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2010'09.06 (Mon)

私の星乞譚。 第十五章

「星座を形成する恒星は九つ。二重星はまだ確認されてないけれど、もう少し精巧な望遠鏡で観測しないと断定できないわ。誕生した日にちは三月十二日の七時四十八分。全体の大きさは九四七平方度。正中時刻は四月十五日に十一時」
用紙も読まずに淡々と語る朔張校長を前に、私と鎌田君はただぼんやりと聞いていた。
「さらに星座の中に二等星級以上を三つも有しているなんて。これは間違いなく春を代表する星座と呼ぶに相応しいわ。星主達の思いが余程強固だった証拠ね」
そして朔張校長は口元を下弦の月のようにニンマリと歪める。私達は恥ずかしくて、お互いに照れ笑いを向けた。

鎌田君と星結いをしてから三日後、私達は朔張校長に呼び出された。
と言っても、やはり星結いをしたカップルのプライバシーを保護するためか、かなり回りくどい呼び出し方法だったけど。
まず、私は三時限目にあった星乞譚の授業後に、明天先生から授業で使った教材を備品庫へ返してくるよう頼まれた。そして備品庫の指定された棚に教材を戻そうとすると、私宛ての封筒を発見。そこへ放課後に校長室へ来るよう指示があった。
普通に口頭で伝えてもいいと思うんだけど……。
校長室へ行くと、私より先に鎌田君が来ていた。しかも何故かサラリーマン風の変装までさせられている。どういった経緯で変装したのか気になったけど、逆に怪しまれはしないか。
私達に気を遣ってくれるのは嬉しいけど、何だか先生方、楽しんでいるんじゃない?
そして朔張校長は私達が名付けた星の名前と、星結いをした状況を詳しく事情聴取した。思い出すだけでも顔から発火ものなのに、かなり詳しく聞き出されて、恥ずかしいったらなかった。しかも星座に与える影響とか何とかいって、キスをしていた時間まで聴かれるなんて……。
校長先生、ニヤニヤし過ぎ。絶対わざとだ。

「さて、この誇り高き星座の主である二人に尋ねます。星座名は、如何しましょうか?」
私は鎌田君に視線を移す。彼も同じように私を見た。話し合うまでもない。星座の名前はとっくに決まっている。
「獅子座……が良いと思います」
二人を代表して鎌田君が答える。それに対して朔張校長は微笑みを浮かべると、ゆっくり頷いた。
「良い名前だわ。星座の形もまさに凛々しく堂々と鎮座した獅子そのもの。春の夜空に誕生した百獣の王はきっと後世まで末永く、玉座に君臨し続けることでしょう」
校長先生につられて私達も頬を緩める。忠義の淑女にそこまで言われると、何だか本当に誇らしく思えてくる。
「そしてもう一点、この星座に素晴らしい発見があったの。お二人はロイヤル・スターをご存知?」
校長先生の質問に、私達は揃って首を横に振る。天文には詳しいつもりだけど、その単語は初めて耳にする。
「知らなくて当然でしょうね。ロイヤル・スターとは、私が夜空を巡る導線上に誕生した一等星を指すの。現存するロイヤル・スターは秋の一つ星であるフォーマルハウト、ただ一人。でもこの度、新たな王が誕生したわ」
「もしかして……コルちゃん、ですか?」
「御明察ですの。獅子座アルファである、コル・レオニスの名を冠した星がロイヤル・スターであることが判明しました。南の王に次ぐ、北を統べる王の席にコル・レオニスが着座するにあたって、私から北の王に二つ名をプレゼントして差し上げたいの。受け取って下さる?」
 柔らかく、それでいて威厳を損なわない態度で居住まいを正す校長先生に、私も無言で頷く。そして校長先生から賜るであろう二つ名を受け入れる心構えをした。

「レグルス。小さな王、という語義ですわ」

レグルス……、いつも私を励ましてくれた、気高いあの子に相応しい二つ名だ。朔張校長の口から発せられた言葉が、私の胸にスッと落ちる。

「はい。コルちゃんにぴったりな名前です。小さいってあたりが控え目な感じで」
「そう言って頂けると光栄だわ。ちなみに、ロイヤル・スターには恒光石の頃にある特徴を持っているの」
「宙を舞う、ですか?」
「そう。浮かぶ恒光石なんて今までフォーマルハウト以外、耳にしたことがなかったわ。だからこれまで特例だと思っていたけど、レグルスのおかげで一つの指標が証明出来たんですの。これもひとえに、夏日ちゃんの功績もあるかしら?」
それを聞いて思い出した。あの放課後に夏日先生とお話したことを。先生はコルちゃんを見て、ロイヤル・スターの恒光石だと感づいたのだ。
今にして思えば、夏日先生は私がやまねこ座を勘違いしたことも見抜いていた。だから最初のうち、あんなにも話が噛み合わなかったのだろう。
「夏日先生とお話した時、最後に『頑張ってみろ』って励まされたんです。あの後押しがなかったら、私はきっと鎌田君へ星結いをしなかったと思います」
夏日先生には本当に何度お礼を尽くしても足りないくらい感謝している。でもそれは、先生が星結いへ介入したことにならないかと、少し不安に思った。
「夏日ちゃんは惑星の中でも特段、情に厚い方ですから。しかし、随分とあからさまに背中を押してくれましたわね」
「わ、私は何とも思っていませんよ! むしろ助かったくらいですし! だから、その……夏日先生を責めたりとか、しないでもらえればと」
途端に両目を満月みたいにまん丸とする朔張校長。そして次には口元に三日月を浮かべた。
「まさか、責めるなんてするはずもありませんわ。確かに我々は人々の星結いへ深く干渉することを禁じておりますが、それはあくまで自戒であって罰するほどでもありません」
「でも引力の鎖で互いを縛り付けているって」
「それは単なる比喩表現ですわ。まさか本気にされてしまうとは思いも寄りませんでした」
少女のように明け透けと笑う朔張校長。隣の鎌田君は何の話か着いてこれず、手持ち無沙汰に微笑んでいる。
ひとしきり笑ってから、朔張校長は窓の外に目を向ける。
もう下校時刻は過ぎているだろうか。西日というには弱々しい明かりが黄昏時を告げていた。
「さて、今日は楽しいお話を伺えて至極幸福です。私からは以上ですが、お二人から何かございましたらお答え致しますわよ」
話というほどでもないけど、一つだけ気になることがある。
「あの、やまねこ座ってやっぱり、うちの学校の生徒が星結いで誕生させたんですか?」
鎌田君と星結いできた今では関係ない話だけど、あまりにもタイミングが良すぎたから心の隅に引っかかっていた。
すると朔張校長は少し思案した後に、のんびりと答える。
「本来でしたら星座を誕生させた人物については完全秘匿が厳守なのですが、星主同士ということで特別に。やまねこ座を誕生させたのは当校の生徒ではありません。沖縄に通う中学生のカップルでした。それ以上は教えることが憚られますが、ご満足かしら?」
肩をすくめる校長先生に対し、私は深くお辞儀をする。私のちっぽけな杞憂に向き合ってもらい、恐縮だ。
私と鎌田君はもう一度、朔張校長に深々と頭を下げて校長室を後にする。そして去り際、忠義の淑女は優しく微笑んで言った。
「敬虔なる星の導きが巡りますよう。そして、永久の輝きがあなた達の行く末を照らし続けますように」
私は感激で胸がいっぱいになりながら、大きく頷く。
「はい。これからも迷い悩む時には、星空を眺めて校長や彷徨の民、そして数多の星々に勇気を頂きます」
「星空……なんて美しい言葉かしら。私もいつかこの静寂の夜空が星で賑わい、誰もが星空と呼べる日が来ることを祈っていますわ」

学校を出る前に、校舎脇にある体育用具室へ寄る。サラリーマン姿に変装した鎌田君が着替えをするためだった。
「どういった経緯でそんな格好にさせられたの?」
見慣れた学生服姿へ戻った鎌田君に、鞄を手渡しながら尋ねる。
「まずはお昼休みに大木先生から呼び出されて、そのままここへ拉致された。そしたら中に衣装と置き手紙があって、放課後になったら校長室に、って。大木先生、わざわざ俺に当身をあてて気絶までさせたんだよ」
「随分と力ずくだったんだね。良かった、私は穏便で。でもさ、先生方も普通に呼び出してくれてもよかったのに」
「先生達よっぽど楽しんでいるよ、あれ」
「やっぱり、そうだよね」
声を上げて笑いながら私達は校門をくぐった。

町はすっかり薄暗くなっていて、すれ違う人の顔も街灯の明かりがなければ見えないほどだ。そんな夜の帳に紛れ、鎌田君は私の手を握り、自分のポケットへ招き入れた。
冷えた頬と心が温もりを帯びて綻ぶ。そっと鎌田君を盗み見ると、顔を真っ赤にさせながらも強がってか、必死に澄ました態度を取り繕っていた。そんな何気ないことが可笑しくてこそばゆい。
きっと、今の私達の間にあるこの時間を、言葉に表せば『幸せ』なんていうんじゃないだろうか。それほどまで鎌田君の傍にある空間が嬉しすぎて、耐えきれない。
「酒留も知っているだろうけど、俺の家、あんなんだからさ。当たり前の生活とか無理だと思っていたし、誰かを好きでいる余裕もないと思っていた」
少し声のトーンを落とす鎌田君。顔を覗き込んだけど、ちょうど暗がりに差し掛かって窺えない。
「だから酒留を好きになっても絶対幸せにはしてやれないって思っていたし、そもそもこんな俺を酒留が好きなはずないって、諦めていたんだ」
「そんなはずない! 私は鎌田君以外の誰かを好きになるなんて、考えられなかった!」
声を上げてフォローする私に、鎌田君は照れ笑いで応えた。
でも、鎌田君の気持ちも痛いくらい分かる。私だってずっと、自分が鎌田君に相応しくないって思っていたし、彼が私を好きだなんて今でも信じられない。可能性なんて一パーセントもなかった。
相手が何を感じ、思い悩んでいるかなんて、誰にも分からない。
「家の事とかお父さんの事とか、そんなの関係なく私はそのままの鎌田君が好きになったの。もしも落ち込んだり苦しい時があったら、ちゃんと教えて。私はあなたを暗闇から救う星になりたいの」
だから私は、きちんと言葉で伝える大切さを教えてもらった。思いを伝える尊さを、星結いを通して学んだ。
ポケットの中で繋いだ手に力がこもる。私もギュッと手を握り返す。そして鎌田君はさっぱりとした笑顔を浮かべ、言った。
「うん、そうする。俺も酒留が辛いときに、輝く星になって傍にいるよ」
私は鎌田君に体を寄せた。彼のたくましい腕から伝わる気持ちを、一身に受け止める。
「じゃあ私は鎌田君のレグルスだね」
「俺は酒留のデネボラか。そっちより星光は弱いけど、頑張るよ」
「等級の問題じゃないよ。鎌田君はいつまでも私のロイヤル・スターなんだから」
自分で言っておいて、あまりの馬鹿馬鹿しさに思わず吹き出す。つられて笑いを堪えていた鎌田君も吹き出した。
他の人に聞かれたら、さぞかし滑稽な会話だろうし、後から冷静になれば恥ずかしさに身を悶えてしまいそうだ。
でも、いいんだ。こんな他愛ない一時も、言葉に表せば『幸せ』なのだろう。

更新日 9月9日

楽しい時間ほど瞬く間に過ぎていく。普段は長いと感じる通学路も、鎌田君と二人なら短く感じた。気付けば私達が住む地区に足を踏み入れていたけど、空には既に星々が煌めいている。だいぶ遅い時刻になってしまったようだ。
「今度、酒留の親父さんに改めて挨拶にいかなきゃ。親父さん、優しい人だけど恐くて」
キリッと表情を引き締めるけど、どこか及び腰な鎌田君。挨拶だなんてかしこまることはないけど、私は一応励ましておく。
「大丈夫だよ。お父さん、口は悪いけど鎌田君のことは嫌いじゃないはずだから」
お父さんの話で、私は不意にあることを思い出した。
「お父さん、私が鎌田君に星乞いしていることに気付いていた。わざと鎌田君が来そうな時間に店番をしたがる、とか。そういえば、鎌田君も私が店番してそうな時間に来店するって言っていたけど」
眉唾な話だとその時は取り立てて気にすることはなかったけど、バツが悪そうに頭をポリポリと掻く鎌田君を見ると、どうやら図星だったようだ。
「だって中学、小学生の頃は学校が別々だったし、そうでもしないと接点がなかったから。でもまさか親父さんにバレていたなんて。流石というか、侮れないというか」
「私だって全然気付かなかったよ。自分の事で精一杯だったし」
あの夜の騒動以来、お父さんと厚い壁が出来てしまって、まともに目すら合わせていない。お父さん、いつもムッスリと不機嫌そうにしているけど、私達のことはちゃんと見ているんだな。
帰ったら少しだけ、ほんの少しだけお父さんに優しくしてあげよう。あくまで鎌田君が挨拶に来た時、僅かでも機嫌が良いように。

町中と違って、街灯の間隔はまばらになっていく。何処からか夕飯の香りが漂い、野良犬の遠吠えが聴こえてくる。次の角を曲がれば、私の家まではもうすぐだ。
「そういえば昨日、大山から電話がきたんだ」
前を向いたまま、変わらない足取りで鎌田君は言った。胸がグッと詰まったけど、私は俯いて話を促す。
「夜空の獅子座を見て、大山はピンときたらしい。それで俺、ちゃんと伝えたよ。酒留と星結いをしたことを。酒留、あの晩に大山が星結いをしたのを、見ていたんだってな」
あの夜の記憶がモヤモヤと蘇る。あまり思い出したくないけど、あの時は本当に地面が崩れ落ちたような絶望感を味わった。
「俺も気が動転していたというか、急に様々な事があり過ぎて茫然としていたというか。したかったなんて気持ちは全然なかったけど、ハッと気付いたら目の前に大山の顔があって。でもその後すぐにちゃんと断ったんだけど、油断していたというか」
ともえちゃんに唇を許した事を必死に弁明する鎌田君。まぁ、私だって同じ状況だったら毅然と対応する自信はないと思うし。ヒジテツ君の時も感じたけど、星結いの場面って口では上手く言い表せない不思議な空気に包まれていて、ぼんやりしていると唇を許してしまいそうになるから仕方ない。
ただ、それを言い訳っぽく説明する鎌田君に、私はほっぺを膨らませた。理屈では飲み込めない事もあるから、乙女心は複雑なのだ。
私はわざと不機嫌そうな顔をして鎌田君の言い訳を無視して歩く。そして家の通りに続く丁字路を曲がって、その光景に足を止めた。
うちの玄関替わりでもある店の正面に、一人の女性が立っていた。スラッとスタイル良く伸びた肢体に、サラサラの長い髪。聡明で凛然とした表情を曇らせ、思い詰めたようにジッと足元に視線を落としている。
久方振りでまともに目にした親友の姿に、私は鼻の奥にツンとした痛みを感じた。
「あの星結いの後に大山、すごく泣いていた。酒留を裏切ってしまった、申し訳ないことをしてしまった、って。それこそ小学生の頃、野良犬に追われた時みたいに、大山わんわん泣いていた。
本当は酒留と仲直りをしたかったけど、自分のした事をずっと責めていて悩んでいたんだって。俺がこんな事を言うのも変だけど、大山と仲直りした方が良いんじゃないか? 酒留が許してやれば、きっと喜ぶと思うし。何より酒留と大山が昔から仲良くしているのを見てきたから、二人が一緒じゃないと落ち着かなくて」
懸命に説得する鎌田君。私は彼のポケットに入れた手を取り出すと、繋いだ手を解いた。
「……鎌田君に言われるまでもないよ」
一瞬、グッと息を詰まらせた鎌田君の顔を見上げて、私は続けて言った。
「私だって、ともえちゃんと仲直りしたい。ともえちゃんは、ずっと私の親友だもの!」
零れそうな涙を堪えながら、弾けるように駆け出す。
私達に気付いたともえちゃんが、眉をへの字にしたまま顔を上げた。そんな彼女に私は半ば飛び込むように抱き付く。途端に近所中へ響いた二つの喚声に、何事かとお母さんが酒屋から飛び出してきた。
あぁ、こんなにともえちゃんと二人で大声を上げて泣くのは、小学生になる前に公園で犬に追われた、あの時以来だ。

そんな私達を、東の空からライオンが仔獅子を見守るように、笑いながら見下ろしていた。

おわり
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08:46  |  星乞譚  |  CM(4)  |  EDIT   このページの上へ

2010'09.02 (Thu)

私の星乞譚。 第十四章

季節は春へと向かっているのに、天空のステージは未だに冬の星座で賑わっていた。もっとも冬の星座自体、数を持っているわけではない。目立つ星と言えば、ぎょしゃ座のカペラにペルセウス座のミルファクや変光星のアルゴルくらい。星は小さいけど、うさぎ座やカニ座なども愉しげに夜空を駆け巡っている。
そして先月から仲間入りした、やまねこ座を横目で見ながら……。
春の代表的な星といえば、うしかい座のアルクトゥルス。桜が散る頃になれば、東の空から遠慮がちに登場するだろう。北の空ではポラリスを頂に、親熊の北斗七星や古代エチオピア王が静かに見守っていた。
確か高校に進学する時にも、今夜と同じ星を仰いでいた。あの頃は、まさか一年後にこんな気持ちで夜空を見上げるとは思ってもみなかった。
季節は巡り、天空は約束通りに一周した。
変わったのは私の方。

学校から帰ってきて夕飯を食べた後、私は鎌田君を電話で公園に呼び出した。
昔は何度も心の中でその場面を想定してはきっと指が震えてダイヤルを回せないと身悶えていたのに、ごく自然にあっさりと、受話器を握れた。あまりに呆気なくて自分でも驚いた。それはひとえに私が精神的に成長したからか、はたまた一種の諦めが心にあるからか……。
あれほど彼へ星結いをすることに期待と憧れを抱いていたのに、今では虚しい気持ちしか残っていない。だって星結いをした瞬間、お別れになってしまう。淡い初恋とも……恒光石達とも……愛しい星乞いのあの人とも……。
いつまでも大事にしまっていたって意味がないことは分かっている。これを手放さなければ、次へ進めないことも分かっている。
だから、今日でこの気持ちとはお別れしよう。せめて最後に、鎌田君へ伝えたかったことだけは伝えたい。

ダッフルコートの襟をかき、私は凍えた指先に息を吹きかける。白くぼやけた景色の奥に、誰かが公園へ足を踏み入れたのが見えた。
確認するまでもない。視覚よりも先に、私の心の中にある双眼鏡が敏感に反応した。
鎌田君だ。
「ごめんなさい。こんな夜遅くに呼び出しちゃって」
「ん、別にいいよ」
以前と変わらない微笑みを浮かべたまま、鎌田君は私の前に立った。
「何だか、久しぶりだね」
「あぁ、そうだな」
数ヶ月ぶりでまともに直視した鎌田君の姿は本当に以前と何一つ変わってなくて、私が大好きな愛しい彼のままで、私はふいに涙が零れそうになった。
優しく見つめる眼差し。
大きく男らしい無骨な手。
低く心地良い響きを持つ声。
その全てが、私を魅了して止まない要素で構成されていた。
「鎌田君と初めて出会ったのも、この公園だった。覚えている?」
「うん、覚えている。まだ小学校に入る前の事だったな」
さっきまで何を話そうと考えていたけど、上手く内容がまとまらなかった。でも今は不思議な力に導かれて、バラバラだった言葉が星座のように線を結び、繋がっていく。
「あの頃、近所にいた野良犬に追われて、滑り台の上で泣いていた私を鎌田君が助けてくれた」
「そうそう。必死になって棒きれを振り回したっけ。結局、野良犬を追い払うことは出来たけど、腕を噛まれた」
「それを見て、私はますます泣いたわ」
「一緒にいた大山もわんわん泣いていたな。後にも先にも、大山があんなに泣いたのを見たことはなかった」
昔を懐古しながら、鎌田君の口から出た、ともえちゃんの名前を聞いて、私はズキッと胸が痛んだ。でも仕方ないのだ。今更なんだ。
「あれから小学校に入るまで毎日遊んでいたね。小学生になって男女別々の学校だったけど、放課後になれば一緒だったし、お店でもしょっちゅう話をしていた。私の生活の中で、鎌田君と過ごした時間って思った以上に多いね」
「それは、俺も一緒さ。酒留は昔からの幼なじみだから」
そう言ってもらえるだけで救われる。私達の時間は、私だけ大切なものじゃないって思えるもの。
「でもね、そんな何気ない時間がある日を境に、急に特別な時間に変わったの。それがいつだったか、はっきりとは覚えていないけど、鎌田君と一緒の時間が、私にとってかけがえのないものに変わっていったの」
あぁ、もう少しだ。
そんな時間が終わってしまうのは、もうすぐ……。
「だから、一緒の高校に通えると知って、一緒のクラスになったと知ってからは、飛び跳ねるくらい嬉しかった。うぅん、実際に飛び跳ねちゃった。そして鎌田君が抱える悩みを知った時、少しでも鎌田君の力になりたいって本気で思った」
そう、私は鎌田君の孤独を癒す星になりたかった。彼が迷い悩む時に暗闇を抜ける指標になるような、星になりたかった。

「私はそんな鎌田君がずっと、好きだったの」
そう、あなたのことがずっと、好き……でした。

何も言わず茫然と立ち尽くす鎌田君。
私は手のひらに意識を通わせ、恒光石を招く。右手の中には眩く輝く恒光石が六つ。私はその子達を天高くかざし、名前を呼んだ。

「アルギエバ」
今までありがとう……。

「アダフェラ」
何度も励ましてくれた……。

「ラス・アラエド」
何度も慰めてくれた……。

「ラスサス」
今日でお別れだけど……。

「アルテルフ」
どうか末永く、夜空で瞬いて……。

最後の一つ、宙を漂う恒光石は極限状態に近い輝きを放ち、嬉々と旋回を繰り返す。
あなたには一番励まされたね。小さな事に躓き、挫けそうな私を幾度となく救ってくれた。
だからあなたには、私の一番の願いである特別な名前を贈る。

「コル・レオニス」

獅子の心臓、そんな意味が込められた恒光石。
鎌田君の胸の内に秘めた寂しさや悲しみ、そんなものは私が星に変える。あなたの魂は孤独なライオンのものではなく、あなただけのものだから。
言葉を発した瞬間、その恒光石は旋回を止め、ゆっくりと光を強めるとそのまま徐々に天空へと昇っていく。そして真っ白な輝きを一度だけ放ち、瞬く間に空へ上がっていった。
南西の空に打ち上げられた六つの恒光石は散り散りにではなく、等間隔で固まった星になった。
そして顔を鎌田君の方へ戻す。彼も同じように視線を夜空から私へ向けた。
真っ直ぐ向き合いながら、私は足を踏み出すと距離を詰める。
鎌田君の息遣いが聞こえる程に近付く。彼の真剣で切実な瞳が、手を伸ばせば届く範囲だ。
私は彼の頬に手を伸ばす。鎌田君は抗わず、私の両手を受け入れた。
少しだけ、心がズキッと痛む。
「私はあなたの一番星に、なりたかった……」
私はそのまま彼の顔に自分の顔を導き、瞳を閉じる。
そして唇を重ね合わせた。

……鎌田君、拒まないんだ。

彼の柔らかな唇が触れ合った瞬間、激流のような温もりが全身を駆け巡り、郷愁にも似た切なさが鎌田君と触れ合った部分から染み込んでいった。
そして瞳からは自然に、どんな名前を付ければいいか分からない、止め処ない涙が溢れ出す。その涙に、これまで私と彼の間にあった全てと、今の一言では著せないキレイに整った気持ちを、包み残さず込められていた。

更新日 9月4日

どのくらい唇と唇が触れ合っていただろうか。
きっと僅か数秒だっただろうけど、永遠にも感じられる時間を経て、私は鎌田君から身を離した。その瞬間、また涙が一気に溢れ返す。これは悲哀の涙だ。
ともえちゃんと誓ったはずなのに、鎌田君は私のキスを拒まなかった。それが憐れみなのか、優しさなのか、きっと彼は教えてくれない。だけど私はそんなキス一つで満足してしまった。
親友の契り人の唇を奪って、罪悪感よりも先に歓喜が生まれたのだ。そんな最低な自分が情けなくて惨めで……悲しかった。
コートの袖で目元を拭う。涙でぼやけた視界で、鎌田君を真っ直ぐ見つめた。
あとは、彼から引導を渡してもらうだけ。どんな言葉でも構わない。素直に受け入れよう。これがきっと、私が鎌田君を星乞いの人として聞く、最後の言葉になるのだ。
だけど、鎌田君はさっきから俯いたままだ。時おり、腕を組んでは溜め息を吐いている。
私は段々と悲しさの中に悔しい気持ちがこもってきた。
確かに幼なじみから星結いを受けて、断るのはさぞかし心苦しいだろう。でもそんな優しさが、ますます私を傷付けることになると、どうして鎌田君は気付かないのか。断るならばキッパリと断って欲しい。
私は煮え切らない態度の鎌田君から断りの言葉を引き出そうと声を掛けた、その時。それまで黙っていた鎌田君がパッと顔を上げて呟いた。
「不甲斐ない」
目を丸くする。
断りのセリフにしては少々異端過ぎる。不甲斐ないって、私が? 鎌田君は苦々しい顔のまま言葉を続けた。
「本来なら男の俺が言わなきゃいけないはずなんだ。それなのに自分に言い訳して逃げてばかりだった。ごめん。酒留に恥ずかしい思いをさせてしまった」
鎌田君が何を言っているのか、全く理解出来ない。混乱で頭の中がめちゃくちゃにこんがらがる。
なんで私は謝られている? 鎌田君が言わなきゃいけない事って何?
いつの間にか涙は止まっていた。鎌田君は何かを覚悟したように、首を捻る私へズイッと近寄る。途端に心臓が大きく緊張し、体が強張った。
そして次の瞬間、私は目の前にある信じられない光景に、息が止まりそうになる。
鎌田君の堅く握り締めた右手が、ぼんやりと光を放っていた。そして私の方に差し出した手のひらに、三つの輝く恒光石。
「なんで? 鎌田君、ともえちゃんと星結いをしたんじゃ、なかったの?」
放心して尋ねる私へ、瞳にグッと力を込めて鎌田君は言った。
「大山とは星結いをしていない。俺が星を繋ぎたい相手は、お前だ」
天高く右手をかざし、鎌田君は声を張り上げる。

「デネボラ! ゾスマ! ショルタン!」

ライオンの雄叫びに呼応するように閃光を放った恒光石は、南西の空へ目掛けて飛んでいく。三つの星は先に打ち上げた私の星と交わるように弧を描き、線を引いた。
クエスションマークを逆にしたような形をした私の星達と鎌田君の三つの星を、確かに今、青白い線が繋いだ。それは私がこれまで生きていた中で一番輝いていて、一番大切な思いを含んだ青白い軌跡。
「星が……繋がった」
 夢から覚めたような、それでも覚めた夢がまだ続いているかのような心地よい陶酔感が私の体の中をゆっくりと駆け巡る。
「鎌田君、鎌田君……。星が、私達の星が結んだよ! 星座になったよ!」
「あぁ、見える! 俺にも見えるよ! 酒留と俺で星座を作ったんだ!」
今まさに共鳴した意識を確認して、舞い上がった私達は夜空を指差して歓喜する。そしてあまりに興奮していたのだろう。お互いの手を繋ぎ、指を絡めていた。
ハッと気付いた私は顔を真っ赤にして手を引こうとする。でも鎌田君はその手を掴まえると体ごと引き寄せて、抱き締めた。
鎌田君の鼓動がトクントクンと私の胸に響く。そのリズムが心の奥から温かい喜びを引き出した。私を包む腕に力を込めて、鎌田君は耳元で囁いた。
「俺もずっと前から、酒留のことが好きだったんだ。これからもそばにいて欲しい」
その一言で私はもうどうしようも無くなり、声を上げて泣いた。そんな私を鎌田君はさらにギュッと抱き締める。
私の気持ちに鎌田君が応えてくれて、鎌田君の星も私に向いていると知って。あれほど切実に望んだ結果なのに、私はただただ涙の続く限りに泣いた。感激も許容量を超えると、感情という機能が停止してしまうようだ。
光さえ届かない至福というブラックホールに吸い込まれて、無の世界を漂いかける私を、背中に当てた鎌田君の大きくて優しい掌の熱が、現実に引き戻してくれる。
それがまた新たな至福を生み出し、私の魂は無限に膨張する喜悦のスパイラルの狭間を行ったり来たり繰り返した。
そんな私たちを、夜空のキャンバスでは形を成したばかりの星座が、冬の星座に囲まれていつまでも見守っていた。
06:37  |  星乞譚  |  CM(0)  |  EDIT   このページの上へ

2010'08.26 (Thu)

私の星乞譚。 第十三章

 あれから一ヶ月が経った。
 ともえちゃんと鎌田君が私の目の前で星結いをしてから、もう一ヶ月という月日が流れていた。
 私は今までと変わらない普段と同じ生活を送っている。朝起きて学校に行って、ご飯を食べて眠って。何も感じない。何も考えない。何も望まない。カラッポになった容れ物だけの体を毎日、無感動に引きずっている。
 不思議なものだった。心は何をすることも望んでいないのに、体は規則正しい時間に目覚め、決まった時間に決まった行動をする。教室の席に座れば机から教科書を取り出すし、クラスメートに話し掛けられれば笑顔で応対をしている。空虚になって稼働を止めた魂でも、体だけは無意識に酒留心恵として毎日を送っている。
 そのちぐはぐさ加減に馴染めず、まるで生き霊になってもう一人の自分を眺めているような錯覚に陥る。そんな虚無感が私をさらに考えることから敬遠させた。こんな毎日だったけど、眠りに落ちる数瞬前に決まって思い出すのは、鎌田君と過ごした日々だった。心の中にあったものは何もかもを捨て去ったはずだった。
だけど、整理しきって結局残っていたのは、一番思い出したくなくて、一番大事な思い出。
 顔を真っ赤にしながら、やっとのことでおはようと言った入学式の日。
 宿題をする振りをして、ずっと来るのを番台で待っていた夕暮れ時。
 お釣りを渡すときに触れ合った手の平と指先。
 動物園で見せた寂しげな表情と、初めて彼の心の中にある闇を知った夏の夜。
 一緒に勉強をした土曜日。
 その全てが宝石箱のようにキラキラと輝いていた。でも、そんな淡い記憶を思い返して最後に行き着くのは、あの夜の出来事。
 彼の頬に流れる涙の跡。
 ともえちゃんの手の平から放たれた星の欠片。
 唇を重ね合わせた二人。
 もう何も残っていないはずの体から、止め処ない涙が溢れてくる。心と一緒に涙も涸れてくれればいいのにと嘆きながら、私は嗚咽を漏らさないように顔を枕に押し当てた。
 悲しみは日を増す毎、確実に私の心を蝕んでいく。そのうちに、悲しみで満たされた重い心を引きずって毎日を送らなければならない日がくるのかと思うと、頭はますます思考を放棄した。
 そんなふうに私が泣いていると、決まって恒光石のあの子が緩やかに光を点滅させて、私の涙を拭ってくれた。もう星を紡ぐ運命を失ったというのに、その子は懸命に私を励まそうと宙を漂う。最初は疎ましくすら感じていたけど、その慰めが今の崩れそうな私をつなぎ止めてくれる、唯一の救いになっていた。

 正直に言えば、ともえちゃんのことを憎んではいない。
 あんな光景を見せられた直後は、親友に裏切られた絶望感で胸が切り裂かれたように痛んだけど、思い返してみれば彼女はずっと自分の気持ちを秘めたまま、私を陰ながら応援していてくれていたのだ。
 それがどれだけ辛いことだったか、逆の立場で考えればすぐに分かる。
 自分の好きな人の話を親友から、毎日嬉しそうに聞かされるのはどんな気分だっただろう。そして同じ人を好きになってしまった後ろめたさに苛まれ、何度も諦めるけどやっぱり諦めきれない気持ちは、どれだけ苦しかっただろう。
 ともえちゃんの本心はわからない。けれど長年連れ添った親友ならば、きっとそんなことを考えただろうと私は思った。だからわざと、大木先生を好きだなんて嘘をついたのだと、改めて気付かされた。
 あの日から私達は教室でも通学路でも、声を掛け合わなければ目も合わせていない。お互いがお互いの存在を避けて過ごした。
 そしてもちろん鎌田君とも。
 何故か、ともえちゃんも鎌田君へ近寄ろうとしない。星結いをしたカップルは周りに秘匿した方が良い、と明天先生も言っていたし。それともただ単に二人とも恥ずかしがっているだけなのだろうか。
 どっちにしろ、あれだけ仲が良かった私達はあっという間にバラバラになってしまった。以前まで同じグループだったヒジテツ君は、気を遣ってか私へ何かと話しかけてくれる。鎌田君から話を聞いているのか定かではないけど、気落ちしている私のことは詮索せず、普段通りに冗談を言って楽しませてくれるのが、心地良かった。
 あと数ヶ月経てば、二年生に進級する。その時にどうか、私達をバラバラのクラスへ離してくれないだろうか。そんなことを願わずにはいられなかった。ともえちゃんと鎌田君と同じ空間にいるのが耐えきれず、カラッポなはずの心はシクシクと痛んだ。

 夜空を見上げれば、北東の空に生まれたばかりの、やまねこ座が輝いていた。あの晩に誕生したまだ若い星座は、冷たく澄んだ夜空に凛然と構えている。
 まさに主である、ともえちゃんを彷彿させる。鎌田君は、ともえちゃんは、星の糸でお互いの誓いを繋いだ。
 それで良かったのかもしれない。
 ともえちゃんが両親へ取り入れれば、鎌田君のお父さんが残した借財も多少は緩和されるだろう。将来、婿に入るとなれば尚のこと、鎌田君にとっては好都合だ。
 大山の庇護を得たライオンは、獰猛な爪と牙の替わりに安寧を約束された猫になった。
 やまねこ座にはそんな意味が込められているような気がしてならない。もっともそれは、鎌田君が心の底から望んだ願いでもあったはずだ。彼のライオンとしての厳しい宿命は安寧を約束された日々を得て、本当の意味で終末を迎えたのだ。
 本来ならば、私も手放しで喜ばなければいけないのだろう。それでも素直に喜べない自分がいる。そんなときに、私は何も残されていないはずの心に、たった一つだけ拾い忘れた気持ちがあることを、改めて思い知らされる。
 私はまだ、鎌田君のことが好きなのだ。
 こればかりはどんなに心をカラッポにしても、全てを捨て去っても、恒光石みたいにいつの間にか胸の奥に戻ってくる。それほどまでに彼への気持ちは果てしなく深く、止め処なく熱いものなのだと気付いた。
いずれはスッパリ諦めなくちゃいけない。この気持ちも時間と共に風化していくのだろうと思っていたけど、何故かこの思いは日を増す毎に膨らんでいくばかりだった。カラッポになってしまったからだろう。私の心の中は以前よりも彼のことでいっぱいに満たされている。
 そのこともまた、私を苦しめる要因になっていた。親友と星結いをした相手を未だに好きでいるなんて。望むだけ無駄だとわかっているのに。
 これはきっと、ともえちゃんの気持ちに気付けなかった自分へ科せられた罰なんだ。彼女の秘めた思いを見抜けず、散々鎌田君の話ばかりしていた間抜けな自分も、同じ気分を味わえばいい、と。
 そう思うと気持ちは少し軽くなったが、それでも哀しみは止まない粉雪のように降り積もるばかりだった。

 期末テストが終わり、散々な結果に終わった答案用紙が返ってきて、一週間後には春休みが始まる。
 私は放課後、担任の明天先生に頼まれて、飼育小屋の掃除をしていた。あの動物園の触れ合いコーナーで語らったのをよしみに、かねてより担当が不在だった飼育係に任命されたのである。
 小屋掃除が終わって教室に戻ると最早誰一人いなく、整然と並んだ机や椅子は茜色に包まれていた。私は自分の席に掛けた鞄を持つと、教室内をぐるりと見渡す。
 私の隣の席には、ともえちゃん。後ろを振り返れば、鎌田君。その隣にはヒジテツ君に、少し離れた席には学級委員の山崎君。
 まだ仲良しだった頃の五人グループを思い出すと本当に楽しくて、まるであの時間だけ夢だったような気がする。みんな、誰が誰を好きだなんておくびにも出さず、ただのクラスメートでいることに満足をしていた、あの頃。もう戻れない、あの日。
 私はもう一度辺りを見渡し、誰もいないことを確認すると、鎌田君の席に座る。私の席より一つだけ後ろの席なのに、そこからの景色は違って見えた。
 鎌田君の席の前に、ともえちゃんの席。その隣には私の席。鎌田君はこの一年間、毎日私達の後ろ姿を眺めながら、授業を受けてきたのだろう。
 そういえば最初の頃は、鎌田君にうなじを見られていると意識していた時があった。今となってはそんなことなんて気にしなくなったけど、当時はそんな些細なことが、私にとって全てだったのだ。
 でも、どんなに気にしていたとしても、鎌田君が見つめていたのは私ではなく、ともえちゃんの後ろ姿だったんだ。最初から彼の眼には、私のことなんて映ってなかったんだ。
 そう思った途端、ふいに涙がこぼれた。
 鎌田君の机に落ちた小さな雫。慌てて拭った矢先に、二つ三つとまた雫が滲む。それを制服の袖で何度拭っても、机の上に落ちた涙は消えることなく増していき、しまいには小さな水溜まりになった。
 泣いてはいけないとは思いつつも、涙は止め処なく流れ落ちる。なんでこんなに苦しいのに、私は未だに鎌田君を好きでいるんだろう。これほど些細なことで涙を流していては、次に彼の顔を真っ正面に見てしまったらどうする。平然としていられる自信は、今の私には無い。
 もうお願いだから、鎌田君のことを忘れさせて……。これ以上、辛い毎日を送りたくない……。

 鎌田君の机に突っ伏して泣いていると、どこからか足音が近付いてくるのが聞こえた。私はとっさに顔を上げたけど、零れる涙は止まらない。何とかごまかすため顔をグシャグシャ擦ると、足音は教室内に入り込んできた。
「誰か、いるのか?」
 静かに落ち着いた声が聞こえてきたので、私は伏し目がちに振り返る。そこにいたのは緋色の瞳を持つ火星、夏日先生だった。
「どうした。下校時間だぞ」
 穏やかな声色とは対照的な人の心を射抜くほど鋭い眼孔に睨まれ、私はピクリと身を竦める。夏日先生が見た目とは裏腹に優しい性格だということは知っているけど、あの双眸を前にしてはどうしても体が固まる。

「あ……すみません、今すぐ帰ります」
 鞄を手繰り寄せ急いで立ち去ろうとした私を眺めて、夏日先生は首を傾げた。
「おまえ、名前は酒巻だったか?」
「先生、私は酒留です」
「あぁ、そうだったな。すまない、担任のクラスの生徒じゃないとなかなか名前を覚えきれなくてな。思い出した。確か私は授業で、酒井の恒光石を窓から投げたな。あの時はすまなかった」
「先生、だから私は酒留です」
「あぁ、重ねてすまない。日本人の名字は複雑で覚えにくい。ところで酒留、何故泣いている?」
 夏日先生の言葉に、収まりかけていた涙がまたブワッと、ぶり返す。しゃがみ込んで泣く私をしばらく眺めた夏日先生は、私に歩み寄ると近くの椅子に腰掛けた。
「酒留、もし良かったら何があったか話してみないか」
 夕陽に照らされた夏日先生は真っ赤で夜空に浮かぶ火星と重なったけど、何故か禍々しい不吉な赤星ではなく、全てを包み込む優しい色に感じられた。

 鼻を啜って時々声を詰まらせながら、私はこれまでのことを夏日先生に打ち明けた。私が話している間、夏日先生は相槌を打つわけでもなく、口を挟むわけでもなく、ただ黙って耳を傾け、最後に一言「そうか……」と呟いただけだった。
「先生、一つ聞いてもいいですか?」
「なんだ」
「他の人と星結いを成功させた相手に、星結いを申し込むとどうなりますか?」
 私はギュッと口を結ぶ。夏日先生は腕を組んでジッと考えた後に答えた。
「当然ながら星は結ぶことなく、夜空に散って終わるだろう。過去にそういうケースで星座を生み出した人間はいない」
「やっぱり、そうですか……」
 肩を落とす私を見て、夏日先生はまた首を傾げる。
「何故、そんなことを聞くのだ?」
 私はその質問をされて逆に戸惑った。今まで私が話した内容から、言葉の真意を容易に察することが出来るだろうに。もしかして夏日先生、結構鈍い?
「確かに鎌田君は私の友達と星結いをしました。でも私、どうしても自分の気持ちを整理出来なくて……。だから、せめてこの思いだけでも伝えてみようと考えているんです」
 むしろ、そうしなければ鎌田君への思いはますます増していくばかりで、もう耐えきれなくなってしまいそうだった。
 でも、勇気が出ない。もしも私が鎌田君に星結いをして、せっかくまとまった鎌田君と、ともえちゃんの仲を掻き乱すようなことになったらどうしよう。もう彼に近付かないことが、私に出来る最良の選択なのではないか。
 そんなことを考えてしまう。
 だから地球と同い年である年長者の意見を参考にしたかったのに、夏日先生は首を捻るだけだった。なんだか、この先生。外見からのイメージと違うぞ?
 散々悩んだ末に、夏日先生は途端に合点が入ったような顔をすると私の顔をマジマジと見つめた。
「なるほど。そういうことか。道理で噛み合わないわけだ」
「な、何がですか?」
「あぁ、こっちの話だ。忘れてくれ。私としては何とも言えん話だ。酒留がその、金田に星結いをしたいというなら止めはしない」
「先生、鎌田君です」
「あぁ、すまない。よく聴く名字だったので、つい間違った。止めはしないが、かといって勧めもしない。せっかく相談してもらったのに恐縮だが、星結いに関して我々は人間に意見をすることすら禁じているのだ」
「それは、星の運命だからですか」
「うむ。酒留はなかなか博識だな」
 以前、朔張校長から聞いた話だ。忠義の淑女や彷徨の民は、人間の星結いに対して干渉することが出来ないよう、引力の鎖でお互いを締め付けあっている、と。
「だが、無駄口を叩くくらいなら出来る」
 そう言うと夏日先生はそっと瞳を閉じ、手の平を天にかざす。そして、静かにその名前を呼んだ。
「フォボス、ダイモス」
 夏日先生がかざした手に眩い光が放ったと思った瞬間、いつからあったのか、夏日先生の周りを二つの岩石が漂っていた。

 似たような速度でのんびりと迂回する石達。夏日先生が口にした名前から察するに
「もしかして、この子達は火星の衛星ですか?」
「御明察だ。酒坂は本当に博識な生徒で感心する」
「だから先生、私は酒留です。私、天体が好きなので」
「あぁ、すまない。数ある言語の中で日本語は特に難しくて困る。特に近年は外来語も混じっているので理解不能だ。それにしても天体が好きとは恐れ入った。この学校の生徒とはいえ、漆黒の闇に畏怖を覚え夜空を仰ごうとする人間は多くないというのにな」
 満足げに微笑む夏日先生に同調してか、二つの浮遊する石も淡く光を点滅させる。
「惑星の衛星ということは、朔張校長と同じくこの子達も『忠義の淑女』なんですか?」
「正しく言えば淑女ではなく、紳士だな。ところで酒留、衛星はどのようにして生まれるか、知っているか」
 夏日先生の赤い瞳が横目使いでこちらに向いたので、私は背筋がゾクッとする。
「き、聞いた話ですけど、彷徨の民を相手に星結いをすると恒光石は衛星に生まれ変わる、って……」
 恐る恐る答えると、夏日先生はやや自嘲気味な笑いを含んで頷く。
「正解だ。我々としては恥ずかしい限りの話だが、意外と知れ渡っているのでバツが悪い」
「そんなことないです。先生方は魅力的な人ばかりなので、あ……」
 その時、私は心にある疑問が浮かんだ。
 齢四十五億年と言われる彷徨の民。人類が誕生し、知性を有し文明を築くようになってから数千年が経つというのに。夏日先生は衛星を僅か二つ。明らかに少ないような気がしてならない。
 そんな私の心の内を見透かしてか、夏日先生は口を開いた。
「そういう事だ、酒留。我々は星結いを受けそうになる直前に、その場から姿を眩ませるよう決めている」
 夏日先生が衛星の一つを掴まえると、フォボスと呼ばれた星はくすぐったそうにスルスルと手から逃れていく。
「それは長いこと人間と交わっていれば言い寄られたり口説かれたり、愛の告白を受けることもある。我々としてもそれを疎もうともしないし、禁じてもいなかった。やはり誰かに好かれれば我々だって嬉しいし、擬似的にでも人間の一部になれるということは、耐え難い喜びでもあった。しかし、星結いだけは駄目だ。あれは人間達だけに許された行為であり、我々が介入してはならないものなのだ」
「何で、ですか? その、先生方を好きになった人達で星結いの作法を会得してれば、誰でも望むと思います。それが好きな人の傍に居続けられる衛星になるとすれば、尚更……」
「酒留、一般的に夜空の星を何と呼ぶ?」
「恒星、ですか?」
「そうだ。たとえ十等級の輝きしかない星でも何百光年先に太陽と同じ規模の、それ以上の恒星が存在するのだ。お前達、人間はそれを打ち上げているのだぞ。我々惑星には計り知れない驚異なのだ。そんな貴重な星を衛星という小さな星で終わらせてはならない。我々の引力が宇宙を構成する重要な機会を阻んではならないのだ」
 夏日先生の言葉が重々しく私の肩にのし掛かる。
 今までさほど考えたことはなかったけど、私達が恒光石を打ち上げるということは、星を一つ誕生させるということ。つまり何光年先にある銀河で太陽を創造するのと同じなのだ。
「そんなこと、考えたこともなかったです。でも、先生方へ星結いをした人達の思いは、星の形態や大きさとは関係ないじゃないですか? 夏日先生に星結いをした人だって、本当に先生のことが好きだったから、惑星とか衛星とか関係なく星結いをしたんだと思います」
 私の言葉に少し目を丸くした夏日先生は、次にのんびりと頬を緩めた。
「酒田は本当に、素直で優しい人だな」
「だから先生、私は酒留です」
「あぁ、すまない。昔、似たような名前の知り合いがいたものでな。だからこそ、我々はそんな人間達と共存することを望むのだ。人間は時に奪い傷付け合う愚行に走ることもあるがな、その裏には純粋で切実な魂を隠し持っている。我々はそんな人間を慕い敬い、尊く思う。
その中でも星結いは、思いを伝え合う最高の作法ではないか。己の秘めた気持ちを、渾身の勇気を持って打ち上げる。そこに見栄も恐れも欺瞞もない。ただ相手を思う愛情の一点のみ。そんな人間達が行う神聖な星結いという、夜空に星で線を描く行為を手助けすることに我々は、この上ない喜びを感じずにはいられないのだ」
 そして夏日先生は衛星の一つを軽く指で弾き、私に赤い目を向ける。
「それが我々にとっての『星乞い』なのだ」
 無駄話、といった夏日先生の気持ちが何となくわかった気がする。
 本来なら表立って星結いの推奨は禁じているけど、先生は言葉の陰で私を応援してくれているのだ。星結いは星座を生み出すだけでなく、行為そのものに意義があるのだ、と。その一言を、オブラードに包み私へ伝えてくれたのだ。
 悲しみでカラになっていた心の底に、小さな力が芽生えた。
「先生、ありがとうございました」
 私は夏日先生へペコリと頭を下げる。すると夏日先生はしれっと顔を澄ます。
「なんの事かな。私は無駄話をしただけだが?」
 そして私と夏日先生は顔を見合わせ、クスクスとしのび笑った。


更新日 9月1日


 夏日先生の周りを決まった速度で旋回する二つの衛星をぼんやりと眺める。時々、夏日先生が指で進路を邪魔したり息を吹きかけたりするとチカチカ瞬いて反発するが、すぐにまた先生のそばにじゃれついていく。そんな可愛らしい仕草が私の中のあの子に似ていた。
「なんだか衛星って、恒光石の動きに似ていますね」
「は? 恒光石だと」
 不思議そうに首を傾げる夏日先生。私にはそう見えるけど、先生はそう感じないのかな。
「似ていませんか? 淡く光を点滅させたり、宙を舞ったり。恒光石って、こんな特徴もあったんですね」
 その途端、眉間に皺を寄せた夏日先生は私にズイッと近寄る。先生の剣幕に押されて、私は二、三歩後ずさった。
「どういうことだ、酒留。何故、恒光石が宙に浮く? 説明しろ」
「せ、説明も何も。私が持っている恒光石の一つが、この子達みたいに宙を舞うんです。他の人の恒光石もこんな風に飛ぶんですよね?」
「いや、そんな話は聞いたことがない」
 ばっさりと否定されて唖然とする私をよそに、夏日先生は険しい顔をして考え込んでしまった。
 私はてっきり、みんなの恒光石も元気がいい子だったら宙を飛び回るものだとばかり思っていた。だって星になるくらいなら多少は浮いても不思議はないと思っていたもの。でも先生があれだけ驚くということは、よっぽどらしい。
どういうこと? この子は一体何者?
 いつも私を励ましてくれたはずの恒光石が、一気に得体の知れない存在へなってしまった。
 夏日先生を見ると、腕を組んでブツブツと独り言を口にしていた。
「いや、あり得ん。そんな事例は聞いたことが……いや、何かの文献で、違う、確か朔張に聞いた……。あぁ、昔のこと過ぎて思い出せん。……ん! 宙に浮く恒光石! そうだ、あれは確か、みなみの……」
 何かを思い出した夏日先生は、ゆっくりと私に視線を戻す。真紅の双眸に睨まれ、私は自然と身がすくんだ。
「あの、先生。私の恒光石って、変ですか?」
 怯えながら尋ねる私に、夏日先生は一言一言を選ぶように答える。
「いや、変ではない。過去にもそういう恒光石を持った人間はいた。お前に害をもたらす危険性はないから、安心しろ」
 それだけを聞くとまずは気が安らいだが、懸念はぬぐいきれていない。
「じゃあ、この子は一体?」
「それは、私の口からは言うことが出来ない。おっと、もうこんな時間か。長居し過ぎたな。酒留もそろそろ帰った方がいい」
 急によそよそしくなった夏日先生は口早にそう告げると、衛星をしまい立ち上がった。戸惑う私に背を向け教室から出て行こうとして、夏日先生はピタリと足を止めた。
「……酒留、さっき私が言った無駄話を覚えているか」
「は、はい」
「そうか……」
 そして夏日先生は振り向きもせず、最後に一言だけ残して去っていった。

「頑張ってみろ」

 夏日先生の遠ざかる足音と反比例して、私の鼓動は徐々に高まっていった。人間の星結いに口出ししないはずの彷徨の民が、確かに私へエールを送った。それはきっと、何か特別な意味を含んでいるに違いない。
 行き場を失い、さ迷っていたほうき星は、火星の加護に導かれ地球引力圏内に軌道を乗せる。私の中で停滞していた運命という名の星も、ゆっくりと巡りだした。
 私は通学鞄を掴むと勇んで教室を後にする。あれだけ空っぽだった心が、今は一つの決意で溢れていた。
 鎌田君に星結いをしよう。
 たとえ星が散る運命だと分かっていても、もう動き出した気持ちを軌道修正することは出来ない。
 この思いは止められない。

08:42  |  星乞譚  |  CM(0)  |  EDIT   このページの上へ

2010'08.24 (Tue)

私の星乞譚。 第十二章


 外へ飛び出すと私は真っ直ぐに鎌田君の家へと駆け出した。
 走る度にシャーベット状の雪が跳ね上がりパジャマの裾を汚す。何度も足を取られそうになりながらも、私は懸命に走り続けた。
 鎌田君の家まで走れば、ものの一分も掛からずに着く。
 大きな門構えの、ともえちゃんの家を過ぎ、角にある公園を曲がれば目指す場所はすぐだ。昨年、ヒジテツ君から星結いを受けた公園を後目にカーブを曲がろうとした時、私は思わず足を止める。
 そして近くにある電柱に身を隠した。
 公園内のブランコの隣にベンチが二つある。その手前側のベンチに見覚えがある人影が座っていた。鎌田君だった。
 制服の上にコートを羽織り、学校から帰って着替えてそのままといった服装で、がっくりと肩を落とし力無く腰掛けている。きっと帰宅してお父さんがいないことを知り、心当たりがある場所を手あたり次第に探したのだろう。
 足元はぐっちょりと湿った雪が滲んでいた。彼はもうお父さんから裏切られたことを知ってしまったのだろう。双眸は空虚を写し、頬には一筋の涙の跡がくっきりと残っていた。絶望感が彼の全身を覆って、見るもの全てに深い悲しみを与える。
 私は泣き出しそうなほど胸の痛みに締め付けられながらも、彼に歩み寄ろうと電柱から身を離す。しかし、あることに気付き二の足を踏んだ。
 ベンチに座りうなだれる彼の隣に、もう一人誰かが座っていた。電柱のそばから見た角度では、ちょうど良く鎌田君の陰になっていたので気付かなかった。一体誰が隣にいるのかと気になり立ち位置を変えてみたけど、如何せん暗くてよく見えない。
 もう少し近付いてみようかと思案していると、その人物が鎌田君の目の前へ立ち上がった。公園の水銀灯の明かりが、その人を照らす。私は驚愕に息を飲んだ。
 鎌田君と一緒にいたのは、ともえちゃんだった。

 何故、ともえちゃんがこんなときに、こんな場所で、鎌田君と二人でいるの?
 私は驚きのあまり頭がパニックになったけど、冷静に思い返してみる。ともえちゃんだって鎌田君と幼なじみだし、家だって数十メートルだけど私より近所だ。それに鎌田君のお父さんは大山家に借金をしていたし、そういう情報は私よりも早いはず。きっと、ともえちゃんが鎌田君にお父さんのことを話したのかもしれない。いや、むしろあの様子だと、今のいまその話をしているのではないのか。
 ともえちゃんと鎌田君が一緒にいて、別段不思議なことなどないはずだ。それなのに、私は背中をザラッと撫でられた不気味な予感がした。胸のざわめきが収まらず、ただその場に立ち尽くした私に気付くわけもなく、ともえちゃんは鎌田君に何か話し掛けている。
 ここからだと何を話しているのか全く聞こえない。その時、それまで頭を垂れていた鎌田君がゆっくりと顔を上げた。泣き腫らして真っ赤になった目を丸くして、ともえちゃんと見つめ合う。
 そして次の瞬間、ともえちゃんの右手が淡く青白い光を放った。
 その光が何を意味するのか、分かっている。分かっているけど、何が起きようとしているか、さっぱり理解出来ない。
 心臓がこれまでにないほどの勢いでバクバクと鼓動する。私は息をするのも忘れて、目の前の光景に見入った。
 ともえちゃんの口元が小さく動いた瞬間、手のひらに置かれた光の粒が途端に膨張し、漆黒の夜空へと解き放たれる。その一つを皮切りに、ともえちゃんが何かを呟く度に光は強烈な輝きを放ち、夜空目掛けて飛んでいった。
 私は過去に二度、これと同じ光景を目にしている。
 一度目は入学式の日。体育館の大きなスクリーンで上映された講義で……。
 そして二度目は、ついこの前。この場所で、私に向かいヒジテツ君が……。
 見間違うわけもなく、疑う余地もない。
 それは紛れもなく、星結いだった。

更新日 8月25日

 ともえちゃんは合計で五つの恒光石を打ち上げると、おもむろに鎌田君の前にしゃがみ込む。そして微動だにしない彼の頬に、自分の手を合わせた。
 トラックに衝突されたような衝撃が胸を襲う。何かを叫びたいのに言葉は喉の奥でかき消え、膝はガクガクと震える。
 だめ……ともえちゃん。何をしようとしているの? その人は、鎌田君だよ……? 私の……ずっと、好きだった人だよ?
 ふと気配を感じたのか、ともえちゃんが視線をこちらに向けた。そして目をカッと大きく見開き、次に泣きそうな悲痛の表情になる。
 聡明な眉毛をへの字に曲げ下唇を噛んだ顔は、私が今まで見たことがない、ともえちゃんの表情だった。ほんの数瞬だけ見つめ合った後、ともえちゃんはソッと瞳を閉じて何かを呟いた。私にはその唇が、こう言ったように感じた。
 ……ご・め・ん・ね。
 そしてともえちゃんは瞳を閉じたまま、その潤んだ唇を鎌田君の唇に重ね合わせた。鎌田君は拒む素振りもなく、ともえちゃんの口付けを受け入れる。
 しばらくキスをする二人を見つめていた私は、もう居ても立ってもいられずにその場から走り去った。

 もう何が何だか分からず、頭と心の中は絵の具をぶちまけたパレットのようにグチャグチャになっていた。何か考えようにも何を考えればよいのか分からず、ただ闇雲に足だけを動かす。
 その時に足を滑らせた私は、黒ずんだベチョベチョの雪の上へ、間抜けにも転んでしまった。お腹から顔まで冷たい水分を含んだ雪で汚れる。
 惨めで情けない姿だけど、不思議なことに悲しくはなかった。それに転んだというのに体はどこにも痛みは感じず、手や顔は冷たいとも感じない。
 コートについた雪を払って立ち上がる。体がもの凄く軽いと思った。軽いというよりは、中身が何もない空洞のようで、あれだけゴチャゴチャしていた頭の中も、キレイさっぱり何もなくなっていた。何も感じない。何も考えられない。何も溜まらない。私の体はカラッポになってしまった。
 ボーっと辺りを見渡した視界の隅に、ぼんやりと漂う光が目に入った。
 いつの間に巾着袋から飛び出したのか、恒光石がチカチカと瞬きながら私の周りを旋回している。きっとこの子なりに私を励ましてくれているのだろう。
 私は空虚になった頭でのんびりと思い、その恒光石に乾いた微笑みを向ける。するとその子はますます光を強め、私の周りを飛び回る。
「ごめんね。本当はあなたをちゃんと星座にしてあげたかったけど、叶わなくなっちゃった。ごめんね」
 そう呟くと恒光石は徐々にスピードを落とし、弱々しく点滅をすると、私の胸元へ帰っていった。私は泥にまみれた体を引きずって、とぼとぼ家に戻る。
 家の前には心配そうな顔をしたお母さんが、道路に出て私の帰りを待っていた。私に気付くと駆け寄ってくるお母さん。泥だらけの私を見て悲しそうに顔を歪める。
「ごめんね、心恵。本当にごめんね。お母さんもお父さんも、あなたの気持ちを全然考えていなかったわ。今日はもう遅いから、ゆっくり寝ましょう? そして明日また、お父さんとじっくり話し合いましょう」
 私の肩をギュッと抱き留めながら言うお母さんに、私はしっかりと告げる。
「もう、いいの。全部終わったの。終わったことなんだよ、お母さん」
 果たしてお母さんが私の言葉をどんなふうに受け取ったか、分からない。けれどお母さんは私を力強く抱き締め、嗚咽を漏らした。
 私はお母さんの背中をトントンと叩きながら、カラッポになった体で自宅に戻った。

 その夜、冬の夜空に新たな星座が誕生した。
 八つの星で構成されたその星座の名前は『やまねこ座』。
 ともえちゃんの恒光石は五つ。鎌田君の恒光石は三つ。

08:39  |  星乞譚  |  CM(0)  |  EDIT   このページの上へ

2010'08.17 (Tue)

私の星乞譚。 第十一章

 季節はあっという間に秋も追い越し冬を迎え、一緒に年も越えた。
 年末から大きく降り積もった雪は、今はようやく収まり始めて粉雪を散らすくらいになった。それでもぬかるみに足をとられる歩道の雪は煩わしく、常に下を向いていないと、いつ転んでしまうかハラハラする。
 年が明けて短い冬休みが終わり、学校は三学期へと突入していた。来週に期末テストを控えた二月の半ば、私は鎌田君と一緒に下校をしている。
 二人とも足元に注意を払い、下を向いたままという滑稽な帰宅姿だけど、こうして鎌田君と肩を並べて歩けるだけで嬉しい。
「酒留、勉強ははかどっている?」
 俯きながら尋ねる鎌田君に、私も顔を上げずに答える。
「うん。部屋が寒くて布団の中に早く入っちゃいそうになるけど、どうにか。鎌田君は?」
「俺もどうにか頑張っている。ただ、夏日先生の授業が急に難しくなった気がして戸惑っている。アラビア語はどうにか語呂覚えで大丈夫だったけど、ギリシャ語がちょっと……」
「私も。今回はかなり頑張らないと赤点取っちゃうかも」
「じゃあ、また試験前だけ一緒に勉強する?」
 私の心に鎌田君の言葉が温かく滑り込んできた。気持ちと一緒に凍えそうな頬もすぐに溶ける。
「……うん。する」

 二学期の期末テストの前日。私は鎌田君の家で、二人きりで試験勉強をしたのだ。
 それはちょうど店番をしていた時、またいつものように買い物に来た鎌田君と学校やテストの話になった。そしてかねてから誘おうか誘わないか迷っていたけど、勇気を出して言ってみたのである。
 一緒に勉強しない? と。
 すると鎌田君は全然嫌な顔をせずに二つ返事で了承した。
 もう、天にも昇りそうな気分だった。上擦りそうな声をなんとか鎮め、勉強をする日にちと時間を口早に確認する。そして鎌田君が店から去った後、私は喜びのあまり、番台に顔を突っ伏してプルプルと震えていた。

「やっぱり、勉強は二人でやった方が効率良いもんね。自分だけだと分からない問題にぶつかると行き詰まっちゃうし」
 照れ隠しをするみたいに、私は意味もなく言い訳を口にする。
 素直に「一緒に勉強が出来て嬉しい」と言えればどれほど良いかと思ってしまうけど、言ってしまった後の自分にまだ自信が持てないから、今はまだこのくらいで丁度いい。
「うん。俺が苦手な教科は酒留が得意だから、すごく助かっている。また今回も星乞譚で出そうなヤマ、期待しているな」
「うん。明天先生攻略なら任せてよ」
 鎌田君はきっと知らないのだろうな。もっと頼りにされるように、彼が苦手な教科だけ力を入れて勉強していることを。
「じゃあ、いつにしようか。酒留は近々予定が入っている日はある?」
「うぅん、特にない。ともえちゃんともテストが終わるまでは遊びは禁止って決めているし」
 もっとも、たとえ予定が入っていようとも全部キャンセルするけど。
「そうか。もしアレなら、大山も一緒に勉強へ誘おうか?」
「え、えぇ? ともえちゃんは、ほら、あれだよ。一人で勉強する方が合っているって言っていたし」
 私はギョッとしながら慌てて適当な言い訳を見繕う。きっと仲間内の調和を気にかける鎌田君の事だから他意なく言ったのだろうけど、ほんの少しでいいから、こう……私の気持ちも汲んでくれればと身勝手ながら思う。
「そうなのか。だよな、だから俺がこんな風に酒留と一緒に勉強が出来るもんな」
 本当に、他意なく言っているんだと思う。
 でもそんな微かな一言が、私の胸を悪戯に熱くすることに、この人はいつになったら気がつくのだろうか。

「そういえば、お父さんとの生活はどう?」
 もうちょっと鎌田君の嬉しい言葉を聞きたかったけど、これ以上は舞い上がってとんでもない墓穴を掘りそうな予感がしたので、私は敢えて話題を変えた。
「うん。結構、普通」
 そう言いながらも、鎌田君は至極嬉しそうに頬を緩めた。
 先週から鎌田君のお父さんは家に戻っている。
 いつもなら家に寄りつかず、すぐに鎌田君一人を置いて放浪してしまうお父さんだけど、今度は長く居るらしく、これからはずっと居住するらしい。
 前回の勉強会は鎌田君が気を遣って私を家に招いてくれた。その際に私は初めてライオンの巣穴をこの目で見たのである。家の中は一人暮らしの割にきちんと整頓されていて、むしろ男性にしては小綺麗に過ぎるほどだった。
 でもそれが、逆に彼の孤独を色濃く匂わせているようにも感じたけど、そんな巣穴に、親ライオンが戻ってきたのだ。
 鎌田君の、仔獅子の長く辛い試練は終結を迎えたかのように感じて、私も泣いてしまいそうなくらいの安堵感に包まれた。
「実は私、鎌田君のお父さんとまだ一度も会ったことがないの。今度、お店に来るかな?」
「お父さん、お酒は飲まないから酒留の店に行くかどうか分からないな」
 お父さん、と呼ぶのに慣れていないのか、鎌田君は若干口ごもる。照れを隠すように口元を押さえる仕草が可愛らしい。
「そうなんだ。うちのお父さんとは大違い。お酒を飲まない日なんて無いんだよ。でも会いたいな、鎌田君のお父さん」
「じゃあ今度、一緒に買い物へ行くよ」
「鎌田君と顔、似ている?」
「どうだろ。あんまり言われたことないけど、俺は似ていると思う。酒留には、どう見えるかな」
 そしてまた手を口元に持っていき、無理矢理に照れ笑いを隠す。彼の珍しく本心から嬉しそうな様子は隠しきれないみたいだ。
「鎌田君のお父さんって、もともとは何をしている人なの?」
「うんとね、写真家だったり画家だったりとにかく芸術関係が好きな人でね。今は彫刻をしていて、それが都会の方であったコンクールに受賞して小さなスポンサーが付くらしいんだ。だからその資金を元に、今の家をアトリエにするんだって」
 なるほど。それでこれからは一緒の家に住めるという話になったわけだ。
 放浪癖のお父さんといえども実家をアトリエにするということは、自宅を職場にするのと同じ。酒屋を経営しているうちのお父さんと似たようなものだろう。
「ただ、それだけの資金では元手が足りなくて、大山の呉服屋からお金を借りなきゃいけないらしいんだけどね。でも遅くても今年の夏頃には自宅を改装する工事に入るんじゃないかな」
 まさに順風満帆だった。
 心なしか鎌田君の口調も弾んでいるように感じる。それも当然だろう。今まで嫌というほど孤独な夜を噛み締めたのだ。これからは精一杯、お父さんとの時間を満喫して欲しい。

 足元ばかり見ていたので気がつかなかったけど、既に家の近くまで来ていた。私は少し残念に感じながらも、うちへ通じる小路を曲がる。
「じゃあ酒留、勉強会は今週の土曜日でいいかな」
 せっかくの鎌田君との約束を忘れるところだった。私はコクコクと頷き口を開く。
「うん。土曜日は午前中で学校終わるもんね。お昼ご飯を食べたら行くよ」
「あぁ、待っている。それじゃあ、バイバイ」
 軽く手を振ると弾む足取りで帰路に着く鎌田君。私はそんな彼の後ろ姿を見送りながら、あることを考えていた。
 このまま鎌田君が順調にお父さんとの生活を送れば、精神的にも余裕が生まれるだろう。そしたら、頃合いを見計らって彼に星結いをしよう。
 別に以前の彼では余裕がなさそうだから星結いをしなかったとかじゃなく、ただなんとなく、そのタイミングが一番良さそうだと思ったからだ。
 鎌田君が私のことをどう思っているか、知らない。
 もちろん彼の星はどこに向いているかも、知らない。
 それでも最近は彼の側にいると、気持ちを伝えたい衝動にかられてしまう。この破裂しそうな思いを持て余してしまうのだ。
 正直いってしまえば振られるのは恐いけど、万が一の可能性に賭けてみたい。
 鎌田君に星結いをしよう。
 そんなことを考えながら、私も自然と早まる足を帰路に向けた。時々、頭の中で鎌田君に伝える言葉をシミュレーションしながら。

 家の玄関でもある酒屋の扉を開けて「ただいま」と呼び掛ける。いつも番台にムッスリとした顔で座っているお父さんが、何故だか今日はいなかった。
 私は小首を傾げる。
 態度は悪いけど生真面目なお父さんは、たとえ風邪をこじらせようとも店番をサボるようなことは決してしない。立ち上がれないほどかなり体調が悪い日や、仕入れで店にいない時はお母さんが替わりに番台に座るけど、それもよっぽどない事だ。
 番台を抜けて母家に入ると、居間でお母さんがいた。
 テレビを付けるわけでもなく、湯呑みを両手で握り締めてボーっとしている。まだ夕飯の支度に取り掛かるには早い時間かもしれないけど、それでも何だか様子が変だ。
 私はおずおずとお母さんに「ただいま」と呼び掛ける。するとお母さんはハッとして顔を上げた。
「なに、心恵。あんた、いつ帰ってきたのよ」
「いつ、って……たった今だよ。何言っているの、お母さん」
「あぁ、そうね。もうこんな時間なのね。さて、お母さんはそろそろ晩ご飯でも作ろうかしら」
 するとお母さんは急に立ち上がり、いそいそと台所に向かう。
 やっぱり何かおかしい。微笑んだお母さんが何だか嘘っぽく、取り繕ったような笑顔に見えた。
「ねぇ、お母さん。お父さんはどこに行ったの?」
 私の問い掛けに一瞬だけ肩をピクリとすくめたお母さんは、こちらを振り向かないまま答える。
「……お父さんはね、大山さん家に行っているわ」
「ともえちゃんの家? なんでまた。町内会の集まり?」
「さぁ。たぶん、そんなところじゃないかしら。詳しい話はお母さん、わからないわ」
 まぁ、ご近所だからお父さんが大山家に出向くのも無いことはないけど。それでも店番をほっぽりだしてまで居なくなるなんて妙だ。
「お母さん、店番は?」
 思い出したかのようにお母さんは言う。
「あぁ、そういえば。すっかり忘れていたわ。心恵、悪いけどお父さんが帰ってくるまで座っていてくれる?」
 お母さんも店の事を忘れているなんて、やっぱり妙だ。

 お母さんの言い付けとおり店番をしていると、一時間もしないうちにお父さんが帰ってきた。でもその表情は普段以上にしかめていて、声を掛けづらいくらいピリピリ張り詰めている。おかえり、と言った私を見向きもせず、お父さんは番台をすり抜けて母家の方に行ってしまった。
 なんだか、ザワザワと不穏な胸騒ぎが止まらない。さっきまで鎌田君と楽しくお喋りをした帰り道にホカホカに温まった心が、今はすっかり冷めてしまっている。
 清々しいほど明るい月夜が、西の空から流れてきた薄い雲で朧気に陰っていった、そんな気分だった。

 日が落ちて街は黄昏色に染まる頃、母家から夕飯へ呼ぶ声が届く。私は少し凍えた足をさすりながら立ち上がった。
 夕飯を囲むちゃぶ台では、お父さんはビールをチビチビ飲みながら野球中継を見ていて普段とおりだけど、お母さんは憂いげに黙々と箸を動かしていた。
 空気が重い。
 私は夕飯を手早く済ませてしまい、お風呂に入る。落ち着かない気持ちを、早く温かい湯船の中に溶かしてしまいたかった。
 お風呂から上がり髪をドライヤーで乾かしながらとかす。湯船に浸かって幾分気持ちがゆったりとした。湯気で曇った鏡台を手で拭う。居間に戻ったらお父さんへ何があったのか聞いてみよう。たぶん答えてくれなさそうな気がするけど、モヤモヤした今の気持ちでいるよりはマシだ。
 パジャマに着替えて浴室のドアを開けた時、少し離れた居間からお父さんとお母さんの話し声が聞こえてきた。
ともえちゃんの家とは違い、さほど広くなく部屋を間仕切る壁も薄い家だ。多少、大きな声を上げれば二階にある私の部屋まで話が筒抜けになる。
 お父さんが口を開けているのも珍しいけど、さらに声を張り上げているなんておかしい。お母さんもそれに負けず劣らず大きな声で話している。
 その時、お父さんの言葉が耳をついた。
「結局は借金に縛られる生活になるしか、ねえだろうよ」
 私はギョッと身をすくめる。借金って、一体なに? うちの経営って、そんなに悪かったの?
 私は顔から血の気が引くのを感じつつ、足を忍ばせて居間に向かった。本当ならば、まだ子供な私が聞いてはいけない話だと思う。それでも、自分の生活に降りかかるかもしれない話となれば、聞かずにはいられなかった。

「じゃあお父さん、大山さんの話だと借金っていうのは嘘だったの?」
「違う。借金した、ってのは本当だ。ただ資金って話が嘘だった」
「なんでまた、そんな嘘を……」
「大山を信用させたかったからだろ。だがな、呉服屋もそこまで馬鹿じゃねえ。ちょっと調べてみたら野郎のでっち上げだって分かったんだ。野郎、何度も大山から無心しているからな」
「そんな、そこまでして……」
「あいつはそういう奴だ。結局はてめえの事しか考えちゃいねえんだよ」
 ……なんだか様子がおかしい。
 話から察するに我が家が借金を背負っているわけではなさそうだ。じゃあ、お父さんとお母さんは誰の話をしている?
 その時、心の隅にあった記憶に何かが引っかかった。
 大山家に借金をした人……お父さんが毛嫌いする人……。
「それで、そのこさえた借金はどうするの? 返す当てはあるっていうの?」
「ねえに決まってんだろ。そもそも奴が一度だって大山に借りた金を返した時があるかい」
「じゃあ、大山さんはどうする気なの」
「辛い話だが、坊主に払わせるしかねえだとよ。その代わり金利は無しで期限も無しっていうのが大山の出来るギリギリの譲歩だ」
「まだ高校生だっていうのに、可哀想。こないだ道ですれ違った時に、これからはお父さんと一緒に暮らせるって嬉しそうに言っていたのに……」
 勢い良く扉を開けた私を一斉に振り向くお父さんとお母さん。仏頂面のお父さんが、今だけは大きく目を見開いていた。
「ねえ、どういうこと? 今の話、鎌田君のことだよね。……ねえ、どういうことよ」
 私の唇がワナワナと震えていた。
 お父さんは苦虫を噛み潰したように顔をしかめ、お母さんは青ざめた表情のまま俯く。何も答えない二人に、私はもう一度問いただす。
「ねえ、どういうことよ。鎌田君、お父さんと一緒に暮らすんじゃなかったの? 今の家をアトリエに改装するんじゃなかったの? 彫刻のコンクールで受賞してまとまったお金が出来たって。ねえ、どこまでが本当の話なの?」
「全部、嘘っぱちだったんだ!」
 私の言葉をぶっつりと切るようにお父さんは怒号を上げたので、私は身をすくめた。その横でお母さんは小さく呻くと、前掛けで目元を押さえる。
「そんな話は全部、奴のデタラメだったんだ! 大山や坊主を信用させて、てめえは金だけ手に入れてさっさと蒸発しやがった! もう二度とこの町には帰ってこねえよ! 坊主にすべてを押し付けて、いなくなったんだよ!」
 その絶望的な話に耐えきれず、私はがくりと膝を折る。そして頭に浮かんできたのは、お父さんの話を嬉しそうにする鎌田君の顔だった。
 照れ笑いでニヤける口元を手で隠したり、ためらいながらお父さん、と呼んだあの鎌田君。
 そんな僅かな希望が、跡形もなく砕け散ってしまった。
 俺はあのライオンみたいなものなんだ……動物園で寂しそうに鎌田君はそう呟いた。
 あの時の胸が潰れそうなくらい悲しげな表情を忘れられない。それでも彼は懸命に、いつか平穏な暮らしが送れることを夢見て、どんなに辛くても歯を食いしばって耐えてきたんだ。
 それなのに……。
 私は立ち上がると、ほぼ無意識に居間の壁に掛けてあったダッフルコートへ手を伸ばす。そして素早くコートを羽織ろうとした手を、お父さんから掴まえられた。
「どこに、行く気だ」
「どこって。鎌田君のところよ」
「駄目だ」
「なんでよ。お父さんには関係ないじゃない」
「駄目だ!」
 大声で怒鳴りつけるお父さんに気圧されて、たじろぐ。でもすぐに反抗的な気持ちがむくりと首をもたげた。
「なんで駄目なのよ! だって鎌田君は今、すごく傷付いていると思う! 私が行って慰めになるとは思わないけど、でも行かなきゃ駄目なの!」
「駄目だ! 行っちゃならねえ!」
「なんでよ! なんでお父さんにそんなことを言われなきゃならないの? 関係ないじゃない!」
「どこの世界に好きこのんで、てめえの娘をライオンの巣穴へ嫁に出させる親がいる!」
 えっ、と息を着く暇もなく、お父さんは乱暴に私を突き倒した。
 茫然と見上げたお父さんの顔は般若のように怒りを露わにしていたけど、何故か寂しそうにも見える。

更新日 8月23日

「てめえが鎌田の坊主に惚れているのは、ずっと前から知っていたぜ。あいつが買い物に来る頃を見計らって店番に着こうとするし、番台で坊主とニヤニヤ話し込んでいたからな。あの坊主だってそうだ。お前が店番をしてそうな頃だけ店に顔を出しやがる」
 お父さんには全部見抜かれていたんだ。でもその事実は不思議にも、私を赤くも青くもせず、淡々と心の中に滑り落ちていくだけだった。
「俺はそのことを咎めもしなかったし、気にもしなかったつもりだ。だがな、あの坊主と一緒になるのだけは許さねえ! これを機会に坊主とは距離を置け! 間違っても星結いなんてするんじゃねえぞ!」
「な、なんでそんなこと……。なんで、駄目なのよ……」
「さっき聞いていただろ。あの坊主は若い身空で既に借金持ちだ。しかも頼る身内もねえ。そんなところに喜んで嫁がせる親がいると思うか」
「でも、だってお父さん。お父さんは鎌田君のことをよく面倒見ていたじゃない。お菓子とか、醤油とか……くれていたじゃない」
「あんなは単なる憐れみだ。同情に決まっているだろ。可愛がっても、娘まで差し出す義理はねえ」
 ハラハラと涙が零れ落ちた。
 てっきり私は、お父さんは鎌田君に対して好意的な印象を抱いているものだと思い込んでいた。
 そんなに遠くない未来、もしも鎌田君と星結いが出来たら、改めてお父さんへお互いのことを紹介するのだろう、と。そしてお父さんは相変わらずムッスリと憎まれ口を一つ二つ言いがらも、私達のことを認めてくれるだろう、と。
 でもそんな儚い妄想さえも、辛辣な事実は嘲笑うかのように奪い去っていった。今まで私が見ていた世界は情けないほど狭く、恥ずかしいほど稚拙なもので構成されていたのだと思い知らされた。
「分かっただろ、心恵。間違っても星結いなんてするんじゃねえぞ。あの坊主とお前が繋がっちまったら、たまったもんじゃねえ。
 そもそも星結いなんて聞こえはいいがな、自分の尻を自分で拭けない小便臭い若造がてめえを一生縛る鎖なんだ。一度繋がってみろ。たとえ相手を嫌いになっても憎くなっても絶対離れられねえ。あんなもん呪いだ、呪い」
 お父さんの言葉が追い討ちをかけ、私はずたぼろに崩れ落ちる。そんな私を気の毒に思ってか、お母さんが涙で目を真っ赤にしながらお父さんに、そのへんにして上げて、と訴える。
 同じ女としてお母さんも心苦しいのだろう。娘が初めて人を好きになった思いを、こんな形で否定しなければならないのだ。
 私だって分かっている。夢はいつまでも砂糖菓子のように甘いものじゃなく、氷のように時間が経つにつれ、溶けてなくなってしまうものだと。
 私はまだ何も知らない子供だけど、そこまで子供じゃない。彼を思い続けていれば、どんな辛い未来が待っているかを予想出来ないほど、馬鹿じゃない。
 でも、それでも……。

 私はのろのろ立ち上がり、涙でクシャクシャになった瞳を拭う。そしてお父さんを真っ直ぐ見据えた。
「それでも私は、鎌田君の星になりたい」
 この思いは、止められない。
 その瞬間、お父さんの平手が勢い良く私の頬をぶった。再び倒れ込む私に、お母さんが叫び声を上げて覆い被さる。
「お父さんやめて! この子は女の子なのよ! 心恵もこれ以上は諦めて! お父さんとお母さんの気持ちも分かって!」
 ジンジンと痛む左頬に、耳をつんざくお母さんの泣き喚く声。
 お父さんにぶたれたのは生まれて初めてだった。
 それでも私の高ぶった心はショックを受ける間もなく、この小さな体を奮い立たせる。仁王立ちするお父さんから守るように私を抱きすくめるお母さんを跳ね飛ばす。
 そしてダッフルコートを掴んだ私はお父さんの制止を振り切って、一目散に玄関へ向かった。
 酒屋の番台を抜けて店の戸を開くと外に飛び出す。背後からはお父さんの怒号とお母さんの泣き叫ぶ声が聞こえてきたが、すぐにスッと遠くなっていった。

06:24  |  星乞譚  |  CM(2)  |  EDIT   このページの上へ
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