

お題提供・キノコを愛でる麗人、てとらん。Thanks!


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